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■先祖附の解読作業三件(1)

2023-11-24 15:26:09 | 歴史

 過日図書館で取得した三軒のお宅の先祖附の解読作業に入った。

                  1、槙嶋真微家   1、平野九郎右衛門家   1、志方半兵衛家

まずは槙嶋家、全23頁を読了しタイピングも完了。養子の関係が多く侍帳に反映させる。

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■ 槙嶋真徴  (南東38-3)
     信濃守輝光(一色氏) 宇治槙嶋城主
    1、孫六・重利(玄蕃頭昭光・云庵
) 将軍家執権職・宇治槙嶋城主
        
天正元年七月将軍義昭公、信長との和順破れ、宇治槙嶋城に楯籠給う  
        玄蕃頭昭光、後秀吉、秀頼につかへ大阪にても無二の士なり、虚名を蒙り候へとも無程御赦免
        有之、大阪落城已後忍て豊前に来候間、忠興公より家康公に御断有て無役の知行千石被下、
        剃髪の名云庵と云                         (綿考輯録・巻二)


        慶長二年八月廿八日一二七月廿八日昌山公(足利義輝)薨、六十一歳、秀吉公より、其旧臣槙嶋
        玄蕃頭昭光に命し、等持院に御葬送(略)              (綿孝輯録・巻五)


       
 「三齋槙嶋昭光女ト氏家元高トノ婚姻ヲ望ム」寛永八年十月二日書状案
        云庵息女、氏家志摩へ被遣度、両方へ被成御尋候處、いつれも同心被仕候由、一段似相たる
        儀にて候間、被仰出御尤奉存候事      (大日本近世史料・細川家史料・・10-462)


            千石 三斎様御附中津ニ相詰候衆 (於豊前小倉御侍帳)

    2、半之允・宣重(掃部) 実、昭光嫡男監物(藤堂和泉守臣)の二男
        
原城にて武功被賞
           寛永十五年三月朔日、於川尻嶋又左衛門跡御番頭被仰付 (綿考輯録・巻五十)

            (1)人持衆并組外衆 千石 (真源院様御代御侍名附) 
            (2)有吉内膳組・御番頭 千石 (寛文四年六月・御侍帳)
            (3)御番頭 大九郎組 千石 (御侍帳・元禄五年比カ)
    3、半之允・昭清 実・昭光嫡男監物(藤堂和泉守臣)の末子
    4、半之允(養子 実・田中又助次男 七九郎)着座 屋敷・宮内
    5、半之允(養子)
    6、権之允   在宅願頭書(熊本市史資料編第三編p249)
             槙嶋権之允、在宅三ヶ年願之通当六月及達候処、所柄勝手不相成候付、
             引出之儀其年十月ニ至り内意有之勝手次第との返答 (明和四年十月)
    7、太次郎(権之允育の叔父)  (1)御側鉄炮頭 三百石  (2)千石
                
享和二年三月(三拾挺頭)~享和二年十一月 鉄炮五十挺頭
                享和二年十一月~文化十一年六月 用人

    8、冨次(養子・半兵衛) 御鉄炮三拾挺副頭 平野組 三百石
    9、五八郎
    10、賀太郎(五八郎弟)
    11、豊八郎(養子・半之允)  大組付三百石
    12、冨次(半兵衛・真徴)  三百石

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■中川寿林のお墓

2023-11-24 07:11:11 | 熊本

                 

 史談会の若い友人・中村祐樹君が昨日のお昼頃、いささか興奮した声で電話をしてきた。
「どこに居ると思いますか?中川寿林のお墓を見つけました」
もう10年ほど前、師匠・高田Drと中村君と三人で寿林のお墓を探し回ったことがある。
ただし、当方は一度も行ったことがない処だから、ただただ高田Drの記憶に頼るほかはない。
つまりその時は見つからず、Drもお亡くなりになり、どなたかのご教示にすがるほかなかった。
処がその時無念な思いをした中村君がついに発見をしてくれた。お連れの I 様のお陰かもしれない。
晩に至り写真を送ってくれた。それがこの写真、昨日は熊本は良い天気だったが、写真も小春日和といった感じである。感謝。

北野隆熊本大学名誉教授の論考から
中川寿林は清正の従兄弟で 、侍筆頭格であった人物であり、清正期には 、下川又左衛門元宣の政務を補佐し、元宣と共に熊本城留守居役であった 。忠 広が清正の遺領を相続した直後の慶長17年 6月 27 日、幕府から肥後藩に九ヶ条の条令が出された後に中川寿林は重臣的役職から外れている 。

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