緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

胃液が食道を逆流するのを感じながら弾いたアルハンブラ

2022-02-28 21:02:35 | ギター
食後ノコーヒーを飲んでしばらくしてマンドリン合奏練習して、独奏曲アルハンブラを弾いていたら、胃から胃酸が逆流してくるのを感じて来た。
胸焼けの広がりを徐々に感じつつも完奏した。

食後のコーヒーのせいで胸焼けを感じつつアルハンブラ 2021年2月28日
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イエペスの演奏を聴いて触発された禁じられた遊び(日本酒入り)

2022-02-27 22:48:36 | ギター
先ほど聴いたイエペスの禁じられた遊びのライブ録音(1971年)に触発されて、久しぶりに禁じられた遊びを弾いてみた。
所どころ、音がビリつたのが残念。
もう寝る時間だししょうがないか。

イエペスの演奏を聴いて触発されて弾いてみようと思い立った禁じられた遊び(日本酒:浦霞300ml入り)2022年2月27日22:35
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イエペスのライブ録音を聴く

2022-02-27 21:53:43 | ギター
イエペスの全盛期のライブ録音が発掘され、Youtubeでたくさん聴けるようになった。
これらのライブ録音を聴けば、イエペスというギタリストの巨匠たるゆえんを思い知らさせる。
いくつかの動画を貼り付けさせていただく。

まずは、スカルラッティのソナタホ短調。まだ、ホセ・ラミレスⅢ世の10弦ギターを使っていた頃だ。

Sonata | Domenico Scarlatti | Narciso Yepes | 10-string guitar | classical guitar | K. 11 | L. 352


イエペスの手って意外に小さい。そして柔らかい。
左手も右手も完全に脱力している。右手は親指を多用する運指が多いことが分かる。

誰でも自分の肉体の1つや2つ、コンプレクッスを持っているものだが、私の場合は、女のように小さな手と、青白い貧弱な坊やのような細く白い腕が思春期からのコンプレクッスであった。
白い細い腕はこれまで何度か逞しくしようと試みたが、いずれも失敗に終わった。

しかしこの小さな手でどんな難曲をも弾きこなすのだからすごいものだ。

次に、1983年のアルゼンチン、ブエノス・アイレスでのライブ録音。
バロック(?)時代の曲であるが、素晴らしい音だ。これらの曲はレコーディングされていないのではないか。

Aria & Phantasia | David Kellner | Narciso Yepes | 10-string guitar | Teatro Colón | live in 1983


Sonata II | Adam Falckenhagen | Narciso Yepes | 10-string guitar | Teatro Colón | live in 1983


イエペスの演奏は意外に未知のものがたくさんあると思う。
レコーディンされたもののみで、イエペスを評価するのは控えた方が良いかもしれない。

最期はおなじみのこの曲。

Romance | Narciso Yepes | classical guitar | Italy | 1971
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絶えず起きる怒りの感情の原因を考える

2022-02-26 22:42:16 | 心理
人間の本能的感情に「怒り」があるが、通常、怒りの感情が起きるのは、他人等から肉体的、精神的危害を加えられたとき、不当に搾取、あるいは損害を与えられたときなど、限定的な体験をきっかけに生じるものであり、怒りの感情を感じ放出すればたいていは時間の経過とともに収束していく。

しかしこのような限定的な体験によるものではなく、日常、絶え間なく怒りの感情が発生し、それによる不快感に苦しんでいる人がいる。
収束することの無い怒りの感情が日々蓄積されていくと、その堪えがたい不快感を解消するために人は様々な手段を採る。
例えば次のようなものだ。

①怒りの感情を意識から排除し、無意識に追いやる。
これはよくある解決方法だ。怒りを感じているにもかかわらず、怒りを感じていないように自分にウソをついてしまうということだ。
しかしこの解決方法の代償は大きい。早晩、抑うつ状態から鬱病などに進展し、怒りの感情が無意識の深いところまでしまわれてしまうと、怒りの感情を取り戻すこと自体が非常に困難な状態にまでなってしまう。自殺するのはこのタイプである。

②安全な標的に怒りの感情を吐き出し、一時的な解決を試みようとする。
これもよく見かける解決方法だ。代表的なのは、幼児、児童虐待、配偶者や交際者に対するDV(ドメスティックバイオレンス)、いじめ、ハラスメントなどだ。
この場合の特徴は怒りを向ける対象が、無抵抗な存在であること。反撃してくるような存在には決して向けない。自分が傷つくリスクがあるからだ。対象が無抵抗なので怒りの感情が一時的に放出されつくすまで実行される。
あとはなかなか見抜けない手段であるが、正義、正論でもって特定の人を過度に批判、中傷、誹謗するやり方である。
これも最も安全な標的(例えば自国の首相、不正やミスを犯した人、共通の不快感を感じる人など)に対し、また自分を最も安全な状況(匿名)下において実行されることが多い。新聞の読者投稿欄やネットの書き込みなどで散見される。
ターゲットが多くの人々の共通の敵だという認識があると、実行されやすい。
また商品に対するクレーマーや学校の先生に対するモンスター・ペアレントと言われる人もこの類だと思われる。

③ある偶然の出来事をきっかけに蓄積された怒りが爆発して長時間にわたり攻撃を行う。
例えば、電車内で体がぶつかったことに腹をたて、ぶつかった相手に長時間に渡って暴言を浴びせかけるような場合、車で追い越し等をされて逆切れされる場合などである。

④無差別の人を対象に怒りを放出する。
近年世間を騒がせたいくつかの凶悪な事件などに例をみることができる。
蓄積された怒りの感情がもはや制御できなくなり、また弱いものいじめで解消することに否定的な価値観を持つような人が、反社会的動機、被害妄想的な動機で無関係な人を攻撃する場合である。
凶悪までいかなくても、騒音などの嫌がらせもこの類に属する。

マイナス感情の中でもこの怒りはとくに強い感情であり、この感情を感じ続けることは大変な不快感とエネルギーを消費するものであるから、人間は本能的に回避または外に吐き出そうとする。
では何故この辛い怒りの感情は外に吐き出しても吐き出しても絶えず再生産されてくるのだろうか。
まずこの怒りの感情が起きる元の原因が何であったかを探る必要がある。
人間は本来、生まれながらにして自尊心を持ち感情を安定にさせて生きていけるようプログラミングされているものである。
しかし生育過程で、親など重要な人間からの虐待、学校でのいじめ、パワハラなど強い心的外傷を受け、なおかつその外傷を与えた人物に対し怒りの感情を向ける、あるいは怒りを意識することが出来なかった場合、その人の心の中でどのような変化が生じるであろうか。
向けるべき怒りを外傷を与えた人間ではなく、自分自身に向けてしまうのではないか。
外傷を与える人間は、自分のどうすることも出来ない怒りを一時的にでも解消させようと、怒りの矛先である人間が跳ね返すことなく、逆にその人が自分自身に怒りを向けたことでダメージを被ることを本能的に求めて遂行するからである。
だから弱い立場の人間や、真面目で心が純粋な人間は怒りを向けられたのは自分のせいだ、と受け止めてしまう。
つまり「相手が怒るのは自分のせいだ、自分が悪いからだ、自分に原因があるからだ」と受け止めてしまう。
そしてなんら問題、落ち度の無い自分を悪い人間と認識し、そのような自分を憎み、自分自分に対し怒りを向けてしまう。
そして人から二度と責められないように、自分を駆り立て、追い込む行動パターンを自ら課し、そのパターンを潜在意識に定着させていく。
このような人は幼い頃からの生育過程で、同様の体験の繰り返しでますますこのパターンを強化していったと考えられる。

24時間、絶えず、本来の実際の自分を憎み、嫌い、罵倒するとともに、人から攻撃されないような人間になるべく自分自身を駆り立てる衝動を感じ続けているとしたら、その人の心の中ではどのようなことが起きていると想像出来るだろう。
そのことで絶えず、怒りの感情が生産されていると思われないだろうか。
これが怒りを吐き出しても吐き出しても解消されない原因である。
この怒りを絶えず発生させるパターンが自分の意識外の潜在意識において発動していることに気付かない限り、冒頭に述べた虐待やDVは永遠に続くであろう。

ではこの状態から抜け出すにはどうしたら良いのだろうか。
それはまず自分が無意識に自分自身に対し行っていることに気付くしかない。
目の前にいるもう一人の自分、それは本来の実際の自分であるが、そのもう一人の自分を絶えず24時間、サンドバックのように殴ったり蹴ったりしているということに気が付くことである。
このような人は苦しくて苦しくて人から容易に理解出来ない程の状態にいるのに、自分自身がやっていることや自分の心の状態がどうなっているかに向き合おうとしていないことが多い。
そのため最も安易な解決方法である、何ら落ち度のない無関係の人を犠牲にして苦しみから逃れようとしているし、その現実に全く気付いていない。
虐待やDV、誹謗、中傷が麻薬のようになってしまってやめられないのである。

このような人を立ち直らせることは非常に難しいと言われている。
本人に気付きが得られないからである。
だからこのようなタイプの人(上記②~④のような人)とは極力関わらないようにした方が良い。
このようなタイプの人と関わると自責タイプの人は餌食にされて死ぬまで攻撃され続けるであろう。
しかし、このようなタイプの人でも自分の現実に向き合う覚悟が出て来たのであれば、再生の可能性は十分にある。
再生するためには、今までサンドバックの如く殴り蹴ってきた本来の自分を発見し、意識するしかない。
しかしそのことに気付くことが出来れば、良心が少しでも消えないで残っているのならば、今まで罵倒し続けてきた本来の自分に対する見方、接し方を変えることは出来るのではないか。
「心底、かわいそうなことをしてしまった。それも長い間、絶えず」と感じることが出来るのではないか。
これが出来るかどうか分岐点と言える。
しかしこのことに気付いても、長年、潜在意識に刷り込まれ定着したパターンを壊していくことは容易ではない。
意識で簡単に制御できるものではないからである。長い時間を覚悟しなければならない。

しかし分岐点を超えれば時間はかかるが後もどりすることはないであろう。
強い意志と忍耐力が必要ではあるが。
自分自らが傷つけてきた本来の自分と和解し、暖かい眼差しを向けることが出来るようになれれば、一歩一歩長い石段をゆっくりと昇っていくように解決に向かっていけると確信している。
そして、本来の自分を罵倒し続けた自分に対しても、最終的には自分自身で受け入れて許してあげることも回復の為には重要であることも言っておきたい。
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岩重孝 作「うち、若葉!」を読む

2022-02-26 00:32:14 | アニメ
今夜は講習会で親しくなった方とラインセッション。
その後、ふと随分昔に読んだマンガのことを思い出し、そのマンガの作家の作品をアマゾンで見つけて読んでみた。

岩重孝 作「うち、若葉!」。

岩重孝という名前を聞いて知っている方は恐らく殆どいないのではないか。
私がこの作家の代表作に出会ったのが大学1年生の時。
中学時代の友達の家に遊びに行ったときに、友達から見せてもらったマンガがきっかけだった。
そのマンガとは、「ぼっけもん」。

九州、鹿児島出身の大学生が東京の夜間大学でおんぼろアパートに住み、アルバイトをしながら様々な人たちと交流を重ねて成長している姿を描いた作品で、私の中では名作とも言える存在のマンガだ。
友達の家で初めて読んでから惹き込まれ、その後何冊かコミックを買ったのだが、4,5巻を読んだところで中断してしまった。

浅井という不器用だけど曲がったことが嫌いな九州男児の主人公、恋人で気が強くしっかりもので優秀な西本(?)加奈子、頼りになり親友、泉、がさつだけど人のいい太士郎(漢字は忘れた)、それから故郷鹿児島の高校時代の親友、白石、川辺、米森といった名前がよみがえってくる。

このマンガのことが忘れられずに、30代の前半の頃だったと思うけど、まだインターネットが無かった時に、古本屋を地道に探して残りの巻を少しずつ買い集め、全14巻を完読した。今から20年以上前のことだ。

この14巻は今でも保管してあるが押し入れの奥の方にしまい込んでいるので、容易には取り出せない。明日明後日の休日に引っ張り出して読んでみたい。

今日、この岩重孝の数少ない作品の中で、「うち、若葉!」を読んだ。
昭和40年代から50年代前半の頃であろうか。
日本が最もいい時代だった頃だ。

「うちの家は 小さな港町の 昔は運河だったドブ川を500メートルほどさかのぼった町工場街で ささやかに定食屋を営んでいる」
この定食屋の高校生の少女が主人公だ。
気が強く男勝りだが、純粋で気持ちが真っすぐな優しい女の子の周辺で起きるさまざまな出来事を誇張も装飾もなく、実直なほどの表現スタイルを貫いているが、貧しくも社会の底辺で日々を一生懸命生きている人々に対する暖かい気持ちが行間に滲み出ている。

この定食屋。私も学生時代によく利用した定食屋に共通したものを感じる。
狭くて小汚いが、何故かそこにいるだけで気持ちが安らぐものを感じる、貧乏学生の私に帰り際にいくら入りのおにぎりを握って渡してくれたあのおかみさん。
20数年振りで再会したときはすっかり耳が遠くなってしまっていたが、メニューの「焼肉定食」とみそ汁の味は全く変わっていなかった。
そして確か2015年に訪れたときには廃業していた。

また工場勤務時代、毎週金曜日にある町に出かける用事があって、その帰りに立ち寄った、狭くて小汚い中華料理屋。
60歳くらいの夫婦でやっていた店だが、その時も黙々とマンガを読みながら食べている私に、毎回小鉢をサービスしてくれた。

こういう定食屋が好きだ。
金持ちや小ぎれいな人が入るような店ではない。でも人情がある。
食べ物にしても何にしても、高級品ばかりに目が行くようになったら、恐らく心は反比例するように貧しくなっていくと思う。
1年に2,3回、寿司やトンカツが食べれるくらいの生活が最も豊かなのだと教えてくれているような気がする。





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