らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

北海道はなぜ「道」

2019-07-30 | 雑学

昨日、関東・甲信地方が梅雨明けし、梅雨のない北海道を除いて日本列島全ての地方で梅雨明けとなりました。
梅雨明け後の全国の天気は猛暑が続いており、天気予報では熱中症の注意喚起を繰り返し呼びかけています。
まだ本格的な暑さに身体が慣れていないと思われることから、皆さま方も熱中症にはくれぐれもお気をつけ頂きたいと思います。

ところで、日本列島の地方行政区画は府県単位になっていますが、北海道だけ「道」となっています。
何故、北海道だけ「道」なのか? 
今日はこの事について調べてみました。

広辞苑で「道」を調べると次のように説明しています。
⑥行政上の区画
ア.中国の地方区画。唐には10道があり、明・清では省の下位区画。朝鮮には8道(現在は17道)がある。
イ.律令制下、畿内を中心とし、京都から通ずる道路によって全国を大別した呼称。東海道、東山道の類。
ウ.普通地方公共団体の一。また、北海道の略称。
と説明しています。
広辞苑が示すように、「道」は広い範囲を表す言葉でもあるのです。

「五畿七道」
日本では奈良時代から「道」と言う言葉で地域を分けており、それが「五畿七道(ごきしちどう)」と呼ばれるものです。
ご存知だと思いますが、「五畿」とは、山城国、大和国、摂津国、河内国、和泉国で、京都を中心とする五つの国のことです。
そして「七道」とは、東海道、山陽道、山陰道、南海道、西海道、北陸道、東山道で、五畿以外の地域を七つの「道」に分けた行政区分を指し、「五畿七道」で日本全国を表しています。

「五畿七道」は古代日本の律令制における広域地方行政区画で「畿内七道(きないしちどう)」とも呼ばれました。
しかし、明治2年(1869年)北海道が新設されてからは「五畿八道」と呼ばれました。
明治4年(1871年)の廃藩置県以降も五畿八道は廃止されませんでしたが、明治18年(1885年)以降はすたれ、現在は五畿八道の地方区分は用いられていません。
しかし、東海道、山陽道、山陰道、南海道、西海道、北陸道、東山道、北海道等の名称の多くは五畿八道に由来しています。

・五畿七道です。(ネットより)


「北加伊道(ほっかいどう)」
ところが、北海道は当時は蝦夷地で日本の領地ではなく、日本から見て異民族が住む外国の地と見られていました。
即ち、江戸時代には北海道の南端にあった松前藩までが日本の領地で、そこから先はアイヌの人々が住む場所で、日本の領域とは考えていませんでした。
しかし、ロシアの進出をきっかけに北の国境を定めることにしたのです。
そこで、明治政府は日本的な地名をつけることで日本の領土と主張することにし、その地名が五畿七道に続く八番目の道として北加伊道(ほっかいどう)と名付けられました。

・北海道(蝦夷地)ネットより


ではなぜ、北海道だけが「道」で残ったのでしょうか?
実は明治政府は北海道を函館県、札幌県、根室県の3つに分けたのですが、北海道は”でっかいどう”と言われるように広大な区域でした。
その広さは、17都府県がすっぽり入る広さであるにもかかわらず人口は函館県14万人、札幌県6万人、根室県1万人と少なく、大変な行政コストがかかり、大きな無駄が発生したことから、3つの県では効率が悪いと言うことで一つにまとめられ、現在に至っているのです。

「北海道」
北海道と言う地名については、
千島道(ちしまどう)、海北道(かいほくどう)、東北道(とうほくどう)、北加伊道(ほっかいどう)、海島道(かいとうどう)、日高見道(ひたかみどう)の6つの候補名がありましたが、明治政府から新たな地名の案を考えるよう要請されていた、蝦夷地を知る第一人者の松浦武四郎は北加伊道(ほっかいどう)を提案しました。

彼が提案した「北加伊道」の「加伊(かい)」とは、「この土地に生まれた者」という意味があるということで、そこから「日本の北にあるアイヌ民族の人たちが暮らしていた大地」という思いを込め「北加伊道(ほっかいどう)」を提案したのだそうです。
最終的に「加伊(かい)」は「海」に変更されたものの「ほっかいどう」が採用されたとのことです。

結論として、北海道の「道」は「五畿八道」の「道」、そして北海道は「日本の北にあるアイヌ民族の人たちが暮らしていた大地」と言う意味が込められていると言う事でした。

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夏祭りの由来

2019-07-28 | 季節

先日、京都では日本三大祭りの一つ、八坂神社の祇園祭(7月17日~24日)が行われ、豪華絢爛な山鉾の巡行がニュースで紹介されていました。
一方、大阪でも7月25日には、これまた日本三大祭りの一つ大阪天満宮の天神祭が盛大に繰り広げられ、若い女性達が神輿を担ぐ"ギャル神輿”で大いに盛り上がっていました。
他にも秋田の竿灯祭りや青森のねぶた祭りなど、全国的に有名なお祭りが来月に控えており、更に全国各地でも伝統的な夏祭りが催されている事と思います。

日本の伝統文化であるお祭りには、これらの夏祭り以外にも春のお祭り、秋のお祭りなどがあります。
大まかには、春のお祭りは豊作を祈るための祈願祭であり、秋のお祭りは収穫への感謝祭で、これら農業に関わるお祭りは古くから行われています。
夏祭りはその後に生まれたお祭りだそうですが、では、夏祭りは何が目的で生まれたのでしょうか?

・天神祭のギャルみこしです(ネットより)


調べてみると、夏祭りには二つのタイプがあるそうです。
一つは、疫病を鎮めるための祈願祭がルーツのお祭りです。
平安時代以降、京都などの都市に人口が集中し始めると、衛生面の問題が生じてきました。
現在のように上下水道が整備されていない時代だったことから伝染病が頻繁に流行したようです。
とりわけ温度、湿度とも高くなる梅雨明け前後はその危険が最も高くなる季節でした。
当時の人々は伝染病についての知識がなかったので、疫病は悪霊によって引き起こされると考えていました。
そこで、悪霊を祓う祭りが行われるようになったということです。

もう一つは、「虫送り」をルーツとするものです。
これは田や畑につく害虫を追い払うための儀礼です。
夏は害虫が最も作物を荒らす季節なので、農民たちは害虫退治の行事を思いついたようです。
最初は村人たちが山椒やザクロ等の枝葉を焼き、鐘を鳴らしながら畦道を歩いて川岸や村のはずれまで害虫を追い払おうとしましたが、それがいつしか季節の風物詩となったと言われています。
青森のねぶた祭りや秋田の竿灯祭りはこの虫送りから生まれたそうです。
ねぶたに勇ましい絵が描かれるのは、その姿を害虫に見せ、怖気(おじけ)づかせようとしたと言う説もあるそうです。

しかし、起源的には盂蘭盆会(盆)・七夕、そして、それに絡んだその周辺的な行事であるものが多く、そこから近代化によって変質したものも多いということです。
このようなことから、夏祭りは一般的に厳粛な行事ではなく華やかな行事とされる傾向が強く、更に、他地域の伝統的な夏祭りを模倣したものも多くみられると言うことです。

いずれにしても梅雨が明け、いよいよ華やかな夏祭りの季節が到来しました。
昼は豪華に装飾された山車や御神輿を堪能し、夜はねぶたや竿灯、花火の大競演等に酔い痴(し)れて、夏のお祭りを大いに楽しんで頂きたいと思います。

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敷居や畳の行儀作法

2019-07-26 | 情報

最近の住宅は和室を設けないスタイルが増えているようです。
そのような家に住むと、自ずと、敷居や畳に対する概念が無くなってこないかと心配します。
日本人である以上、敷居や畳の行儀作法は身につけておく必要があります。
もし、この行儀作法を知らずに上司や同僚などのお宅で和室に通された時に敷居や畳の縁を踏んでしまうと、その人の人格や常識を疑われ、恥をかくことがあるかもしれません。
そこで今日は「敷居や畳の縁を踏まない行儀作法」について調べました。

昔は“敷居や畳の縁を踏んではいけない”と、どこのご家庭でも躾けられた事と思います。
小生も大正生まれの父母によく叱られたものですが、今後、和室が無い家で育った人たちは和室の行儀作法を知らずに育つのでしょうか?

でも何故、敷居や畳の縁を踏んでは駄目なのでしょうね?
70数年前の私の記憶では、「戸や障子などの敷居や畳の縁を踏むのは親の顔を踏むようなものだ」とか、「敷居を枕にすると幽霊が出る」などの理由だったように思います。
果たしてそうだったのか?



調べてみると、「敷居や畳の縁を踏んではいけない」という仕来たりが生れた理由は「境界」という概念からのようです。

即ち、敷居は部屋と部屋を区分けする境界の役割を果たしています。
そして、畳は「立って半畳、寝て一畳」と言われるように、一人の人間が暮らすための最小の空間とされました。
そこから、畳の縁は一人一人に必要な空間を区分けする境界とも考えられたようです。

更に、橋のたもとや村はずれなどにお地蔵さまが祀られているのも境界の表れであり、お地蔵様を祀ることで境界が持つ危うさから逃れようとしたようです。
そのような境界に対する認識から敷居や畳の縁も境界の一種と考えられるようになり、「踏んではいけない」と言うタブーが生れたということです。

そのタブーを破ることは家の秩序や格式を破壊することにつながりかねません。
そこで、親の顔や幽霊を持ち出して子供に守らせようとしたり、更に、昔は畳の縁に家紋を刺繍することもあって、家紋を踏んではいけないと言う意味でも畳の縁を踏むことをタブーとしたようです。

今流行りの畳や敷居がない家に育っても、私たち日本人はそれらに対する行儀作法を忘れることなく、恥ずかしい思いをしないようにしたいものですね。

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「社会の窓」と「理科の窓」

2019-07-24 | 雑学

嘗て流行語として一世を風靡したものの、時代の流れとともに衰退し、いつしか「死語」と言われるようになった言葉はたくさんあります。
今日はそんな言葉の中から「社会の窓」と「理科の窓」を取り上げたいと思います。

何だか、学校の教室の窓のような言葉ですが、そうではありません。年配の方ならよくご存知だと思います。
知人や友人と話している時、或いは会合などで集まった時、突然、「社会の窓が開いているよ」と、指摘されて恥ずかしい思いをされた方もおられるのではないでしょうか?
その時、言われた方はすぐに自分のズボンのファスナーを確認したと思います。

このように、「社会の窓」とは、ズボンのファスナーが開いている事を言い、男性に対してのみ使用される言葉で、「社会の窓」に例えて表現する隠喩(いんゆ)法という表現なのです。



でも、そもそも、ズボンのファスターのことを、何故「社会の窓」と呼んだのでしょう?
調べてみると、この「社会の窓」というのは、1948年(昭和23年)から1960年(昭和35年)まで放送された、NHKラジオ番組「インフォメーションアワー・社会の窓」に由来しているのだそうです。

「インフォメーションアワー・社会の窓」は、さまざまなテーマを取り上げて、その裏側をレポートする社会派の番組だったのですが、”本来は隠れている部分を覗(のぞ)くと、その人間の大切なものが見える”という意味から、ズボンのファスナーをそのように呼ぶようになったということです。
そこから、男性のズボンのファスナーが開いている事を称して「社会の窓が開いている」と言うようになりました。
この「社会の窓」は男性に対してのみ使われる言葉で、女性には使われません。

では、女性の場合にもこのような言葉があったのでしょうか?
当時はありました。

女性の場合は男性の「社会」の科目名に引っ掛けて「理科の窓」と言われました。
しかし、こちらはほとんど普及しないまま消えてしまい、言葉自体を知らなかった人も多かったようです。

超高齢化社会になった現在、高齢者の中に「社会の窓」が開いている方をたまに見かけることがあります。
「社会の窓」や「理科の窓」、現在では死語となっている言葉ですが、どちらも開かないように十分注意したいものですね。

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風鈴の起源と涼しく感じる理由

2019-07-22 | 季節

7月も下旬になりましたが、関西地方はまだ梅雨明け宣言がなく、蒸し暑くて鬱陶しい日が続いています。
このような時には、気持ちだけでも涼しさを感じさせてくれる風鈴の音色を聞きたくなりませんか?

日本における夏の風物詩の一つとなっている「風鈴」ですが、一昨日、NHKの人気番組「ちこちゃんに叱られる」はこれを取り上げて解説していました。
そこで今日は風鈴の起源と日本人は何故、風鈴の音色を聞くと涼しく感じるのかを調べてみました。

「風鈴の起源」
風鈴の起源は中国の占風鐸(せんふうたく)と言われるものだそうです。
占風鐸とは、中国・唐の時代に竹林の東西南北に風鐸という青銅でできた鐘のようなものを吊るし、風の向きや音の鳴り方で物事の吉凶を占う占いであり、この占いで政治判断等が行われていたそうです。

この風鐸が平安時代以降に仏教とともに日本に伝わりました。
風鐸はお寺の屋根に吊り下げられ、風が吹くとカラカラと音が鳴るようになっており、その音が響く範囲は災いや疫病から守られると信じられていました。
やがて、風鐸は風鈴と名前を変えて一般庶民の間に普及し、疫病の流行しやすい夏に自宅の軒先に吊るすようになり、夏の風物詩として定着したと言うことです。

・これが風鐸です。(ネットより)


「風鈴の音色を聞いて涼しく感じる理由」
日本人が風鈴の音を涼しく感じるのは何故か?
「ちこちゃん」の番組では「気のせい」だと言っていました。
そして、日本人は長年、風鈴文化と共に歩んできた結果から、私たちの脳の中に風鈴の音を聞くと涼しいという条件反射を身につけているのだそうです。
それを確かめるために、「ちこちゃん」の番組では外国人と日本人で風鈴の音を聞いて涼しさを感じるかどうかの実験をしていました。

その一部をご紹介します。
実験の方法は、日本人、外国人の各々30代、40代、50代の方、1名ずつに実験台になってもらいます。
そして、30度の室内で10分間椅子に座っていた時の皮膚の温度と、その後、同じく30度の室内で10分間風鈴の音色を聞いた後の皮膚の温度を測定しました。
その結果、外国人3人はいずれも皮膚の温度は少し上昇しましたが、日本人の3人は反対に0.3度から0.7度下がったそうです。

実験後、外国の人に感想を聞いたところ、暑くて、涼しさは感じなかったが、リラクゼーションできたと話していたのに対し、日本人の3人は少し涼しさを感じたと話していました。
外国人が暑さを感じたのはリラクゼーションによって副交感神経が優位になり、末梢血管が開いて血流がよくなったことから皮膚温度が上昇したのではないかと言うことです。

一方、日本人は涼しいと感じることにより、末梢の血流が悪くなって皮膚温度が下がったのと、更に、前述したように、日本人は長年風鈴文化と共に歩んできたことから、日本人の脳が条件反射的に涼しく感じるようになっているのではないかと言うことです。
同じ音色を聞いても日本人と外国の人では感じ方が違うようです。

昔の人が考え出した夏の風物詩のひとつ「風鈴」。
暑苦しい日本の夏には風鈴の澄んだ音色が暑さを癒してくれます。
決して涼しくはなりませんが、風鈴の音色で涼しさを感じながら、元気にこの夏を乗り越えたいですね。     




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四百四病

2019-07-20 | 情報

「四百四病(しひゃくしびょう)」と言う言葉があります。
この言葉もニュースで知りました。
ニュースでは「四百四病」は人間が罹る一切の病気で、人間は「四百四病」の入れ物であると簡略に説明していました。
そこでこの言葉について調べることにしました。

この言葉は仏教用語だそうです。
仏説では人間の病気には404病あるとされています。
それによれば、人間の肉体は、「地」・「水」・「火」・「風」の四要素から構成されており、これを四大(しだい)と言います。
この四要素の調和が失われると「四大不調」となって、おのおのの要素から101の病が起こりるのだ、というのです。

四大不調、即ち、「地大」が増すことによって黄病(オウビヨウ)が起こり、「水大」が積もることによって痰病(タンビヨウ)が起こります。
そして、「火大」が盛んになることによって熱病が起こり、「風大」の動きが激しくなると風病が起こるそうです。
仏教用語であっても、当然のことながら、仏様はこれらの病気を治すことはできません。

更に、「四百四病」には「四百四病の外(ほか)」と言う病もあるそうで、それは『恋のやまい』だそうです。
歌の文句にあるように、この病も仏様でも草津の湯でも治せないということです。



嘗て、「四百四病より貧の苦しみ」という諺がありました。
これは、人間がかかるあらゆる病気(四百四病)よりも、貧しいことの方が辛いということですが、現在ではこの言葉は死語に近いものとなっているようです。

「貧」も「四百四病」も御免蒙りたいですが、軽度な「一病」であればそうとも言えません。
何故なら、皆さん良くご存知の「一病息災」という言葉があるように、一つぐらい病気のある人の方が反って身体に気をつけるので、健康に留意しない丈夫な人よりも息災であると考えられているからです。
 
いずれにしても、日頃の健康には十分留意して、いつまでも息災でいられるよう願いたいですね。

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合成の誤謬

2019-07-18 | 時事

テレビや新聞でニュースを見ていると難しい言葉が出てくることがあります。
先日のことです。
「合成の誤謬」と言う初めて聞く言葉がTVニュースで語られていました。
「ごうせいのごびゅう」と読みますが、皆さまははご存知でしたか?

「合成の誤謬」は経済用語で、その意味は、正確には「ミクロの視点では合理的な行動であっても、それが合成されたマクロの世界では、必ずしも良くない結果が生じてしまうこと」を指して使われる言葉です。

難しいですね。読んだだけでは理解できないと思いますが、平たく言うと、個人個人にとっては良いことも、全員が同じことをすると反対に悪い結果を生むことがある、と言うことです。

「合成の誤謬の具体例」
・具体的に説明すると、「合成の誤謬」の代表的なもに、「貯蓄」があります。
景気が悪化すると、人々は節約を進めて貯蓄を増やそうとします。この当たり前の行動が、経済全体の貯金額を減らす恐れがあるのです。
節約は消費の低迷を招き、企業の生産活動の低下を招き、給与の引き下げや解雇等のリストラなどへと波及します。
これによって景気がさらに悪化し、貯金を取り崩す人が増加してしまうのです。
貯蓄を増やそうとする個人の合理的な行動は、逆に貯蓄を減らすという反対の事態を招いてしまうのです。

・合成の誤謬の説明(ネットより)


・企業経営にも合成の誤謬が存在します。
景気が悪化すると企業は設備投資を減らしたり、リストラを断行したりします。
こうした行動が一斉に行われると、景気の悪化を加速させてしまうのです。
個々の企業としては当然の経営判断ですが、これが集まると企業経営を一層困難にしてしまうのです。

・合成の誤謬は、値下げ競争にも当てはまります。
商品が売れなければ、価格を下げて売り上げアップを図る手法を取り入れますが、これが値下げの連鎖反応を引き起こし、経済全体をデフレスパイラルに陥れることになるのです。

「対策」
このような「合成の誤謬」を個人や会社が防ぐのは困難です。

・そこで、政府が公共事業の増加などでお金を使い、その財源は国債発行による借金でまかなうという方法をとります。
節約どころか、借金してまでお金を使うという、個人や企業とは正反対の「誤った行動」ですが、政府があえて行うことで、合成の誤謬による経済全体のダメージを小さくしようとするのです。

・また、貯蓄をせずお金を使わせるために、政府が税制上の優遇措置などを実施することも、合成の誤謬を回避する方法の一つです。
「家電エコポイント」や「エコカー減税」はその一例なのです。

今年10月には消費税が10%に引き上げられます。
個人個人が財布のひもを固く締めて消費を抑えれば「合成の誤謬」に陥りかねません。

嘗て、松下電器の創業者・松下幸之助氏がお話されていたのを覚えていますが、”景気が悪い時こそ、私たちのような余裕のある人は積極的に個人消費をすべきだ”、と、このような内容のお話をされていました。

10月以降、消費税が引き上げられると消費の低迷が懸念されます、
高所得者で余裕のある方には、今まで通り、否、それ以上に個人消費を続けて欲しいものですね。

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蝉の声

2019-07-16 | 地元紹介

大阪・泉州地方では、今年も7月10日を境に蝉の鳴き声が聞かれるようになりました。
蝉の声と言えば松尾芭蕉のこの句が思い出されます。

    「閑(しずか)さや 岩にしみいる 蝉の声」

この句は元禄2年5月27日、松尾芭蕉が出羽国(現在の山形県)の立石寺(りっしゃくじ)を参詣した時に詠んだ句です。
この日を太陽暦に直すと1689年7月13日だそうで、330年前のちょうど今頃に詠まれたものです。

・立石寺本堂です。(2008年10月撮影)


後世、このセミについてどんな蝉だったのか気になる方がいたようです。
その方の名は歌人の斎藤茂吉で、彼は大正の末ごろに、このセミはアブラゼミだと主張しました。
立石寺の静寂さの中に騒がしく鳴く蝉の声はアブラゼミの声が相応しいと思ったということです。

しかし、これに異を唱える人もいたことから、後に茂吉は確かめるために立石寺に足を運びました。
すると、この時期、立石寺にはアブラゼミは鳴いておらず、ニイニイゼミが繁殖期を迎えていたということです。
そこで茂吉はアブラゼミという自説をニイニイゼミに修正したと言うことです。

「立石寺(山寺)」
立石寺は正式名称を「宝珠山 阿所川院立石寺(ほうじゅさんあそかわいんりっ しゃくじ)」と言い、歴然とした天台宗の寺院です。
860年(貞観2年)、清和天皇の勅命によって、円仁(えんにん・慈覚大師)が開基したといわれています。
また、「立石寺」は別称を「山寺」と言います。
「山寺」はこの土地の地名ですが、観光客には通称の「山寺」の名称の方がよく知られているのではないでしょうか?

・立石寺(山寺)の全景です。


ところで、奥の細道の中で、芭蕉がここで詠んだ「閑さや」の句ですが、蝉が岩にしみいるように鳴いているのなら「閑かさ」どころか、「やかましさ」ではないかと思うのですが、なぜ、「閑さや」なのでしょうか?
調べてみると、ここに詠まれている「閑さ」は、心の中の「閑さ」なのだそうです。

芭蕉は山寺の山上に立ち、眼下にうねる緑の大地を見わします。頭上には梅雨明けの大空が果てしなくつづいています。
そこで蝉の声を聞いているうちに芭蕉は広大な天地に満ちる「閑さ」を感じとったと言うことです。

このように「閑さ」とは現実の静けさではなく、現実のかなたに広がる天地の、いいかえると宇宙の「閑さ」なのだそうです。
梅雨の雲が吹きはらわれて夏の青空が広がるように、突然、蝉の鳴きしきる現実の向こうから深閑と静まりかえる宇宙が姿を現わしたという訳です。

誰でも知っているこの有名な句ですが、その意味するところはなかなか奥が深いようです。
芭蕉の心の内は、凡人には理解しがたいですね。

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手紙の枚数マナー

2019-07-14 | 雑学

子供の頃、母親が手紙を封筒に入れる時、白紙の便せんを1枚重ねて入れていたのを覚えています。
何故、白紙の便せんを入れるのか不思議でしたが、その時はその理由を聞くこともなく、ただ見ているだけでした。

先日、ある本を見ていたら手紙の枚数に関する記事を見つけました。
すると不思議ですね。
70数年前の記憶が蘇ってきて疑問が解けたのでご紹介したいと思います。



「手紙のマナー」と題するその記事には次のように書かれていました。
手紙には必ず一枚におさめる手紙がある一方で、一枚に収まってしまった時にわざと白紙の便箋を重ねて二枚以上にする手紙とがあります。
とあり、更に続けて、
「1枚におさめる手紙」として、
重なるイメージがタブーとされる弔事の手紙は、「不幸が重ならないように」という意味を込めて一枚の便箋におさめます。

「2枚以上に重ねる手紙」は、
通常の手紙で内容が一枚におさまる場合は、白紙の便箋を重ねて二枚にします。
となっていました。

「その理由」として、
白紙の便箋を重ねて二枚にする理由には、次のような意味があるのだそうです。
1.三行半(みくだりはん=離縁状)や果し状など、縁起が悪いとされる種の手紙が1枚切りの書状なので、縁切りを連想させる1枚の手紙は失礼とされたから。
2.昔は紙が貴重だったこともあって返信用の便箋を用意する相手を気遣っていたことから。
3.1枚だけだと裏側から透けやすく他人にも読めてしまうため、透けないようにするための心遣いから。
4.昔から短文の手紙は失礼にあたるとされたことから「文面は1枚で終わってしまったが、本当はもっと書きたい」という気持ちを白紙であらわしたと言う意味から。
などのようです。

そして、「白紙の便箋の正しい重ね方」として、
白紙の便箋は、1枚目の便箋の下に重ね、書いた手紙が内側になるように折ります。

最後に「結論」として、
現在ではパソコンや携帯電話、電子メールなど、優れた通信手段の普及によって手紙を書く機会が減り、白紙の便せんを重ねる伝統的なマナーやしきたりに対する意識が薄れたことからそれほど重要ではないという意見があるようですが、正式な場面においての手紙や、日本の伝統を重んじる相手に対しては、2枚目にかかるように書くか、それとも白紙を添えるかにするほうが「無難」といった意見もあります。
と結んでいました。

現在は電話やメールで手っ取り早く要件が伝えられることから手紙を書く機会が少なくなりましたが、日本人の伝統的なマナーとして覚えておきたいものですね。

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歳寒三友

2019-07-12 | 雑学

四字熟語に「歳寒三友」があります。
読み方は「さいかんのさんゆう」です。
これは中国で宋代より始まった文人画に好まれる画題のひとつでした。
歳寒三友は、日本で「松竹梅(ショウチクバイ)」と呼ばれる「松」「竹」「梅」の三つをさしています。
今日は「歳寒三友(松竹梅)」の由来を調べました。

日本では「松竹梅」は、おめでたいものの象徴として知られていますが、何故なのでしょうか?
その由来は次のように言われています。

中国では「三」という数字はめでたい数とされ、 縁起を担いで三つの植物の組み合わせが好まれました。
特に寒さの厳しい冬でも美しい葉や花で豊かな生命力を思わせてくれる 三つの植物のセットが「歳寒三友」と呼ばれて尊ばれたのです。

中国では宋代あたりから歳寒三友図なる画題が現れ、 冬を代表する植物であるマツ、タケ、ウメ、スイセンのうち いずれかの三つがセットで描かれました。
中でもウメは必ずといっていいほど描かれて、 中国における歳寒三友の要となっています。
この習慣が日本に伝わりましたが、日本ではそのまま定着したわけではありません。



マツやタケはもともと日本に自生していて 古来その生命力のたくましさが崇敬の念を集めてきました。
マツとタケは縁起物としてセットで扱われることが多く、 平安末期にはマツとタケを組み合わせた門松が 新年の門前を飾っていたと考えられています。
マツはその常緑性が長寿を象徴し、 タケはその生長力の旺盛さが繁栄を意味したのです。  
その後、マツは能の舞台に欠かせない高尚な木となり、 タケはかぐや姫をその茎に宿したロマンチックな存在にもなりました。

前述のとおり、中国で歳寒三友の要となって欠かすことのできなかった梅の木は、日本では8世紀後半の『万葉集』に登場することから、 奈良時代後期に日本に渡来したようです。   
当初、貴重だった渡来植物のウメは貴族にとって憧れの大陸文化の象徴でしたが、 自生の種であるマツやタケとは すぐには結び付きませんでした。
それでも春一番に美しく香しい花を咲かせることから 次第に冬の風物詩として定着していきました。

日本においてマツとタケとウメの 三つの植物が共に親しまれ始めたのは意外と遅く、江戸時代初期だそうです。
僧侶の如月が記した 『中華若木詩抄』という本に 「竹は松竹梅の三友にて、梅松と盟を結ぶ者也」 とあって、中国の歳寒三友を日本風に 解釈しなおしたものだったようです。
  
以後、長寿のマツと繁栄のタケという 渋い存在の植物に美しさを添える 大陸文化の風雅を象徴するウメが加わり、 ここに日本の歳寒三友、「松竹梅」が完成しました。  
長寿、繁栄、風雅と三拍子そろった「松竹梅」は、このようにして最強の縁起物となったようです。

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