明日の史談会で「西遊雑記」を取り上げるにあたって下調べをしている。肥後領から筑前領へと向かう古松軒の記述に「南の関に至る 古しへは松風の関といひし所にて當国の名所也」と書いている。
ぐぐってみると「松風の関」は福岡県みやま市の北の関に比定されている。なぜ古松軒は南関と比定したのであろうか?
豊前街道の熊本最北部に「南関(なんかん)町」があり、福岡県側みやま市の最南端部に「北の関」がある。
現在のみやま市の大津山一帯は中世期は肥後領臼間荘であり大津山関があったらしい。
臼間荘大津山の北・南に北の関・南の関が設けられ、中世期の為政者によりこの地が筑後領に編入された。慶長六年藩主田中吉政の時代に現在のような境が確定し、北の関は柳川領、南の関は肥後領と確定したらしい。
肥後人は南関をして「松風の関」と考えたらしいことは、三卿家老・松井家に残る南関の図に於いてもそう表現されているという。
古松軒が旅をした天明二年当時においても、そういう考え方があったればこその彼の記録であろう。
定かな説も見受けられないが、次のような論考が見えるのでご紹介しておこう。