緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

岩泉線に乗った時の写真が出てきた

2020-09-29 23:08:09 | 旅行
明日も在宅勤務なので少しゆっくりできる。
寝るまでのわずかの時間でも記事を書いておこうと思った。

今日たまたま本棚のアルバムを見ていたら、10年くらい(もっと前かもしれない)に、青春18きっぷで帰省したときに乗った岩泉線(現在廃止)の写真が出てきたので、貼り付けることにした。



確かこの駅が出発点だったか。





途中で凄い駅があった。周りに何もない。







駅に降りてから、鍾乳洞に行こうと思ったけど、時間が遅かった。
駅そのもの、駅の周囲も時代に取り残されたような、寂しさを感じさせる町だった。

番外

震災前の宮古駅。
岩泉線に乗る前に立ち寄った駅だ。



先週の9連休に行った小旅行の記事はいつになったら書くのか。
なんとなく気が進まないのは、あまりいい旅ではなかったからなのかな。
(日本酒だけは楽しめたかも)
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不平不満の正体と解消方法

2020-09-28 22:02:50 | 心理
先日行った小旅行記を書くつもりだったのだが、なかなか筆が進まない。
明日は在宅勤務で朝は少しゆっくりできるので、寝るまでの間、別のテーマを書くことにした。
人間の心理だ。
「不平不満」の心理について考えて見た。

常に不平不満を抱えた生き方って辛い。
恒常的な不平不満でやっかいなのは、その感情が正義感、正論、といったものに姿を変えて表現されることだ。
当の本人は不平不満をこのようなものに置き換えて表出していることに気付かないし、このような偽装された感情を向けられた側もなかなか気づけない。
私の経験上、もっとも避けなければならない人間関係というのがこのパターンだ。

では何故、人間は恒常的な不平不満を持ってしまうのか。
いくつかの原因を考えてみた。

①人生のプロセスで不幸な人間関係から受けたトラウマなどが原因で自分の潜在意識の深いところに、自分の本当にやりたいこと、本当の感情の表現を規制する働き(心理的ブロック)が根付き、その規制の働きと自分の本当の感情との間の葛藤が怒りの感情を生みだし、その怒りをストレートに表現できない状態が、不平不満という形となって表れる。
この規制は強い恐怖と結びついた想念のようなものである。

②①のような自分の気持ちに規制がかかった状態だと、自分の気持ちのとおりに行動することが出来ない。だから自分で行動しないで他人に依存することになる。
自分の力で気持ちを満たすよりも、他人に何かをして欲しい、他人に何かをしてもらいたいという心理傾向が恒常的となる。
その結果、ますます自分が頼りなく感じるようになり、それがまた他人に対する依存心を助長させていく。

要は不平不満とは、心の中に自分でどうすることも出来ない心理的な規制があるために、自分の気持ちを自分の力で満足させることが出来ず、その結果、他人に何とかしてもらおうと依存する状態で出てくる感情なのだ。
だからこの気持ちがストレートに現れずに、他人や政府、政治家などに対する批判とか、有名人のスキャンダルに対する誹謗、中傷などといった形で現れることもある。
自分のその感情を認められないからである。

ではこの不平不満を解消するにはどうしたらよいのか。
まず2週間でもいいから、この不平不満を封印する。
不平不満がいつものように出そうになったら、ガマンする。
自分の心の問題から来る不平不満を、他人などへの正義、正論といった批判の形で、偽装された転換をしない。

こういうことを実践していけば、自分の心の中に強い恐怖とセットなった心の規制が存在していることに気付くに違いない。
そしてこの規制と自分の本当の気持ちとの葛藤が不平不満を生みだしていることに気付いていく。

しかし気付いたからと言って、この規制は簡単に取れるものではない。
まずはこの規制の存在に気付きながらも、心の奥底の本当の気持ちを満たしていく。
要するに規制と自分の本当の気持ちとを切り離してみるのである。
規制は多くの場合、強い恐怖であるが、この恐怖を感じながらも、自分の本当にしたいことに気付き、それを実行していく。
そうすると他人に対する依存する気持ちもなくなっていくのではないか。
他人に依存して不平不満を言っているくらいなら、自分のしたいことを実行した方が、よっぽど気持ちいいということが体感されていくからだと思う。

規制が強い人は、人に心を開いていけない。
規制の強さに押しつぶされて、エネルギーを消耗しつくしている。
辛い思いをしてまでエネルギーを枯渇させるくらいなら、独りでいた方がましだ、という心境であろう。
だからあえて人と関わらずに、自分の世界の中で楽しみを見いだす人もいる。
このようなタイプの人は不平不満は少ないが、孤独で、人と関わる喜びを体験していないから、世の中で生きるという現実感を感じていない。

規制の強さには個人差があるだろうが、強い規制がある人が自らの力でそれを解消していくことは並大抵のことでないと思う。

次回の心理のテーマではこの「規制」とどう向き合うかについて考えていきたい。
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松下耕 作曲「俵積み唄」神奈川県立多摩高等学校演奏を聴く

2020-09-27 00:15:16 | 合唱
今日、小旅行の記事を書こうとしていたが、やることが重なって、もうこんな時間となってしまった。
なので久しぶりに好きな合唱曲の記事を書くことにした。

平成15年度Nコン全国大会で演奏された高等学校の演奏で素晴らしいものがある。
それは神奈川県立多摩高等学校の演奏だ。
曲目は、三枝成彰:作曲、平峯千晶:作詞「あしたはどこから」。
この演奏は私が数多く聴いてきたNコンの演奏の中で最上位にランクされる演奏の一つと言えるものである。
よく「聴き手の"魂"を揺さぶる演奏」という表現を聴くが、この曲の神奈川県立多摩高等学校の演奏がまさにそうなのだ。
聴き手の心の奥にまで届き、聴き手の根源的な感情を引き出すことが出来る演奏。このような演奏こそが最も評価されるにふさわしい演奏と言える。
審査の講評で、つまらない細かいことをあーだこーだ言っているのが、言っちゃ悪いけど、私には情けないなと感じる。
審査員受けする演奏って、はっきり言ってつまらない。
聴いた一瞬上手いと思っても、心に残らない。
心に残らないということは、それだけ力の無い演奏ということなのだ。
一度聴いて、「あれ、これなんか、凄い!」と直感で感じて、その後、数回聴いてその感じ方がさらに強まったならば、その演奏は本物と言える。
そうなったならば、もうその後1度聴いたら立て続けに10回以上は聴くことになることは間違いない。
何故ならば、その演奏は聴き手に強い感情的覚醒を引き起こしているからだ。
それだけ力のある演奏ということだ。見かけ上の上手さとは全く次元の異なる演奏と言える。

今日記事にしたのは、この神奈川県立多摩高等学校が平成15年度Nコン全国大会で演奏した自由曲である、松下耕 作曲「俵積み唄」の録画である。
実はこの録画がYoutubeで投稿された19分後に見つけ、あとで記事に取り上げようと思っていたのだが、それが今日になってしまった。
この演奏も素晴らしい。評価されてしかるべきであろう。

俵積み唄 神奈川県立多摩高等学校


課題曲の演奏もリンクしておく。是非聴いて欲しい。

あしたはどこから 混声合唱(神奈川県立多摩高校)



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かわいいパック牛乳みつけた

2020-09-25 22:26:41 | グルメ
今回の旅行先である松本の宿の近くのスーパーで見つけたパック牛乳。
なんと超ミニサイズ。



MEITOという商品。
長野県で製造されているようだが、関東あたりのスーパーでも売っているのか。
量、サイズからして、小さいお子さん用の牛乳?
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おいしい納豆見つけた(川中島納豆)

2020-09-25 22:20:23 | グルメ
今回信州へ旅をして見つけたおいしいもの。
それは「川中島納豆」というやつだ。
長野県の増屋納豆店の製造によるもの。

「大粒信州大豆100%」とあるが関東で売っている大粒納豆よりわずかに小粒という感じ。
味や食感は今まで食べた納豆の中では一番おいしいかもしれない。
これはおすすめ。


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