らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

渡船場巡り(2)

2020-01-30 | 地元紹介

大阪の渡船場巡り、2回目の今日は船町渡船場と木津川渡船場をご紹介します。
神明神社に隣接する鶴町中央公園で昼食をとった後、約1㎞ほど先の船町渡船場を目指しました。

「船町渡船場」
船町渡船は、大正区鶴町1丁目と同区船町1丁目を結ぶ、幅75mの木津川運河に運航している大阪最短の渡船で、1日平均200人弱が利用しています。
平日の朝夕は1時間に5往復が運航されていますが、嘗ては、運河が狭いこともあって、昭和20年代後半から30年代にかけては、対岸まで船を連ね、その上に板を敷いて人や自転車が通行していたそうです。
まるで漫画に出てくるような光景だったのですね。


「大阪府咲洲庁舎」
右側の超高層ビルは船上から眺めた大阪府咲洲(さきしま)庁舎です。
この庁舎の総事業費は1,193億円、高さ256.0m、地上55階・地下3階建ての超高層ビルで、愛称は「さきしまコスモタワー」です。
旧名称は、大阪ワールドトレードセンタービルディング(略称「WTC」)でしたが、2010年(平成22年)6月1日に大阪府に譲渡され、現在の名称となりました。
建物の高さ256.0mは「あべのハルカス(300m)」、横浜ランドマークタワー(296.3m)、りんくうゲートタワービル(256.1m)に次いで日本第4位の高層ビルです。

なお、このビルには次のようなエピソードがあります。
大阪ワールドトレードセンタービルディング(旧名称)の着工時には地上252mで計画されていたのですが、同時期に大阪府が建設したりんくうゲートタワービルの高さが256mであったことなどから、高さを4m増やしてりんくうゲートタワービルと同じ256mとしたのです。
しかし、りんくうゲートタワービルの高さが厳密には256.1mとなったことから、僅差での4位となっているということです。
僅か10cmの差で4位となったのですね。
悔しいですね。


「木津川渡船場」
木津川渡船は木津川を渡す渡船で、大正区船町1丁目と住之江区平林北1丁目の岸壁間238メートルを結んでいます。
昭和30年12月から昭和49年までは、134トンの「松丸」というカーフェリーが運航していて、乗用車から大型トラックまで運搬していました。
しかし、上流部に千本松大橋が開通したことから昭和49年にカーフェリーは廃止され、人と自転車のみを運ぶ渡船となりました。
平成30年度現在、1日平均約159人が利用しています。
なお、左に見える橋は「新木津川大橋」です。


「あべのハルカス」
木津川渡船上から眺める風景で、中央奥には天王寺駅の横に建つ「あべのハルカス(300m)」の超高層ビルが見えます。
あべのハルカスは平成22年(2010年)に着工され、4年後の平成26年3月7日に全面開業しました。
2019年現在、日本で最も高いビルであり、日本初のスーパートール(300㍍以上の超高層建築物)です。
なお、「あべのハルカス」については、2014年(平成26年)3月17日から4回にわたって弊ブログでご紹介しているのでご参照ください。


「新木津川大橋」
新木津川大橋は、大正区船町1丁目と住之江区柴谷2丁目の間の木津川に架かるアーチ橋です。
中央部の橋長は495m、中央部のスパン(支点間の距離)は305m、総延長は2.4km、幅員は11.25m、アーチ橋としては完成当時日本最長で、また世界でも14位の規模を誇っていました。
しかし、現在、国内では広島空港大橋がアーチ支間380mで最長となっており、当大橋は2番目の長さとなっています。
なお、世界では中国の盧浦大橋(Lupu Bridge)がアーチ支間 550mで最長であり、次いでアメリカのNew River Gorge Bridge がアーチ支間 518mとなっています。


「大阪護国神社」
大阪護国神社のこの鳥居の高さは10.3㍍、柱回り3.3㍍で大阪府内最大の鳥居です。
境内の広さは約1万坪だそうです。
案内板によれば、この神社は皇室の御崇拝が極めて厚く、天皇皇后両陛下を始め各宮殿下のご参拝も多く賜っており、年間を通じて全国から多くの参拝者が訪れているということです。


「本殿」
大阪護國神社は、大阪府住之江区にあって大阪府出身ならびに縁故の殉国の英霊10万5千余柱を祀っています。
創建は昭和15年5月で、仁徳天皇と明治時代以降の大阪府出身の戦没者を祭神としています。
春・秋には大祭があるほか、毎年、盆三日間は域内に3千個のちょうちんを灯し、祭神の霊を慰めているそうです。

 

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渡船場巡り(1)

2020-01-28 | 地元紹介

先日、現役時代の趣味の会である歴史探訪同好会に参加してきました。
実に1年半ぶりの参加でした。
今回は大阪市が運営する渡船場巡りで、12~3㎞ほど歩いてきました。

現在、大阪市内には市が運営する8か所の渡船場がありますが、今回訪れたのはその内の4か所です。
今日と次回の2回に分けてご紹介したいと思います。

「大阪市の渡船場」
古来、数多くの川が流れ、水の都と呼ばれた大阪には、人々の往来のための渡船場が各所にありました。
昭和10年頃には渡船場31か所、保有船舶数69隻、年間利用者は歩行者が約5752万人、自転車等が約1442万台を数えたそうです。
しかし、その後、橋梁の架設や道路をはじめとする都市施設が整備され、更に、モータリゼーションの進展に伴って渡船の利用は次第に減少していきました。
昭和53年には渡船場12か所、利用者数約250万人になり、平成30年では8か所、約161万人になっているそうです。 
なお、大阪市の渡船料は全て無料です。

「甚兵衛渡船場」
昔、尻無川の堤は紅葉の名所で、紅葉の時節には河の両岸一圓が紅葉して川面が紅く映り、多数の見物客が訪れて風流を楽しんだり酒宴に興じたそうです。
その河下には甚兵衛が渡した渡船場があり、その近くに「蛤小屋」と呼ばれた茶店があって、名物の蜆(しじみ)、蛤を賞味する人が絶えなかったといいます。
このような歴史的背景から、名称が地名ではない唯一の渡船場だそうです。

現在、甚兵衛渡船場は、大正区泉尾七丁目と港区福崎一丁目の岸壁間94メートルを渡しています。
朝のラッシュ時は2隻の船で運航しており、平成30年度現在、1日平均約1,096人が利用しているそうです。

・尻無川を渡す甚兵衛渡船場です。


「尻無川水門」
甚兵衛渡船場から乗った船上から眺める尻無川水門です。
この水門は、大阪ドームの南側から大正区に流れる尻無 川にあるアーチ型水門で、 台風などで押し寄せてくる大阪湾 からの高潮をせき止めるはたらきをもっています。



「千歳(ちとせ)渡船場」
この渡しは大阪港復興事業の一つとして大正区の内港化工事を行った際、既設の千歳橋が撤去されたことに伴い、その代わりの施設として設けられました。
大正区鶴町三丁目と同区北恩加島二丁目の岸壁間371メートル間を運航しており、平成30度現在、1日平均約530人が利用しています。



「港大橋となみはや大橋」
千歳渡船場からは赤い港大橋となみはや大橋が見えます。
・港大橋は、大阪市港区海岸通3丁目と住之江区南港東9丁目を結ぶ全長980mのトラス橋で、トラス橋としての中央径間510mは日本最長で、世界
 第3位の長さです。

・なみはや大橋は、大阪市港区と大正区を結び、尻無川に架かる全長1,740mの橋です。
 徒歩でも渡れる橋で、水面上の高さは45mとなっています。
 夜景が綺麗な事でも有名だそうです。



「千歳橋」
千歳橋は、大阪市大正区の大正内港に架かる橋です。平成15年(2003年)4月に開通し、土木学会田中賞を受賞しています。
千歳橋の主橋梁部はアーチ橋とトラス橋が融合した2径間連続非対称ブレースドリアブアーチ橋であり、鮮やかな青色に塗られています。



「神明(しんめい)神社」
 大阪市大正区鶴町に鎮座している神社で、御祭神は天照皇大神、八幡大神です。
掲げられている説明によれば、徳川家康の外孫で後に養子となった松平忠明が、大阪夏の陣に向う途中当社で戦勝を祈願し、華々しい軍功を立てました。
その後の論功行賞で大阪城主となった忠明は、神明神社の霊験あらたかと、大阪城・町中の守護神として元和2年京都から大阪蝋燭町(後の内平野町)に遷されたということです。
 



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「蘇民将来」神話

2020-01-26 | 雑学

先日、一休禅師の「金襴の袈裟を脱ぐ」の逸話をご紹介しました。
一休禅師のお話は、人を身なりや外見で判断してはいけない、という戒めのお話でした。
日本に神話にも、これとよく似た逸話があります。
今日はその中から「蘇民将来(そみんしょうらい)」の逸話をご紹介します。

「蘇民将来」
蘇民将来とは日本各地に伝わる説話、およびそれを起源とする民間信仰です。
こんにちでも「蘇民将来」と記した護符は、日本各地の国津神系の神を祀る神社で授与されており、災厄を払い、疫病を除いて、福を招く神として信仰されています。
また、除災のため、住居の門口に「蘇民将来子孫」と書いた札を貼っている家も少なくないということです。(ウィキペディアより)

・蘇民将来子孫の木札です。(ネットより)


「茅の輪と蘇民将来 神話」
備後国風土記(びんごのくにふどき:広島県東部の備後地方)には、広島県福山市新市町にある疫隈国社(えのくまのくにつやしろ=現・素盞嗚神社)の武塔神(むとうしん)の神話が伝えられています。
その神話とは、昔、北海の武塔神(むとうしん)が南海の神の娘と結婚しようと旅に出たところ、森の中ですっかり日暮れになってしまいました。
この森には将来という二人の兄弟が住んでおり、兄の蘇民将来(そみんしょうらい)は貧しく、弟の巨旦将来(こたんしょうらい)は裕福な暮らしをしていました。
泊めてもらうところを探していた武塔神は、このあたりで一番の長者である弟の巨旦将来が住む立派な一軒の家を見つけました。
武塔神は巨旦将来を訪ねて宿を求めたところ、彼は宿を貸すのを断わったのです。
仕方なく貧乏な兄の蘇民将来を訪ねたところ、すぐに宿を貸してくれ、その上、栗飯などの食事を出して持て成してくれました。
その後、武塔神は旅立ち、南海の神の娘と結婚するという目的を無事に果たしたのです。

それから時を経て、武塔神は八柱(はっちゅう=中国で天を支えていると考えられていた八本の柱)の子を率いて再び将来の住む地に還り、将来兄弟に対して相応の報答をすることを詔しました。
そして、かつて世話になった恩人の蘇民将来の家を訪ね、蘇民将来とその妻に「茅の輪(ちのわ)を腰の上に着ける」ように命じたのです。

そして、その夜、武塔神は蘇民将来とその妻を除く全員を悉(ことごと)く滅ぼしていき、「我は速須佐雄能神(はやすさのおのかみ)である。後の世に疫病が流行っても、『蘇民将来の子孫と名乗り、茅の輪を腰に付ける者』は、疫病から免れるだろう」と詔し、こう言い残し、立ち去って行きました。

武塔神の言葉通りに、茅の輪を作って娘の腰に着けさせたところ、その晩に疫病が発生しましたが、茅の輪を着けていた蘇民将来の娘一人を除いて、人々をことごとく殺し滅ぼしてしまったのです。
生き残った娘のもとに武塔神が現れ、こう言いました。
「私は、武塔神と名乗っているが本性は速須佐雄の神である。後の世に疫病が発生したならば、お前の一族は『蘇民将来の子孫だ』と言って、茅の輪を腰に着けるように。そうすればこれから先も、疫病の難を逃れることができるであろう」

この神話から、今でも「蘇民将来子孫」と書いた蘇民将来札を掲げておくと、疫病を免れるといわれているのです。
また神社には茅の輪が設けられ、ここをくぐると禍を逃れるという習わしもこの神話からといわれています。


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夕日と夕陽の使用区分

2020-01-24 | 雑学

先日、文章を書いているとき、「ゆうひ」の漢字を「夕陽」と「夕日」のどちらを使用すべきか迷ってしまいました。
子供の頃、「夕陽」を使用していたような気がしたので調べてみました。

広辞苑では、「夕日・夕陽」の両方が同一行に書かれており、他の国語辞典でも、ほぼ全てが、「ゆうひ」という項目で「夕日・夕陽」の両方を挙げています。
そこでネットを調べてみると概ね下記のようでした。

「夕日」
「夕日」は常用漢字表に載っている読み方です。
そのため、公文書、教科書、新聞などで使用されています。
また、「日」という漢字は「太陽」という意味のほかに、「日にち」という意味もあります。
従って、1文字で太陽のことを表すことは余りないかも知れないということです。
実際、英語表現でも同様に、「日」の方には「The Sun」のほかに「day」の意味もあって、「日付」「元日」など「日」がその意味で使われる熟語が多く、1文字で「The Sun」をイメージさせるようなところはあまりなさそうだということです。

「夕陽」
一方、「夕陽」は常用漢字表には載っていない読み方であり、この漢字表で認められている音訓の中には、「陽」を「ひ」と読む訓読みはありません。
そのため、公文書、教科書、新聞などで用いることはできませんが、日常生活で用いても問題はないということです。
また、「陽」という漢字は太陽というイメージと結びつきやすいという特徴があります。
このことは、英語表記でも同様であり、「陽」については「The Sun」以外になじみ深い意味があまりないのに加え、「太陽」を始め「陽気」「陽春」などの熟語があることから、1文字で「The Sun」のイメージを喚起する力があるようだということです。

「結論」
結論としては、「夕日」は常用漢字表に載っている読み方であるのに対して、「夕陽」は常用漢字表には載っていない読み方です。
従って、公文書、教科書、新聞などでは「夕日」が使用され、「夕陽」は用いることはできません。
しかし、日常生活ではどちらを使用しても間違いではないということです。

実際、大阪市天王寺区の地下鉄谷町線には、「四天王寺前夕陽ヶ丘駅」という駅があります。
この地名は、鎌倉時代初期の公卿で歌人である藤原家隆が「夕陽ヶ丘」と名付けた由緒ある地名であり、その由来は、家隆がこの辺りから眺める"沈む太陽"が好きだったということから、「夕陽丘」と名づけたと言われています。

以上、「夕日」と「夕陽」はどちらを使用しても間違いではないということなので、実際に使用する際はイメージに合う方を使用すればいいというのが結論でした。

 

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大阪の日の出・日の入り時刻

2020-01-22 | 季節

1月も下旬になると、12月と比べて日が暮れるのがずいぶん遅くなってきました。
1か月前までは、午後4時30分くらいになると薄暗くなっていたのが、最近では午後5時になってもまだ明るく、昼間の時間が長くなっているのが実感できます。
1年で最も昼間が短いと言われる12月22日の冬至から今日で1か月になりますが、この1か月でどのくらい昼間の時間が長くなったのでしょうか?
調べてみました。

12月22日の「冬至」の日の大阪の「日の出」は7時1分、「日の入り」は16時51分で、昼間の時間は9時間50分でした。
1か月後の今日は「日の出」が7時3分、「日の入り」は17時16分で、昼間の時間は10時間13分です。
冬至から今日までの1か月で23分昼間が長くなったことになります。

しかし、「日の入り」だけの時間を調べてみると、12月1日の16時47分が最も早く、その後少しずつ遅くなってきて、今日は17時16分となっています。
この間で29分も太陽が沈むのが遅くなっていることから、午後5時でも明るいことが頷けます。
国立天文台によれば、明日以降、1日に1分~2分ずつ昼間が長くなっていくようです。

昨日は二十四節気の大寒でした。
寒さはこれからが本番ですが、僅かずつでも昼間が長くなると春の足音が聞こえてくるようで、何となく気持が明るくなってきます。

(参考)
なお、お住まいの県庁所在地の日の出、日の入り時刻を調べたい方は下記へアクセスしてみてください。
   国立天文台 暦計算室 各地のこよみ
   http://eco.mtk.nao.ac.jp/koyomi/dni/



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ブルーベリー栽培

2020-01-20 | 家庭果樹

一昨日、懇意にしている地元の農家のN氏からブルーベリーの木6本と用土のピートモス、鹿沼土を譲っていただきました。
早速、畑に植えたのでご紹介したいと思います。

・これが譲っていただいたブルーベリーの木6本です。


植え付けに当たってのN氏からのアドバイスは、ブルーベリーは酸性の土壌を好む性質があことから石灰は絶対に使用しないこと、更に「ピートモス」と「鹿沼土」を譲るから1:1の割合で混和して植えるようにとのことでした。
栽培方法を知らないので、取り敢えず、そのアドバイスに従って植えることにしました。

先ず、畝に60~70センチ四方の穴を掘り、その中に、ピートモスと鹿沼土を1:1の割合で入れて混和しました。
その上に植え付けます。

・これがN氏から譲ってもらった鹿沼土(黄色)とピートモス(茶色)を1:1で入れた畝です。


上記のピートモスと鹿沼土をよく混和した畝にブルーベリーの木を植え付けます。
その後、根が動かないように支柱をしました。
根元にはたっぶりと水やりをしました。
なお、肥料は緩効性の化成肥料を与え、収穫期には追肥をするようです。

今回植え付けた木には既に花芽が付いているので初夏には少しくらいは結実しそうです。
それを楽しみに管理することにします。

・これが6本植え終わった畝です。


念のため、ブルーベリーの栽培方法についてネットで調べてみました。

「栽培方法」
・「用土」
 ピートモス、赤玉土、鹿沼土を4:3:3位の割合で混ぜて使います。酸性の強い用土のほうが生育がよいようです。
・「水遣り」
 乾燥に弱いので水切れに注意します。排水が悪い土は反対に根ぐされを起こします。
・「混植」
 ブルベリーは自家受粉をしないので同系統の異品種を植えることが必要です。
・「剪定」
 2年目から長果枝の先端を切って短果枝を出すようにします。
 3年目以降は混み合う枝を元から切ります。数年して幹が古くなって花芽がつきにくくなったら根元から切ります。
・「植え替え」
 鉢植えの場合は2年に1度、一回り大きい鉢に植え替えをします。
・「施肥」
 3月上旬と5月上旬それに9月にお礼肥を与えます。


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金襴の袈裟を脱ぐ

2020-01-18 | 雑学

先日、一休宗純の逸話「門松は 冥土の旅の 一里塚」をご紹介しましたが、今日も一休禅師(一休宗純)に関する有名な逸話をご紹介したいと思います。
一休宗純と言えば"頓智の一休さん”で知られていますが、実は傑僧として智徳の高い禅僧なのです。
今日ご紹介する逸話は、人を身なりや外見で判断してはいけない、という戒めのお話です。

「逸話」
「金襴の袈裟を脱ぐ」
ある日、一休禅師を訪ねて一人の男がやってきました。
取次の僧が応対すると、男はこう言ったのです。

 「私は京都の高井戸と申す長者の使いです。突然ではございますが、明日は大旦那さまの一周忌でして、ぜひ一休禅師さまにお勤めをお願いしたく
  思い、参じました」

取次の僧がその旨を一休禅師に伝えると、
 「では伺うことにするから時刻を訊いておいてくれ」とのこと。
その返事を聞いて安心した使いの者は、頭を下げるとお寺を後にしました。

使いの者が去った後、しばらく経って陽が傾き、夕闇が辺りを包みはじめた頃、高井戸家の玄関先に、一人のみすぼらしい格好の男が現れました。
その男は泥だらけの薄汚れたぼろを着ていたのです。

 「どうぞ、お恵みを……」

男は哀れな声で両手を差し出し物乞いをしました。
玄関に立つ高井戸家の使用人たちはそれを聞くと、

 「だめだ、お前にやるものなどない。さっさと立ち去れ」と、男を追い返しました。
 「僅かばかりでかまいません。どうか、どうか……」 男はなおも両手を差し出しました。
 「うるさい、帰れと言っておるのがわからんのか!」 やがて騒ぎは家の中にまで聞こえ、とうとう若主人が家の中から出てきました。
 「おい、何をしている。早くこいつを追い返さぬか。去らぬのなら叩き出せ!」

使用人は命じられたとおり、男を叩きつけ蹴り倒し、最後には往来に放り捨てました。
そして固く門を閉ざしたのです。

さて、翌日、一休禅師は煌びやかな金襴の袈裟をまとい、約束の時刻に高井戸家に赴きました。
玄関先には大勢の人が集まり、主人ら一族郎党は紋服姿で一休禅師を出迎えました。
主人は一休禅師の傍に歩みより丁重に頭を下げました。

 「本日はようこそおいでくださいました。さあ、こちらへどうぞ」 先導をするように招く主人でしたが、一休禅師は足を動かしません。
 「こちらでございます。さあどうぞ」 再度招くも、それでも一休禅師は微動だにしませんでした。         
 「わしはここで結構じゃ」
 「えっ? いや、お上がりいただきませぬと、お勤めいただくことができませぬゆえ……」
 「ここで結構。わしにはここが身分相応なのじゃ」

一休禅師は玄関先に敷いてあったむしろの上に腰を下ろし、立ち上がろうともしませんでした。
主人はさすがに苛立ちを隠しきれず、一休禅師の手を引いて立たせようとしました。
すると、一休禅師はその手を払いのけ、

 「それほど招き入れたければ、この金襴の袈裟を仏間に持っていきなされ。わしは人に足蹴にされるような者で有り難いものではないからのう。
  玄関先のむしろの上で十分じゃ」

怪訝(けげん)な表情をする主人らを、一休禅師は皮肉そうな笑みを浮かべて眺めたのです。

 「ご主人、昨日の黄昏れ時にみすぼらしい男がやってきたじゃろう。あれはわしじゃ。
  昨日は散々叩かれ蹴られ、今日は手厚くもてなされ。一体これはどういうわけじゃ。
  昨日のわしと今日のわしとで違うところは、この金襴の袈裟のみ。されば、この袈裟を招き入れればよいのが道理ではないか

これを聞いた主人らは、一様に言葉を失いました。

一休宗純禅師といえば、将軍や多くの大名から尊敬される傑僧です。
そのような人物にむかって昨日のような非礼無礼を浴びせてしまったのかと思うと、ただただ顔が青ざめるばかりでした。
一休禅師は乾いた笑い声を響かせると、着ていた袈裟や法衣を脱いで、笑顔で言ったのです。 
   
 「法事はこの袈裟と法衣に頼みなされ。そのほうが功徳もあるじゃろうて」

そして何も屈託もなく軽やかに立ち上がると、すたすたと寺へ帰っていきました。

このお話は、身だしなみは大事ですが、「見てくれで人間を判断しては、物事の内面を見抜くことはできない」という、傑僧・一休宗純に伝わる教えでした。


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しあわせ運べるように

2020-01-16 | ナツメロ

明日、1月17日は阪神・淡路大震災から25年の節目の日です。
この日に先立つ11日には、神戸市で灯されている「希望の灯り」の火を各地で開かれる追悼行事などのために分ける「分灯」が始まったと、ニュースで報じていました。

兵庫県では「震災を風化させない」「忘れない」「伝える」「活かす」「備える」を基本コンセプトに、この大震災の経験と教訓を広く発信し、次の大災害への備えや対策の充実につながる事業を展開するということも広報していました。
これらの行事に付随して、復興ソングの「しあわせ運べるように」の曲もよく流れてきます。

そこで、今日は神戸の震災復興ソング「しあわせ運べるように」をお聴きいただきたく取り上げることにしました。
この曲は、神戸市内の小学校で音楽教諭を務めている白井真先生が震災から約2週間後、身を寄せていた親戚宅で、生まれ育った街の変わり果てた姿をテレビニュースで見て衝撃を受け、わずか10分で作詞・作曲したのだそうです。
この曲は、多くの人々の心を捉え、希望の灯となって25年間大切に歌い継がれている歌です。
それでは、神戸の子どもたちと大槌中学校が歌う『しあわせ運べるように』 をお聴きください。



  「しあわせ運べるように」   
             作詞・作曲 白井 真
1.地震にも 負けない 強い心をもって
 亡くなった方々のぶんも 毎日を 大切に 生きてゆこう
 傷ついた神戸を もとの姿にもどそう
 支えあう心と 明日への 希望を胸に
 響きわたれ ぼくたちの歌
 生まれ変わる 神戸のまちに
 届けたい わたしたちの歌 しあわせ 運べるように

2.地震にも 負けない 強い絆(きずな)をつくり
 亡くなった方々のぶんも 毎日を 大切に 生きてゆこう
 傷ついた神戸を もとの姿にもどそう
 やさしい春の光のような 未来を夢み
 響きわたれ ぼくたちの歌
 生まれ変わる 神戸のまちに
 届けたい わたしたちの歌 しあわせ 運べるように
 届けたい わたしたちの歌 しあわせ 運べるように

 

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門松は冥途の旅の一里塚

2020-01-14 | 雑学

関西では小正月である明日15日までが松の内と言われています。
門松などの正月飾りは小正月の前日である今日14日に撤去し、明日は"どんど焼き“という門松などの松飾りを焼く行事を行います。
この行事の後は、年賀状ではなく寒中見舞いとして出すのが習わしであり、松の内に控えていた法事などもお寺さんにお願いすることになります。

ところで、門松と言えば次の和歌を聞いたことがありませんか?

  「門松は  冥土の旅の  一里塚  めでたくもあり  めでたくもなし」一休禅師

これは頓智でお馴染みの一休さんこと一休禅師(本名:一休宗純)が詠んで歌です。
今日はこの強烈な皮肉を込めた歌を詠んだ、禅僧・一休宗純の逸話をご紹介します。

「逸話」
「めでたいのう、めでたいのう。あの世にまた一歩近づいたのだから、めでたいのう。正月に飾られる門松は、まるで冥土へと向かう道に築かれた一里塚みたいなものじゃ」

このような意味の一句を詠みながら、一休禅師は年が明けたばかりの、正月ムードの京の町を練り歩いたといいます。
しかも、手には竹竿を持ち、その竿の先に人間の髑髏(しゃれこうべ)を刺していたというのだから大変な驚きです。

一説によれば、
家の前を、髑髏を掲げた不気味な僧侶が歩いているということから、一休宗純という不審者と出会わないために、京の人々は正月の三ヶ日の間は外に出ないようにするという風習が広まったとも言われたそうです。

「解説」
この歌について、禅僧の解説では次のように説いています。
一休禅師の心を考えれば、正月を迎えることは一つ老いたということであり、それだけ死が近づいたという一面を意味していることから、冥土へと向かう旅への一里塚でもあるという訳です。
従って、捉えようによっては、年をとることは「めでたいことでもあり、めでたくないことでもある」となるのです。
そして一休禅師の心の内では、正月を迎えて、めでたい、めでたいと浮かれ祝う京の人々に、この一句を詠んで次のようなことを伝え、人々を正気に戻そうとしたのではないか?

 ‟ちゃんと目を覚ましておけよ。
 新年を祝うということは、死の近づきを祝っているという意味でもあるんだぞ。
 死はすぐそばにあるんだぞ。
 自分の死というものをちゃんと認識した上で、正月を祝うんだぞ。“

そんなメッセージを込めた一句だったのかもしれないと解説しています。

 

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鏡開きの由来

2020-01-12 | 季節

昨日、1月11日は正月行事の一つ「鏡開き」でした。
鏡餅は単なるお供え物というよりも、年神様の依り代と考えられているので、鏡餅を開くことで年神様をお送りするという意味もあります。
そこで今日は「鏡開きの由来」について調べました。

「鏡餅」
先ず、二段重ねの丸い鏡餅ですが、なぜ鏡なのかというと、昔の鏡というのは丸い形をした銅鏡で、三種の神器の一つでもあります。
鏡は日の光を反射し、太陽のように光ることから、日本神話で太陽の神様とされる天照大神に見立てられ、神様が宿るものと考えられるようになりました。
お餅については、稲の霊が宿った神聖なものとして神様に捧げられるお餅を丸い鏡に見立てて「鏡餅」と呼ぶようになり、年神様の依り代として正月にお供えするようになったのです。
また、二段重ねにするのは大小2段で月と太陽、陰と陽を表していて、円満に年を重ねる、夫婦和合などの意味が込められているということです。


「松の内」
鏡餅は新年にお迎えした歳神様の御魂が宿るとされることから、松の内の間は食べてはいけません。
松の内とは、玄関前に門松が飾られている期間を言い、一般的に1月7日頃までをいいます。
但し、これには地域によって差があり、関東では1月7日、関西では小正月である1月15日と言われています。

「鏡開きの由来」
昔の武家では、男は鎧などの具足に供えた「具足餅」を、女は鏡台に供えた餅を下ろし、1月20日に手や槌で割って雑煮に入れて食べる「刃柄(はつか)祝い」という行事がありました。
これが鏡開きの始まりと言われています。
20日に鏡開きが行われていたのは、江戸初期以前は「二十日(はつか)」が「刃柄(はつか)」に通じることからでしたが、1651年1月20日に、3代将軍家光が亡くなった為、幕府は20日を忌日として避け、商家の仕事始めである11日の「蔵開き」の日に変更しました。
この蔵開きと具足開きが相まって11日が鏡開きの日となって定着し、現在に至っているということです。


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