3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

メディアの暴力的権力:実名報道をめぐって

2013-01-25 08:38:23 | 現代社会論
メディアは絶対的な権力をもってこの国を支配しているということを自覚すべきである。

日揮社員の家族はNOといっていた。にもかかわらず、メディアはこれでは、問題が明らかにならない、とか、大事件を風化させてはいけない、というようなもっともらしい言説をあげ、新聞でも、実名報道の正当性を声高に掲げ、非公開を支持するようなコメントは小さく取扱い、ある種の実名報道は正当であるという世論を形成した。

メディアに逆らったら後で何を書かれるかわからないから、みんなびくびくして、はい、お説ごもっともと、だれも、識者も辛口のコメントはいわない。

そういうことである。
メディアは思い上がっている。自分たちは常にただしく、正義の味方なのだからなんでも許される、というその態度を改めるべきである。
NHKだってそうだ。田舎に行けば、NHKさまさま、民放はだめでもNHKは取材できる。年寄はとくにそうだ。そこにつけこもうとすればできる。

大きな権力をもって遺族や生存者、会社に取材していることを忘れてはいないか。

第一、新聞記者や放送局の人間がどれだけ日揮の仕事を理解しているか、不明である。
工学部の人たちが深いつながりを持って、最高顧問も現場作業員も同じ釜の飯を食い、身の危険をさらして、はるか遠い異国で仕事に情熱を傾けてきたのか、多分
マスメディアの人々は知らないと思う。かといって筆者がわかっているかというとそういうわけではないのだが。

そんなことを知る由もない彼ら彼女らに取材が遺族にできるのか、プラントで働いたこともないような人は、友人にもゼロ、文科系まるだしの記者たちになにがわかるのだろう。素朴な疑問である。


メディアの人間は多様だから、一概に一言で批判するのはよくない。しかし、取材対象に対して、ほとんど基礎知識もないまま、低レベルの質問、またはお涙ちょうだい的な質問ぐらいしかできずにいるのを見ると、このテロの被害者家族が、実名報道NOと突きつけたのは、理解できる。ただ一つ、彼らの尊厳を守りたいということだったのだと思う。また、これまでのメディアの行動にたいする厳しい評価なのではないか。

被害にあった人の写真がTVにでていた。Face Bookからとったものやインターネットの画像検索でひっかかった写真だった。本人からすれば、その写真じゃないものにしてほしいと思ったかもしれないのにだ。日揮は国際的な知名度が高い大手の会社であるので、社員のレベルも高く、プライドも高いから、当然肖像権個人情報を守りたいだろうに。

しかし、その一方、前述したようにメディアを敵に回したら大変で、そうかたくなになれず、結局、屈して実名報道となったのではないかと想像している。日揮だって、メディアを敵に回したくない。


新聞の購読数をあげる、視聴率稼ぎ、スポンサーの言いなり、こういうスタンスでは、世の中をかえるような取材はできないものである。
メディアはみずからの暴力的ともいうべき権力を自覚しなければならない。それが良識というものである。

実名報道された遺族に思いやりをと思う。
夫や息子の名前が新聞にのり、あれこれ書き立てられる。その新聞は用が済めばまるめて捨てられる。そんな風に消費されたくはないのだろう。

残されたものにとっては一生の問題、マスメディアや野次馬にとっては一瞬のTVプログラム、一日のある紙面に過ぎない。
こう思うとやるせない。

この事件を風化させてはいけない、とメディアはいうけれど、いつも風化させているのは当のメディアではないか。



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