緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

熊谷賢一作曲 マンドリンオーケストラの為の群炎Ⅵ「樹の詩」を聴く

2017-03-26 23:43:23 | マンドリン合奏
先週、思いもよらず作曲家の熊谷賢一さんのご子息である熊谷哲也さんからコメントをいただき、熊谷賢一さんのホームページをご紹介いただいた。
早速、ホームページの作品群の中から学生時代に弾いた思い出の曲である、マンドリンオーケストラの為の群炎Ⅵ「樹の詩」を見つけ出し、聴いてみた。

作曲が1982年、初演は1983年でノートルダム清心女子短大マンドリンクラブ、私が所属していた大学時代のマンドリンクラブは札幌の某大学のマンドリンクラブとのジョイントで1984年夏に演奏した。
懐かしく、熊谷作品では最も好きだった曲である。
今回ホームページで聴かせていただいた演奏は、1983年のノートルダム清心女子短大マンドリンクラブのライブ演奏。
この演奏は素晴らしい。
力がみなぎっており、精神的な表現力が素晴らしい。何よりも随所に現れる日本的情緒の感性をよく捉えている。

この曲はギターパートの静かな重奏で始まる。
この重奏で奏でられる旋律がこの曲の主題であるが、私がこの旋律から感じるのは、強い生命力、幸福感、平和である。
何百年も生き抜く「樹」の生命力、太陽の光を受けて裏から鮮やかな緑色を出す木の葉、風を受けて木立の間から奏でられる幻想的な音。
豊かなありのままの自然から感じ取れなければこのような音楽は生まれてこないと思う。
それにしても強く心に残りつづける旋律だ。
学生時代に弾いてから30数年間、その後この曲を一度も弾かなかったし、演奏を聴く機会もなかったが、この旋律は忘れることはなかった。
学生時代、この曲を超おんぼろアパートでよく練習した。
日曜日になると朝早くに高速バスで札幌まで出て、ジョイント先の大学まで合同練習に参加した。
1984年の春から夏にかけてのことであった。

この冒頭のギターパートの重奏を先のノートルダム清心女子短大の録音で聴いてみると、ギターパートの音、とくに低音(5弦開放)がとてもいい。力強く「ゴーン」と鳴り響くところがいい。
女性なのに力強く、タッチがしっかりしている。
昨今のマンドリンアンサンブルではなかなか聴けなくなった音である。

そして中間部、ノートルダム清心女子短大の録音だと7分25秒から13分55秒あたりまでが素晴らしい。ここは是非聴いて欲しいと願う。
今は殆ど感じることのできなくなった、その昔は確かにあった日本的情緒が伝わってくる。
このようなフレーズが外国の作品で聴くことは無い。
日本の自然、日本の伝統、日本人の感性から生まれ出るものである。

この曲は演奏時間20分以上にもなる長大な曲であるが、変化に富んでおり、繊細な表現とダイナミックスな表現が見事に融合し、かつ聴く者の情緒を強く刺激し、訴える力の強い曲である。
私は熊谷作品を全て聴いたわけではないが、恐らくこの曲が最も優れていると感じる。
学生時代はギターパートしか聴けていなかったため、この曲の真価に気付くことは出来なかった。
学生時代に弾いた芥川也寸志の「弦楽のためのトリプティーク」の真価に気付くまでに20年以上かかったように、この「マンドリンオーケストラの為の群炎Ⅵ「樹の詩」」も同様に、与えて下さったこの機会により真価に迫ることが出来た。感謝したい。

今日、30数年ぶりに楽譜を引っ張り出し、冒頭のギターパートの重奏部分を弾いてみた。
私はセカンド・パートだった。
殆ど初見のようなもので、破綻もあるが、下記に録音してみた。


冒頭のギターパート重奏部(セカンド・ギター)








【追記20170408】
この曲、凄いです。聴くごとに素晴らしさを感じる。
聴いていくうち、さまざまな感情が放出される。
内面の深いところから強いエネギルギーが湧いてくる。
この曲の真価が分かったのが30年後。自分でも驚きだ。
コメント

第10回声楽アンサンブルコンテスト全国大会2017を聴く

2017-03-19 22:14:36 | 合唱
昨日(3/18)、福島県の福島市音楽堂で第10回声楽アンサンブルコンテスト全国大会が開催され、聴きに行ってきた。
この声楽アンサンブルコンテスト全国大会は平成20年(2008年)に第1回が開催されたが、私が合唱曲を本格的に聴くようになったの平成22年、その頃にこの大会の存在を知った。
確か震災が起きた年に福島まで聴きに行こうと思っていたのだが、その年は中止された。
その後も何度か聴きに行きたいと思いつつも実現せず、今回やっと念願をかなえることができた。

当日は夜が明ける前に出発、東北自動車道を北上した。
三連休の初日ともあって早朝から高速道は混雑していた。
混雑も福島県に入ると緩和され安積PAで一休みし、再び車を走らせ福島西インターで降り、20分くらいで会場に着く。
会場は福島市音楽堂で、1000人以上収容の大ホールで正面に大きなパイプオルガンが設置された立派なホールだ。
会場入り口には福島の名産や合唱関係の楽譜、CDなども販売されていた。

プログラムを開くと、最初にこの大会の趣旨が紹介されていた。
「音楽を創りあげるもっとも基礎となる要素「アンサンブル」に焦点をあてた、2名から16名までの少人数編成の合唱グループによるコンテストです。」
Nコンや全日本合唱コンのイメージを想像していたが、根本的に大会の目的が違うようだ。
今回聴いたのは高等学校部門で、参加校は全部で43校。
10時開演で演奏終了が18時過ぎ、審査発表が19時だったので大変な長丁場であった。
結局家に着いたのが真夜中になってしまったが、それでも今回この大会を聴いて本当に良かったことを最初に申し上げておきたい。

少人数編成のアンサンブルなので殆どが無伴奏。ピアノ伴奏は数校のみ。1校が管弦楽とのアンサンブルであったが、ホールの響きがいいので、ピアノ伴奏や弦楽とのアンサンブルの場合、伴奏が目立って聴こえてしまい、合唱の音量に乏しさがあったことを言っておきたい。
またプログラムの多くが外国人作曲家による曲であったことだ。
Nコンなどでは殆ど聴くことができないが、外国人作曲家による曲の良さも改めて認識できた。
昨年のNコン関東甲信越ブロック大会である審査員が外国人作曲家による曲の演奏について厳しい見解をされていたが、今回のこの演奏を聴いて、成人による演奏よりもむしろ高校生による演奏の方がずっと聴き応えがあるように感じた。

参加校43校の中には、Nコンや全日本合唱コンの常連校や上位入賞校もあったが、多くは初めて名前を聞く学校であった。
しかしどの高校もレベルがとても高く、後で大会実行委員長(菅野正美氏)が言っていたように審査するのが極めて難しいくらい、どれもが素晴らしい演奏であった。

全43校の名前や審査結果は大会ホームページを見てもらうとして、私が聴いたなかで素晴らしいと感じた高校の演奏を以下あげてみたい(演奏順)。

No.2  叡明高等学校
No.5  福島県立郡山高等学校
No.6  奈良県立畝傍高等学校
No.10 三重県立津高等学校
No.22 長野県諏訪清陵高等学校・同附属中学校
No.23 日本大学東北高等学校
No.25 大分東明高等学校
No.28 青森県立八戸東高等学校
No.30 岐阜県立長良高等学校
また、印象に残った曲は以下のとおり。

・Laudate,pueri,Dominum 作曲:Claudio Monteverdi(演奏:福島県立郡山高等学校)
・UBI CARITAS 作曲:OLA GJELO(演奏:奈良県立畝傍高等学校)
・とむらいのあとは 詩:木島始 作曲:信長貴富(演奏:奈良県立畝傍高等学校)
・[混声合唱のための「レクイエム」-人麻呂と古代歌謡、ミサ典礼文による-]から Ⅲ.相関 詩:柿本人麻呂 作曲:千原英喜(演奏:三重県立津高等学校、福井県立高志高等学校)
・BENEDICTUS 作曲:KARL JENKINS
・出船 作詞:勝田香月 作曲:杉山長谷夫(演奏:大分東明高等学校)
・[無伴奏女声合唱曲集「なみだうた」]から 4.なみだうた 作詞:谷川俊太郎 作曲:信長貴富(演奏:岐阜県立長良高等学校)
・[混声合唱曲「季節へのまなざし」]から 4.ゆめみる 作詞:伊藤海彦 作曲:荻久保和明
(演奏:愛媛県立西条高等学校)

上記曲で最も良かったのは、とむらいのあとは 詩:木島始 作曲:信長貴富。奈良県立畝傍高等学校の演奏も素晴らしかった。

次に先にあげた9校の中でとりわけ素晴らしかったのは、No.5福島県立郡山高等学校とNo.23日本大学東北高等学校の2校。

福島県立郡山高等学校は2013年Nコン全国大会に初めて出場し、高田三郎作曲、水のいのちより「川」を聴いて以来、注目してきた学校。
全日本合唱コンでも、2013年の鈴木憲夫作曲「どうしてだろうと」や2014年の千原英喜作曲「夜もすがら」で素晴らしい演奏を聴かせてくれた。
この高校の好きなところは、純粋に音楽の喜びに満ちていること。高い技術に支えられているが、決してそれだけではなく、強い感情エネルギーを感じさせるところである。
後でも述べるが、歌い手の内面の感情が引き出された演奏である。
賞は結果であるが、賞は取れなかったとしてもこの高校の演奏のスタンスは素晴らしいことには変わりない。
今回歌い手たちの歌う姿を見て、それぞれの歌い手が本当に歌を歌うことが何よりも好きであることが伝わってきた。
どんな難しい曲でも歌を歌うことが好きなことが大切なのである。
どんな厳しい練習でも何の苦痛もないのではないか。むしろ楽しさを感じているのではないかと思う。
自分の経験でも、学生時代のマンドリン・オーケストラでの練習で、苦痛を感じたことは一つもない。
ハードな練習でもギターを弾けるだけで至福を感じていた。

次に、日本大学東北高等学校。
この高校の演奏を聴くのは恐らく初めてだと思うが、正直驚くほどうまかった。
上手いだけでなく、郡山高等学校と同じように歌を歌う喜びに満ち溢れていた。
歌を歌う喜びとは演奏者の表情に表れるのではなく、感情的なエネルギーとなって伝わってくるのである。
女声も素晴らしかったが、テノールが良かった。今大会でトップレベルであろう。
男女を交互に配列した独特の演奏スタイルであった、メンバーたちのまとまりがとても良かった。
聴いても見ていても素晴らしく、大きな感動を与えてくれた。

全演奏終了後、審査員の講評があったが、自発性、自主性ということの大切さが指摘されていた。
今回の演奏は、指導者による指揮を置かず、生徒たちのみの演奏が多かったが、それがこの大会の良いところ。
菅野正美さんが言っていたように、競うコンクールではなく、演奏を楽しむコンテストを実感できた。
それを可能にしているのは、生徒たちの自主性、自発性であろう。
審査員が講評で、指揮者なしの演奏の場合、生徒たちが皆で音楽解釈を自主的に考え、ときにぶつかり合いながら一つにまとめ完成させていく場合と、指揮者がいないとは言え、裏で指導者に支配されている場合の2通りがある、と言っていたが、なるほどと思った。
このブログでも合唱について何度か書いてきたが、指導者にコントロールされ、頭を使って組み立てられた解釈にはめこめられた演奏は、もはや演奏者の「個」が失われ、どんなに上手くても聴き手に感動を与えることはできない。
そのような演奏は、歌い手たちの内面から湧き起る自発的な感情エネルギーが表出されていない。
当然である。指導者により強くコントロールされているからである。
今回のコンテストでもそのような演奏がいくつかあったが、残念ながら上手いと感じるだけで終わる。
指導者にもいろいろなタイプがあるが、あくまでも主役は演奏者たちであり、演奏者たちの持つ底知れぬ潜在能力を引き出すのが指導者の役割であろう。
音楽表現は指導者から与えられるのではなく、歌い手の自発的、内面的な思い、感情を起点として湧き起ってくるものであることを言いたい。
指導者はそれを実現させるための手助けと道しるべを教えてあげるだけでよい。強いて言えば、基礎的訓練を叩き込むことを加えるくらいか。

今回の大会は大勢の高校生たちがホールの観客席に座っていたが、意外に礼儀正しいのに驚いた。
狭い座席を通る際に、ちゃんと丁寧に礼を言ってくれた。
歌を歌う前に、日常のこのような振る舞いができることが基本だと思う。
確か前回の記事で、歌を歌う以前に、歌い手たちの日常の人間力、人間性、純粋な感受性こそが大切であり、歌を通して、歌い手たちの日常の感じ方、どんな環境でどんな人間関係でどんな生活を送っているかが無意識に聴き手に伝わってきて、それを感じることの素晴らしさを書いた。
逆に考えると、歌をメンバーと歌うことで、そのような心が出来てくるともいえる。
合唱曲の詩や曲には、人間の本質的なものに深く切り込んだものが少なからずあるので、何度も歌っているうちに、自然に無意識的に心が正されるのであろう。
私は5年ほど前に合唱曲にのめりこむきっかけをつかんだ頃、合唱曲をむさぼるように聴いていくうちに、心が浄化されていくのを感じたことがある。音楽の与える作用は計り知れない。
合唱コンクールで全国大会に出るような高校生は、私の高校時代の自分や、同じ学校の人間とは天と地の差だ。
しかしいわゆる「いい子」とは違う。
高校時代でも中学時代でも、馬鹿の一つ覚えでも何かにとことんひたむきになることが必要だ。
不器用でもそのような体験が数年でもあれば、この先どんな強い逆風でも耐えられると思う。

今まで何の取柄も見出せなかった生徒が、合唱に出会い、練習や大会での演奏をとおして自らの存在意義に気付き、潜在的な能力や存在価値を発掘されることも多いのではないか。
今回の演奏を聴いてそんなことも感じさせられた。

審査結果の発表が終って会場を出たのが夜の8時。
しかしここで思わぬ失敗をしでかした。
国道4号線を逆方向に向かってしまったのだ。
しばらく走っていくと、さびしい街並みに変わり、「伊達市」という標識が目についた。
それでも4号線を直進していたが、完全に迷ったと思った。
地図を確認したら、逆方向に走っていることに気付き、引き返したが、今度は高速のインターに出るはずの県道115線を間違って入ってしまい、これも街灯もついていないような山道に迷い込み、途中で引き返し、1時間ロスしたうえにようやく福島西インターに入ることができた。

夜遅くの高速道路は空いていた。
時速110~120kmで飛ばした。何台も車を追い越し、家に着いたのは真夜中だった。
翌日車のタイヤを見たら、溝がかなりすり減っていた。

コメント (2)

Josef Rheinberger作曲 Abe Regina coelorum を聴く

2017-03-12 23:41:49 | 合唱
以前買っておいた、福島県立安積女子高等学校合唱団の全日本合唱コンクールの録音集(CD3巻)を久しぶりに聴いてみた。
第Ⅰ巻と第Ⅱ巻の課題曲のみを通しで聴いた。
この学校の歴代の指揮者、渡部康夫、菅野正美、星英一の三氏による演奏だ。

1980年から2000年までの、この安積女子高等学校(のち共学化で安積黎明高等学校と改名)の黄金期の演奏を聴くことができる。
いくつかの素晴らしい演奏のうち、Josef Rheinberger作曲 Abe Regina coelorum(”Sechs Marianische Hymen”から)という曲が印象に残った。
合唱曲のうち外国人作曲家による曲は比較的多く演奏される機会は多いが、今一つなじめなかった。
しかしこの曲は幸福感を感じるいい曲だ(1999年大会、星英一指揮)。
1999年は黄金期を築いた菅野正美氏から星英一氏にバトンタッチされた年で、Nコン全国大会では、石垣りん作詞、大熊崇子作曲、「この世の中にある」の演奏も素晴らしく、当方の記事でも紹介させてもらった。

私は高校生の合唱コンクールでの賞の結果は全くというほど関心がないが、この学校が長きに渡り連続して金賞及び文部科学大臣賞を受賞した理由が、このCDを聴いて分かるような気がした。
一言でいうと、「曲のみに、歌を歌うことのみに集中して、他のことは何も考えていない」ということである。
前回のブログで「歌を歌う前に、まず日常の人間の在り方」というようなことを書いたが、技巧的なものよりも前に、歌を歌う人たちの人間的な気持ちが全てである(もちろん技巧も大事だが)。
気持ちに濁りが無く、意識的なものが無く、与えられたパートの役割の中でそれぞれが精一杯、日常の人間として感じるもの、人間本来の根本的な優しさや、明るさ、誠実さ、清らかさ、などを曲を通して自然に何も意識しないで出すのみである。
歌い手本人は全く意識していないが、聴き手にはその歌い手たちの普段の人間の在り方が伝わってくる。
野心に支配されて、歌い手たちの本来備わった美しいものを潰してしまっている演奏がいかに多いことか。
声の統一性、スケールの大きさ、ダイナミックスさ、意識され、コントロールされたこれらの評価に有利なものに支配されすぎると、歌い手たちから伝わってくるものは何も無くなってしまう。
このところのコンクールで有利なのはこのような演奏のように思うが、私からみると聴くに堪えない。


今回、このCDを聴いて、歌い手たちのこの年頃に特有の、見返りを何も求めない純粋さ、無心さ、情熱、清らかさなどを指導者がいかに自然に引き出すか、そのことの難しさを改めて感じさせられた。

福島という町は直感でいいところだと思う。
その福島へ今度の三連休に行くことになる。

コメント

合唱曲「なんとなんとなんしょ」「再生」を聴く

2017-03-05 21:06:05 | 合唱
全日本合唱コンクール全国大会の過去の録音を聴いていたら、とてもいい演奏に出会った。
作詞:淵上毛錢、作曲:瑞慶覧尚子。女声合唱組曲「なんとなんとなんしょ」より、Ⅰ  なんとなんとなんしょ、Ⅱ 再生 、演奏は熊本県立第一高等学校である。

この曲は、演奏者である熊本県立第一高等学校の委嘱により作曲されたとこと。
作詞の 淵上毛錢(1915-1950)は熊本県水俣市の出身で、結核から脊椎カリエスを患い、寝たきりの状態で精力的に作詞活動を行ったが、35歳で早世した。
創作された作品の殆どは、寝たきりの病床で書かれたという。
素朴であるが味わい深いものを感じる。

熊本県立第一高等学校の演奏は、2006年度の全国大会での演奏であるが、素朴で、高校生らしい歌い方をする。
声質が柔らかく優しい。ハーモニーが美しく、ときに楽器のような音で聴こえてくることがある。
そして歌い方、声が自然であること。無理をしたり、理想の歌声に合わせようとしていない。
自然な歌い方だから、歌い手が日常で感じている気持ちや、歌い手の日々の生活の過ごし方などが反映され、それを感じることができる。
要は濁りがないのである。野心的なものにも支配されていない。
結局、歌を歌う以前に、まずは歌い手たちの日常の気持ちの在り方が先である。
そして演奏を聴いて、普段の日常の歌い手の気持ちが無意識に聴き手に伝わってくるのを感じるのが好きなのである。

今まで何度も書いてきたが、「高い技巧に支えられた自然さ」というものが最も大切だと思う。
高い技巧に支えられても、演奏者の自然さを殺した演奏は聴くに堪えない
技巧が多少劣っていても「自然さ」をそのまま生かした演奏のほうが、はるかに聴き応えがある。
指導者の人間性と音楽に対する考え方に大きく左右される。指導者の役割は絶大である。
うわべだけの表現や技巧、音の美しさ、統一性ではなく、歌い手の根本的に備えている感情、それも曲と同化した感情をいかに引き出せるか。指導者の力量次第であり、歌い手の素質にも依存する。

淵上毛錢は正岡子規と同じような運命を辿っている。
「再生」という詩で、野菊の咲く野原で、太陽の陽を浴びながら、このまま埋まってしまい、来年の
野菊に再生したい、と言っている。
常に死と対峙しながらそれを受け入れ、精一杯生きる力を感じる詩、曲、演奏である。




※小さい字が見えにくくなってきたので、フォントサイズを大きくしました。
コメント