緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

内藤明美「森の記憶」を聴く

2019-05-26 21:47:05 | その他の音楽
内藤明美氏の名前を初めて知ったのは1982年頃だったと思う。。
内藤明美氏のギター曲「シークレット・ソング」が武井賞を受賞した記事が現代ギター誌に載っていた。
若い女性がギター曲を作曲するなど当時では珍しいことだった(今でもそうかもしれないが)。

この「シークレット・ソング」がどんな曲であるか、その当時は知るすべがなかった。
題名から甘いロマンティックな曲をイメージした。
1990年を過ぎた頃だったか、ギタリストの佐藤紀雄氏がギターの現代音楽だけを集めた「コタ」というアルバムを出した。
このアルバムに「シークレット・ソング」が録音されていた。
恐ろしく難解な現代音楽だった。
作品番号2番。1979年作曲。





だいぶ後になって内藤明美氏があの現代音楽作曲家の故、八村義夫の妻であることが分かった。
八村義夫の「錯乱の論理」や「ピアノのためのインプロヴィゼーション」に出会った頃だ。
内藤明美氏がどういうきかっけで八村義夫氏に出会ったかわからないが、音楽を志していた内藤氏は八村義夫氏の才能や考え方に強く惹かれ、影響を受けたに違いない。
この「シークレット・ソング」の作風がそれを示しているが、但し八村氏のような強烈な激しさは無い。
やや控えめな印象だ。

内藤明美氏のことを4、5年前にYoutubeで検索したら1本しか出てこなかった。
何かのインタビューの記録動画だった。
その後、いくつかの演奏が投稿されていた。
圧倒的といっても数は少ないが、「森の記憶」というマリンバ独奏の曲が多かった。

下のYoutubeの演奏者は八村義夫氏や内藤明美氏の曲を弾いている。
2人の作品に思入れがあるのか。内藤明美氏の教え子のなのか。
まだ若いが動きがしなやかで上手い。

マリンバの音は柔らかく派手さはないが、落ち着きがある。
このブログでもいつくかマリンバの曲を紹介したことがあった。

内藤明美氏の1990年代の曲だと思われる。
もうすでに前衛時代の難解な作風は見られない。
冒頭で、彼女が1977年から1978年にかけてアメリカに滞在した時の回想がナレーションで語られる。
この回想の中での「あなた」とは八村義夫のことなのだろうか。

内藤明美/森の記憶
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太田キシュ道子 トークコンサートを聴く

2019-05-25 22:47:52 | ピアノ
今日(5/25)、千葉市稲毛区のフレスポ稲毛にて、「太田キシュ道子 トークコンサート」が開催された。
東京駅から総武線快速に乗り換え、稲毛で下車。
そこから京成バスに乗り、20分くらいの場所に会場があった。

開演の30分以上前に着いたが、会場がショッピングモールの中にあるらしく、どの建物にあるのか見当がつかず、あちこちさまよってしまう。
開演の5分前にかろうじて見つかりほっとした。
会場はホールではなく、観客は私を含めて10人ほどと少なかったが、ピアノの生の音を間近に聴くには好都合だった。

太田キシュ道子さんの演奏を聴くのはこれで3回目。
初めて聴いたとき、その生の音の美しさに驚いた。
初めてピアノの生の音の素晴らしさに気付いた。
そして具体的にはよく分からないのであるが、演奏会が終って帰路につくときに、何とも言えない満足感を感じた。
だから毎回足を運びたくなるのだと思う。

今日のコンサートは演奏者の太田キシュ道子さん自身が、今日のプログラムの作曲家ゆかりの地を解説しながら演奏する、という趣向であった。
4人の作曲家毎の4部の構成だったが、それぞれ作曲家が住んでいた土地を数々の写真や地図で説明して下さった。



まず、太田キシュ道子さんが住んでいるドイツのミュンヘンのことを説明してくれた。
緯度は札幌と同じで冬は寒く雪が降ったり、高層ビルを建設するが禁止されていることなどを知ることが出来た。
また今日は民族衣装を着て演奏して下さったが、ミュンヘンの伝統的な衣装とのことだ。
プログラムは下の写真のとおり。



印象的だったのは、第1部の作曲家であるモーツァルトが住んでいた土地であるザルツブルクの解説だった。
太田キシュ道子さんが以前、オーストリアのザルツブルクで開催された講習会を受けた時、たまたま1週間滞在した小さなホテルで、朝に近くの河に反射する太陽の光を浴びてとても幸福な気持ちになったという。
そしてその体験がもとで、それまでスランプに陥っていたモーツァルトの曲が理解できるようになったという。
モーツァルトの曲のイメージとこのザルツブルクの河に反射する光が結びついているとのことだが、なるほど最初に演奏された「デュポールの主題による変奏曲」は確かに明るく優しい朝日を浴びるような曲だった。
短調の変奏はフェルナンド・ソルの練習曲のあるフレーズが浮かんできた。
フェルナンド・ソルはモーツァルトの影響を受けたことは間違いないだろう。

第2部はメンデルスゾーン。
ドイツのベルリンで過ごしたが、大変裕福な家庭に育ったとのこと。
作曲家としてだけでなく多方面の才能に秀でていたが、オーケストラの指揮者も盛んに行っていたことは意外だった。
メンデルスゾーンが住んでいた家の絵を見せて下さったが、とても裕福だったようだ。
しかし彼の曲を聴くと、ただ裕福な環境のなかだけで生まれたようには思えない。
メンデルスゾーンの生涯をもっと知ってみたいと思った。
演奏された曲は無言歌集より抜粋。
1年前のコンサートでも聴いた曲で、「春の歌」が有名だ。
題名は全音の人が付けたものであり、外国には無いとのこと。
これも意外なことで勉強になった。
私が中学3年生の時、いい曲だな、って感じた記憶が蘇った。
それにしても美しい音だ。
高音は柔らかくも芯がある。
その高音を引き立てる低音。
この低音がとても素晴らしいのだ。底から響てくるかのように深く、重厚だ。
この低音と高音のバランスがとてもいい。
そして歌い方が自然で力みが無い。
力強いフレーズもあくまでも自然だ。そしてあの魅力的な重厚な低音。

第3部はシューマン。
太田キシュ道子さんがシューマン・ハウスで演奏する機会を得たが、最初は自分自身でコンサートを企画しなければならかったので大変苦労したそうだ。
大量のパンフレットをスーツケースに詰め込んで、会場のある町を歩き回り宣伝したとのことだが、その経験のおかげでその街の素晴らしさに触れることができたそうだ。
日本には無い、伝統的な建築と緑に恵まれた街。
写真と地図で興味深く説明して下さった。
ここであることに気付いたのだが、太田キシュ道子さんは作曲家が住んでいた土地に実際に行き、その土地で作曲家が何を感じていたのかを探り理解しようとしていることだった。
このような演奏姿勢が曲に知らずとも生かされているのだと思う。
曲目は「子供の情景」。
「子供は眠る」は何度聴いても感動する。
繊細な感情の移り変わりを音に乗せて表現することは、このような小品だからこそ難しいのだと改めて思い知った。
太田キシュ道子さんの最後の和音がとても美しかった。

第4部はチャイコフスキー。
ロシアの何という町か忘れたが、以前その街の会場で弾いたYAMAHAのピアノの音が素晴らしく感動したとのこと。そしてその音は調律の技術によって生み出されているとのことだった。
この演奏会場がとてつもなく広いこと。
日本とはスケールが違いすぎる。
将来こういう外国の本場の演奏会場で生演奏を聴いてみたいな、と思った。
曲目は「くるみ割り人形」。
いくつか曲は既に馴染みのある曲だったが、最後の曲はリストの曲を思わせる難曲だった。
この最後の曲も聴いていて感じたのであるが、柔らかく澄んでいながら芯のある高音と、深く重厚な低音との対比とバランスが素晴らしかった。
今日弾いた会場のピアノはYAMAHAであったが、湿気を吸っているのか音の立ち上がりが悪く、弾きづらそうだった。
しかしこのような決して上等な楽器でなくてもピアノの魅力ある音を引き出す技術に驚いた。
このピアノであの高音と低音をよく出せるものだと思った。
思い出したのは、ホセ・ルイス・ゴンサレスに習っていた日本人ギタリストが、ホセ・ルイスは2、3万円のギターでも、素晴らしい音を引き出していた、と語ったことだ。
やはり優れた演奏家は楽器の持つ音の魅力を最大限に引き出すことをまず第一に考えているのだ、と気づかさせられる。
これは今のギター界に言うべきことなのだと思う。

今日は目をつぶりながら演奏に聴き入ったが、音の魅力もさることながら、音楽の流れ、歌い口が自然で、終始集中して流れを感じ取ることが出来たことだ。
このこともとても大切なことだと思う。
頭での意識に委ねてしまうと、どうしても音楽は不自然、作為的になる。
音楽を、その作られたままに表現する、ということが、口で言うほど簡単ではなく、いかに困難を極め、それを実現することがとてつもなく修練を要するものであることを、今日の演奏を聴いて感じ取ることができた。

全ての演奏が終わり、帰ろうとしていた時、全く予期していなかったことが起きた。
太田キシュ道子さんが私に近づいてきて、「ブログを書いている方ですか」と話しかけて下さったのだ。
思わぬことに驚いたが、「そうです」と答え、今日のコンサートが素晴らしかったことなどを話した。
演奏家の中には尊大でとっつきにくい方もたくさんいるが、太田キシュ道子さんの飾らない人柄に魅力を感じた。
そして、ギターを弾くことを話すと、今度聴かせて欲しいとも言って下さった。

ピアノが好きで、海外に行き、定住し、夢を実現させた女性。
そこに至る道のさまざまな困難を乗り越えてきたという「強さ」を、今日の演奏を聴いて感じずにはいられなかった。

【追記】
来週、6月2日に太田キシュ道子さんのコンサートがある。
しかしこの日はマンドリンクラブの練習と重なった。
シューベルトのピアノソナタ第21番は全楽章弾くという。
練習を早退して聴きにいきたいが、どうしようか。演奏会も迫っているし。
太田キシュ道子さんには多分行けないだろうと言った。
でも聴きに行きたい。
葛藤に苦しむところだ。

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ホセ・ルイス・ゴンサレス編曲「ひまわり」を聴く

2019-05-19 21:38:32 | ギター
昨日記事にした、熊谷賢一作曲「マンドリンオーケストラの為のバラードⅥ 北の国から」の冒頭のギターパートを聴いて思い出したのが、昔随分と聴いたホセ・ルイス・ゴンサレス演奏の「ひまわり」だった。

映画音楽からホセ・ルイス自身が編曲したものだ。
LPレコード時代に「ホセ・ルイスの至芸」というタイトルで発売された録音がCDとなって、就職後間もない頃に買った。





今日久しぶりに聴いた。
凄い密度のある音。
こんな音を出せるギタリストは今や皆無だ。
クラシックギターという楽器の音を極限まで引き出した演奏だ。

やはりギターという楽器の音は、聴く人の心に食い込むような音でなくてはならないと思うし、それがギターという楽器の最大の魅力なのだと改めて考えさせられる。
ギターの音は、他の楽器に出せない要素をたくさん持っている。
ギターを知らない人でも、ホセ・ルイスの音を初めて聴いたならば、その音はずっと長く記憶に残るに違いない。

私は何人かの演奏家の音に影響されてギターの音作りをしてきたが、その中でもホセ・ルイスの音の影響を強く受けてきたんだな、と思った。
「密度のある強い音」、「感情的パワーと繊細さを併せ持つ音」。
単なる薄っぺらな美音とは次元の異なる音。
そんな音に最初に気付かさせてくれたのがホセ・ルイス・ゴンサレスの音だった。
高校3年生の時であった。

この「ひまわり」が収録されたCDの中に、カステルヌオーヴォ・テデスコのプラテーロと私より「つばめ」という曲が収録されているが、この録音を初めて聴いた20代の頃はこの曲のホセ・ルイスの演奏が好きになれなかった。
速度が遅くテクニックが甘いと感じたのであろう。
セゴビアの演奏が前提として強く残っていた。
しかし久しぶりにこの曲の演奏を聴いて、その音作りの素晴らしさ、凄まじいほどの感情の宿った音、速度は遅いがごまかしの無い誠実なテクニックに感動した。



ホセ・ルイス・ゴンサレスのこのCDの録音がYoutubeに投稿されていないか探してみた。
残念ながら無かった。
それだけでなく、ホセ・ルイス・ゴンサレスの最盛期に録音されたものが全くというほどなかった。
最盛期を過ぎたライブ映像はあったが。

再生回数も少なく、1980年代にあれほど人気のあったホセ・ルイスも、今となっては伝説のギタリストとなっているのであろうか。
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熊谷賢一作曲 マンドリンオーケストラの為のバラードⅥ「北の国から」を聴く(2)

2019-05-18 22:08:19 | マンドリン合奏
今日は獨協大学マンドリンクラブの第92回定期演奏会を聴きに行く予定だったが、時間を確保できず断念。
もう長いこと睡眠時間4、5時間の生活を続けているが、1日が24時間以上あったらどんなにいいかと思うことがよくある。

今日、Youtubeを見ていたら、熊谷賢一作曲の「マンドリンオーケストラの為のバラードⅥ「北の国から」の演奏録画を見つけた。

熊谷賢一 マンドリンオーケストラの為のバラードVI『北の国から』


比較的最近投稿されたもの。
この曲の感想を以前記事にしたことがあったが熊谷賢一の曲の中では、最高傑作、マンドリンオーケストラの為の 群炎第6番「樹の詩
」、次いで「マンドリンオーケストラの為のバラード第4番「河の詩」」、マンドリンオーケストラの為のボカリーズIV「風の歌」に続きよく聴く曲だ。

鈴木静一にしても藤掛廣幸にしても多数ある自作の中でも傑作と感じられる曲はせいぜい3、4曲しかない。
傑作と呼ばれる作品は作者の人生の中で最も充実していた時代に生み出されたものであろう。
熊谷賢一のこの4曲を初めて聴いたならば、人によっては軽い表面的な曲に感じられるかもしれない。
しかしあえて言うならば全く逆なのだ。
私も学生時代、「樹の詩」を演奏したとき、この曲を軽いフォークソング的なものにしか思っていなかった。
しかし30年経って、初めて聴く立場になってこの曲の録音に接したとき、この曲から発せられるメッセージの強さに驚かされた。
この時、熊谷賢一に対する見方が全く変わった。
熊谷さんって、こんなに精細で、しかも力強く、そして常に弱った者を引き上げようとしているんだな、と思った。
熊谷さんは決して後ろ向きにならない。人の核にあるものを前に前に出そうとする力に溢れている。

このバラードⅥ「北の国から」の初演は1994年だったので熊谷作品の中では最後の方の作品になる。
「北の国」がどこの地方を示すかは分からないが、曲の感じからは私は1970年代の頃を想起する。
上記Youtubeの録画の場合、3:30頃から曲想が変化する。
次第にクレッシェンドし、4:24から何とも言えない、寒い冬の静かな夜明けの柔らかい朝陽を浴びるような優しさを感じるフレーズが現れる。
そして5:45までに明るく前向きなものが徐々に徐々に強く放射される。
この部分が素晴らしい。
凄く清冽な、感情的なものに溢れている。

7:17から7:24のマンドリンの音が凄い。
そしてこの後から続くワルツが素晴らしいのだ。
このワルツは私は好きだ。
幸せなようで何故か哀しい。
幸せと哀しみとが同居したような不思議な感じがする。
こんな曲ってなかなか書けない。
こんな複雑な心境を経験したのか。どんな体験だったのか。
ものすごく感情がはきだされる。

最後は和太鼓のような激しい太鼓のリズムに乗り、主題が再現される。
私はここを聴くと、自分の本来持つ核となるものを大切にしながらそれを大きく前向きに育てていけというようなメッセージを感じる。

最後の終わり方が素晴らしい。
単純な終わり方でない。色々なものが混在している。だけどとても美しい。
ラストは熊谷さんさらしい終わり方だと思う。


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連弾の第一人者 児玉邦夫氏のエッセイを読む

2019-05-12 22:19:52 | ピアノ
クラシックギターを始めて1年ちょっと経ったある日、学校帰りにふと立ち寄ったスーパー、それは小さなスーパーであったが、雑誌売り場になんとクラシックギターの雑誌が置いてあった。
「ギターミュジック」と「現代ギター」の2つだった。
北海道の、それも都会とはかけ離れたある土地の小さなスーパーに、当時マイナーなジャンルだったクラシックギターの、そしてこれもマイナーな雑誌が売られていたことが今から思うと信じられない。
中学2年生だった私は、読みやすそうに見えた「ギターミュジック」の方を買った。
1978年2月号。当時の定価で450円。



「現代ギター」の方は今でも継続して発売されており、立派な装丁になったが、「ギターミュジック」の方は随分前に廃刊となったようだ。
結局、「ギターミュジック」はこの時しか新刊を買わなかった。
数年前にバックナンバーを数冊買ったことはあるが。

とにかくこのギターミュージック、隅から隅まで何度も読んだようだ。
裏表紙などは人に見せられないほど手垢がこびりついている。
今日久しぶりに中をめくってみたが、1ページ、1ページ毎にその内容は鮮明に覚えている。
表紙に移るハウザーⅡ世のギター、この頃来日したコンラッド・ラゴスニックがヤマハの当時の最高機種GC30Aを弾く写真、原荘介や菊池真知子の写真、それに私が大学1年生の時に初めて買った手工ギター、田中俊彦の20号の写真など。
どれも懐かしい。









現代ギター誌もそうなのであるが、昔の雑誌は今の雑誌よりも装丁は粗末であるが、中身は濃くて読み見ごたえがある。
編集作業は今よりもずっと手をかけているし、いい雑誌にしたいという意気込みを感じる。
残念ながら今の現代ギター誌は図書館で立ち読みする程度で終わってしまうような内容だ。

このギターミュージック1978年2月号の中で、面白い記事があった。
この記事は何度も読んだ。
「ガタガタピアノを夜通し弾く」という題の、児玉邦夫氏のエッセイであった。



児玉邦夫氏(1928-1994)はピアノの連弾での草分け的存在であり、連弾の第一人者でもあった。
国立音楽大学名誉教授。30代後半にウィーン音楽大学でパウル・バドゥラ=スコダらに師事している。
児玉氏は驚くことにピアノを始めたのは17歳の時だった。
このエッセイの出だしで児玉氏は、「僕の人生を変えた日、それは僕が17才の5月11日、その日だった。」と書いている。
その頃は第二次世界大戦が終わったばかりで、皆が目標を失っていた。
この時児玉氏は宮崎の農林専門学校(今の宮崎大学農学部)の生徒だった。

農業学校で男ばかりの学校だったので、皆汚い服装で髭も剃らずにいたが、ある時、仲間の一人が合唱団を作るので入らないかと誘ってきた。
それに「女性も一緒だぞ」というではないか。
「じゃ、入る、入る」というわけで、つぎはぎだらけの服をやかんの熱湯の熱でしわを伸ばし、髭ははさみで切って初回練習に臨んだはいいが、女性の前にいざ立つと思いっきり緊張してしまい、先生から「児玉君」と呼ばれて「ハイッ」と1オクターブ高い声で答える始末。
そんな出だしから始まった児玉氏の合唱部生活であったが、ある日先生宅で合唱のレッスンが終った時、級友の一人が隣室に入って黒ビカリのするピアノを弾くのをまのあたりにし、「ちょっとオレにも弾かせろ」というわけで夢中になってピアノを見様見真似で弾いたのがピアノとの最初の出会いだったそうだ。
そうこうしているうちに合唱の先生がピアノを習いたいのだったら、バイエルを買ってきなさいと言われ、バイエル教本を買ってきてレッスンを受けることになったが、このバイエルのページをめくるところが穴が開き、ずっと後ろのページまで貫通するまに使いこんだ。
児玉氏は「砂漠に雨が降るように、その吸収は早かった」と言っている。
ただ、ピアノが学校に1台あるっきりだったので、満足に練習が出来なかった。
そこで行動に出たのは、仲間達と一緒に宮崎市内でピアノを持っている家をほうぼう探し出し、その家にいきなり訪問し「ピアノを弾かせて下さい」と頼みこんで弾かせてもらったこと。
そのうちピアノを弾くようになる連中が増えだしてきて、1台しかない学校のピアノが1日中ひっきりなしに使われるようになる。
壁の薄い隣の教室が授業中でもバンバン弾くものだから苦情が来て、ではピアノから音が出ないようにしようということで、アクションを引っ張り出したり、ハンマーを折ったりして、じゃそんなのは糸で結んでしまえってんでガタガタにしてしまった。
そんなガタガタピアノでも30分交代で待ちが出るほどで、ついに徹夜組まで現れるようになった。
3交代で、一人がピアノを弾く、一人はピアノの上で寝る、一人はピアノの下に板を敷いて寝る、といった具合で夜通しピアノを弾くことが続いたという。
そして電気が付かなくなったら、空き缶にローソクを灯し、そのローソクが無くなってしまうと缶詰の底にたまった油に火が付いて燃え出し火柱が上がっていても、それに気づかず延々とピアノを夜通し弾き続けたという。

戦後間もない頃の物が無い時代だったからこういう生活が送れたのだろう。
今から思うと羨ましく感じる。こういう話が好きだ。

私もギターを始めた頃、中学校の音楽室にクラシックギターが何台か吊り下げられていたが、授業と授業の間の5分休憩のたびに音楽室まで駆け込んで、数分間ギターを弾き、また教室まで駆け戻るということを繰り返すという日々があったのを思い出す。
とにかくギターに熱狂していた。
初めて買ったギターはヤマハの2万4千円の量産ギターだったが、家に帰ってからこのギターを夜寝るまで弾いたものだった。勉強など試験の前にしかしなかった。
ヤマハの一番安い弦で、低音弦の金属が剥がれてきたら中のナイロンの糸の束がむき出しになるのだが、こうなったら音がしなくなるのだが、弦を買うお金が無いからそのまま弾き続け、ナイロンの糸がとうとう切れたらその糸を結んで弾くなんてことをやっていた。

そして札幌に出かけたら東急デパートの楽器売り場に行って、当時売れらていた阿部保夫監修の全音の手工ギターを買いもしないのに長時間弾いて、店員からこいつはどうしようもない奴みたいなあきれられた目で見られていた。

児玉氏も同じような心境だったと思うが、楽器を始めた頃ってその出会いも衝撃的、運命的なものなのだが、ちょっと考えられないくらい熱中してしまうものだと思う。
私がクラシックギターを始めた頃、学校にも近所にもクラシックギターをやる人は一人もいなかったが、そんなことは何も関係なく、とにかく弾きたい曲を探しては夢中で弾いていた。

児玉氏はピアノを始めたのが遅かったが、潜在的にピアノに対する適性が備わっていたのだと思う。
ピアノとの出会いは誰からか勧められたのではなく全くの偶然であったが、その出会いは運命的だった。
恐らく初めてピアノに接したとき、今まで全く気付かなかったけど、これこそ自分が強く求めていた唯一のものであることを意識せずとも直感したに違いない。

多分誰でもそういうものを潜在的に持っているのであろう。
そういうものとの出会いが持てたということは、自分で言うのもどうかと思うが他に替えられない幸運なことなのではないかと思う。
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