らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

ムラサキゴテン

2019-08-31 | 

下の画像の花を見たことはありませんか?
多分、ご存知の花だと思います。
私の畑では毎年可憐な花を咲かせるので、おなじみの花なのですが、名前が分かりませんでした。
そこで、先日ネットで名前を調べたところ、「ムラサキゴテン」であることが判明しました。
「ムラサキゴテン」の名前の由来は 葉も茎もオシベの葯を除いて全部紫であり、 そんな紫ずくめのところから 「ムラサキゴテン」と呼ばれるようになったといいます。

今日は「紫御殿」の花をご紹介します。



メキシコ原産のムラサキゴテンは、メキシコ東部の沿岸地域に分布するツユクサ科ムラサキツユクサ属の常緑性多年草で、日本には昭和30年(1955年)に渡来しています。
この花は現在、ムラサキツユクサ属に分類されていますが、以前はセトクレアセア属に分類されていたため「セトクレアセア」の名前で呼ばれることもあります。

ムラサキゴテンは、地上部全体が濃紫に染まっており、 葉は長楕円形で先端が尖り、やや多肉質で、茎に互生します。
草丈は40~60㎝程度に成長し、花期は7月~10月で、分枝した茎の頂部の葉の付け根に、花径2㎝程度のピンク色の花を咲かせます。
花は3枚の花弁を持ち、中央には黄色い葯が目立つ雄しべが6本あります。
花は昼には萎んでしまう一日花ですが、最盛期の夏場には毎日数輪の花を咲かせます。

驚きました。
道端に生えているこの野草が「紫御殿」という立派な名前を持っていました。
大事に育てないといけませんね。

コメント (1)
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人間到る処青山あり

2019-08-29 | 雑学

下の句をお聞きになったことがあると思います。

「人間到る処青山有り」
「じんかん、いたるところ せいざんあり」と読みます。

この言葉は江戸末期の僧、釈 月性(しゃく げっしょう)が詠んだ漢詩「将東遊題壁」の一節です。
漢詩ということから中国で誕生したと思われるかも知れませんが、れっきとした日本生まれの漢詩なのです。
「人間」の読み方は「じんかん」で、「人の世」を意味しています。
「にんげん」と読まないように注意が必要ですが、しかし、現在では「人間(にんげん)」という意味でも解釈されているようです。





「将東遊題壁」釈 月性
「将(まさ)に東遊(とうゆう)せんとして壁(へき)に題(だい)す」 (釈 月性 しゃく げっしょう)

男児立志出郷関(男児(だんじ)志を立てて郷関(きょうかん)を出(い)ず)
学若無成不復還(学(がく)若(も)し成る無(な)くんば復(また)還(かえ)らず)
埋骨何期墳墓地(骨を埋(うず)むる何(なん)ぞ期(き)せん墳墓(ふんぼ)の地)
人間到処有青山(人間(じんかん)到る処(ところ)青山(せいざん)有り)

意訳は、
男たるもの志を立てて故郷を出たからには、
学問を成就できなかったとしても、二度とは帰って来ない
どうして故郷の地に骨を埋めることを望もうか
世の中、至る所に死に場所などあるものだ

大体の意味は、「人は、世界中どこで死んでも、墓地とするところはある。志を成し遂げるために故郷を出るならば、どこへ行ったとしても大いに活躍すべきである
といった意味になります。

この言葉はNHKの朝の連ドラ「マッサン」で、週テーマとなったこともあるのでご存知の方も多いのではないでしょうか?
今日は皆様よくご存じの名言の中から一節をご紹介しました。

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ちんちんかいかい

2019-08-27 | 雑学

昔、ラジオの番組だったでしょうか、冒頭の語りが「言葉の訛(なま)りはお国の手形」で始まる、各地方の方言を取り入れた番組があったような気がします。
現在でも方言を聞くと、その人がどの地方の出身の人か想像がつき、何となく親しみが感じられます。

先日、富山県出身のアメリカプロバスケット協会(NBA)所属の八村選手が、富山の方言で好きな言葉を語った記事が読売新聞に載っていたのでご紹介したいと思います。

それによると、彼が好きな富山県地方の方言は「ちんちんかいかい」という少し恥ずかしさを感じるような言葉でした。




そのまま聞くと、公の場で口にするような言葉ではないと批判もしたくなるような表現ですが、富山県ではこの言葉は「正座する」ことを意味する方言なのだそうで、「ちんちんかく」とも言い、動かないでじっとしている様子も表す言葉だということです。
「ちんちん」は「きちんと」に当たる古語の「ちんと」で、今では関西を中心に方言として残っているようです。

この「ちんちんかく」は子供に向けて使うことが多く、「はいはい(這う)、ぽいぽい(捨てる)」などのように、姿勢を正してじっと座っている状態を言い、「ちんちん」と繰り返すことで「胡坐(あぐら)をかく」に対する言い方として生まれたのだそうです。

しかし、いくら方言とはいえ、転校生やサラリーマンが富山県に転勤した時に先生や地元の人から「ちんちんかいかい(正座しなさい)」と言われたら固まってしまうかもしれませんね。

かく言う小生の故郷、岡山県にも怖い方言があります。
それは「はようしねえ」です。
決して「早く死ね」という意味ではありません。
「早くしなさい」という命令形の表現なのです。
この言葉も初めて聞くとびっくりすることでしょうね。

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サツマイモの花

2019-08-25 | 

サツマイモの花を見たことがありますか?
本州では滅多に見られない珍しい花だそうです。
その花が、菜園仲間のT氏の畝に咲いていたのでご紹介します。

サツマイモ(薩摩芋)はヒルガオ科サツマイモ属の植物で、その名称は、琉球王国(現・沖縄県)を経て薩摩国(現・鹿児島県)に伝わったことに由来します。
別名を甘藷(かんしょ)と言います。

・これがサツマイモの花です。


サツマイモは、短日性(日長時間が短くなること)であるため本州などの温帯地帯では、開花しにくく、品種や栽培条件によって稀に開花する程度だそうです。 

サツマイモの開花は、昼間の長さが短くなって11時間以下になること、更に、日照時間、気温や降雨、施肥量や定植時期などの諸条件が揃って初めて開花することから本州での開花は非常に珍しいといわれています。

・朝顔によく似た小さな花です。


 私の畝では10年ほど前に一度咲いたことがありますが、その時以来のサツマイモの花とのご対面でした。
「サツマイモの花」は、この画像のように淡いピンク色の花弁で、朝顔によく似た可憐な花です。

なお、サツマイモは自家不和合性(自らの花粉で結実しない)が強いため、開花しても種子はできにくいということです。

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日本三景

2019-08-23 | 雑学

子供たちの夏休みもあと1週間ほどになりました。
夏休みの期間中、子供たちは楽しい思い出をいっぱい作り、いろいろな事を経験して2学期を迎えることでしょう。
私の孫も、両親とともに北陸地方から山陰方面の旅行を楽しんだようです。
旅行では、福井県の永平寺や恐竜博物館を見学したのを始め、丹後の天橋立で「股のぞき」の飛龍観を体験し、鳥取砂丘でラクダに乗り、更に境港市で水木しげるロードの妖怪像を楽しんだりと、大いに満足したようです。

ところで、「天橋立」と言えば、「松島」、「宮島」と共に日本三景として知られていますが、この三か所が何故「日本三景」となったのでしょうか?
今日はその由来について調べてみました。

・天橋立の股のぞきで「飛龍観」を体験したようです。龍が天に昇っているように見えますか?

・股ぞきで龍が天に昇っているように見える「飛龍観」です。股のぞきでこのように見えるでしょうか?



日本三景とは、江戸初期から言われている日本を代表する三つの景勝地のことで、宮城県の「松島」、京都府の「天橋立」、そして広島県の「宮島」の事を言います。
いずれも海辺の景勝地ですが、ただ単に海辺の景勝地だけなら、松島より我が町の岬の方が美しいとか、あるいは風情があると言う人もいるかも知れません。
では、何故、この三か所が日本三景に指定されたのでしょうか?

日本三景を選出したのは江戸時代の儒学者、林羅山の三男・林春斎です。
彼が寛永20年(1643年)、第3代将軍徳川家光の時代に記した「日本国事跡考」で「丹後天橋立、陸奥松島、安芸宮島」を「日本三処奇観」と絶賛したのが始まりと言われています。

『日本国事跡考』は林春斎が日本全国を行脚して綴った書で、この3か所を日本三景とした明確な理由は定かではありません。
ただ、共通しているのは海に面していること、美しい松林があって、近くに由緒正しい神社仏閣があると言うことです。
数ある名所を見てきた春斎は、その肥えた目でこれらの要素で共通した3か所を敢えて選出したのだろう、と言われています。

いずれにしても、この三景は370年以上経った今もなお風情を保った景勝地であり、春斎の名所を見分ける目の確かさには驚かされます。

 

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島国根性

2019-08-21 | 雑学

最近は殆ど聞くことがなくなりましたが、昔は、「島国根性」と言う言葉をよく耳にしました。
「島国根性」とは、島国に住む人の、その地域、或いは国家特有の住民性を指して使われる言葉で、一般的には、排他的であり、多様性・異文化を許容せず、自国の民族、資源、思想などに依存している様子を指し、端的には、こせこせして視野が狭い様子を指して使われる言葉です。
島国気質、島国的とも言い、特に政治・経済がグローバル化する現代においてはネガティブに受け取られる事が多い表現です。

このネガティブな「島国根性」という表現は、嘗て、日本人が日本人に対して言った言葉なのですが、日本人はそんなに排他的で、多様性・異文化を許容しない国だったのでしょうか?
そこで今日はこの島国根性の言葉の由来について調べてみました。

調べてみると、この言葉が使われ始めたのは江戸時代からで、発端となったのは江戸幕府が300年に亘って行った鎖国政策や幕藩体制でした。
この幕府の政策、方針が閉鎖的な日本の社会をつくりあげたのだそうです。
元々、日本人は定着性の強い農耕民族であったので、鎖国政策は都合がよかったようです。
この政策は協力しあって外敵から身を守るという性質から、閉鎖的な小さな共同体の中で肩を寄せ合って暮らしてきたことが島国根性に拍車をかけたようです。



「島国根性」という表現には、前述したように何となく良くない語感があります。
広辞苑でも、「他国との交渉が少ないため視野がせまく、閉鎖的でこせこせした性質」と説明しています。

しかし、この閉鎖的なこせこせした性質が日本人の代名詞である「勤勉さ、誠実さ」、更には協調性を産みだし、戦後経済の高度発展に結びついたのではないでしょうか?

世界には48の島国がありますが、その中には近隣の大陸国に対して、はるかに安定した高度な生活水準を実現している例が少なくありません。
その筆頭が日本です。
戦後の経済発展は勤勉さ、誠実さ、そして国や会社への忠誠心、協調性などにより実現したものであり、日本人の島国根性が世界一豊かで 平和な社会を築き上げたとのではないかと思います。

嘗ては、ネガティブな言葉だった「島国根性」という表現ですが、現在でも必要であれば堂々と使ってみたい言葉です。

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白羽の矢が立つ

2019-08-19 | 雑学

「白羽の矢が立つ」という慣用句があります。
その意味は、現代においては、「特別に選び出される」「代表候補に選ばれる」というような良い意味でも使用されていることから、本来の使い方ではなく、「白羽の矢が当たる」と誤用する人が少なからずいるようです。

平成29年度の文化庁の「国語に関する世論調査」で、下記の質問をしたところ、次のようなような結果がでています。

質問・・・「白羽の矢が立つ」、「白羽の矢が当たる」どちらの慣用句を使いますか?
a.「白羽の矢が立つ」・・・・・・・・・・・・75.5%(本来の言い方)
b.「白羽の矢が当たる」・・・・・・・・・・・15.1%
c.(a)と(b)の両方とも使う・・・・・・・・0.7%
d.(a)と(b)のどちらも使わない・・・・6.5%
e.分からない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2.2%

上記の結果を年齢別に見ると、
本来の言い方とされる「(a)白羽の 矢が立つ」は、全ての年代で「(b)白羽の矢が当たる」 の割合を上回っています。
特に40 代では他の年代より高く 80.4%となっています。
一方、「(b)白羽の矢が当たる」は、 60 代で他の年代より高く19.6%となっています。
アンケートからは、高齢者の方で誤用されている人が多いことに驚きます。



現在では、「白羽の矢が立つ」という慣用句は「特別に選び出される」というよい意味で使用されていますが、この言葉は、元来、「犠牲として選ばれる」というイメージを持った言葉なのです。

「言葉の由来」
「白羽の矢」の言葉は、ヤマタノオロチの伝説などにおける「人身御供(ひとみごくう)」が語源であると言われています。
神様の怒りを沈めるために、川や池に人を沈めて捧げる人身御供の儀式があって、その生贄の印として白い羽の矢を家の屋根に立てたことが由来となっています。

更に、日本には古くから、神はその意向を矢で表すと言う信仰もありました。
「日本書紀」には、神が矢に化し女の元に行って結ばれるという記事があります。
このような信仰を前提として中世以降の人身御供(ひとみごくう=いけにえとして人間を神に供えること)伝説が生まれてきました。

人柱(ひとばしら=建築が上手くいかない時、神々への犠牲としてその中に生き埋めする人間)が必要になった場合など、領主や神官はこれはと言う家の屋根の軒にひそかに白い矢を立て、神の思し召しと称して家人を連行しました。これが人身御供と呼ばれるものです。
被害者は若くて美しい娘とされることが多く、その人が犠牲になることで村が助かると信じられていたのです。
矢の色が白いのは日本人が昔から純白を尊んで神聖な色としてきたためです。

このように、この慣用句は多くの中から特に選び出して犠牲とすると言うのが原義ですが、現在では語源が全く忘れられて良い意味で使用される場合が多いようです。

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盆踊りの起源

2019-08-17 | 季節

今年のお盆は終盤になって台風10号に見舞われ、山陽新幹線や西日本のJR在来線が全面運休するなど、交通機関が完全にマヒして大混乱し、観光客や帰省客が大打撃を受けたお盆でしたが、それも昨日で終わりました。

台風が来なければ日本全国で賑やかに踊られた盆踊りですが、そもそも、盆踊りは一体何のために踊り、その起源はいつごろなのでしょうか?
今日は盆踊りの起源について調べることにしました。

盆踊りは平安時代(794年~1185年)中期に活躍していた僧侶・空也上人が起源と言われています。
空也は瓢箪を手に持って叩きながら歌うように念仏を唱えることで、人々に念仏を覚えてもらおうと工夫しました。
その際、念仏に合わせて踊るようになり、これが「念仏踊り」として広く知られるようになったそうです。
やがて念仏踊りは先祖を供養する盂蘭盆会(お盆)の行事と結びつき、精霊を迎え、死者を供養するための行事として定着していき、盆踊りになったと言われています。




鎌倉時代(1185年~1333年)になると、一遍上人が全国に広め、地域ごとの盆踊りが誕生しました。
一遍や同行の尼僧らは念仏で救済される喜びに衣服もはだけ激しく踊り狂い、法悦(ほうえつ=この上ない喜び)の境地へと庶民を巻き込んで大ブームを引き起こしたようです。
それ以降は、宗教性よりも芸能に重点が置かれる念仏踊りが生み出され、人々はさらに華やかな衣装や、振り付け、道具、音楽などを競うようになりました。

江戸時代(1603年~1868年)になると盆踊りは各地域の人々の交流の場や男女の出会いの場となりました。
男女の出会いの場となったことで踊っている内に性的に問題が起こるケースが増えました。
このようなことから明治時代(1868年~1912年)には「風紀を乱す」として警察の取り締まりが行われ、盆踊りは一時衰退しましたが、大正時代(1912年~1926年)末期に農村の娯楽として再び日本各地で盛んにおこなわれるようになり、現在に至っていると言うことです。

驚きましたね。
盆踊りは平安時代に念仏を広めるためにはじめた「念仏踊り」が起源でした。
それが時代とともに変遷し、現在では地域に古くから伝わる歌や、歌謡曲、或いはアニメソングで踊る事もあるようです。
このような経緯を知ると、ご先祖様もさぞ驚くことでしょうね。

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木魚の由来

2019-08-15 | 情報

お盆には、菩提寺のご住職をお迎えして棚経をあげてもらいますが、その折、どのご住職も木魚を叩いて調子を取っています。
この木魚は法具ですが、単なる楽器のような存在なのでしょうか? それとも他にもっと重要な意味があるのでしょうか?
今日はその由来と意味について調べました。

「由来」
木魚は元々は、木を魚の形に彫ったもので、中国の宋代(10世紀~13世紀)で使われていたようです。
当時の用途は、木槌等で木魚を叩いて音を出し、人々を集めるための道具として使われていました。
これが木魚の元々の由来です。

日本でも、大本山永平寺では、魚鼓(ほう)という、三メートル弱の魚の形をした板が、修行僧が食事をする僧堂の外廊下に吊り下げられており、当番の修行僧がこれを叩いて合図に使用しているそうです。

・永平寺の魚鼓(ほう)という、三メートル弱の木魚です。(ネットより)


この木魚が殺生を禁じられているお寺に何故あるのでしょうか?
実は、お寺のお坊さんや修行僧の中にはお経の途中でウトウトして眠ってしまうお坊さんもいるようです。
これを防ぐために木魚を叩くようになったと言われています。
それが何故魚なのかと言うと、古来、魚は眠らないからと考えられていたことから、「目を閉じて惰眠を貪ることなく修行に励むように」という戒めが込められているのだそうです。

また、魚が口にくわえている丸い玉は煩悩を表していて、魚の背をたたいて煩悩を吐き出させているそうです。
魚板に、中身を空洞にして音が出やすくするなどの工夫が加えられ、現在のようにお経を読む際に使われるようになりました。
リズムをとることも目的としているそうですが、眠気覚ましの意味もあると言うことです。


木魚の由来は、人を集めるための道具から修行僧の眠気防止、そして現在では、主にお経を読むときにリズムを整える事へと変遷しているようです。

 

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線香をあげる時のマナー

2019-08-13 | 情報

今日からお盆です。
16日までのお盆の期間中、ご先祖様と語らい、この世で一緒に過ごせたことの感謝の気持ちを込めてご供養し、16日には霊が再びあの世へお帰りくださいますよう送り火を燃やして手を合わせましょう。

先日、「お線香の意味」について当ブログでご紹介したところですが、今日はお墓にお線香をあげる時のマナーについてご紹介したいと思います。
知っているようで案外マナー違反をしている場合があるかもしれないので確認の意味で取り上げました。

「マナー」
お線香は一般的に、お墓参りでは一束単位で持っていきます。 これは、そのまま束の状態で墓前にお供えする場合もありますが、一緒にお墓参りに行った方々に分けるためでもあります。
お墓参りでのお線香の供え方は、宗派や地域によって様々です。
束をそのまま横にして備える場合もあれば束をばらして決められた本数のみをお供えする場合もあります。
また、お線香を置く香炉の広さによっては一束ではなく、半束をお供えする場合もあります。

「本数」
お供えする時には、本数だけでなく、置き方にも作法があるので、注意が必要です。
・臨済宗・・・・1本を香炉の真ん中に立てます
・日蓮宗・・・・1本を香炉の真ん中に立てます
・曹洞宗・・・・1〜3本を香炉の真ん中に立てます
・浄土宗・・・・1〜3本を香炉の真ん中に立てます
・日蓮正宗・・1〜3本を横に寝かせます
・天台宗・・・・3本を香炉の中に、香炉の手前に1本、奥に2本、自分から見て逆三角形になるように立てます。
・真言宗・・・・3本を香炉の中に、香炉の手前に1本、奥に2本、自分から見て逆三角形になるように立てます。
・浄土真宗・・1本を2〜3本に折り、横に寝かせます。 
         線香を折るのは、香炉のサイズに合わせるためとなるので、2本又は3本どちらでも大丈夫です。
          しかし、4本以上に折ることはありませんので、注意が必要です。

「線香の向き」
線香を横にすることを「寝線香」と言い、線香を横にするときは、自分から見て火が付いている方が左に来るようにしましょう。
もし、既に火が付いているお線香がお供えされている時は、既にお供えされているお線香の向きに合わせてお供えするのがマナーとなります。



「線香の付け方」
お線香の正式な付け方は以下のようになります。
・ライター或いはマッチでロウソクに火を灯し、ロウソクからお線香に火を移します。 燭台が両脇にある場合は、必ず右側のロウソクから火を移します。
・火を移したお線香を、故人に近しい人から順に分けます。

ライターから線香に直接火を灯すのは、 正式にはタブーとされていますが、屋外の場合は、基本的に使用しても問題ないようです。
なお、風が強い日に、一般的なライターで束のお線香に火を灯すのは難しく、なかなか火が灯らない場合は、束になっているお線香を扇子状に広げることで、火を灯しやすくなります。

「消し方」
お線香は、仏様にお供えするものとなりますので、 そのお線香を、悪行を積み、汚れているとされている人間の口から吐いた息で吹き消すことは無作法となります。
正式な消し方は、お線香を上下に揺らして消すか、もしくは手の平で仰ぐ、専用の線香消しで消す、のいずれかの方法となります。

以上が線香の灯し方から消し方までの一般的マナーとなります。
マナー違反は、自分が恥ずかしい思いをするだけでなく、周りの方を不愉快な気分にさせることもあります。
マナーを守り、心を込めて、気持ちよくお参りしたいものです。

 

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