3.11以後の日本

混迷する日本のゆくえを多面的に考える

コロナとともに生きる時代に 2 無策の政府に憤る

2020-08-21 15:23:52 | 新型コロナウイルス
WEB会議に明け暮れていたら、立秋をすぎお盆も過ぎ、暑いのだがそれでも日は短くなっているようである。少し前はリビングの随分なかの方まで日が差し込んでいたが、短くなっている。連日、うだるような暑さで日本列島40度越えである。それでも確実に季節はかわっているのだ。
アジサイがきれいに咲いていた梅雨の頃はとっくの昔で、桔梗が咲き、今は百日紅。
新型コロナウイルスが世界で取り組むべきウイルスであると認識されてから、半年以上たった。マスクマスクテストテストということでみな戦々恐々としている。こんなときには利他主義で、とJacques Attaliは言う。
こんなときだからこそ、福祉国家がまた求められているように思う。
自由主義で自己中心で失敗は自己責任で、なんでもかんでも自力がよいというような文化、思想がまかり通っていたが、そもそもそんなことは無理なのである。
われわれはもとより弱い存在なのであり、医療や保健や福祉、教育とか住宅とかそういうものは自力で得られる人ばかりではないのだから、支えあいの制度を構築すべきなのであり、それが戦後もとめてきた国家的な枠組みであった。
にもかかわらず、あるときから規制を緩和することがよくて、正規社員より非正規で自由な働き方ができるほうが良いというようなことが流布され、その気になっていたらリーマンショックがやってきてどん底を味わった人も多いのではないだろうか。
第二次世界大戦後の混乱期に近い低成長の時代である。コロナの時代というのはそういう経済的困難な時代なのである。コロナの時代にふさわしい産業に構造転換するべきであることは百も承知であるが、それでも社会から落伍していく人たちもいるはずで、そういう人びとにもう一度、チャンスを得られるようにするためにも社会保障や社会福祉の支援は大切だと思うのである。だれもがうけられる医療、保健所の機能を増大させ、子どもの支援など手厚い福祉サービスこそ今必要である。そのための財源はどこから調達するか?
公務員や少し大目の年金を受給している高齢者や大企業、そのサラリーマンたちはけっこうゆとりのある生活をしているので、そこから消費税でも所得税でも法人税でも徴収して税収を確保していくべきだろう。なんらかの対策をとらないととんでもないことになる。
だれも気がつかないわけではないだろうに。なぜやらないのだろうか。
わかっているけどやれないのだろうか。政治が動いていないのは不満である。
夏休みなどとっている暇はない。
政治家は成果主義の最たるものである。身を粉にして世のため人のために尽くすのが政治家なのになにをぼやぼやしているのだろうか。
無策の政府にいらいらがつのる今日この頃なのである。


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コロナとともに生きる時代に 1

2020-08-08 12:39:57 | 新型コロナウイルス
コロナというウイルス抜きにものを語ることは許されない時代になった。先日WHOのあの有名なテドロス氏がこのウイルスの影響はこれから数十年続くだろうと述べていた。5~6年ではなく数十年とは。
もう私が生きている間はコロナと闘いともに生きる、だれもがそういう人生を送るということになったのだ。
どちらにしてもこれまでの政治経済社会文化的枠組みは変えなければならないだろう。ウイルスは時期を選ばす国境を越え、社会的階層もなんのそのである。
さらに厄介なのは社会的弱者に強くウイルスの影響が反映されることであり、また、その影響は階層を超えて拡大するということであるので、自分だけ助かればよいという自国ファーストとか自分の家だけ助かるとかそういうケチな感覚では収まらないということである。
自分だけワクチンをうって助かっても、多くの人がウイルスに感染し、重症化すれば社会は回らないのであり、エッセンシャルな部分の仕事はだれからがやらなければならず、誰かがやってくれているから大丈夫という社会ではなくなるということなのである。
だから、国を超えて情報を共有し資源を互いに調達しあったり、励ましあったりしながらなんとか上手くやっていく手段を人類そのものが学ばなければならない。
総裁のイスにこだわって感染症対策をまともにやれないなどというのは、致命的であり、そんな知能指数が低いものは政治にかかわることがこれからは許されない時代になる。そういう政治家は要らなくなるだろう。
自国民だけでなく人類そのものの未来を見据えて今何をすべきか何に税を投入すべきか、を瞬時に判断し説得力のある説明と実行力が政治家には求められる。そういう政治のあり方を心から指示するような経済界にならねばならぬ。国民も同調圧力や忖度政治に慣れている場合ではない。危機なのだ。のんべんだらりとワイドショーを見ている場合ではないのである。
女たちもやれ専業主婦だの三歳児神話などいってないで、どんどん社会のために働く、男も女も感染症拡大で必要な仕事が新しく生まれているのだからそこで能力を発揮すべきなのである。保健医療福祉分野などは多くの人材を必要としているのだから、そういうところに高い賃金を払うような社会のあり方が求められている。少子高齢社会で労働力は不足している、コロナショックで経済は低成長になる、だが、社会的に必要な仕事はあり続けるのだから悲観することはない。労働の流動性をたかめ、性や年齢や障害などで差別せず、多くの人が社会に働きに出ればよいのである。

だれかが多くの富を独り占めするようなこれまでの社会の有り方はゆがんでいたのだ。ウイルスの襲来によって人類はもっと団結するように転換を迫られているのである。我々は在宅ワークに切り替え、長時間労働長時間通勤をやめ、あまった時間は地域のために費やすようにしてエッセンシャルワーカーの仕事の負荷を少しでも減らせるように働くべきなのである。
そういうスタイルこそが新しい日常なのではないだろうか。
これからは自分の利益を追求するのではなく、ウイルスに感染しないように感染した人を気遣い元気な人は静かに社会のために働く、そういう時代がコロナの時代なのである。そういう時代がきたということを我々は知るべきなのである。

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with Corona の時代に 8 安倍政権の迷走振りに気が滅入る

2020-07-24 17:17:29 | 新型コロナウイルス
決して感染が収束したわけではなかった。
少なくとも東京はまったくもって感染者数は減少していなかった。
一時、収束するのではないかと思わせる感染者数が抑制された時期もあったが、慎重派は決して収束なんかするものか、と思っていた。
しかし、経済を優先する人たちは、少しでも収束する気配があったものだから、
もう、痺れを切らして、Go To Travel で少しでもこのところのインバウンドの減少で減収した分を取り返そうと強欲さをむきだしにした。
ところが予想通り、決して本質的にウイルスは収束していたわけではなかったので、ものすごい勢いでこのところ増えている。悲惨だ。
PCR検査をしろ、しろ、といわれ検査を実施した。それで、これまで検査をやらずにあたかもウイルスを抑制しているような幻想を国民に与えてきたのだが、それはまさに印象操作であってそれが一時、功を奏して、日本モデルとかいわれてなぞめいていたが、国民もそういう気になっていたのだが、そんな事はありえないのである。科学は正直なのできちんと検査をやればそれに比例して陽性者をだす。検査数が増えたので比例して感染者数が増えているのである。
非常時なのにこれまでどおり忖度し続ける官僚たち、これまでどおりの厚生官僚の相変わらずの医療の削減政策。こんな事を続けていたら、日本は沈没する。
この非常時に我々はこれまでの社会保障費用のむやみやたらの削減政策を見直すべきであり、コロナショックでやってくる不況の波と失業者の群れにたいし、生活を下ささえする強固な社会政策をまともに考える必要があるのではないか。
国民も割引券で旅行に行きたいとか、子どもたちもディズニーランドに行きたいなんて言っていないで、これからのわが国の行く末を議論しどのような政権がわれわれの未来にとって必要か真面目にかんがえるべきだ。
娯楽より議論だ。ワールドニュースをみるといろいろ先進国の事例を学ぶことができる。EUの粘り強く議論を駆使して合意をまとめあげていくやり方は本当に勉強になる。へらへら、どこまでも責任感のない、だれも責任を取ろうと思っていないようなわが国の政治、行政体制は本当にひどいものである。おなかのそこから損得なしに本気になんとかしようと考えているのだろうか。疑問である。
われわれは未知のウイルスと共存する時代に生きるものとしてこれまでの経験の延長線上ではない、まったく別の発想を持つ必要がある。多角的な視点からこのウイルスと対峙し英知を結集するときである。経済が仮にまわっても死んでしまったらおしまいなのである。
これまでどおりの古い自民党のやりかた、献金してくれた業界を優先するというようなわかりやすいばかばかしいやり方はあまりに頭が悪すぎて、怒りがわいてくる。そんなやり方でこのウイルスと闘っていこうとしているのか?チャンチャラおかしいと逆にウイルスに笑われてしまうのである。
そんな政権ではこのウイルスに太刀打ちできないのである。



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with Corona の時代に 7 東京の感染拡大はとどまるところを知らず

2020-07-17 10:34:42 | 新型コロナウイルス
なぜ今、景気回復のための政策が必要なのかわからない。
Go To Travel Campaign だなんて。
今だけ not go to travel  のはずなのに、馬鹿じゃないかしら。
観光業界からぜひぜひと押されたのだろうが、それは、東京の感染者数がまだ2桁だったころの話である。
どんどん増えてどこを見ても歩いていても、とくに若者はみんな感染者に見えてくる。こんなときに旅行に行けだと?政府はふざけているのだろうか。
あれこれ業界の顔色なおをうかがって政策を打っているようではコロナ封じ込めはできず、今旅行に行け政策だなんて、わが国はブラジルなのか?先進国のなかで笑われるだけである。

日本人は忍耐強くなくなったのである。
ほしがりません勝つまでは、なんていう標語はやはり戦時中のみで、今は、そういう忍耐の文化は戦後70年余過ぎ、完全に過去のものになっている。
ほしがりません。勝つまでは、の反動で忍耐はどこかへとんでいってしまったのだろう。
別に忍耐がいつもよいこととはいえないが、もう特に大都市部の人たちは自粛生活にがまんできず、どこかに行きたくてうずうずしているのだろう。

自粛生活がはじまってスポーツセンターに行くこともできず、運動不足になるので、早朝ウオーキングでしのいでいる。家の周り、少し遠出をして1時間程度歩くと相当な運動になる。
また、都内は歌舞伎町のようなところだけではなく、むしろ歌舞伎町は都内では特殊な地域であるのだが、歩くと歴史を感じる町並みや作家の旧居跡などがそこここにあるので、たくさんの発見がある。

先日、駿河台あたりを歩いていたら、文化学院跡をみつけた。今はBS11になっている。文化学院といえば与謝野晶子がその創設のころからかかわった新しい形の学校である。晶子の足跡をたどるというサイトがありそれによれば晶子はあの辺りに住んでいたとのことである。井上眼科の近くである。井上眼科といえば漱石が通ったことで有名だ。晶子はこの辺りを歩いていたのだろうなあ、桜を見たのは千鳥ケ淵だろうか、などと考えながら歩くのはとても楽しいものである。

自粛生活がなかったらいつものようにプールで泳いで、筋トレしておしまい、職場と自宅の往復の生活だった。早朝に町並みを楽しみ、明治大正の文人たちの足跡をたどることの楽しさを知ることはなかっただろう。
晶子は子だくさんで有名だが、子どもがスペイン風邪にかかったという。100年前のスペイン風邪に思いをはせる。

今日のように雨の日もまた楽し。
とくにディズニーランドにいこうとか、箱根にいこうとか、金沢にいこうとか、それほど思わない。もう行きつくしているからかもしれないが、もっと身近なところにも楽しめる場所はあるのだ。観光業界の人には申し訳ないが、with Corona の時代というのは、身近なところで楽しみをみつける、そういうことなのだろう。

みなで大騒ぎをして押し合いへし合い飛行機や新幹線にのるというスタイルはもう古い。大きいことや早いことはよいことではなくなったのだ。そんなのは高度経済成長のスタイルであり、もうそんな生活はできないし必要ない時代になったのだ。

コロナと上手につきあうために行動は制限し小さな声で足るような生活が求められる。そのかわり想像力をたくましくして歴史や文学に親しむ、創作にふけるという生活にシフトすべきなのである。

zoomで地域を超えて世界の人と出会い議論することも可能になった。ツイッターで諸外国の首相や大統領の発信も瞬時によめるようになった。世界が動いているのが手に取るようにわかる時代になったのだ。狭い職場や町内会レベルのつきあいなどよりもっと世界は逆に広がっていっているように思うのである。

相当な意識の転換が必要である。なにもかも巨大な資本に支配されるのではない、それぞれの地域の文化を大切に、暮らしに根ざした落ち着いた生活のあり方こそ追求されるべきで、それがwith Corona の時代の新しい暮らし方なのだろうと思う。

歌舞伎町で飲食を伴う接待などに時間を費やした時代はもう過去のものだ。そもそも時代遅れなのだ。ワクチンができるまではしばらく続く、そして仮にワクチンができたとしてももうもとのような大きいことはいいことだ、という時代には世界が戻れないのではと思うのである。







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with Corona の時代に 6 新型コロナウイルスは「禍」なのか

2020-07-06 10:27:19 | 新型コロナウイルス
今回のコロナの脅威で新しい言葉が生まれている。
最近はコロナコロナといっているが、COVID-19であるし、新型コロナウイルスというべきものである。しかし、このところ新聞やテレビでは「コロナ禍」を使うことがある。違和感である。
禍というのはいただけない。禍という響きも意味も違うと思う。
禍だとするとその原因究明がおろそかになりはしないか。
禍だなんて、ウイルス側にしてみれば、それは人間が勝手につけただけで、俺のことを禍と呼ぶなと怒られそうである。
ずっとこれから付き合っていかなけりゃならないものなので一過性の禍ではないことは確かだ。
コロナの脅威とかコロナ危機とかコロナショックというのは理解できる。
このウイルスによって経済危機やリーマンショックなみの危機がやってくるというのは想像できるから。
禍などとごまかしてろくな政策をうつこともしないで、神社や寺に詣でて収めて貰うというような他力本願の響きがある言葉はつかうまい。

生活保護の申請数は増えている。株価が上がったところで、その恩恵を受けるのは限られた富裕層である。
そもそも存在した格差社会、そこにさらに上乗せされたコロナによる経済危機。社会の脆弱性がますます暴露されたのだ。

最低生活さえ守ることができないようなわれわれの社会なのである。

これまでの政府の無策の結果なのである。それは禍によるものなんてものじゃない。禍であるとすれば、有効な策を即決し実行できない政府、こんな政府を支持しつづけていることが禍なのではないだろうか。コロナに対応不能な政府こそがわれわれ国民にとって禍というものなのである。

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