津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■細川家根本家臣・沼田家のこと

2020-10-14 08:50:48 | 人物

 熊本日々新聞のOBであられるTI様から、同僚であられた沼田家の当主の沼田富士彦様の訃報をご連絡いただいた。
熊本大地震では甲佐のご自宅が被害をうけられ、怪我をされたと人づてにお聞きしていた。まだ67歳というお若さである。
富士彦様は嫡家のご当主だが、私は高祖父の関係で分家(門太家)の血をわがDNAの中に少々持っている。
親しく御目にかかりお話をしたことはないが、奇妙な親しみを感じてきた。

 沼田家は遡ると平の将門を討ち取った藤原俵太秀郷に遡る。後裔支族が大変多いがその中に相模国に沼田氏の名を見ることができる。
近世沼田氏と細川家のかかわりは何といっても細川幽齋公の夫人・麝香が際立つ。父・光兼に至る数代は若狭の熊川の城主であった。光兼は足利将軍家に仕えていたから、ここで幽齋とのかかわりが見えてくる。嫡男・光長が足利義輝生害のときに討死しており、沼田家は弟・清延が当主となり義昭に仕え(詰衆)たが、後細川家客分となり丹後中山城を預けられた。
まさに細川家を支える根本家臣である。そのことは、その屋敷が城内二の丸の、熊本城の西大手門の目の前にあることをして、三卿家老に続く細川家重臣として認識されていたことを物語っている。

初代・清延は通称・勘解由左衛門、その後の嫡家当主は代々勘解由を名乗っている。
2代・延元が忠興に仕え高麗陣や岐阜城攻めに活躍、忠興の豊前入国後は門司城を預かり5,000石を拝領し長岡姓を賜った。
この時代に表された「沼田家記」は、剣豪宮本武蔵の真の姿を知るうえでの貴重な資料として知られている。
3代・延之は家老職を勤めたが、若くして亡くなった細川光尚の子・六丸(綱利)の54万石の家督相続について松井寄之と共に江戸へ下り、幕府に対して尽力し、細川家の継続を勝ち得た。延之は松井寄之の生母(忠興側室・真下氏)を妻に迎えて居るという奇縁でもあるが、継室ででもあろうか。
嫡子・延将は別録500石を拝領して江戸證人となったが、後嫡家4代目当主(5,000石)となった。
次弟・延晃も兄同様江戸証人となったが明暦三年に帰国の上、別家(清人家)を興した。
三弟・延春も二人の兄同様江戸証人となっているが、延將の分知を受け、これも別家(門太家)を興した。この家の9代目九八郎女が我高祖父・上田久兵衛に嫁いでおり、長女・晩稲が我が家の曽祖父に嫁いできた。
以降夫々が明治に至っている。
 長い藩政史上においても家老職や備頭など重要職について細川家を支えているが、現代においても沼田家のご当主として毎年七月六日、熊本安国寺で挙行される恒例の「四つ戦難供養供養」の法会には必ずご出席されていた。
     ■有馬陣戦死各霊之墳(島原の乱)
     ■上総沖溺死者供養塔(ハーマン号沈没)
     ■小倉陣戦死者供養塔(第二次征長戦争)
     ■東国戦死之碑   (戊辰戦争)
常に細川家を温かく見守る本当の意味の根本家臣としての沼田氏を感じている。

            拙い小文を富士彦様のご霊前に呈す。合掌。

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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (紫垣保彦)
2021-09-26 12:58:02
わたくし実弟の紫垣保彦です。たまたまインターネットで実兄沼田富士彦を検索したところ亡くなっていることをしりました。
ご冥福をお祈りします。
Unknown (津々堂)
2021-10-05 09:32:53
熊本大地震後、ご苦労がおありに成ったりお怪我をなされたりされたとお聞きしました。ご冥福をお祈り申し上げます。
Unknown (沼田元気)
2024-02-06 17:23:34
息子の沼田元気と申します。
柴垣様同様に父の名を検索しましたところ、偶然本サイトを発見し訪問させて頂きました。
拝読いたしました。
亡父へのお心遣い、誠に感謝いたします。
父をまた見ることができた思いです。

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