緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

今年の抱負2017(6)

2017-01-29 19:47:07 | 音楽一般
4.マンドリン・アンサンブル マンドリン・オーケストラ

マンドリン音楽について昨年度の鑑賞を振り返ってみたい。
昨年の投稿記事を順に追って見てみると、まず藤掛廣幸の「スタバート・マーテル」の紹介から始まっていた。
この藤掛廣幸の「スタバート・マーテル」は、全ジャンルに渡って、私の好きな最も好きな曲の最上位のいくつかに数えられる曲である。
ちなみに、私が最も好きな曲を挙げてみたい。
(但し、録音で聴けるものに限る。録音の無い曲で好きな曲もあるが除外)

・フォーレ作曲 夜想曲第1番(ピアノ曲)
・フォーレ作曲 夜想曲第6番(ピアノ曲)
・フォーレ作曲 舟歌第1番(ピアノ曲)
・ベートーヴェン作曲 ピアノソナタ第31番(ピアノ曲)
・ベートーヴェン作曲 ピアノソナタ第32番(ピアノ曲)
・フェデリコ・モンポウ作曲 歌と踊り第2番(ピアノ曲)
・石田衣良作曲、大島ミチル作詞 あの空へ~青のジャンプ~(合唱曲)
・千原英喜作曲 近松門左衛門作詞 混声合唱のための「ラプソディ・イン・チカマツ」から壱の段(合唱曲)
・三善晃作曲、谷川俊太郎作詞、混声合唱のための「地球へのバラード」より、沈黙の名(合唱曲)
・三枝成彰作曲、平峯千晶作詞、「あしたはどこから」(合唱曲)
・マヌエル・ポンセ作曲 ソナタ・ロマンティカ(ギター曲)
・鈴木静一作曲 交響譚詩「火の山」(マンドリン・オーケストラ曲)
・藤掛廣幸作曲 「スタバート・マーテル」(マンドリン・オーケストラ曲)

これらの曲を聴くと、ものすごく感動する。
もちろん、これらの曲を好きになったのも、最高の演奏者との出会いがあったからだ。
これらの曲の最高の演奏は今まで記事にしてきた(但し、マンドリン・オーケストラ2曲は未掲載)。

藤掛廣幸の「スタバート・マーテル」はこれらの曲の中でも上位に入るお気に入りの曲だ。
この曲は、あるミッション系の学校の依頼を受けて作曲された、宗教的なテーマを持つものとされているが、私は主題の進行や展開に、あまり宗教的な雰囲気を感じない。
寧ろとても強く感じるのは、藤掛氏が思春期や青年期を過ごした1960年代後半から1970年代半ばにかけての情熱や希望に満ちた日本の時代である。
藤掛氏は恐らく、この時代の体験をベースに自分の作風の土台を築いたに違いない。
1980年代以降が思春期や青年期であったならば、このような曲は決して生まれなかっただろうと思う。
藤掛氏は作曲家になるまでかなり苦労したようだが、この時代にさまざまな尊い体験をしたと思う。

今日、この曲の中で好きなフレーズをギターパートのみであるが、3か所録音してみた。

・「スタバート・マーテル」ギターパート①

・「スタバート・マーテル」ギターパート②

・「スタバート・マーテル」ギターパート③

アルペジオの伴奏パートであるが、このアルペジオの和声進行がとても好きで、学生時代はこのギターパートのアルペジオを弾くだけでも大きな満足を得られた。
とくに2箇所目のイ短調のアルペジオを連続する部分は、この曲の最も好きな部分で、この部分を聴くと、脳が覚醒してきて昔楽しかった70年代の中学校時代の様々な光景が蘇ってくるのである。
メロディラインがないので、イメージが付かないかもしれないが、よくこんなフレーズを書けると思う。

幸いなことに、この曲の生演奏を昨年末に聴くことができた。
社会人を中心とした演奏団体である、ポルタビアンカマンドリーノの演奏であった。
マンドリン音楽がとことん好きな方々の団体の演奏だけあって、とても迫力があり楽しめた。
社会人なので普段の生活でも精一杯であろうが、このような団体に所属してレベルの高い演奏を聴かせてくれることは大変な努力だと思う。やはりマンドリン音楽が何よりも好きだから出来ることなのであろう。


次に学生団体の演奏である。
昨年は中央大学と獨協大学で、それぞれ2回の演奏会、その他のいくつかの大学の演奏会を聴かせてもらった。
やはり中央大学マンドリン倶楽部の演奏が群を抜いて素晴らしかった。
彼らの演奏は決して安易な妥協をしない。
厳しく、過酷な練習を積んできたことが演奏を通じて、大いなる感動という形に変換されて伝わってくる。
音楽解釈や技巧も素晴らしいがそれだけではない。
一番感動するのは、彼らがマンドリン音楽が心底好きで、マンドリン音楽に真に感動していること、過酷な練習をものともせず、音楽の素晴らしさを聴き手に伝えたいという強い気持ちが一つになって、聴き手に伝わってくることである。
彼らの演奏を聴くと、マンドリン音楽も結構奥が深いものだと気付かされる。
管弦楽にはない魅力に気付く。
この中央大学マンドリン倶楽部の演奏を聴いて2年ほどになるが、今まで4人の指揮者に出会った。
いずれも素晴らしい指揮者だったし、よく研究し、努力している。
このような伝統のある団体で、質の高い演奏にまとめあげていくことは、並大抵の努力では出来ないことだ。

中央大学マンドリン倶楽部の指揮者たちを見て、私も指揮を少し勉強してみようと思い立ち、斎藤秀雄著「指揮法教程」という専門書を買った。
私の母校のマンドリンクラブの指揮は、この斎藤秀雄の指揮法がベースとなっていた。
(下の写真は、学生時代に先輩が書いてくれたメモ。そして藤秀雄著「指揮法教程」の一部)











この指揮法の特徴は、打点が分かりやすいことにある。
マンドリン合奏でまず技巧面で最も重要なのは、音を合わせることであり、各奏者のビート(拍)のずれや、押さえのミスからくる音のずれを完全に無くすことにある。
押さえのミスからくる音のずれは、ハイポジションなどの難しいパッセージでよく起きる。
これは普段の練習で回避することができるが、ビート(拍)のズレは奏者自身の普段の練習もそうだが、指揮者のレベルと、奏者が指揮をよく見るかどうかにかかっている。
私の学生時代の先輩は、「リズムに弱いミュージシャンの十中八九は、ビートの感じ方、取り方に由来している。音楽においてまず最初にやるべきこと、また最重要なことは、全てのテンポでビートを持続できることである」と言っていた。
私も学生時代、マンドリン合奏を通じて ビートの取り方を徹底的に教えられた。

昨年の大学の演奏会の中には、指揮者を見ないで、殆どの奏者が終始下ばかり見ていた団体があったが、このような演奏で聴き手を感動させられることはない。
指揮も未熟であったが、聴き手に演奏を聴かせる以上は、満足感を感じられるように、もう少しの努力をしてもいいのではないか。
学生だからクラブ活動以外にもたくさんやりたいことがあるのかもしれないが、中途半端は良くない。
ちょっと言い過ぎかもしれないが、こんな活動だと社会人になっても学生時代のことを思い出すこともないであろう。
社会人になって30年経過したから言えることなのだが、学生時代は学生時代にしか出来ない、体験出来ないことを精一杯やった方がいい。

さて今年の抱負であるが、鈴木静一と藤掛廣幸の全曲鑑賞をやってみたい。
大学の定期演奏会にもできるだけ足を運びたい。関西地区の大学の演奏会にも行ってみたいのだが、実現できるか。
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オイルキャッチタンク交換(2)

2017-01-28 21:51:31 | 
今日は久しぶりに暖かい1日であった。
正月明けにオイルキャッチタンクに溜まったブローバイガスを排出しようと、ゲージ兼排出口のビニール管をブラケットから引き抜こうとしたら、このところの寒さでカチンカチンに硬化していたのかなかなか抜けず、無理やり力を入れて引っ張ったら、ビニール管が切れてしまった。
このオイルキャッチタンクは2個目で5年ほど使ってきたが、その前に付けていたオイルキャッチタンクも今回と同じように排出用のビニール管を切ってしまい、交換するはめになっていた。
また同じ過ちを繰り返してしまった訳であるが、このクスコ(CUSCO)製のオイルキャッチタンクはゲージとオイルの排出を兼ねている構造に問題があると思う。冬の寒い時期にビニールは硬化するので、切れる確率は高まる。
ゲージはそれ専用とし、排出口はタンク下部にドレンボルトを付ける構造の方が長持ちするし、オイルも排出しやすい。
最近のオイルキャッチタンクはドレンボルトを開けてオイルを排出する構造が殆どであり、クスコもこの構造に変えるべきだ。
このクスコ製の製品は結構高かったので、ビニール管を切った後でホームセンターで同じ様な管を見つけて修理しようかと思ったが、止めて新しいものを買うことにした。
今乗ってい車も走行距離15万km近くまできた。20万kmまでは乗りたいと思っているので、新しいタンクを付けても損は無いと思った。
市販されているオイルキャッチタンク昔は高級品が多く、値段も1万円以上するものが殆どだったが、最近はインターネットによる販売により、2千円程度でも手に入るものがある。
しかし、自分の車に合うように設計されていない汎用品なので、適合する取付金具をホームセンターで色々探したり、場合によっては自作しなければならなくなり、その分の費用もかかる。エンジンのヘッドカバーとタンク間、サクションパイプの接続部とタンク間のホースも同様に、車の取付位置によっては長さが足りなくなるので、別に購入しなければならなくなるので結構面倒だ。
これまで使ってきた2個のクスコ製のオイルキャッチタンクは汎用品なので、取付金具を自前で用意し、足りないホースは3千円以上もする別売りのものを購入せざるを得なかった。
クスコ製のタンクにはうんざりしたので、今回の交換にあたっては、車種専用設計でしっかりとした造りのものを購入することにした。
そして以前、金属製のサクションパイプとインテークパイプを購入した時と同じメーカーから買うことにし、2週間前に届いたが、このところの寒さで屋外での交換作業はさすがにつらく、今日になってやっと実現した。

購入した商品。





タンク下部に蝶ボルトのドレンが付いている。

これまで取り付けていたクスコ製のタンクとホース。









地面の染みは、こぼれたブローバイガスの液化したもの。
物凄い臭いがする。いかにも人体に悪い臭いという感じだ。

レベルゲージの折れた部分をガムテームで応急処置していた。



タンクを外した後。



ラジエータと冷却水のリザーブタンクを固定する部分にボルトを共締めして取付金具を固定する



取説にこの固定ボルトを付属のSUS製ボルトを使用することが書いていなかったので、取り外したボルトで金具を共締めしようとしても長さが足りず、取り外したクスコ製タンクの長脚の固定ボルトを再使用して組み立てた。
後で付属のSUS製六角ボルトがこの部分を固定するためのものだと気付き、取付金具をいったん取り外しまた取り付け直す。
取説にはきちんと記載して欲しいものだ。2度手間となってしまった。
下は取り外したボルト。長さが足りない。



これが購入した新しいタンクに付属していたボルト。



取り外したタンクの中に入っているブローバイの臭いが強烈で気分が悪くなってきたので、処分するためにビニール袋に排出。
写真の茶色い液体がブローバイが液化したもの。これを車から排出したままにすることは法律で禁じられており、吸気側に還元して燃焼させる構造にしなければ車検が通らない。



取付金具を固定し、タンクを取り付ける。タンクはSUS製(クスコはアルミ製)。



2本のホースを引き回し、タンクとエンジン側、吸気側と接続し、ホースバンドで固定。



インタークーラーやラジエーターホースなど高熱を発する部分に付属のスポンジや、手持ちの耐熱布で養生する。





このタンクはクリップを外せば取付金具から取り外せる構造になっているが、オイルを排出する時にわずかに動かせるくらいか。


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今年の抱負2017(5)

2017-01-22 00:22:59 | 音楽一般
3.現代音楽

昨年の現代音楽の収穫としては、「民音現代作曲音楽祭’79~’88」と題する8枚組のCDの中で下記の2曲に出会ったことである。

・ソプラノとオーケストラのための「オンディーヌ」 河南智雄作曲
 ソプラノ:豊田喜代美 尾高忠明指揮 東京フィルハーモニー交響楽団 1983年ライブ録音

・ピアノとオーケストラのための「錯乱の論理」 八村義夫作曲
 ピアノ:高橋アキ 尾高忠明指揮 大阪フィルハーモニー交響楽団 1986年ライブ録音

八村義夫氏の名前は以前から知っていたし、彼の曲も既に聴いていたが、河南智雄氏は初めて聞く作曲家であった。
この8枚組CDの数多くの現代曲の中で、最も感動したのは河南智雄氏のソプラノとオーケストラのための「オンディーヌ」であった。
水の精で知られる「オンディーヌ」から連想される神話を題材としたのではなく、吉原幸子作詞の「オンディーヌ」という現代詩の第Ⅰ部を歌詞として曲を付けたものであった。



吉原幸子作詞の「オンディーヌ」は第8部まであるが、この曲は第Ⅰ部の詩を扱っている(一部分、詩文がカットされている)が、曲は3楽章からなり、演奏時間30分程にもなる大作である。短いようで長い。

吉原幸子氏の「オンディーヌ」は一般に知られる水の精オンディーヌと騎士ハンスとの悲恋のストーリーとは全く異なり、現代の男女の孤独な愛とむなしさを描いた内容だ。
著作権に触れるかもしれないが、あえてこの曲使用された詩を下記に記す(曲に使用されずカットされた部分は含まれていない)。

Ⅰ楽章

わたしのなかにいつも流れるつめたいあなた
純粋とはこの世でひとつの病気です
愛を併発してそれは重くなる
だから
あなたはもうひとりのあなたを
病気のオンディーヌをさがせばよかった

ハンスたちはあなたを抱きながら
いつもよそ見をする
ゆるさないのが あなたの純粋
もっとやさしくなって
ゆるさうとさへしたのが
あなたの堕落
あなたの愛
 
愛は堕落なのかしら いつも
水のなかの水のやうに充ちたりて
透明なしづかないのちであったものが

冒され 乱され 濁される
それが にんげんのドラマのはじまり
破局にむかっての出発でした

さびしいなんて
はじめから あたりまへだった
ふたつの孤独の接点が
スパークして
とびのくやうに
ふたつの孤独を完成する
完全に
うつくしく

Ⅱ楽章
わかってゐながら
わたしのオンディーヌ
あなたの惧れたのは
別れではない
一致といふ破局
ふたつの孤独が スパークせずに
血を流して 流した血の糊で溶接されて
ふたりともゐなくなってしまふ
完全燃焼
のむなしい灰

水をひどくこはがったが
泳げないオンディーヌ

月明りの浜辺に
わたしをのこし
もっとたやすい愛の小部屋へ
逃げて行ったあなた

1楽章、2楽章はソプラノが上記歌詞を歌うが、3楽章はオーケストラのみである。
この詩から受ける印象は、とくに現代の孤独な男女間の荒涼としたむなしさである。
「ふたつの孤独の接点がスパークして とびのくやうに ふたつの孤独を完成する」と「ふたつの孤独が スパークせずに 血を流して 流した血の糊で溶接されて ふたりともゐなくなってしまふ」。
人に心を開けない、孤独な人間どおしの、悲しい運命、結末を洞察したような気持ちでうたっているように感じる。

ソプラノも不気味であるが、バックのオーケストラ、時に静かに、時に激しく奏でる演奏が荒涼としており、不気味さを増している。
詩のフレーズ間、詩の言葉と言葉の間に長い間があり、聴いていて自然と寒気がしてくる。

作曲者の河南智雄氏は「作曲にあたっては、詩の世界に寄りかかって雰囲気的な音を付けていくのではなく、もっと詩の世界と音の世界が総合され、止揚された存在となることを目指した」と言っている。
また、「そのためには、私の音楽がその流れの上に言葉を許す、というよりもっと積極的に詩句も、またその情念をも解放してゆくという状態になるまでは、全くペンは取れなかった」、「詩の一つ一つが実に多様な世界を要求しており、また一つの詩の中でも非常に振幅の大きい言葉が並置されているので、それは困難な作業の連続だった」と言っている。

この曲は無調であり機能調性は一切出てこないが、人間の心の深淵にある複雑な負の感情やエネルギーを表現するためには、調性音楽の枠組みの中では不可能であろう。
調性、拍子といった制約から開放され、オープンで自由な土俵で音を組み合わせ、構築していく。その世界はそれが故に、作曲家自身のあるがままの姿、能力に対峙させられることを避け得ず、生半可な姿勢では人に聴かせるだけの作品を生みだせないのではないかと思う。
機能調性の枠組みの中で、人間の幸福感、喜び、悲しみ、躍動感などを表現することは芸術としてのレベルの相違はあっても、比較的取り組み易いものである。
現代の人間が抱える、「闇」のような感情を音楽で表現するのは容易ではない。
その「闇」の感情を経験できなければ、作ることも出来なければ、その作ったものを味わうことも出来ない。
現代音楽といっても様々なものがあるが、あえて人間の負の感情に焦点をあてた作品を作り上げることほど難しいものはないと思う。
このソプラノとオーケストラのための「オンディーヌ」という曲は自分としては現代音楽の力作、傑作だと評価したい。
作曲者の河南智雄氏の情報は殆ど得られなかった。現在までの間、作曲はされていなかったのか。
若い時期にこれだけの作品を書ける力があったのに、埋没してしまっているのは残念である。

次に八村義夫氏のピアノとオーケストラのための「錯乱の論理」であるが、氏の代表作と言える。
この曲の解説文で八村氏は、「私が恐らく、色々な音楽から何を一番最初に感じるかといえば、その音楽に秘められたあらゆる種類の、<負の感情>というべきものの質と量であり、自分の作品においても、まずそれを第一に考える」と言っている。
この作品は、「ある錯乱のあるフレーズを思い浮かべ、一つ一つの音の持つ表情と痛覚とを自在に呼吸させながら、生育させ変更させようとした」と書かれているように、「錯乱」という精神的状況に焦点を当て、その様を表現したものである。
演奏時間約10分の短い曲であるが、非常に難解であり、何度も聴かないと作者の意図を理解することは困難だ。
先にも書いたが、このような難解な現代音楽は調性音楽では取り扱わない、表現できない領域、例えば人間の「闇」に代表される負の感情や、哲学的論理などの表現を対象としているから、聴き手にとって理解不能、難解、ときに不愉快に感じるのは当たり前である。
だから聴き手を選ぶわけであるが、このような音楽でも好きな人はいる。
私も好きな方であるが、このような音楽を音楽では無いとして認めない専門家や愛好家もいる。
恐らく、音楽、ひいては芸術とは、多くの鑑賞者が感動したり、幸福感を感じたり、するべきものであるとの前提があるのだと思う。
それはそれで一つの考え方であるが、狭い見方のような気がする。
つまり現代音楽とは普通の調性音楽とは一線を画すものであり、別次元の音楽であり、それなりの楽しみ方がある。
「無視された聴衆」という著作で、機能調性を持たない無調音楽を徹底して批判したのは作曲家の原博であるが、いくら現代音楽を批判し排除しようとしても、この音楽に芸術的価値を見出し、評価する聴き手がいる以上は、この分野が消滅することはあり得ない。
1960年代から1970年代にかけて、八村義夫のような高い構築性、完成度をもつ芸術的価値の高い作品から、現代音楽の技法(例えば12音技法、セリー、クラスター)を表層的に使っただけの作品まで多数の前衛的な作品が作られ、音楽界は活況があったのだが、聴き手に理解されないことの虚しさを感じるようになった1980代以降、急速にこの分野の音楽活動はしぼんでしまった。
この時代現代音楽を多数作曲していた作曲家も人の趣向の変化に合わせるように、調性音楽に鞍替えしてしまった。
早世した八村義夫氏や毛利蔵人氏のような作曲家は、もし生きていたとしたら、このような時代の変化に合わせて自分の音楽を変えてしまったであろうか。私は決して彼らは信念を曲げることは無かったであろうと思う。
調性音楽であろうと、現代音楽であろうと、それぞれの分野でそれが自分の天性に合致した音楽であり、聴衆の趣向の多い少ないに関係なく、自分の天性と信念を信じて曲作りを貫き通すような作曲家が現代には少なくなってしまったのではないか。

八村義夫氏の「錯乱の論理」を聴いたあと、彼の初期のピアノ曲2曲を聴いた。

・「ピアノのためのインプロヴィゼーション 作品Ⅰ」
・「ピアノのための彼岸花の幻想 作品6」

これら2曲のものすごく難解で理解に苦しむが、何度か繰り返し聴いた。
とくに「ピアノのための彼岸花の幻想」であるが、これほど激しく、心に突き刺さるほどのエネルギーを持つ現代音楽のピアノ曲はかつて聴いたことがなかった。

現代音楽は聴くのに忍耐とエネルギーを要する。
難解な理解不能な哲学書を読むのに似ている。
昔学生時代、マックス・ウェーバーの著作の中でなんでもいいから読んでレポートを出せ、という課題が出されたことがあったが、怠け者だった私は、著作の中で最もページ数の少ない「理解社会学のカテゴリー」という本を選んだ。
しかしその本を読んでみるとものすごく難解で、何度も繰り返し読んでも理解できなかった。
そして理解できないまま、苦し紛れにレポートを書いたことがあったことを思い出す。
しかしその経験は妙に私の心に残りつづけ、この苦し紛れが結構いい体験だったことに後で気付いた。
この「理解社会学のカテゴリー」の本のことは社会人となり、何十年たっても忘れておらず、1年ほど前にまた読んでみたいと思い、絶版になっていたが古本で探して買った(しかしいまだに読んでいない)。

今年の抱負であるが、まず現代音楽のコンサートを探して聴きにいこうと思う。
また、八村義夫氏や河南智雄氏のような作曲スタイルをとる作曲家の発掘をしたい。
この分野の1980年代半ばくらいまでの作品は比較的多い。
図書館でなら楽譜や音源は探し出せるかもしれない。

考えてみればJ.S.バッハのような音楽とは全く別世界の音楽で、全く聴き方、鑑賞のしかたが異なる。
しかし、バッハや、古典形式やロマン形式の音楽だけでは物足りないし、音楽の見方に偏りが出る。
相当の音楽好きでも、多くの人が敬遠する現代音楽だっていいものはあると信じたい。
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今年の抱負2017(4)

2017-01-15 21:15:32 | 音楽一般
2.ヴァイオリン

今年の夏ごろに、ふとJ.S.バッハのヴァイオリンソナタとパルティータを聴きたくなって、今まで持っていたジョルジュ・エネスコやヨーゼフ・シゲティ、ヨーゼフ・スークのCDの他に、この組曲の代表的な演奏者たちの録音を買い求めて聴き比べをしてみた。
結局昨年から今までに聴いた演奏者は下記となった。

①ヘンリク・シェリング 旧録音
②ヘンリク・シェリング 新録音
③ジョルジュ・エネスコ
④ヨーゼフ・シゲティ
⑤ヨーゼフ・スーク
⑥ギドン・クレーメル
⑥ヤッシャ・ハイフェッツ
⑦ナタン・ミルシティン
⑧和波孝禧 旧録音
⑨和波孝禧 新録音
⑩オスカー・シュムスキー
⑪カール・ズスケ

ヴァイオリンは今まであまり聴いてこなかった。
本格的に聴いた演奏は、20代の頃に姉の誕生日に買ってあげ、後でカセットに録音して聴いたヘンリク・シェリングのバッハの組曲の演奏(旧録音)。その後はヨーゼフ・シゲティの同組曲の録音ぐらいである。
理由は音が自分の趣向に合っていないと感じていたこと。
しかしバッハの音楽を理解するためには、この代表作であり傑作のヴァイオリン組曲を聴くことは必須である。
①~⑦は昨年の夏に集中して聴き比べをしたが、正直どれがベストか自分なりに結論を出すことはできなかった。
やはりこの楽器の音楽の聴き込みが足りないし、バッハの音楽の理解がまだまだ未熟であるからだ。

夏が過ぎ秋にはヴァイオリンから遠ざかったが、冬になり原博の「ヴァイオリンと弦楽オーケストラのためのシャコンヌ」を聴きたくなり、持っていたCDを久しぶりに聴いた。
このCDはライブ演奏であったが、以前から何か心に残るものがあり、折に触れて何度か聴き続けてきたのであるが、この曲の演奏者の和波孝禧氏の演奏をもっと聴きたいと思うようになっていた。
そんな時、12月24日に彼のコンサートが開かれることを知り、彼の生演奏を初めて、そしてヴァイオリンの生演奏を初めて聴いたのである。
実はこのコンサートで彼が生来の全盲であることを初めて知った。
とても驚いたがコンサートの演奏も素晴らしく、会場で売られていた邦人作曲家の曲を集めたCDとバッハの組曲の新録音のCDを買い、その後バッハの旧録音も手に入れて、年末年始に聴き込んだ。



彼の音、演奏は、くせがなく、正統的な解釈のもと真摯なものである。
あっさりしているようで、心に残り続ける。
地味だからであろうか。それとも国際コンクール上位入賞者だけをもてはやす日本音楽界の実情からであろうか。
和波氏の存在はクラシック界であまり知られていないのではないかと思う。
しかし彼の演奏は何度も聴くに値するものだと思う。
和波氏のこれまでどのような人生を歩んできたか知りたくなり、彼の著作である「音楽からの贈り物」という本を買った。これも近いうちに読む。




それと最近、ヨハンナ・マルツィ(Johanna Martzy 1924-1979)という女流ヴァイオリニストの存在を知った。
Youtubeでしか未だ聴いていないが、彼女の弾くバッハのシャコンヌやメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲ホ短調の音に釘付けとなった。



今まで聴いたヴァイオリニストの誰よりも力強く、生気に満ちた音、演奏であった。
幸いバッハのソナタとパルティータの全曲録音が出ており早速注文したが、楽しみだ。
ギターのセゴビアのように、楽器の持つ音の神髄を真に熟知した演奏家かもしれないと思った。
これもいつか記事にしようと思っているのであるが、Youtubeでセゴビアのドキュメンタリーがいくつか投稿されており、その撮影の中で生演奏されるセゴビアの音が物凄いのだ。
これだけの音を楽器から引き出す能力はまさに神業といっても大袈裟な言い方ではないとその時思った。
ヨハンナ・マルツィの音も同様な感じがした。

あわせてヒラリー・ハーンという若い女流ヴァイオリニストのシャコンヌも聴いてみたが、17、8歳で録音されたというその演奏を聴いて、その年で想像できないレベルの演奏解釈、音の表現、技巧、音程の正確さを聴いて驚嘆したが、何度か繰り返し聴いてみるうちに、何か物足りなさを感じるようになった。
10代後半の未だ若い時の演奏だからなのであろうが、何かもっと深いものが足りないように感じた。

バッハの組曲など、そう簡単にベストの演奏を選び抜くことなどは出来ない。
しかし昨年から今年の初めにかけて何度も聴き比べして少しは前進したような気がする。
今年はもっと聴き込んで、何か掴みたいと思っている。
今年はヴァイオリン鑑賞も新たに加わるからお金がかかりそうだ。
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今年の抱負2017(3)

2017-01-15 14:45:37 | 音楽一般
1.合唱(前回からの続き)

昨年10月初めに東京渋谷のNHKホールでNコン全国大会高等学校の部が開催され、生演奏を聴きに行った。
全国各地の代表校14校による演奏を実際にホールで聴いて、最も感動したのは、演奏順7番目の山形県立鶴岡北高等学校であった。
この演奏を聴いたその日に、感想を記事にした。
数か月後にNコンホームページで全国大会の動画が公開され、早速聴いてみたが、やはり素晴らしい演奏であった。



具体的に何が素晴らしいのか。
最も素晴らしいと感じたのは、この曲を作った人たちの感情を純粋にそのままに聴き手に伝える演奏だったことだ。
その感情は実に繊細で、深く、強く、それらを表現することは大変な努力を要することである。
まず曲を作った人たちが、どのような気持ちを抱いて、その気持ちを曲に託したのか。
頭だけの理解だけならおよその人ができるが、真に自分のものとして共感し、自分の感情として発露できるかどうかは、その人自身の感受性、今生活している環境、人生体験による要素が大きい。
だから、歌を歌う人、いや全ての音楽家は、音楽だけでなく、文学や絵画などの芸術に触れたり、都会を離れて自然豊かな土地でしばらく過ごして、自然が生み出す音や感触に身をゆだねる必要があるのだ。
ただこのような感情表現も技術的な裏打ちがなければ芸術としての価値を感じることはできない。

この山形県立鶴岡北高等学校のもう一つの素晴らしいところは、高い技術に支えられていたことである。
まず、各パートの音が明確に分離され、それぞれのパートの音が織りなすハーモニーや、高低差の音の重なり合いや掛け合いが見事だったこと。
特に低音パートの音がしっかり出ていたことである。
低音を上手く出せる生徒は探しても極めて少ないであろう。
これも訓練なのであろうか。素質のある部員の獲得、そして訓練の賜物以外の何物でもないであろう。
あと音のコントロール上手く多彩だったこと。
例えば課題曲の「立体としての世界の構造を」の盛り上がりの次の静けさ、間、そして「私は想像する」の息の長いフレージング、音の強まりと減衰の表現、「名前を付けるだけでは」の後のアーの音量。
結構多くの学校が、大きな音を出し過ぎて、せっかくの音色の持ち味をつぶしてしまっているように感じたが、鶴岡北高等学校は曲の要求する音量や強弱のコントロールを的確にとらえていたと感じる。
自由曲は女声合唱曲集「笑いのコーラス」から 贈り物 (作詞:高階 杞一 作曲:横山潤子)であったが、これはコンクールでは久しぶりに聴くいい曲であった。
この曲も演奏者次第では曲のもつ本来の価値を表現しきれない、難しい曲だと思うのだが、鶴岡北高等学校の演奏はこれ以上ないという表現をしてくれている。
「そこではたくさんの夢が星座のように積み上げられて」の部分の盛り上がりと減衰、「いつでも好きな夢に手が届く」を経て、「その中の一番素敵なやつをもらってこよう」のこの曲の最大のクライマックスの部分は胸のすくような素晴らしい感動を与えてくれた。
「そっと、君の夜に届けよう」の部分で始まる低音パートの旋律と、その旋律と織りなすように聴こえてくる美しいソプラノの伴奏から旋律に変化する部分は、何というか静かな幸福感というか、人の純粋な優しさのようなものを感じた。

あらためて考えて見ると、音楽表現というものは、結局のところ人間の生の感情を、芸術的価値に支えられ、裏付けられながら、ありのままに真に表現するということなのかもしれない。
決して頭でコントロールできるものではないと思う。

他に印象に残った演奏は、演奏順1番目:福島県立安積黎明高等学校、演奏順2番目:山口県立萩高等学校、演奏順11番目:北海道立釧路湖陵高等学校であった。
とくに、 山口県立萩高等学校の自由曲、「混声合唱とピアノのための「もうひとつのかお」から あなた」(作詞:谷川俊太郎 作曲:鈴木輝昭)はいい演奏だと思う。



この演奏から感じられるのは「素朴さ」。
力みがない、自然さというのは重要な要素だと思う。
何故力むのか。何故高校生以上の音色を出そうとするのか。何かを期待しているからだと思う。
普通のことをやっていてはコンクールに入賞できない、という考え方はあるのかもしれない。
しかし高校生には高校生らしい魅力がある。高校生の頃でないと出せない音色、、感受性、感情エネルギーがある。
だから指導者の役割は極めて絶大である。高校生の持ち味を生かすのも殺すのも指導者次第である。
1年前に「今日の陽に」という合唱曲の聴き比べをしていた時に、学校により実に様々な曲の解釈、演奏をしていたが、演奏者である高校生の自然さをつぶして指導者の価値観により完全にコントロールされた学校の演奏もいくつかあった。
そのような演奏は上手くてもそれ以上のものは何も感じない。
それに頭でコントロールすると、部分的にちぐはぐな表現が散見され、それが表面、綺麗な統一された音色と対称的に、違和感という形で聴こえることもあった。

コンクールというのは入賞、それも金賞をとらないと価値がないと思っている方が多いと思うが、私は全くそんなことはないと思っている。
コンクールに入賞していなくても、素晴らしい演奏は必ずある。
たった1回の演奏、たった5人程度の審査で決まるものに絶対的なものはない。
以前あるQ&Aのサイトで、某高校がNコンでは金賞は多いが、全日本合唱コンでは受賞歴が少ないので、その高校はそれほどではないのか、と質問した方に対して、怒りを込めて、その高校の過去の輝かしい受賞歴を挙げて、その高校がいかに素晴らしいかを示し、反論していたコメントを目にしたことがあったが、驚きとともに馬鹿げたことだと思った。

「いい演奏とは何か」。自分にとっては永遠のテーマであると思っている。
器楽でもピアノやギターはかなり、これを識別できるようになってきた。
合唱も聴き始めて5年程度であるが、かなり進んできたと思っている。
過去の音源を手に入れたり聴いたりすることは大変なことであるが、時間の許す限りすこしでも合唱曲をたくさん聴いて、何度も繰り返し聴きたくなるような隠れた名演を掘り出していきたと思っている。
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