ウイキペディアから引用
祐筆がしたためた表面の文章ではひどい下血に状態などが記されていて、何とか廿日ころには熊本を出立したいと記している。
良く知られる忠利の絶筆とされる文面(下段写真)は、裏面に書かれているものだが、表面にあるようにまだまだ気力がある中で最後の書面になるとは本人迚御折ってもいなかったことであろう。
それ故に、この書面の表裏を眺めると、いささか感傷的にならざるを得ない。
知らせを受けて八代から駆け付けた父・三斎は対面してすぐ「これはもう駄目だ」と感じて、江戸の光尚に書状を出している。
三月十七日花畑邸で死去する。
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三月十日書状(1411)全文
我等煩之儀ニ付而、御老中へ松下掃部・熊谷孫兵衛下候間、申候
一、昨日も以飛脚申候つる、疝氣、昨朝事之外能候ニ付而、其段昨日之書状ニ、自筆ニ而は
しかきニ申候、昨晝こしゆニ入候ヘハ、それ故候哉、上氣候而、右之手足なへ、舌内難叶
候、然は、去ル七日より大便ニ血下り候、七日ニ四度之内夜ル三度、八日ニ九度之内夜三
度、九日ニ九度之内夜七度、今日十日四ツ過迄ニ一度、下り候、今迄三十六度血下り申
候、血下り様之儀、多ク下り候時ハ、つねのさかつきニ一度ニ三盃ほと、又ハ二はい一は
いほと下り候、少つゝハうすく成候事
一、御年寄衆へも状を進候間、伊順齋・曾丹州へ談合候而、御老中へ右之趣可被申候、かすか
殿へも文を進候間、是へもくハしく可被申候、御年寄衆へ之状之寫進候事
一、何とそ仕、廿日ニ立申度覺悟ニ候、田舎ニてハ養生不成候間、成ほとニ候ハゝ、上り可申
と存候事
一、細川家之系圖之儀、おそからぬ儀ニ候間、よく/\相改、従是可申入候事
一、食事ニ替事なく、氣相ニ別ニさゝハる儀も無之候、猶両人口上ニ可申入候、恐々謹言
越中
三月十日 忠利(ローマ字印)
肥後殿
進之候
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裏面(忠利自筆)
右のてくひより
手なへ申計ニて候
シに可申様ニハ
無之候可心安
候
以上