らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

知らぬ顔の半兵衛

2014-07-12 | 雑学

「知らぬ顔の半兵衛」という言葉があります。
意味は、真相を見抜きながら、あえて知らぬ顔を装い、決定的なところで相手を出し抜く様子を例えた故事です。
今日はこの由来を調べました。

「知らぬ顔の半兵衛」の半兵衛とは、竹中半兵衛がモデルと言われています。
竹中半兵衛は戦国時代、美濃国主・斎藤義龍に出仕し、永禄4年(1561年)、義龍が死去した後は、後を継いだ息子の龍興に仕えた軍略家です。
その半兵衛が”知らぬ顔”をしたと言われている故事については次のように伝えられています。

戦国時代、美濃は織田信長に何度も攻め込まれるという不安な状況が続いていましたが、居城の稲葉山城が堅城だったことと軍師・竹中半兵衛の巧みな戦術で信長の侵攻を退けていました。

信長はまともなやり方では、半兵衛にしてやられると考え、配下の前田利家を竹中の娘・千里に近づけ、千里を通して敵方の情報を入手し、戦いを有利に展開させようとしました。

ところが、そんな信長の作戦など、半兵衛は百も承知しており、”知らぬ顔”で信長の手にのったふりをして、利家を泳がせ、逆に信長側の情報を入手し、結果として、斉藤側を勝利に導いたのでした。
ここから「知らぬ顔の半兵衛」という故事から生まれたそうです。

竹中半兵衛が隠棲した後の永禄10年(1567年)、信長の侵攻により美濃の斎藤氏が滅亡すると、信長は浪人していた半兵衛を家臣にしたいと考え、羽柴秀吉(後の豊臣)に勧誘を命じました。
秀吉は「三顧の礼」を持って半兵衛を誘い、半兵衛はこれを受け入れて秀吉の家臣となり軍師となりました。

秀吉の軍師として仕えた頃の半兵衛は、主君の秀吉が命令した撤退に耳を貸さず、秀吉の許しもなく独断で自身の手勢1000を戦陣に残したこともありました。
この時、敵の謀略を知っていた半兵衛はこの手勢の働きで逆に秀吉を救ったといいます。
これらの出来事も「知らぬ顔の半兵衛」という故事の一つと言われています。

NHKの大河ドラマ「軍師官兵衛」では谷原章介さんが竹中半兵衛の役を演じて、「知らぬ顔の半兵衛」の演技が随所に見られましたが、読者のみなさんはお気づきだったでしょうか?

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2 コメント

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半兵衛―権兵衛 (iina)
2014-07-12 08:33:46
「知らぬ顔の半兵衛」のモデルは、竹中半兵衛でしたか。
半兵衛を長生きさせたかったですね。
名前から思い出した「権兵衛が種まきゃカラスがほじくる」とは、ちがった趣があります。

iinaも初回の「ゴジラ」を録りました。こどものころのゴジラは怖かったです。

知らん顔の半兵衛 (俺的菜園生活(畑大好き爺さん))
2014-07-12 22:23:29
語呂がいい、言いかたですね。竹中半兵衛の優秀さは、桁外れですね。今的な言いかたをすれば、ポーカーフェースといった所でしょうか。中国にも孔明と言う凄い方がいますが、同じ土俵で戦わせてみたかったですね!

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