緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

毛利蔵人作曲「冬のために」を聴く

2023-05-26 22:45:46 | 現代音楽
久しぶりに、恐ろしく暗く、不気味で荒涼とした現代音楽を聴きたくなり、毛利蔵人の曲で新たに投稿された曲がないかYoutubeを検索してみたら、何と2日前に投稿されたばかりの彼の代表作の一つである「冬のために」を偶然見つけた。
音源は1996年に録音され、デンオンから発売された「海へ」小泉浩~現代日本フルート音楽の諸相~と題するCDである。
演奏者:小泉浩(フルート)、山口 恭範, 吉原 すみれ(パーカッション)。





毛利蔵人の名前を初めて知ったのは学生時代、今から40年くらい前であるが、全音のギターピースの裏表紙の曲目リストの中にあった「アナモルフォーズ」というギター曲の作曲者として目にしたのが最初だった。



今から20年くらい前であるが、東京国際ギターコンクールの本選課題曲で野呂武男作曲「コンポジションⅠ 永遠回帰」を聴いて衝撃を受けたのをきっかけに現代音楽に目覚め、邦人作曲家を中心に現代音楽のギター曲を探し始めた頃であった。
フォンテックから毛利蔵人の作品を集めたCDが発売されているのを知ると、さっそくこのCDの中のギター曲「アナモルフォーズ」を聴きたくなり買って聴いたのが今から20年くらい前だったと記憶している。



「アナモルフォーズ」を初めて聴いたときに感じたのは、音楽面、技巧面共に非常に難解で、まともに弾ける奏者は極めて限られる曲だということだった。





この曲は荘村清志氏のために作曲されたが、残念ながら彼はこの曲を録音しなかったようだ。
毛利氏が渾身の力で作曲したことが感じられるとおり、この曲を手中に収めることのできるギタリストは極めて少ないと思われる。
譜面を見て分かるように、恐ろしく難しい曲である。
CDでのギター演奏は、現代音楽の第1人者である佐藤紀雄氏による。

フォンテックの毛利蔵人作品集の曲目は全てライブ録音であるが、この中で毛利作品の中では比較的理解しやすい曲があった。
「冬のために」という曲。
1984年作曲。録音は1997年6月19日、東京オペラシティホールでのライブ録音で、冒頭のデンオンのスタジオ録音と全く同じ奏者による演奏であった。
この演奏でのフルート奏者、小泉浩氏は「現代音楽の第一人者であり、武満徹が最も信頼したフルート奏者」と評価されている。
なお、意外なことに小泉浩氏は、鈴木静一没後15年記念演奏会にフルート奏者として出演している。



さて「冬のために」という曲であるが、詩人の中村鐵太郎氏の「冬のために」という詩のイメージを元に作曲されたと言われている。
詩の内容は未確認であるが、終始、暗く、不気味さが漂う曲である。
フルートという楽器が一般的に美しく優雅な音を出すという印象を受ける反面、暗く不気味で寒気を感じさせる音も出せるということが分かる。
冒頭からしばらく続く「静」の部分、中間部でせわしなく躍動するような「動」の部分を経て、再び「静」に戻るという構成を取っている。
演奏時間約15分。
現代音楽でも「形式的側面」を前面に出したものとは全く異なる性質の現代音楽だ。
それまで多くの作曲家や音楽家が目を向けてこなかった、人間の深層心理に潜む「闇」の感情に焦点を当てた音楽だと自分には感じられる。
音楽とは「美しく、優雅で、聴く人々の気持ちを豊かにするもの」であるべきであるという暗黙の常識的考え方を打ち破るような音楽の作り方だ。
「冬のために」はそれほどではないが、毛利作品の「待ちながら」や「ディファレンス」という曲を聴くと一層そういう感覚を感じる。
「不安」、「あせり」、「動揺」、「恐怖」、「孤独」といった精神的、心理的な「苦しさ」を、それも意識できずに潜在意識の奥深くに滞留した状態をイメージしているように感じられる。
毛利氏はきっと、自らの内面から聴こえてくるこれらの感情を拾い上げ、対峙する過程でそれらを音楽として構成し、表現したのではないかと思うのである。

毛利氏は1997年1月、46歳の若さで病気で亡くなった。
これからもっと才能を開花させていくというときに早世した。
中学生のときから全くの独学でピアノと作曲を始め、都立高校卒業後、三善晃に師事したという経歴の持ち主であり、天賦の才能を持ちながらも大変な努力をされてきたことが分かる。
毛利氏の作品は映画音楽(「泥の河」)やアニメ音楽(「赤毛のアン」)、などで知られていることが多く、彼の本領としての現代音楽作品を聴く機会を得ることは少ない。
しかしこの「冬のために」だけでも繰り返し聴いて欲しいと思う。
音楽の中に、このような人間的側面、負の側面と言っていいのかもしれないが、光を当てたものがあったということに少なからず感動を覚える。

Youtubeに投稿されていた、デンオンのCDの録音を貼り付けさせていただく。
なお個人的にはフォンテックのライブ録音の方が聴きごたえを感じる。

毛利 蔵人:冬のために / 小泉 浩, 山口 恭範, 吉原 すみれ 1996
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松下眞一/立岩利夫「俳句と音によるラジオのための作品 日本人一九七〇」を聴く

2020-05-09 21:03:34 | 現代音楽
「- 俳句と音によるラジオのための作品 - 日本人一九七〇」
松下眞一(音楽・音響構成)・立岩利夫(俳句)
昭和45年度芸術祭参加作品(毎日放送制作)
(Youtube解説より転載)

下記にYoutubeの音源を貼り付けさせていただく。
(現代音楽が嫌いもしくは拒絶反応のある方はお勧めできません)

日本の電子音楽 松下真一/立岩利夫:日本人一九七〇 毎日放送



昨日記事にした松下眞一氏の作品である。
1970年に起きたさまざまな出来事とそれに対する思いを俳句にし、ナレーションと背景音、および音楽との組み合わせにより構成された作品である。
ドキュメンタリー作品のように思えるようで、注意深く聴くと、かなり不気味な箇所がある。
(動画のイラストもかなり不気味な印象が残るが、作者の創作の動機は何だろう)

こういう作品は現在、皆無である。
ナレーションを交えた音楽作品は山ほどあるだろうが、こういう時事的、世相的な内容をテーマにしたもの、また音楽や特異な意識的な背景音により構成されたものは恐らく無いのではないか。
それにしてもよくこのような作品が作れるものかと思う(いい意味で)。
いわゆる前衛作品の一つであろうが、芸術に対する固定観念にとらわれない発想、新しい音楽表現に対する挑戦意欲が無いと、なかなか生みだせない作品だと思う。
この時代だったから可能だったとも言えるのかもしれないが。

1970年。
私が小学校に上がった頃だったであろうか。
この頃に連想するもの。
タイガーマスク、巨人の星、仮面ライダー、ウルトラマン、ウルトラセブン、白黒テレビ、水鉄砲、煙幕、ロボコン、ファンタ、サンダーバード、謎の円盤UFO、ひょっこりひょうたん島、マッハ・ゴーゴーゴー、アタックNo.1、底抜け脱線ゲーム、ビー玉、ボンネットバス、竹のストック、紐で結ぶスキー靴、石炭ストーブ、煙突掃除、木の桶のような風呂、アノラック、ヤッケ、マグマ大使、黄色のカッパ、なかよし子供館、フルヤのウィンターキャラメル、長靴、水筒、定山渓鉄道廃線跡、桜山、セミの抜け殻、札幌地下鉄試運転、五番館、クリームソーダ、メロンパン25円、ゴムのげじげじ、ミクラス、ちくろ、ダブルラーメン、BCG、おたふくかぜ、蒸気機関車、トンネル餅、

ちょと後になって、
カラーテレビ、札幌オリンピック、笠谷、ジャネット・リン、浅間山荘事件、過激派による放火、爆破事件、赤き血のイレブン、帰ってきたウルトラマン、ミラーマン、オイルショック、大江戸捜査網、水戸黄門、タイムカプセル、仮面ライダーのカード集め、切手集め、科学と学習、新八犬伝、小遣い10円、竹とんぼ、プリンスメロン、映画「家族」、ガロ、

1970年代半ば頃、
ミニスキー、パンサー(長靴)、2段スパイク(月星長靴)、カウンタック、釘差し、リリヤン、没収、かたき、反乱軍と国王軍、少年野球、高橋一三、ベビースターラーメン、ファンタゴールデングレープ、スポーツハウス、天ぷらそばとクリームソーダ、ゲロ、鍋焼きうどん(アルミ鍋)、生味ラーメン、明星ラーメンビーフ味、チカレタビー、パラボラアンテナ、野球帽、かまくら、アイスホッケーの真似事、トムとジェリー、草薙さん(NHKの天気キャスター)、新日本紀行、北海道7:30、旭川竜谷高校(甲子園)、おやきや、泳げたいやきくん、キャラメルコーン、たまご麺(38円なおけっこう)、チェスタ、ミスターピブ、滝野自然公園、アメリカンヨーヨー、犬の散歩、三角ブランコ、輪投げ、ミスタードーナツ、ダイエー、シャープペン、蓄膿症、江戸川乱歩、暗黒星、アルセーヌ・ルパン、8・1・3の謎、キカイダー、キカイダー01、少年チャンピオン、750ライダー、マノク商事、自転車、トリアルタイヤ、旧千歳線跡、東月寒、共進会場、シベリア博、毒入りコーラ事件、道庁爆破事件、水ぼうそう、シクラメンのかほり、猿の惑星、男たちの旅路、太陽にほえろ、パッチ、

他にも色々あるだろうが、思いつくままに挙げてみた。
子供の目線での連想、イメージとなってしまったが。
1970年代、私は小学生から中学生時代であった。
今振り返ってみると、1970年代というのは、自分のこれまでの人生の中で最も楽しかった時代、日本が最も輝いていた時代だった。
この時代は1日が始まるのが待ち遠しいほど楽しく、活気に溢れていた。
今の時代に比べるとまだ日本も貧しさが残っていたけど、年月を経るにしたがい生活が豊かになっていったという実感がある。
この時代って、ドラマ、映画、歌謡曲、フォークソング、アニメ、文学作品など文化面でも人々の記憶に永久に残り続けるような傑作が生まれた時代でもある。
クラシック音楽界は前衛音楽の全盛期だったに違いない。

あとこの時代の人間には、とてつもなくやさしい人が多かった。
この時代の大人って、皆、戦争体験者だった。
戦争で、大切な人、家族だったり、恋人だったり、親友だったり、そういう人たちを失った人たちがたくさんいたのだ。
だから、人の心の痛みに敏感だった。
そして戦争で死んだ人の分まで生き抜くという、凄まじいほどのエネルギーがあった。
自分の子供時代はこういう大人たちから自然に生き方を学んだのである。
身近な人間だけでなく、アニメ、例えば、タイガーマスクや巨人の星などからも、正しく生きるための拠りどころのようなものを気付かずとも学んでいたのだと思う。

日本の1970年代は1960年代とも違う。
1960年代は安保闘争や高度経済成長期の幕開けなどめまぐるしく日本が変化していった時期だが、1970年代はめざましい経済成長と落ち着き、闘争と終焉、文化の発展、犯罪の増加、日本の国際地位の向上など、発展しながらもさまざまなことが織り交ざったような時代だった。

1970年をテーマにしたこの音楽を聴いて、さまざまなことを連想し、また自身の記憶の断片を蘇らせてみた。
曲の感想よりも、自らの回想による甚だ自己満足的な内容となってしまったが、感じたことをそのまま書くことにした。

1980年代以降は自分にとってはあまり思い出したくない時代だ。
とくに多くの日本人が物質的豊かさを享受していたバブル時代は私にとっては最悪の暗黒の時代だった(経済的理由ではないが)。
だからと言って今の時代に失望しているわけではない。
時代に対する見方は、その人の精神の幸福度に密接に関わっていると思うからだ。
しかし今の時代って、精神的、心理的に幸福感を維持できる生き方が昔、例えば1970年代の頃よりも難しくなってきていると思う。
物質的満足という価値観から解き放たれ、「心理的に幸福感を感じ、維持できる日々を送るためには、どうしたらよいのか」というテーマを常に問いかけられるようになれればな、と思う。
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松下眞一作曲「黒い僧院」を聴く

2020-05-08 23:26:45 | 現代音楽
これ以上ないというほど暗く荒涼としていて、恐ろしく不気味で難解な現代音楽を探してきたが、暗さと荒涼さの要素は薄いが、恐ろしく不気味で難解な現代音楽を見つけた。

松下眞一作曲「黒い僧院」。
1959年作曲。
松下 眞一氏(1922ー1990)は幼い頃から音楽の教育を受け、13歳には交響曲も作曲していたと言われている。
作曲活動を行う一方で、数学者として1965年から1980年までドイツの大学の教授として教鞭をとっていた。
数学者として、エルランゲン大学で特別講義を行うなど、位相解析学の世界的権威]としても知られる(Wikipediaより)。

ピアノ独奏曲のほか様々な編成での現代音楽を残し、私もいくつか聴いてみたが、どれもが難解な理解不能な音楽ばかりである。
初めて聴いたのは多分ピアノ曲だったと思う。

「黒い僧院」は第1楽章:朝、第2楽章:午後、第3楽章:真夜中の3部で構成されており、電子音は超越者を、具体音は周囲(僧院)の環境を、人声は人間存在の深層心理を展開するとされている(Youtubeの解説より)。
グレゴリオ聖歌が挿入されているが、かなり変性されている。

楽譜を見ると理解困難な図形、図面が記載されており、演奏は作曲家の指示がないと不可能と思われる。

Youtubeの音源を下記に貼り付けさせていただく。
あらかじめ断っておくが、現代音楽が嫌いな人や拒絶反応を示す方は絶対に聴かないほうがいい。
(夜眠れなくなるかも?)

日本の電子音楽 松下真一《黒い僧院》Shinichi MATSUSHITA
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ジャチント・シェルシ作曲「ヴァイオリンのためのディベルティメント第3番」を聴く

2019-10-06 20:28:56 | 現代音楽
ものすごく暗く、荒涼としていて、恐ろしく不気味な現代音楽を聴きたいと思って探しているのだが、なかなか無いものだ。
これらの要素を全て満たすものでは無いが、現在録音で聴くことのできる作曲家として、シュトックハウゼンとジャチント・シェルシという作曲家が見つかった。
彼らの曲については以前記事にしたが、ピアノ曲ではなかなかの曲がある。
今日記事にしたジャチント・シェルシ(Giacinto Scelsi 1905-1988、イタリア)の場合、ピアノソナタ第3番が多く演奏されているし、Youtubeに投稿された録音の視聴回数も多い。

ピアノソナタ第3番は美しさも感じられるが、不気味以外の何もでもないピアノ曲を聴くのであれば、「Aitsi pour piano amplifié 」という曲がある。
Youtubeの録音を貼り付けておくが、現代音楽が嫌いな人は絶対に聴かない方がいい。

Scelsi - Aitsi pour piano amplifié [Audio + Score]


ジャチント・シェルシの曲の中でも不気味な要素が少ないうえに、意外にも珍しい作風を感じさせる曲があった。
無伴奏のヴァイオリン曲であるが、「ヴァイオリンのためのディベルティメント第3番Divertimento No. 3 for Violin 」(1955年)という曲。

Giacinto Scelsi - Divertimento No. 3 for Violin (1955) [Score-Video]


この曲はなかなかのものだ。
現代音楽が嫌いな人でもあまり抵抗なく聴けるのではないか。
特に第1楽章と第2楽章は古来の日本の音楽を彷彿させる。
日本的な美しい旋律がところどころ現れる。
第3楽章と第4楽章、とくに第4楽章は非常に高度な超絶技巧が要求される。
これほど難しいヴァイオリンの曲を聴いたことは無い。

この曲はもっと注目されていいと思う。
実はジャチント・シェルシの曲は複数の作曲家が共同制作者として関与したことが知られている。
すなわちシェルシが素材を与え、別の作曲者が実際に音符に移す作業を行う。
完成された曲が、どの程度シェルシの意向や感性などが反映されているかは分からない。

日本でも以前これと似たようなことが発覚し、クラシック音楽界のみならず世間一般においても事件として公にされたことがあった。
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八村義夫作曲「ピアノのためのインプロヴィゼーション」を聴く

2016-06-18 22:58:56 | 現代音楽
前々回の記事で、八村義夫作曲の「ピアノのための彼岸花の幻想(op.6)」という曲を紹介したが、その後、八村義夫氏(以下敬称略)が高校生の時に作曲した言われる、「ピアノのためのインプロヴィゼーション」(Op.1 1957年作曲)を聴いた。

この曲は、八村義夫が駒場高校時代に断片的に作曲した15曲のピアノ曲から選び、手を加えて5曲にまとめたものである。

完全な無調の、暗く不気味で、理解困難な厳しい音楽である。
このような音楽は、合わせ物やオーケストラではなく、単一の楽器、それも和声のあるピアノやギターで聴いた方がよりその独特の音楽の特性を際立たせることができるように思う。

現代音楽にも色々あるが、八村義夫の音楽は、内面の深い闇から聴こえてくる音を手繰り寄せて作られたように思える。
聴いていて、音の組み合わせの形式的な効果というものが全く感じられない。
現代音楽の中には、表層的な奇抜さや斬新さで聴き手を驚かすようなタイプのものが多々あるが、彼の音楽はそのようなものとは思えない。
調性音楽や古典的形式に関心を示さない音楽の作り手は、人間の心理のもっと深い、複雑なものに目を向けているのではないか。
人間の深層心理に堆積する複雑な感情、「闇」に代表されるそれらの感情は決して綺麗な清らかなものではなく、人間が自ら目を背けているものである。
音楽で喜怒哀楽を表現することはそう難しいことではない。
人々は理解しやすいそれらの感情を表す音楽に共感し酔いしれる。
非日常的な感情を疑似体験し、満足感を得る。
しかし人間の深層心理に巣食う闇の感情を意識下まで昇らせ、かつ音に変換し、芸術的領域にまで昇華させることは極めて難しい仕事である。

八村義夫の音楽がそのような種類の音楽かどうかは分からない。
しかし、この「ピアノのためのインプロヴィゼーション」の最後の恐ろしい和音を聴くと、意識せずとも寒気が引き起こされる。
この和音の意図するものが分かるような気がする。
何か深い精神的なものを表現したかったに違いないと私は思う。

この曲を収録したCDの解説文の中に、八村義夫自身の言葉が掲載されていた。

「私は、音を、或る昂揚した、ひとつの生命体として捉えたい。呼吸し、起立し、燃焼する音の行く末を追っていきたい。」



【追記】
八村義夫氏のピアノ曲を聴いて、共通性を感じたのが作曲家の野呂武男氏である。
野呂武男氏はギター独奏曲を4曲、ギター2重奏曲を1曲、ギターと弦楽との合わせものを1曲書いたが、メインは弦楽四重奏曲やピアノ曲である。
ギター独奏曲は「コンポジションⅠ 永遠回帰」と「コンポジションⅡ 離と合」の2曲が出版され、「コンポジションⅠ 永遠回帰」は1964年パリ放送局国際コンクールで第2位を受賞した。
しかし彼のギター曲は「コンポジションⅡ 離と合」の方が圧倒的に優れている。
この曲の作曲年が1960年であるから、八村義夫氏のピアノ曲「ピアノのためのインプロヴィゼーション」の年代と同時代である。
「コンポジションⅡ 離と合」は恐ろしく暗く不気味で、理解し難い難解な曲であるが、これほどのギター曲を書ける作曲家は、後にも先にも彼だけであろう。
野呂武男氏は極めて高い才能がありながら42歳の若さで自らの命を絶った。

(下の譜面は「合」の一部)



【追記20170920】

「ピアノのためのインプロヴィゼーション」の楽譜の一部を下記に掲載します。




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