津々堂のたわごと日録

わたしの正論は果たして世の中で通用するのか?

■あわてて経口補水液を飲む

2017-09-26 16:07:31 | 徒然

 昨晩は少々遅くまで仕事をして気が付いたら日が変わっていた。
途中で憂さ晴らしに焼酎をロックで二三杯飲んだのだが、今朝ほどは腹が張って気分がすぐれず、昼頃になると頭痛がする。
汗はかくし、まずいな~と思っていたら、なんと熊本は29℃だそうな。汗は気温のせいだった。
こりゃー熱中症になるぞとばかり、買いこんであった「経口補水液」を飲む。
やもめ暮らしも14日目、未だ奥方の退院の日取りが決まらない。
朝・昼はめんどくさくて食事抜き、そろそろ腹も減ってきたので又買い出しに出かけなければならない。
スーパーの既製品も食べ飽きて、ますます食欲減退気味である。

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■事件やまもり

2017-09-26 16:06:37 | 徒然

  市井の単なる歴史好きの人間にとっては、熊本大学の書庫に山をなす永青文庫の膨大な史料などは誠によだれが出るようなお宝の山だが、残念ながら簡単には拝見出来ない。そこで勢い先哲が書き残された書写史料を拝見して鬱憤をはらすことになる。尤もこちらも膨大な量であるから、一人の爺が気負いこんでも触れる情報量は高が知れている。そんな中から垣間見える小さな事柄をほじくり出しては悦に入っている。例えば「熊本藩年表稿」を眺めていると、武士が関係する殺人事件などが意外と多いことに気づく。上妻文庫所収の「手討達之扣」をみると、宝暦六年(1756)から文化五年(1808)の間に52件の事件の詳細が記されている。又、同じ上妻文庫の「風説秘話」などにもいくつかの事件が取り上げられているが、これらの貴重な史料は必ずしも連動していない。
これらの事件の数は武士がかかわる事件とは別に、町民・農民などの事件を加えると大変な数になると思われる。剣豪松山権兵衛は、病のために自宅牢に入れおいた嫡子の為に槍で衝かれ死んでいるし、儒学者・水足屏山は奥方の不義の相手を討ち果たそうと出かけるが、返り討ちにあって亡くなっている。
万石の西瓜畑ではN某が無断で西瓜を喰らい、見張り番をしていた百姓に袋叩き似に合い死亡した。「百閒石垣後ろ飛び」で有名な山東弥源太は、井芹川で魚釣りをしていて、刀を盗まれのちに犯人の町民を切り殺している。又、法華坂で立ち小便をしていたO某は、通りがかりの米田家家臣の馬乗りの武士にとがめられこれを殺害した。この男は法華坂脇の志水家に逃げ込み、二の丸に屋敷がある米田家から鉄炮衆も出て引き渡しを求めたが、志水家がこれを拒み一触即発状態になった。この時は藩主の意向により止む無く米田家側は矛を納めている。あとの始末が如何つけられたのか判然としないが、法にのっとって処分されたことは間違いない。このような話は列挙にいとまがない。親を殺す者もいれば、女房に横恋慕(ストーカー)した男を追い回す武士もいた。巷間良く知られている事件としては、鍛冶屋の主人が息子に投げた薪が通りがかった侍Oの額にあたり、無礼討ちにあったという一件がある。息子は自分の親不孝を反省し出家し、107体の地蔵を建立した。いわゆる放牛地蔵といわれるものである。このOは綱利公の近習であった。当時の武士の仕法としては何ら咎められるものではなく、引き続き近侍している。同僚であった堀内傳右衛門の覚書によると、大変優秀な人物であり綱利公の覚えも目出度い人であったようだ。しかしこの事件の影響によりご近習の職を離れ外様となっている。被害者・加害者共に不幸な結果を招いている。
サイトを拝見するとこの事件を非難する意見が記されているが、これは現代人感覚の最たるもので当時の武士の生き方を全く理解しておられない。

侍にはいわゆる「切り捨て御免」という特例がある。ただし奉行所で厳正な事後調査がなされる。
不都合と思われる事件もたくさんあり、加害者が罪を得ることも多々ある。最近取得した古文書を眺めていたら、どうやら殺人事件を目撃したのかいろいろつづられているが、読み解くのに難儀する筆跡である。鬼が出るか蛇が出るか興味は尽きない。

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