2019.7.20の毎日新聞「女の気持ち」を読んで泣きました。
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うれしい再会 茨城県つくば市・山田由紀子(主婦・76歳)
りりしい眉。美しい富士額に続く、常にくし目の通ったオールバックの黒髪。一瞬で鋭く、優しく変化する切れ長の目。今まであれほどの美男子に会ったことがありません。私が福岡市の博多駅に近い小学校で5、6年生だったときの担任、林力先生です。
当時は敗戦後10年たったころで、貧しくはあっても生き生きとした明るい時代でした。私たちは先生と一緒に勉強し、放課後も運動場を走り回って遊びました。
また、先生の正義感と厳しさを尊敬し、畏れもしました。卒業式では「仰げば尊し」を歌ってみんなで泣きました。先生の最後のお話は「個人主義と利己主義」でした。何か大事な話のような気がして、忘れまいと一生懸命聞いたことを覚えています。
その忘れられない先生が今、ハンセン病家族訴訟原告団の団長として、「勝訴確定」の紙を掲げてテレビに映っていらっしゃいます。65年ぶりに見る先生は、声も話しぶりも昔と変わらず、りんとして美しかったです。
数年前、新聞記事で初めて先生だと気付き、著書を読みました。先生が私の担任をされていたころは、まさにハンセン病患者だったお父様の息子として苦悩のさなかにいたことを知りました。
これまでのご家族の筆舌に尽くしがたいご苦労を思うと、このたびの勝訴確定は本当にうれしいニュースです。94歳の林先生のご健康とご多幸を切に願います。
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立派な先生だった林力先生、その教え子たちはきっとこのすばらしい先生のもとで本当によい子に育ったのだろうと思う。
それから60年余のときを超え、教え子76歳、先生は94歳になった。お世話になった先生がハンセン病家族だったこと、今、家族訴訟の原告団の団長として「勝訴」をしたことを教え子として心底喜んでいるという記事。感動してしまう。
ハンセン病の患者さんだけでなく、家族が受けたひどい差別、1990年代の半ばまで隔離と差別の歴史は続いたのである。あまりの非道さに本当に胸が痛むハンセン病の問題である。
戦後10年経ったころ、まだまだ日本は貧しかったが、それでも子どもたちは明るかったと思う。戦争が終わって平和をかみしめていた時期、先生も生徒もみな仲良く塾など行かずに学校で遊び勉強した。先生も教育熱心で親は暮らしに忙しく、子どもは心底学校が好きだった、そういう時代だった。
そんな明るい時代のなかでもハンセン病や精神病の隔離政策は続いていたのだ。知らなかったことが悔やまれる。
政府もマスコミも医療従事者もだれもこの問題に正面から向き合ってこなかった。それを一人の国民としてただただ恥じ入るばかりである。
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うれしい再会 茨城県つくば市・山田由紀子(主婦・76歳)
りりしい眉。美しい富士額に続く、常にくし目の通ったオールバックの黒髪。一瞬で鋭く、優しく変化する切れ長の目。今まであれほどの美男子に会ったことがありません。私が福岡市の博多駅に近い小学校で5、6年生だったときの担任、林力先生です。
当時は敗戦後10年たったころで、貧しくはあっても生き生きとした明るい時代でした。私たちは先生と一緒に勉強し、放課後も運動場を走り回って遊びました。
また、先生の正義感と厳しさを尊敬し、畏れもしました。卒業式では「仰げば尊し」を歌ってみんなで泣きました。先生の最後のお話は「個人主義と利己主義」でした。何か大事な話のような気がして、忘れまいと一生懸命聞いたことを覚えています。
その忘れられない先生が今、ハンセン病家族訴訟原告団の団長として、「勝訴確定」の紙を掲げてテレビに映っていらっしゃいます。65年ぶりに見る先生は、声も話しぶりも昔と変わらず、りんとして美しかったです。
数年前、新聞記事で初めて先生だと気付き、著書を読みました。先生が私の担任をされていたころは、まさにハンセン病患者だったお父様の息子として苦悩のさなかにいたことを知りました。
これまでのご家族の筆舌に尽くしがたいご苦労を思うと、このたびの勝訴確定は本当にうれしいニュースです。94歳の林先生のご健康とご多幸を切に願います。
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立派な先生だった林力先生、その教え子たちはきっとこのすばらしい先生のもとで本当によい子に育ったのだろうと思う。
それから60年余のときを超え、教え子76歳、先生は94歳になった。お世話になった先生がハンセン病家族だったこと、今、家族訴訟の原告団の団長として「勝訴」をしたことを教え子として心底喜んでいるという記事。感動してしまう。
ハンセン病の患者さんだけでなく、家族が受けたひどい差別、1990年代の半ばまで隔離と差別の歴史は続いたのである。あまりの非道さに本当に胸が痛むハンセン病の問題である。
戦後10年経ったころ、まだまだ日本は貧しかったが、それでも子どもたちは明るかったと思う。戦争が終わって平和をかみしめていた時期、先生も生徒もみな仲良く塾など行かずに学校で遊び勉強した。先生も教育熱心で親は暮らしに忙しく、子どもは心底学校が好きだった、そういう時代だった。
そんな明るい時代のなかでもハンセン病や精神病の隔離政策は続いていたのだ。知らなかったことが悔やまれる。
政府もマスコミも医療従事者もだれもこの問題に正面から向き合ってこなかった。それを一人の国民としてただただ恥じ入るばかりである。