津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■寛永年以降・郡中法令(7)

2018-02-10 15:38:40 | 史料

 二二四ー(2)

一他國より走者を追懸参、其所二て預ヶ可申と申候ハゝ預
 り置、走り不申様ニ〆置、即刻村庄屋より惣庄屋へ申
 断、御郡奉行へ可相達、又捕候て可連歸と申候はゝ、國
 法ニて候間遣候事不成通申候て差留メ、走り物をハ可預
 置、是又不移時日御郡奉行え申達候、御郡奉行より即刻
 御奉行所え申上候様沙汰候事
一御郡中公事之儀、御郡奉行承埒明可申候、不及分別儀は
 御奉行所え可申上候、奉行所ニて相濟不申儀ハ、御家老
 中え相達其沙汰仕候事
一宿々村々ニて旅人宿をかり可申と申者は、宗門手形ニて
 も往来手形ニても五人組見届宿をかし申候、二夜とハ借
 シ不申筈ニ御座候、病人抔ニて逗留仕候て不叶者ハ、惣
 庄屋へ申断、切支丹宗門之改を仕、日本之誓詞・きりし
 たんの誓詞如御定法取置逗留仕せ候事
一往還之旅人・人馬幷渡舟之儀、縦雖為風雨・夜中無滞様
 ニ可申付候附、道橋修理油断仕間敷旨従御先規被仰出、
 今以其分ニて御座候事
一他所より之御使者ハ紛有之間敷候間、いつれより何方へ
 被通候との儀承届宿を借シ申候、熊本え之御使者にて御
 座候得は、何某様より之御使者何人、何と申仁と書付、
 筑後筋は南関より、豊後筋ハ内牧より、薩摩口は小川よ
 り継飛脚二て先注進申上、舟津ハ其舟場より注進申上
 候、此外所々口々ゟ之御使者も右同前二て沙汰仕候事
一在々庄屋・百姓・町人ニ至迄、他國之者と縁組を下ニて
 仕間敷候、縁組仕候ハて不叶儀候ハヽ、郡奉行え申達、
 郡奉行より奉行所え申上可致沙汰旨被仰出、則堅申觸候
 事
一萬事順路ニ沙汰可仕旨被仰出候上ハ、惣庄屋・小庄屋非
 分之儀を百姓ニ申懸候ハヽ、御郡奉行へ可申上候、御郡
 奉行其断を申居正敷可申付候、又ハ誰人ニよらす理屈盡
 成儀を百姓え申掛候者有之ハ、小庄屋又ハ惣庄屋を以隋
 分断を申候上、無承引候ハヽ御郡奉行え可申上候、其上
 御郡奉行無裁許候ハヽ、其趣書付を以奉行所へ目安を差
 上可申候、勿論御郡奉行・御代官・御内檢奉行申候儀ニ
 百姓迷惑仕事候ハヽ、是又奉行所へ目安を以可申上候、
 此段前々より被仰出今以其分ニて御座候事
一惣庄屋・小庄屋・山ノ口高役引申儀、御郡奉行吟味ノ上
 相定可申旨従前々被仰出候、今以其分ニて御座候事
一百姓之公事、其外出入之儀、其給人一切構申間敷候旨前 
 々より被仰出、今以其分ニて御座候事
一御國端之惣庄屋、他領之儀心ニ懸承可申候、左候ハヽ少
 之儀ニても替たる事承候ハヽ、即刻奉行所へ可申上旨従
 前々被仰出候、今以其分ニて御座候事
一道路又は何之村ニても行衛不知死人有之時は、其所より
 番を付置、惣庄屋より御郡奉行へ急度相達、郡奉行より
 奉行所え申上、三日召置、強尋來者無之候ハヽ道端ニ掘
 埋、死人之様子具ニ書記、札を立置申候、自然手疵有之
 死人は、不移時日段々ニ奉行所へ申上其沙汰仕候事
一御百姓被召仕様之事、妙解院様被仰出候ハ、随分百姓を
 召仕不申様ニ沙汰可仕候、乍去公儀之御用御上下之時、
 御國廻之時分、又は用水・道橋ニ召仕、其外ハ一日壹人
 ニ付壹升飯米・馬は壹匹ニ付大豆壹升宛被下被召仕候得
 共、其後御吟味之上不被下候事
一鶴崎道中人馬被召仕様、公用幷江戸へ八代蜜柑被差上候
 時分、又ハ江戸へ御上下之砌人馬御郡役ニ被仰付候、右
 之外御用人馬之事定之賃銀被下被召仕候事
一四月・五月・六月幷作毛取立之砌、麥作之時分ハ百姓召
 仕不申様ニ可仕旨、妙解院様御代被仰付候、於今其沙汰
 仕候事
一船ニて通候ハて不叶所ハ、船人夫共ニ召仕可申旨、従前
 々被仰出、今以其分ニ御座候事
一村ニより百姓多少可有之候、左様之所致吟味、役人之出
 様を極置可申候、銀米を出し候事ハ高ニ懸可申儀ニ候、
 人夫を出候儀は人之多少ニ従ひ可申儀ニ候、併村ニより
 左様ニ不成所も可有之候間、能々吟味仕相定可申通、寛
 文四年二月ニ御郡奉行へ申渡候事
一年季之奉公人・質奉公人之儀、妙解院様御代ハ五年限ニ
 御定被成候、其後公儀御定ハ十年限ニて御座候ニ付、近
 年ハ十年之内は相對次第ニ約束仕候、十年より上ハ堅約
 束不仕筈ニ申觸候事
一御郡之鐵炮札銀を以玉薬・揃道服仕立、御郡奉行預置可
 申旨従御先規被仰付候間、玉薬・揃道服何も仕立置申候、
 近年は右之札銀御郡間え受取、御郡用米銀ニ相加候、借
 付置申候事
一借物之利分、米ハ三和利・銀子ハ二和利ニ前々より御定
 被成今以其分ニて御座候事
一下益城郡之内三拾まち之橋掛直申儀、材木船場迄山出之儀
 は、日雇銀入札ニ申付、其銀辻諸御郡え割賦を以出銀申
 付候事

 

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■石牟礼道子氏逝く

2018-02-10 11:11:05 | 熊本

熊本の地にしっかりと根をおろして、水俣病をとりあげた『苦海浄土 わが水俣病』その他数々の作品を世に送られた石牟礼道子氏が亡くなられた。
ご冥福をお祈り申し上げる。
当時創設されたばかりの「大宅壮一ノンフィクション賞」に選ばれたが、辞退されたという報道を知って驚いたことを思い出すが、「患者の苦しみを書いた本」という理由であった。
なかなか読むのに辛い内容で、私もかなりの時間をかけて読んだが、土地の方言で書かれており一段と鮮烈さを極めていた。

地域やそこに住む人々に暖かい視線を向けて、一貫したその姿勢はそれぞれの作品に反映されている。
「江戸という幻影」「逝きし世の面影」等を著した在熊の作家・渡辺京二氏との交流も深く、渡辺氏もさぞお気落としであろうと拝察する。
改めて本棚を見回すと二三冊はあるはずの本が見当たらない。また段ボール箱を引っ張り出して見つけなければならない。
「春の城」「西南役伝説」は本当に良い作品だと思っている。


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■小卿か諸境か諸卿か・・・?

2018-02-10 07:55:01 | 歴史

O家の文書にある平家物語八巻「緒環」についての不思議である。
O氏が書き写した部分を見たとき、私は「諸郷」と読んだのだが、郷は卿ではないかとの思いもあった。
いろいろググってみると「日本古典文学摘集」では「小卿」とある。「諸」が「小」になっている。「岩戸の小卿」であり、成程ご尤もとも思えるが、何でこのようになるのだろう。
私も随分古い岩波書店の日本古典文学大系の「平家物語」を持っているが、地震後読むこともあるまいと段ボール箱に入れたまま押し入れの奥に鎮座している。
こちらではどうなっているだろうかと、大いに苦労して上下巻二冊を引っ張り出す。(昭和45年第11刷)
ページをめくると該当項にはなんと「諸境」とある。ルビがふってあり「しょきょう」とある。こちらでは「郷・卿」が「境」となったいる。
古典文学全集もいろいろ発刊されているが、いずれもその道の大先生方が携わっておられるにもかかわらず、是だけの差異がある。

頭注をよくよくながめたら「諸境=小卿」とある。それならそうで最初っから「小卿」としておけばよいものを・・・よく判らん。

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