緑陽ギター日記

趣味のクラシック・ギターやピアノ、合唱曲を中心に思いついたことを書いていきます。

ラフマニノフ作曲「前奏曲ト長調Op.35-2」を聴く

2016-08-27 22:09:04 | ピアノ
ラフマニノフのピアノ曲はあまり聴かないが、小品でいい曲を見つけた。
前奏曲ト長調Op.35-2(Rachmaninoff Prelude in G Op.32 No.5) 。
ラフマニノフの前奏曲集は、マリヤ・グリンベルクの録音で既に聴いていたが、その時はあまり記憶に残っていなかったようだ。
今日たまたまベンノ・モイセイヴィチ(Benno Moiseiwitsch 1890-1963)のCDを聴いていたら、この曲に出会った。

出だしは、静かな小川のせせらぎを思わせる。
春か秋の陽ざしの柔らかな気持ちいい日だ。
何もかも忘れて様々な美しい自然の活動に触れて、穏やかな気持ち浸っているようだ。
途中、長いトリルが現れるが、途中でやや哀調を帯びたトリルに変わり、寂しい何ともいえない旋律が奏でられる。
この対比が曲に変化を与えている。
しかしすぐに最初の主旋律に戻り、最後は静かな和音で終わる。

マリヤ・グリンベルクの演奏も聴いてみたが、やや音が強い。
この曲に関してはベンノ・モイセイヴィチの演奏の方が好きだ。
音が柔らかく、静かで繊細だ。

ベンノ・モイセイヴィチを初めて聴いたのは、5年くらい前に、チャイコフスキーのピアノ協奏曲の聴き比べをしていた時。
古い時代の演奏家だが、ピアノの音は今の時代に聴けないものがあり、魅力的だ。

この曲で流れるような穏やかな気持ちは、もう長いこと感じていなかった。
現実に感じたことがあるのは、子供の頃、思春期の頃であろう。
社会に出て、仕事に追われる日々、あるいは難しい人間関係に疲れているときに感じることは極めて難しい。
しかし音楽を聴くことで、遠い昔に感じたものを呼び覚ますことはできる。



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伊福部昭作曲「ピアノ組曲」を聴く

2016-08-20 22:56:55 | ピアノ
伊福部昭(1914~2006)の処女作は「日本狂詩曲」だと思っていたが、出版された曲では1933年に作曲された「ピアノ組曲」が事実上の処女作らしい。
しかし、楽譜は残っていないが、その前にギター曲「JIN」、「ノクチュルヌ」や独唱曲が作曲されていたとの話もある。

この「ピアノ組曲」を初めて聴いたのは、2000年3月11日に神奈川県立音楽堂で開催された、「アレクサンドル・チェレプニン」で、外国人ピアニスト、スヴャトスラフ・リプスの演奏であった。
このチェレプニンの記念コンサートでは、チェレプニンに指導を受けた邦人作曲家である、伊福部昭、松平頼則、小船幸次郎、早坂文雄などの曲も演奏され、演奏家も多数参加した盛大なものであった。



(下記は伊福部昭のギター曲の最高傑作、「箜篌歌」の一部。)



(下記は松平頼則の唯一のギター曲「ギタールのためのソナチネ」の一部。)



ギター曲は山下和仁が演奏した。
当日演奏されたギター曲は、小船幸次郎の「夜想曲」と「ギター・ソナチネ」。

(下記は「夜想曲」の譜面。)



この演奏会に 伊福部昭ご本人が客席におり、紹介のアナウンスが入り、氏があいさつする場面があったが、私のすぐ斜め後ろに居たので驚いたことが思い出される。

「ピアノ組曲」は以下の4曲で構成される。

Ⅰ 盆踊
Ⅱ 七夕
Ⅲ 演伶(ながし)
Ⅳ 佞武多(ねぶた)

「盆踊」は日本人であれば誰でも知っている、8月13~16日行われる日本古来から伝わる祭礼である。
この曲の一部が、後で作曲される「交響譚詩」につながっていることが分かる。
この印象的なフレーズは、祭りなどでよく聴く篠笛の音色を思わせる。
切れ目なく延々と太鼓のリズムに合わせて同じ旋律が繰り返される、あの篠笛の音だ。

盆踊りは、私の幼い頃から大学生まで記憶に残っている。
幼い頃はゆかたを着て、当然踊れないから草むらで遊んでいるだけ。
夕方から子供盆踊りの華やかなメロディーが延々と繰り返され、その後は大人たちが北海盆唄などを踊っていた。
踊りが終ったら、フルヤのキャラメルを貰った。
中学生、高校生の頃は盆踊りには行くことは無くなったが、この時期になると、連日、子供盆踊りと北海盆唄の旋律が飽きるほど聴こえてきたものだ。
そして大学生になり酒を飲むようになると、中学校時代の同級生と盆踊り会場に繰り出し、ビールを浴びるほど飲んだ。周囲の大人たちからバカなやつらだと白い眼で見られ、そして立てないほど酔っぱらって友達の家にやっかいになった思い出がある。
しかしここ十数年くらいはお盆に実家に帰省しても、盆踊りの歌は聴こえて来ることは無くなった。
時代も変わったし、人も変わった。
何か寂しいものを感じる。

「七夕」は、とても静かで神秘的な日本的情緒あふれる素晴らしい曲だ。
私はこの組曲で「七夕」が最も好きだ。
北海道の七夕は7月7日ではなく8月7日であった。
この日になると子供たちは提灯を持って近所の家を回り、「ろうそくだーせ、だーせよ、だーさないと~」と叫んで家の方から蝋燭やお菓子を貰ったものだ。
ある七夕の日、小学校6年生だったと記憶しているが、このローソクだーせを終わって夜遅く(と言っても9時くらいだったと思うが)家についたとたん、母からものすごい剣幕で「こんな遅くまで何やっていたの!」と怒られたことがあった。
一瞬何で怒られたか分からず茫然とした。

「演伶(ながし)」とは殆ど知られていない行事であるが、男女二人が一組になって、三味線や歌で演奏しながら街を流し歩くものと言われている。

最後の「佞武多(ねぶた)」は誰もが知っているとおり、8月初めに青森で行われる巨大な灯篭を引いて踊りながら町を行進する、華やかな祭りだ。
私は今から20年ほど前に、北八甲田山の登山の帰りにこの、ねぶた祭りを見学した。

(その時に写した写真があったので下に載せておきます)



巨大な灯篭よりも、「ラッセラー、ラッセラー」という掛け声が印象的で、若い方のエネルギーに満ちた踊りには圧倒された。
この4曲目の 「佞武多」を聴くと、私はあまりねぶた祭りのイメージが湧いてこない。
雪深い所で、夜に静かに荒れ狂う猛烈な吹雪のイメージがする。
石森延男著「コタンの口笛」で「マサ」が猛吹雪の中を、両親のお墓を目指してさまよう光景のようだ。
伊福部昭は北海道の釧路出身である。
しかしこの曲で何度も繰り返される旋律は美しい。
日本的情感を最も強く想起される旋律だ。哀しくもあり、激しい感情に満ちたものだ。

しかし伊福部昭がこの組曲を19歳の若さで作ったとは信じがたい。
この「ピアノ組曲」は1998年に「管弦楽のための日本組曲」という曲名で管弦楽用に編曲されたが、「ピアノ組曲」の方が圧倒的に聴き応えがある。

録音でお勧めは、萱原祐子(かやはらさちこ)氏の演奏。



同じ萱原祐子の録音がYoutubeでも聴ける。


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フォーレ作曲「舟歌第1番 イ短調 Op.26」を聴く

2016-08-15 00:35:32 | ピアノ
昨日の記事で、静かな夜に聴くにふさわしい音楽として、ガブリエル・フォーレ(Gabriel Faure 1845-1924)のエレジー(Op.24)や夜想曲を取り上げたが、今日、久しぶりにフォーレの舟歌第1番(イ短調Op.26)を聴いた。

この曲を初めてきいたのは30代初めの頃だったか。
その頃、フォーレのパバーヌの管弦楽版(合唱付)のCDを既に聴いていたが、ある日秋葉原の石丸電気で何気なく、何かいいピアノ曲でもないかな-と、棚を見回していたら偶然目に着いたのが、フォーレのピアノ曲集だった。
そのCDはフォーレが作曲した13の舟歌集を録音したものだった。
演奏者はフランスのピアニスト、ジャン・フィリップ・コラールだった。



ともかくフォーレのピアノ曲に初めて出会ったのがそんなきっかけだった。
それほど期待はしていなかったが、家に帰り最初の第1番だけ聴いた。
初めて聴いた感想は、今までに無いタイプのピアノ曲だな、という感じ。
強い衝撃的な感動では無かった。
しかし1回聴いて終わるだけではなかった。何故かこの第1番だけは、その後も何度か聴き続けた。

それから数年後、同じジャン・フィリップ・コラールが演奏する、13の夜想曲集のCDを買った。
そして夜想曲第1番を聴いた。その瞬間に物凄い衝撃を感じた。
(かなり大袈裟な表現だが本当です)
この夜想曲集をしばらく何度も聴き続けた。
そしてジャン・フィリップ・コラールに飽き足らず次に、同じフランスのピアニストである、ジャン・ドワイアン(Jean Doyen 1907-1982)のフォーレ・ピアノ曲全集のCDを手に入れ、その中で、先の舟歌第1番を改めて ドワイアンの演奏で聴いた。



そしてコラールの弾く夜想曲第1番を聴いた時と同じくらい驚いた。
ピアノの音の魅力(楽器はベーゼンドルファー)といい、次元を超えた感情の高まりといい、フランスの上品な優雅さといい、フォーレの求める全てものを包含し表現しきった、稀に見る素晴らしい演奏であった。

コラールの夜想曲第1番とドワイアンの舟歌第1番の演奏で、私はピアノ音楽に目覚め、その後ピアノ音楽にのめり込むことになった。

深夜、静かな夜のしじまの中で、この2人の夜想曲第1番と舟歌第1番の演奏を何度も繰り返し聴いた。

その後色々な演奏者の舟歌第1番を聴いたが、 ドワイアンを超える演奏に出会うことはなかった。
おそらく誰もドワイアンを超えることは出来ないであろう。

明確な歯切れの良い芯のあるタッチ、誇張のない、堅実でオーソドックスな演奏。
下記の旋律と同時に弾かれる、流れるようなアルペジオの流麗さ、そして何よりも、イ長調に転調してからの、明るいさわやかな晴れた穏やか海の上で感じるような陽気な気持ち。



ここからの演奏は素晴らしい。
とくに次の、次第にクレッシェンドして高まっていく部分は、物凄く脳が覚醒してくる。



これ程聴く人を感動させる演奏は極めて少ない。
だから何度でも聴いてしまう。

フォーレの舟歌ではこの第1番と、第12番、第13番が好きだ。
第13番も素晴らしい内容を持つ。
フォーレの舟歌は他の作者の誰よりも舟歌らしいのだ。

ある音楽評論家は、ジャン・ドワイアンの演奏を以下のように評価している。
「小暗い、”森の孤独”のよろこびに耽りすぎているきらいがないでもない」、「ドワイアンの演奏が好きになるかどうかは、小さい生き物への愛と、ファーブルのような忍耐強い観察力があるかどうかが決めてとなる。」、「また森の中で孤独に湧き出る泉のせせらぎの音にいつまでも聴き惚れられるかどうかにも。」、「そういった陰に隠れ、眼につきにくいものへの共感、それがドワイアンのポエジーの源となっている。だから彼の音楽は森の孤独を愛するものにいちばんよく理解されるだろう。」

ドワイアンは決して自分を売り込むようなことはしない。
とても地味な演奏家だ。
大勢の人に聴いてもらおうとするより、静かな夜に、自分のためだけに演奏するようなピアニストなのだ。
名誉とか野心とは程遠く距離を置いた人だ。

このドワイアンの演奏を聴くと、コンクールなどで賞を得ようと野心ぎらぎらにあれこれ頭を使って努力することの虚しさを感じる。


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フォーレ作曲「エレジー Op.24」を聴く

2016-08-14 00:06:23 | チェロ
静かな夜に聴くのにふさわしい曲だ。
ガブリエル・フォーレ作曲「エレジー Op.24」。
この曲は、チェロ独奏と管弦楽のための楽曲として1880年に作曲されたが、今日聴いたのはチェロとピアノのための二重奏版である。
エレジーとは「悲歌」とも言われる。

初めて聴いたのは、フォーレのピアノ曲の鑑賞に熱中していた頃の30代半ばであった。
録音は、チェロ:ポール・トルトゥリエ、ピアノ:エリック・ハイドシェック。
後で、チェロ:ロベール・ザール、ピアノ:ジェルメーヌ・ティッサン・ヴァランタンの演奏も聴いた。
私は後者の演奏の方が好きだ。
作品24であるから、フォーレの作品としては初期の部類に入る。

ハ短調のピアノの和音が8回繰り返された前奏の後の冒頭のフレーズは、冷たい晩秋か冬に降る冷たい雨を思わせる。そして気持ちは悲愴感に満ちている。
戦争で壊滅的な被害を受け、何もかも失った時に感じる時の感情だろうか。
失恋の痛手のような気持ちがしないでもないが、もっと強い、親しい人を失った悲しみのような気もする。
そしてどこか過去を「回想」しているように聞こえる。
しかしその後の展開で、フォーレらしい独特の和声進行により、気持ちの揺れやうつろいが感じられる。
何か過去のシーンが意識に浮かび上がってきているのか。

途中、突然重苦しい気持ちか一転して明るい晴れやかな曲想に転じる。
この変化は素晴らしい。
ピアノの静かなアルペジオが流れて、穏やかなとてもやさしい旋律が流れる。
この部分のチェロの音は小さく繊細だ。ピアノが旋律を受け持つ。
夜想曲の2番の旋律を彷彿させる部分が現れる。
新緑のまぶしい中を幸せに浸りながら歩いているようだ。
これはこの曲の主人公の、最も幸せだった時のひとつの回想のように思える。

しかし次第に曲はそのはかない幸福な思い出に浸る気持ちから現実に引き戻される。
そして激しい気持ちの昂揚を経て、再び悲愴感漂う主題が再現される。

途中やや明るみが差す部分が現れるが長続きしない。
最後は、静かなハ短調の分散和音が3回繰り返されて終わる。

この曲はフォーレの作品の中でも比較的分かりやすい方だ。
静かな夜に、思いっきり悲壮感や絶望感など、暗い気持ちに浸るとしたら、やはり夜想曲7~13番(8番除く)がいい。


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佐藤豊彦演奏 バッハ ヴァイオリンソナタ第1番(リュート編曲版)を聴く

2016-08-12 22:22:34 | リュート
ここ2、3週間ほど、バッハの無伴奏ヴァイオリンソナタ、パルティータの全曲録音の聴き比べをしていた。
もとよりヴァイオリンはあまり自分の好みに合わないので、今まで本格的に聴き比べをするまでに至らなかったが、どういうわけか、いつの間にかバッハのヴァイオリン曲を聴き続けていた。

聴いた演奏家は、ナタン・ミロノヴィチ・ミルシテイン、ヨーゼフ・シゲティ、ギドン・クレーメル、ヘンリク・シェリング、ヤッシャ・ハイフェッツ、ジョルジュ・エネスコ、ヨーゼフ・スーク。
それぞれに個性があり、同じ曲でも演奏表現はかなり異なっていたのが印象的だった。
ヴァイオリンはここで意見を述べるほど聴き込んでいないので、どれがお勧めなど言えないが、私の好みとしては、曲にもよるが全体的にはヨーゼフ・スーク、 ヘンリク・シェリングが良かった。
もう少し聴きこんでから、感想などを書きたいと思う。

このバッハの無伴奏ヴァイオリン曲を聴いてから、30年以上前の学生時代によく聴いた録音を思い出した。
大学最終学年の時、就職が内定し、卒業論文に取り掛かっていたころ、夜寝る前によく聴いた録音だ。
兄がFMラジオからデープに録音した、佐藤豊彦演奏 バッハ作曲、ヴァイオリンソナタ第1番(リュート編曲版)であった。
そしてこの曲のあとに、決まってセルシェルの弾く、バッハのリュート組曲第2番を聴くのが定番だった。
社会人になり、20年以上経過してから、この時に聴いた録音でもう一度聴きたくなってCDを探したのは、 佐藤豊彦の演奏の方であった。

昨日、今日と久しぶりに録音(ヴァイオリンソナタ第1番、佐藤氏自身によるリュート編曲版)を聴いたが、先に挙げたヴァイオリンの巨匠達の演奏に比べ、誇張の一切ない、一見地味とも思える自然な演奏だった。
もちろん音域の広い撥弦楽器であるリュートという楽器の性質のせいもあるかもしれないが、それでも佐藤豊彦の演奏は、学生時代に何度も繰り返し聴いたように魅力を感じるものであった。

この佐藤豊彦の弾くリュート編曲版の演奏を聴いた直後に、 ヘンリク・シェリングの格調高い演奏を聴くと、シェリングの演奏が何故かうるさく感じてしまう。
例えはよくないが、日本酒に例えると、シェリングの演奏は華やかで芳醇な大吟醸酒、佐藤豊彦の演奏は何年も熟成を重ねた地味であはるが、味わい深い古酒という感じ。

やはり何度も聴きたくなったり、10年、20年経ってまた聴きたいと思う演奏は、何か秘めているものがある。
具体的にその理由ははっきり分からないが、何故か惹き付けられて記憶に長く残り続ける演奏というものがある。

佐藤豊彦はギター愛好家の多くが知っているように、世界的なリュート奏者であり、オランダを拠点に演奏活動や教授活動をしていた。
今回聴いた ヴァイオリンソナタ第1番ト短調は佐藤豊彦自身の編曲であるが、第2曲の「フーガ」はリュート編曲版があり、多くのギタリストのレパートリーにもなっている。
今回、所有のCDでホプキンソン・スミスの演奏するリュート編曲版のフーガ(BWV1000)を聴いてみたが、やはり佐藤豊彦の弾く原曲ヴァイオリンからの編曲版の演奏の方が数段優れていると感じた。

ちなみにこのリュート編曲版のフーガは、バッハ自身が編曲したものか、その弟子が自分が演奏するためにリュート用に編曲したものなのか、定かではないようだ。
しかしこのヴァイオリンの名曲を音域の広い撥弦楽器に編曲することで、原曲とは異なる、また別次元の音楽を楽しむことができる。
それを最も感じられるのは、とても低く深い低音と、弦数が多いことからくる倍音の独特の優雅な響きが聴こえてくることである。
またリュートという、おとなしく繊細な楽器であるが故の、誇張のない古風な抑制された音もまた魅力だ。

一昔前、バッハのリュート組曲のギター編曲版を演奏会や録音に取り上げることが流行ったが、私はこのリュート曲をギターへ編曲して演奏するのを聴くのはあまり好きではない。
11弦ギターもしかり。
先に述べたリュート独特の魅力が全くというほど、ギターでは演奏不可能だからだ。

イエペスがドイツ・グラモフォンにバッハのリュート曲のギター編曲版を録音したのと合わせて、アルヒーフにリュートでの演奏の全曲録音を残したのは、そのためではないかと思う。

ブリームもルネッサンス時代のリュート曲を、リュートそのもので膨大な録音を残したが、ルネッサンスやバロック期のオリジナル曲はやはりその時代の楽器で演奏したものを聴きたいし、その方が魅力を感じる。


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