King Diary

秩父で今日も季節を感じながら珈琲豆を焼いている

珈琲の贅沢

2020年05月28日 18時59分09秒 | 珈琲

私が利用するスーパーでは山積みで売られていたので気が付きませんでしたが、

ネットではハッシュタグ付きでパスタが売り切れていたというのがあり、納豆、

ホットケーキミックス、小麦粉に続きパスタも売り切れ商品となっていたのです。

 

かつてはところてんも健康番組で取り上げられてなくなったことがありましたが、

最近は人気がないのか肩身の狭い置かれ方をされています。

 

パスタやカレーという外食で定番のメニューをSNSで見ているとやたら食べたくなったり

銀座にまた新しい店ができたとかとても気になる情報ばかりです。そんな中、そういう料理を

載せるSNSにひときわ興味がわいたのはバシルがびっしりと茂っている様を乗せた人がいて

これでジェノベーゼを作るというだけでよだれが出るかのようでした。

 

我が家の庭もいろいろなハーブを増やしているところでこれからバシルの区画も作ろうかと

思いました。

 

外食も自分で作るのもよいですが、どうしても行きたいとか行きたくても店がなくなったあの味とか

予約が取れない店とかお金があっても果たせない味というのはあります。

一方珈琲というのは裏切りなくいつも必ず癒しと豊かな時間を与えてくれます。

それが毎日味わえるという贅沢です。

 

極上の珈琲とか希少な豆とか人は良く高くて手に入らないものをあげつらいますが、そんな

ものでも珈琲に限っては高級料亭での食事や予約の取れないレストランでの食事代からすれば

実に安いものです。

 

コーヒーハンターのシャンパンボトルに入った豆とかコピルアクとか高くて希少な豆を

人に贈ったり、コンテストの入賞豆とか有名喫茶店の豆を買って贈る人がいますが、

果たしてそれ等が払った対価ほどに相手に感動を与えるかというのはまた別の話です。

 

ただ、ある程度の納得とか高いものを送る必要な人というのはいつもいてたとえば私の

家へ手土産を持っていくとなり、いつも私が虎屋のようかんの話をしているからと虎屋の

ようかんを持ってくる営業の人は良くいます。お使い物にこれを上げたら喜ばれるとか

あの人のお気に入りだからと調査して持っていくのも相手に感動を与えたいというこころ

積もりでしょう。

 

その一端が高いものであり、並ばないと買えないものです。ですが、それがおいしいかと

いうことと感動を与えられるかというのはまた別な話です。

珈琲の場合も酸味が苦手でという人が自分はコーヒーが大好きだからと当店にも訪れますが、

贅沢な珈琲とかおいしい珈琲の定義は持っていないことがほとんどで何が贅沢な気分にさせてくれるかも

定かではありません。

 

しかし、私は毎日それを味わい、毎日ブラジルサントスNO2を飲んでさえ非常に贅沢な気分に

浸れます。つまりはお金でそれら贅沢な時間が贅沢にお金を使うことで得られると考えるのが

そもそも貧相な考え方でそんな事しか浮かばないでコピルアクを買ったりお店の人に勧められる

というのは実に不幸なことに思います。

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夜のテレビは見なくなり、7時のニュースも味わいもなく

2020年05月28日 13時27分01秒 | 日々のこと

もう自分の家として何も違和感のない状態ですが、木でできた我が家は

時折みしとかびきっとか音がします。かつての熊木の古い家でも同様に夜などに

突然音がすることはあり、通りを通るバイクや車の音とか町の騒音も今より

多かったと思います。しかし、この時折起きる家の音は普段何も音がしない時間の多い今の

方がびっくりするくらい大きく感じたりします。

 

毎日掃除していても埃やらチリは積り、何からそれらが増殖しているのか不思議で

なりませんが、世の中はもっと小さなウィルスの脅威にされられて先の見えない状況は

一向に出口さえ見えないようです。それに発表された補正予算などをみると半分以上を

国債で賄うなどというものに一体国という組織はどれだけ見えない搾取を続けているのか

と思わせます。借金という将来への先送りなどという安易なものでなく、これは確実な

国の支配の強化に他ならないのに街の声のインタビューでは国からの援助や補助がないと

成り立たないという声を流しています。これは明らかに奴隷のように尽くしていきますから

どうか生きさせてくださいと言っているに等しく自分の未来まで差し出していることに

気付いていないのです。

 

昨日夜はいつものランニングは阿保町や金室町を通りましたが、田んぼには多くのカエルの声が

満ちていました。冬あれだけ凍てつき凍り付いた土くれになぜこれだけの生命が潜んでいられる

のか不思議でなりません。虫やカエルやミミズなどは誰の面倒もエサやりもなくても確実に毎年

相当の数が生まれいなくならないのです。田んぼなどは毎年あらゆる農薬の散布があり、昔の

ようにヒルがいたりドジョウや小鮒が用水路にいることもありませんが、植えてもいない雑草やら

水草やらコケやらいくらでも生えてくるのです。それだけでなくカビやら菌の類はもっとしつこく

至る所にいて現代人は冷蔵庫を使うようになりそれらの 菌の存在とか価値とかへの関心が薄らいだ

ところに今回のウィルス騒ぎにおののくことになったわけです。

 

昔は各家庭に冷蔵庫などなく、どう食品を保存するかという知恵は様々な形になって取り入れられ

ました。各家庭にぬか床があり、菌の力で保存する方法を考え出しました。つまりは仲間になる菌と

毒である菌がある事を古くから知っていたのであり、醤油や味噌といった菌を使った食材や酒や酢など

多くの食文化につながっています。一方西欧ではチーズやバターなどの発酵食品くらいしかなく

日本人の食文化の深さに思い至ります。ただ、鰹節など醤油とみんな菌の力を借りているものも

みんなスーパーで買うものとなり味噌などは最初から出汁が入った状態で売られており、現代人には

菌の恩恵の意識がないのです。

 

今世間を席巻しているウィルスももともとは人類が家畜を飼うようになり自然界由来の危険なものが

変異しやすい環境を作ったともいえ、農業や畜産など今後人とのかかわりをよく考えて未来と人類に

将来とを展望していかなくてはならないでしょう。

 

夜のテレビなど今はロケができなくなり昔の番組を編集して流してそれにリモート参加のタレントが

コメントするというようなものばかりでとても見るべきものがなくなり、食事前の7時のニュースが

楽しみだったのも聞くものはいつもの同じような味気ない世界になってしまいました。

 

お店も閉まってしまい自宅でする料理にもよりくふうをする家庭が増えそれにつれスーパーの品ぞろえに

日々変化して納豆がなくなったり、小麦粉がなくなったりする一方パスタなどはわざわざお店に行かなくても

自宅でアラビアータとかジェノベーゼとかいくらでもできます。そこらのイタ飯屋よりうまいものが簡単に

作れることが解るともはやいい加減な店に行く気にもなりません。

 

なにしろ生パスタすらスーパーに並んでいるのです。自分で麺を打たなくてもいいし、ましてもう乾麺の

パスタなど使う必要もありません。

 

おかしなものでそうすると昔喫茶店で食べたナポリタンなどが妙に懐かしくなり作ってみたり、そして

作ると今風のアラビアータとか最近覚えた味にやはり負けていることを知るのみで昔の思い出は思い出として

壊してはいけないとまた改めて思うこととなるのでした。

 

 

 

 

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