らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

お札の代名詞「聖徳太子」

2021-06-29 | 雑学

今年は聖徳太子(574年~622年)の1400年遠忌(おんき)にあたり、奈良の世界遺産・法隆寺では4月に遠忌法要が行われました。
遠忌とは、死者の祥月忌日を一周忌、三周忌と重ねていって 50回忌以上の年忌を言い、100回忌以上になると 50年ごとに遠忌を行います。
100年前の大正時代には、実業家の渋沢栄一(1840年~1931年)が1300年遠忌法要の実現に尽力したそうです。
その渋沢栄一は今、大河ドラマ「青天を衝け」の主人公で放送されていますが、彼は2024年に1万円札の肖像になる事が決まっています。

ところで、紙幣の肖像と言えばこの人抜きには語ることができないでしょう。
その人とは、そうです。聖徳太子です。
聖徳太子は、1930年(昭和5年)に発行が始まった「乙百円券」に初めて採用されて以来、「銀行券の顔」として最も多く登場しています。

(参考)
「乙券」とは、日本銀行券(お札)には明治以降、発行された銀行券を分類するために付けられた記号で、改刷の都度変更されています。
これまでに発行された銀行券には、下表のような記号が使われています。

    使用時期                   シリーズ記号
明治中期~1935年(昭和10年)頃まで          甲、乙、丙、丁
1942年(昭和17年)頃~1945年(昭和20年)頃まで      い、ろ
1946年(昭和21年)以降                 A、B、C、D、E

・これが乙百円券です。(ネットより)
 この百円札は昭和5年、金解禁に合わせて発行されました。


聖徳太子は昭和5年、金解禁を記念して発行された乙百円券の肖像に初めて登場しました。
この年には五円券に菅原道真が、十円券に和気清麻呂が、翌年の昭和6年に発行された二十円券には藤原鎌足が描かれています。
聖徳太子は昭和33年発行の一万円札まで7回も肖像画に登場しており、お札の代名詞と言われていましたが、昭和59年の新券発行によって姿を消しました。

また、登場回数もさることながら、太子が描かれたC五千円券とC一万円券は戦後に発行された日本銀行券では発行期間が最も長く、四半世紀以上にわたって発行され、長年、国民に親しまれました。
このため、いつのまにか国民の間に「聖徳太子は日本銀行券の代名詞」というイメージが浸透していったということです。

・昭和33年に発行された聖徳太子最後のC号1万円券です。(ネットより)


「聖徳太子が最も多い理由」
でも、聖徳太子像がこれだけ多くの日本銀行券に採用された理由は一体何でしょうか? 
それは、
①「十七条の憲法」を制定したり、仏教を保護したり、中国との国交回復や遣隋使の派遣により大陸文化を採り入れるなど、内外に数多くの業績を残したため、国民から敬愛され知名度が高いこと。
②歴史上の事実を実証したり、肖像を描くためのしっかりした材料があること。
が大きな理由のようです。

「紙幣の肖像画」
紙幣に印刷される肖像画の目的は偽造防止のためと人々に親近感を持ってもらうためだそうです。
誰の肖像にするかは財務省印刷局の専門家などが話し合って財務大臣が公示することになっていますが、その人選の条件は、大きな業績を上げた実在の人物であること。
更に、国際的にも知名度が高く、そして明確な写真や肖像画が存在することなどです。

しかし、明治以降から戦前までの紙幣には古代の人物が多く描かれていました。
例えば学問の神様で知られる菅原道真、大化の改新を成し遂げた藤原鎌足、古事記や日本書紀に記述が残る日本武尊なども紙幣に登場しましたが、これらは全て想像で描かれた肖像でした。
その後、時代が新しくなるにつれ、板垣退助、岩倉具視、伊藤博文などのように、写真をもとに正確に描かれるようになってきましたが、その中で登場回数が最も多いのが聖徳太子で、戦前2回、戦後5回、計7回も使われています。

没後1400年経って今なお日本国民に愛され続けている聖徳太子が、日本銀行券(お札)の代名詞と言われるのは、以上のような理由からでした。

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熊取のハスと大賀ハス

2021-06-27 | 地元紹介

大阪・熊取町の蓮池のハスは、開花には少し早いですが、管理事務所前の鉢植えの蓮が咲いていますのでご紹介します。

「熊取・蓮池のハス」
熊取の蓮池のハスは漸く咲き始めたところです。

・開花には少し早い蓮池のハスです。


「ハス」
先ず、蓮はインド原産のハス科の多年生植物で、水底の土中に塊茎をつくり、そこから葉と花茎を水面に伸ばす水生植物です。
塊茎はレンコンとして食用にされますが、主に食用にされる系統と、花を楽しむ系統があり、花を楽しむ系統の塊茎は、あまり太らず食用には向きません。
蓮池のハスは花を楽しむ系統です。
ハスは池で咲くイメージが強いですが、大きなかめや樽でも栽培することができます。

「事務所前の鉢植のハス」
管理事務所前には数十鉢のハスが置かれていおり、各鉢にきれいな蓮の花が咲いています。
ただ、鉢植えの場合は毎年植え替えをしないと花が咲きにくくなるようです。
各鉢には品種名が表示されていましたが、今回は花だけを撮影してきました。

・事務所前の鉢植のハスです。


ハス属の植物にはヌシフェラ種とルテア種の2種があり、ピンクの花を咲かせる前者をハス、後者は黄色い花を咲かせるのでキバナハスと呼んでいます。
両種の交雑により、多くの園芸品種が誕生していますが、それらもハスと呼ばれています。

・管理事務所前の鉢植のハスがきれいな花を咲かせていました。


「2000年前の古代ハス」
ハスと言えば、昔、2000年前の古代ハスが花を咲かせたというビッグニュースがありました。
古代ハスの実は、昭和26年(1951年)3月30日に1個、4月6日に2個が千葉県検見川の東京大学検見川厚生農場だった泥炭地で、大賀一郎博士と地元小中学生らによって発掘され、この実は約2000年前(縄文時代)のものと鑑定されたのです。
そのうちの1個の実が、翌年の昭和27年(1952年)7月18日に見事に花を咲かせ、2000年の眠りから目を覚ましました。
このBIGニュースは世界を駆け巡り、国内では『毎日グラフ』、海外ではアメリカの雑誌『LIFE』でも紹介されました。

このハスの根は日本各地は元より世界各国へ根分けされ、友好親善と平和のシンボルとしてその一端を担っていますが、その一つが和歌山県の上富田町に育っているのです。

・大賀ハスの説明板です。(以下、平成24年撮影画像)


「大賀ハス田」
前述したように大賀ハスは、ハス博士といわれた故「大賀一郎」博士が縄文時代に咲いていた古代ハスの種3粒を発見し、そのうちの一粒の開花したもので、和歌山県にも根分けされたハスが育っているのです。
9年前に熊野古道で和歌山県上富田町を歩いた時に、同町の「大賀ハス田」に立ち寄りました。

そこに掲げられている説明板には次のように書かれていました。
『昭和26年(1951年)千葉県検見川の泥炭層地下7mの所から、大賀一郎博士の手によって、三粒の種子を発見した。その種子が発芽し、二千年ぶりに生命を蘇らせ花を咲かせた。(このことは科学的にも考古学的にも判定されています。)このハスが、「大賀ハス」と名付けられ、千葉県の天然記念物となっている。全国各地に分根され、当ハス田でも7月から8月にかけて、うす紅色の花が咲き乱れる』と説明されています。

・ハスの開花時期は既に過ぎており、ポツリポツリと咲いている程度でした。


・二千年以上前の種から美しい花が蘇った「大賀ハス」です。


2000年前のハスも現在の熊取・蓮池のハスも共に美しい花です。
当時の人と同じハスが愛でられることに、何となくロマンが感じられます。

 

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代と台の使用区分

2021-06-25 | 雑学

ブログを書いると、「○○だい」という表現に遭遇し、「台」か?「代」か? その使用に戸惑うことが度々あります。
そこで今日は「台」と「代」の使用区分について調べることにしました。

「代と台」
先ず広辞苑で「代」と「台」についてを調べてみました。
「代」
①かわること。かわりになるもの。
②ひきかえにするもの。品物・労力に見合うもの。
③家または位を継いで、その地位にある間。
④みよ。治世。歴史の区分。
⑤は省略します
⑥地質時代を最も大きく分けた区分。
⑦年齢の大体の範囲を示す。「十代」

「台」
①たかどの。うてな。
②物や人を乗せる平たいもの。
③食物。めし。
④平たくて高い土地
⑤物事のもととなるもの。
以下13項目まで書かれていますが、その⑩番目に年齢又は物の値段などのそれを単位に区切れる範囲を示す語。「六十歳台・百円台」。
と説明しています。

「具体的な使用例」
「代」
「代」を使うべき場面は「年齢」と「年代」です。
・年齢・・・「40代」は40歳~49歳を示し、「50代」は50歳~59歳を示すように、年齢は、10歳の区切りとして使います。
・年代・・・「1990年代」は1990年~1999年。「2010年代」は2010年~2019年など。
      但し「2000年代」と言った場合、2000年から2999年を表します。
・「家督」なども「代」を使います。・・・薩摩藩第11代藩主。江戸幕府第8代将軍など。

「台」
「台」を使うべき場面は「代」で使うもの以外全てが対象になります。
・金額・・・・「1900円台」は1900円~1999円」
・時間・・・・「9時台」は9時~9時59分。
・スピード・・「80キロ台」は80キロ~89キロ。
・血圧・・・・「120mmHg(ミリ水銀)台」は120~129mmHg。
などです。

「注意」
但し、「年齢」は「代」も「台」でも使用できますが注意が必要です。
・「台」の場合には「40歳台」というように数値と台の間に助数詞「歳」が入ります。
・「代」の場合は「40代」と数字の次にすぐに「代」がきます。
 
「まとめ」
「台」と「代」の使用区分をまとめると、
・「代」は、「年齢」「年代」の場合に使います。
・それ以外の場合は全て「台」を使います。
 ただし、年齢の場合は「60歳台」と「60代」の二通りのパターンがあり、「台」を使う場合は基本的に助数詞が入ります。


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キウイ栽培(摘果と剪定)

2021-06-23 | 家庭果樹

今年の関西地方は5月中旬に雨が降り続いて梅雨入りしたのですが、悪いことに、ちょうどその頃、キウイの雌花が開花のピークを迎えていたのです。
このことは、キウイの受粉が不十分だった可能性があることを意味しています。

受粉ができていないとどうなるのか?
果実が肥大しません。

先日、摘果作業をしたのですが、案の定、肥大していない小さな果実が少なからずありました。

・小さくて丸いのが受粉できていないキウイです。


「私のキウイの栽培方法」
私のキウイの栽培方法は下記の通りです。
 
・剪定 12月~1月に冬剪定を行います。(2月下旬に剪定すると樹液が切口から出てきて樹体を弱らせます。)
    6月~7月に夏剪定を行います
・肥料 1月に、幹から1m程度のところに四ケ所の溝を堀り、市販されている寒肥を入れています。
・受粉 5月中旬に開花したら雄花の花粉を雌花に人工受粉します。
・摘果  開花後30日~50日で収穫果実の80%くらいの大きさになります。
     沢山花が咲いたときには、長果枝で3~4個、短果枝で2個を目安に摘果します。中央を残すように枝の基部、先端の順に摘果します。
・収穫 11月頃、霜の降りる前に収穫します。
・追熟 収穫後追熟します。
    追熟方法は買い物袋の中にキウイとリンゴを入れて結んでおきます。
    1週間から10日ほどで柔らかくなりますので、その頃から食べられるようになります。

・摘果前のキウイの棚です。


開花から1か月以上過ぎて果実が肥大してきたので、先日、摘果しました。
「摘果の目的」
キウイの摘果は6月~7月に行います。
キウイは多く実りすぎると栄養が行き渡らなくなって、ひとつひとつが小さい実になってしまいます。
そこで摘果をおこなって、実の数を減らすことが大切になります。
摘果作業は、大きさが小さいキウイや形の悪いキウイを間引きして行います。

「摘果方法」
ネットを調べると、摘果は開花1ヶ月以内に行い、小果や傷果などを取り除きます。
残す目安は、80cm前後の枝で3~4果、50cm前後の枝で2果、30cm以下の枝で1果とします。
また、植物は、葉で光合成をして養分を作るので、キウイの場合は、1果あたり5~6枚の葉が必要です。

・摘果前の枝です。この枝の長さは1mくらいです。
 この中に受粉ができていない果実が2個あります。(右から1個目と3個目です)


摘果は枝の元部を1番に、次に枝の先端の方を2番に行います。

・摘果後、3個の幼果を残しました。


これが摘果後の棚です。

・摘果後のキウイの棚です。


・今回摘果した幼果です。
 赤丸の中の小さい果実は受粉ができていないキウイであり、残していてもこれ以上は肥大しません。


摘果後2週間ほど経過したキウイです。
残ったキウイは随分大きくなってきました。

・摘果から2週間後のキウイです。


(参考)
「基本的な剪定」
・昨年果実の付いた20cm以下の枝は基部から切り取ります。
 但し、周囲に枝がない場合は基部の芽を確保するため、基部から2節残して切り返し、枝が出るのを待ちます。
・結果母枝の切り返しの目安は、枝の長さが85cm~150cmの場合、
 ①前年果実がついた枝では最終着果節から先端側5~7節を残して切り返し、
 ②つかなかった枝では基部の芽から先端側5~7節を残して切り返します。
・充実した結果母枝を1㎡当たり2~3本残します。
 充実した枝とは前年の7月頃までに生長が停止し、節間がややつまり気味で、表皮が灰褐色した芽の大きい枝です。
・最後に内側に向かって伸びた枝や交差する枝を枝元から切ります。

これを参考に栽培していますが、この通りにはできません。
難しいです。


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夏至と北回帰線

2021-06-21 | 季節

今日は1年で昼の時間が最も長いと言われている夏至です。
その反対に一番短い日が「冬至」で、昨年(2020年)は12月21日でした。
大阪の夏至と冬至を比べると、下記のように約4時間39分昼が長くなっています。

大阪の日の出、日の入り時刻
       日の出時刻     日の入り時刻     昼間の時間
夏至      04:45       19:14        14:29
冬至      07:01       16:51        09:50
                              04:39 (夏至の昼間が長い)

「夏至祭」
夏至は太陽の生命力を得るためという意味があることから、世界で「夏至祭」が行われていますが、日本でも最も有名なのは、三重県伊勢市にある「二見興玉神社」で行われる夏至祭です。
二見興玉神社には「夫婦岩」と呼ばれている2つ岩があり、2つの岩の間から太陽が登る時刻に人々が禊を行います。

・二見が浦の夫婦岩です(ネットより


「夏至の食べ物」
冬至にはカボチャを食べると言われていますが、夏至はとくにコレを食べるという風習はありません。
しかし、大阪の一部の地域では、夏至の日にタコを食べるという風習が今でも残っています。
これは、タコの8本足のように、稲がしっかりと八方に根を張って豊作になるよう祈願するものです。

「夏至」
夏至には、大阪の太陽の南中高度(太陽が真南にきて、いちばん高く上がったときの地平線との間の角度)は78.8度で、ほぼ頭の真上から太陽が照りつけます。
一方、台湾には北回帰線(夏至線:北緯23度27分)が通っており、その線上では夏至の日の太陽の南中高度が約90度となって、正午に真上(天頂)を通過することから、頭の上から強い太陽の日が照りつけます。

「北回帰線」
北回帰線は、北緯23度27分に位置する線ですが、通過している国は、台湾、中国、ミャンマー、インド、バングラデシュ、オマーン、アラブ首長国連邦、サウジアラビア、エジプト、リビア、マリ、モーリタニア、アルジェリア、西サハラ、パナマ、メキシコの16か国で、台湾の北回帰線は東部海岸、花蓮市を通っています。
北回帰線が通る これらの国々の線上では、夏至の日に、太陽が真上にくる正午に線上に立つと、自分の影がなくなってしまうと言う珍しい現象が見られます。

・台湾・花蓮市を貫いている北回帰線を示す塔です。(2019年4月撮影)


「熱帯・亜熱帯の境界」
北回帰線は太陽が垂直に北半球を照らす場所であって、亜熱帯と熱帯の境界線でもあります。
毎年、夏至になると、太陽は白い塔に沿って東から昇って、西へ落ちて、その現象を観察するため、標識には細いラインが作られて、夏至の真昼になったら、太陽はちょうどそのラインに移っていきます。
頭の真上から太陽光が届くことから、塔の傍で立ったら、影がないという珍しい体験ができます。
なお、塔の隙間が北回帰線上であり、これより南側(左側)が熱帯、北側(右側)が亜熱帯となります。 

・今日の正午にはこの隙間の真上を太陽が通過します。(2019年4月撮影)



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「青天の霹靂」の由来

2021-06-19 | 雑学

大阪・熊取町の一昨昨日の16日は一日中雨が降り梅雨らしい一日でしたが、その翌日は一転、青空が広がって夏を思わせる暑い一日となりました。
そして今日は旧暦では5月10日になります。
ということは、一昨日の青空は梅雨の合間の晴れになり、差し詰め、本来の意味での「五月晴れ」ということになります。
「6月の梅雨なのに”五月晴れ?”」
「どういうことなんだ?」
と思われるでしょうね。
実は、五月晴れとは旧暦の5月の晴れのことで、新暦では丁度梅雨の時期に当たり、梅雨の合間の晴れのことを「五月晴れ」というのです。
この説明については5月18日の弊ブログ「梅雨の合間が五月晴れ」をご参照ください。

ところで、晴天と言えば、「青天の霹靂(へきれき)」という故事成語があります。
この言葉はどなたもよくご存じですが、「霹靂」とは一体何を指しているのでしょうか?
今日はこの言葉の由来について調べました。

・6月17日の梅雨の合間の晴れ間です。(自宅庭から)


「青天の霹靂」
青天の霹靂とは、思いもよらない衝撃、予想外のことが突然起こるという意味で使われる表現ですが、この表現は、天候にまつわる2つの言葉が由来となっています。
一つは「青天」であり、もうひとつは「霹靂」です。
「青天」とは、文字通り雲ひとつない青空のことであり、「霹靂」とは、雷が激しく鳴る、落雷するという意味を持つ言葉です。
この2語を合わせた「青天の霹靂」とは、青く澄み切った空に突然雷が鳴り響くという、予想もつかない様相を表しているのです。

「由来となった句」
「青天の霹靂」は南宋の詩人「陸游(りくゆう=1125年~1210年)」が書き下ろした詩の一部「四日夜 鶏未鳴 起作(よっかよるに にわとりいまだなかざるに おきてつくる)の中の句、
 「放翁病過秋 忽起作醉墨 正如久蟄龍 青天飛霹靂」
 (放翁(ほうおう)病みて秋を過ぎ 忽ち起きて酔墨をなす 正に久蟄(きゅうちつ)の竜の如く 青天に霹靂を飛ばす)
に由来していると言われています。

(意味)
  放翁(陸游自身)は病床で秋を過ごしていたが、
  あるときふと起き出して、酒に酔った勢いにまかせて筆を走らせた。
  その勢いの凄まじさは、まさに久しく身を隠していた龍が天に昇り、
  青天に雷鳴を激しく轟かせるかの如きものがあった。

なお、陸游は中国・南宋を代表する有名な詩人で、文学史上では巨匠とも呼ばれた人物で、生涯に綴った詩は9200首を超えると言われています。

「漢字に注意」
「青天の霹靂」で漢字の間違いが多いようです。
青天を意味するところが「晴れ渡る空」、つまり「晴天」であるため、「晴天の霹靂」と誤用する人が多いということです。
「青天」と「晴天」、意味は通じても陸游の歌った詩では「青天」が正しい漢字なので、文章で書くときは十分注意が必要です。

 

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アカンサスの花と伝説

2021-06-17 | 

最近、散歩から遠ざかっていますが、先日、久しぶりに以前散歩していた熊取・長池公園の散歩コースに行ってきました。
すると、入口の広場に以前にはなかった「アカンサス」の花が見事に咲いていたのです。
そこで今日はアカンサスについてご紹介します。

「アカンサス」
「アカンサス」はキツネノマゴ科ハアザミ属の多年草で、原産地は地中海沿岸、トルコ、熱帯アフリカです。
地中海沿岸には約20種が分布し、ギリシアの国花になっています。
日本には明治時代末~大正時代に渡来したと言われています

・これが「アカンサス」です。


「葉」
アカンサスの葉は濃緑色で深く切れ込んで羽状、葉は先端がとがっていますがアザミのようにトゲはありません。
葉は薬用として日焼けや火傷に、根は下痢止めや止血などにも使われるようです。

・アカンサスの大きな葉と花で、古代ギリシャの建築や彫刻、壁画のモチーフになっています。


「コリント式建築のモチーフ」
アカンサスのアザミに似た大きな葉は、成長力の強さや形の美しさから古代ギリシャの建築や彫刻、壁画のモチーフとされています。
そして、アカンサスは古代ギリシャでは聖なる植物とされ、東洋のハスと同様に昔からおめでたい植物だったようです。
                        
・これがギリシャ建築の柱頭に彫刻されているアカンサス模様です。(ウィキペディアより) 

アカンサスの開花期は6月~9月、花穂は長さ60cmくらいで、そこにたくさんの花を咲かせます。
花は上部に赤紫色でひさしのような萼(がく)が、下部に刺の生えたあごのような苞があり、その間から白~淡いピンクの花びらが舌のように出ています。



「名前の由来」
アカンサスはギリシア語の「とげ」に由来し、苞にとげが生えていることに因んでつけられました。
このトゲについてギリシャ神話では次のような伝説があります。

「伝説」
美しい娘アカンサスを太陽の神アポロンが見初め、求婚しましたが拒否されます。
それでも近づいてくるアポロンを爪で引っかいたので、アポロンは彼女を爪のようなトゲのあるアカンサスに変えてしまった、と言うものです。

・名前の由来となっている、トゲがある苞葉(ほうよう:花の基部につく小さな葉)です。


「古代ギリシャ建築『コリント式』の由来」
「アカンサス」が芸術作品に用いられる由来については次のような伝説があります。
昔、古代都市コリントスで少女が亡くなりました。その死を哀れんだ乳母は少女が大切にしていた玩具をバスケットに入れて墓に供えました。
春になると、少女のバスケットにはアカンサスの若葉が絡みついていました。
たまたま、それを見つけた建築家のカリマコスはその美しさに魅了されて、柱のモチーフに使ったことがコリント様式の始まりと言われています。
その後、ローマのパンテオン神殿で見かけるような、アカンサス模様の柱がいろんな場所で使われるようになったということです。


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傘の起源は日傘

2021-06-15 | 雑学

5月16日に梅雨入りした大阪ですが、梅雨入り後はほとんど雨が降りません。
6月に入っても4日に降っただけで、その後は3日連続で真夏日になるなど、夏を思わせるような暑い日が続いていました。
そうした中、一昨日は久しぶりに畑の畝が湿る程度の小雨が降り、そして夜にはまとまった雨が降って、畑はやっと一息ついたところです。

ところで、雨と言えば傘は必需品ですが、この傘、4000年前には既にあったということです。
そこで今日は傘の誕生について調べてみました。

「傘の登場」
傘が最初に登場したのは約4000年前と言われています。
「何故4000年前とわかるのか?」
それは、当時の古代エジプトやギリシャ、ペルシャなどの彫刻画や壁画に描かれているからなのです。
この頃の傘は棒に天蓋(てんがい)のように布が張られたもので、現在のように開閉することはできませんでした。

・4000年前の壁画に彫刻されている日傘です。


「当時は日傘」
約4000年前の傘は日傘として使用されていたということです。
当時は雨の日に傘をさす習慣がなく、濡れることが当たり前だったようです。

では、人々は雨の日どのように生活していたのでしょうか?
当然のことながら、雨が降ってきたら走って帰る。外に出ない。といった考え方が普通だったようです。

では、傘は誰が何のために使用したのでしょうか?
傘は権威の象徴として誕生し、貴族の夫人や高僧たちが外出する際の日除けとして使われました。
なので、自分の手で持つのではなく、お付きの人が傘をさすという使い方だったそうです。

「雨の日に差すと笑われた」
18世紀に入って、イギリスで現在の構造に近い傘が開発されましたが、これも日除けのために開発された傘でした。
この傘をひとりの紳士が雨の日にさしたところ、周囲の人々に笑われたというエピソードが残っているそうです。
しかし、時が経つとその紳士の行為が広がり、次第に雨の日の必須アイテムとして傘が知られるようになったということです。

「和傘」
一方、日本では雨具であった笠に長柄をつけたのが和傘の始まりと言われています。
古くは布を張ったものだったので「キヌガサ」と呼ばれました。
そしてそれを使うことができるのは貴族など特別な身分の人に限られました。
平安時代には紙張りの傘も存在しましたが、日本でも雨具というよりは日除けの役割の方が大きかったようです。

鎌倉時代になると朱色の紙張りの傘が出て、武士や僧侶は日除けにも雨除けにも使用しました。
閉じられる傘の登場は安土桃山時代に入ってからですが、広く庶民に広まったのは江戸時代以降です。

・蛇の目傘です。(ネットより)


「蛇の目傘」
元禄年間には蛇の目傘が登場し、関西から江戸、全国に伝わったのち武士の内職としても製造されていました。
蛇の目傘とは、17世紀終わりごろに番傘を改良して考案されたもので、傘を開くと、紺や赤など基本となる色に白く太い円が広がり、この模様が蛇の目に見えるところから「蛇の目傘」の名が生まれました。

最近では男性も日傘をさしている人を見かけるようになりました。
地球温暖化で気温が上昇していることから、熱中症予防の観点からも男女を問わず日傘が必須のアイテムとなりつつあるようです。
太古の昔も現在も、日傘は必用不可欠の生活用品なのでしょうね。

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炎の花「グロリオサ」

2021-06-13 | 

炎が燃え上がっているような花があります。
名前は「グロリオサ」と言いますが、私は、その姿から「炎の花」と命名したい花です。
英語では炎のユリという意味の「Fire lily」とも言われていることから、「炎の花」としても満更間違いではないように思われます。

「グロリオサ」
「炎の花」グロリオサはアフリカや熱帯アジアに分布する球根植物です。
葉の先端の巻きひげと細いつる状の茎で他のものに絡みつきながら伸びていきます。
花は分枝した枝先に下向きに咲きます。

・炎が燃え上がっているような花「グロリオサ」です。


草丈は50〜150 cm、花径10 cm程の赤と黄色の炎のような花を咲かせます。
他の物に絡みついて生長するので、行灯(あんどん)仕立ての鉢物や切り花として人気があるようです。



グロリオサの日本での歴史は意外に新しく、昭和56年にオランダから球根を輸入して栽培したのが始まりです。
それが高知県の三里地区であり、現在では高知のグロリオサは海外でも高い評価を得ているそうです。

・右下の蕾が咲く日を待っています。


花弁は波打つように反り返り、雄蕊と雌蕊が目立つ独特な姿をしています。
雌しべは6個の雄しべの中心から1㎝ほど伸びた後、直角に左に曲がって伸びています。

・左に伸びているのが雌しべです。


グロリオサはラテン語で「栄光」という意味があります。
英語では栄光のユリという意味の「Glory lily」とか、炎のユリという意味の「Fire lily」という名前が付けられています。
日本では波打った特徴的な花びらの形がキツネの顔のように見えることから、キツネユリとも呼ばれています。

・真上から見るとこんな花です。

 

 

コメント (2)
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ナシ栽培 「赤星病対策と袋掛け」

2021-06-11 | 家庭果樹

「赤星病の予防実験中」
梨の木を植えて14~5年になりますが、毎年、赤星病が発生し、その予防に苦労しています。
昨年、農協に行った時、偶然にも農薬卸の方と話す機会があったのでこの件について聞いてみました。
すると、
「農薬には予防薬と治療薬があるので、この時期(5~6月頃)に予防薬を散布してもあまり効果はない」こと。
そこで私が使用している農薬「オーソサイド」について聞くと、それは予防薬なので、新梢が出る前に散布すること。
と教わりました。
そこで、今年は教わったことを確認するため、冬の間から月に1~2回散布して、赤星病が発生するかどうかを実験しているところですが、今年も発生しました。

・この黄色い斑点が赤星病です。


「赤星病」
住友化学園芸のHPによれば、赤星病は、なし、りんご、ぼけの主要病害だということです。
葉の表面にオレンジ色の斑点があらわれ、その斑点が大きくなってくるにしたがって、葉裏に房状に毛ばだった円形状の病斑を生じ、被害葉は次第に枯れてきます。
赤星病はカイヅカイブキなどのビャクシン類で越冬し、春に移動するので、ビャクシン類さえ無ければ繁殖せず、逆にビャクシン類がそばにあれば、いくらナシやリンゴに殺菌剤をまいても意味がないということです。
予防は、4月の発病初期に7~10日おきに数回、「サンケイオーソサイド水和剤80」などを散布すると効果的となっていました。

・葉っぱの裏にできた赤星病の棘のような胞子です。


「実験結果」
私が使用した殺菌剤は「オーソサイド」を月に1~2回でした。
赤星病の予防実験の結果、今年も発生したのですが、その原因は回数が少なかったのか、それとも竹藪のそばに植えていることからなのでしょうか?
よくわかりません。

赤星病は葉っぱの表に黄色い斑点が生じ、日が経つにつれてその裏側には棘のような胞子が出現してきます。
この胞子が飛散して菌が広がります。
出始めの頃は出た葉っぱを取り除いていたのですが、あまりにも多いことから途中で止めました。



「袋かけ」
そして、先日、幼果がピンポン玉くらいの大きさになったことと、袋を早く掛けることによって赤星病の果実への波及防止になるのではないかと思い、最終摘果をしながら袋掛けを行いました。

最終摘果で残す果実は、果実との間を30㎝以上開けることにし、更に、長い枝でも枝によっては1個にしたり、全てを摘果したりして数を制限しました。
しかし、売られているような大きなナシは出来ません。
果実栽培も素人にはハードルが高いですね。



併せてカラスからの被害を防ぐ目的から防鳥網の補修も行いました。
2015年には袋掛けをしたナシすべてをカラスに食害された苦い経験があります。
それ以来、袋掛けと同時に防鳥網の補修も行うようにしています。
カラスによる食害記事は「カラスの野郎」にリンクしておきますのでご参照ください。




コメント (3)
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