らいちゃんの家庭菜園日記

家庭菜園、家庭果樹栽培及び雑学日記

「雉も鳴かずば」伝説

2020-02-29 | 雑学

日本の国鳥をご存知ですよね。
そうです。おっしゃる通り、「雉(キジ)」です。
日本昔ばなしの桃太郎にも登場する「キジ(雉)」が国鳥なのです。

その雉を例えた諺に「雉も鳴かずば撃たれまい」があります。
意味は申すまでもなく、「余計なことを言ったばかりに、自ら災いを招くこと」を例えたものです。
その雉が私の畑のそばの草むらにいるのです。
あぜ道を通っていると、「ケーン、ケーン」と鳴きながら走って逃げていきます。

「雉」
雉はキジ目キジ科に属する全長60㎝~80㎝、地上性のニワトリ大の鳥で、本州・四国・九州に分布しています。
日本特産で1947年(昭和22年)日本鳥学会で国鳥に選定されました。
昔から日本人とかかわりの深い鳥として、「桃太郎」をはじめいろいろな物語に登場しており、「朝キジが鳴けば雨、地震が近づけば大声で鳴く」といった予知能力まで与えられていると言われています。
しかし、日本の国鳥に選ばれていながら、狩猟が許されているという、不幸な鳥でもあるのです。

「雉の雄」
オスは顔は赤色、頸・胸・下面全体は暗緑色、背面の色彩は複雑ですが美しい色合いです。
繁殖期になると、ハート型の赤い顔になり、「ケーンケーン」と鳴きながらメスを求めます。

・色彩鮮やかなキジの雄です。


「メス」
メスは淡褐色で黒斑があり、尾は雄と比べると短く、全体に地味な色合いです。

・地味な色合いのメスのキジです。


「雉も鳴かずば撃たれまい伝説」
長野市信州新町の犀川の久米路橋に次のような昔話が伝わっています。
橋のほとりに住んでいたお菊の村は、しばしば橋が流され、土手は崩れ、田畑は冠水するのでした。
村人の暮らしは貧しく、年貢を納めずに夜逃げする人も多かったそうです。

お菊が9歳のとき、もうじき正月というのに大病を患ってしまいました。
熱にうなされたお菊は、か細い声で「赤まんま(赤飯)、赤まんま…」とねだったのです。
じっと我慢していた父親は、夢中で名主の倉に走りました。
 
早春のある日、役人たちが小豆泥棒を捕えるため、村にやって来ました。
元気になったお菊は、まりを持ち出し、「♪トントンおらちじゃ 赤まんま食ったぞ!トントン」と歌いながら毬をトントン突きはじめたのです。
この歌声が役人の耳に入り、盗人はこの家のもんだと、お菊の父親は縄を打たれてしまいました。

ちょうどこのころ、大雨が降り続き、久米路橋は架けても架けても流されてしまうのです。
そこで村人たちが集まって、
「こんなに大雨が降るたびに橋が流されるのは、村の中に不心得な者がいるせいだ。水神様の怒りだから、怒りを鎮めるために橋の下に人柱を立てる必要がある。」
と提言したのです。
そして、とうとうお菊の父親は、橋のたもとに生きたまま埋められてしまったのです。
お菊はそれから夜ごとに泣き続け、泣き声は村人の心をかきむしりました。
こうして幾日か経ったある日、お菊はぷっつり泣くのを止め、ひと声も出さなくなりました。
 
何年か経ち、お菊は美しい娘になりました。
秋の夕暮れ、お菊は久米路橋のたもとにじっと座っていたときです。
ひと声キジが鳴いたと思ったら、すかさず鉄砲の音がしました。
撃たれたキジがお菊の頭上にバサバサと落ちてきたのです。
お菊がキジを抱いたところ、閉じられていた唇を開いて、
「かわいそうに…。お前も甲高い声で鳴いたりしなければ、撃たれることもなかったのに。わたしもひとこと言ったばかりに父を殺してしまった」とキジを優しくなでました。
 
猟師が駆け寄り、「お菊、われ口がきけただか!」と叫んだが、お菊は振り返りもしないで、林の中に消えていきました。
そして、その日からお菊の姿は村から消え、だれ一人見た者はいなかったということです。

「雉子も鳴かずばの像」
この伝説に因んだ「雉子も鳴かずば」の像が、久米路橋の近くの奈津女公園に建っているそうです。

・これが「雉子も鳴かずば」の像です


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憮然の意味

2020-02-27 | 雑学

先日、平成30年度の文化庁の国語に関する世論調査が発表されました。
その中で「憮然(ぶぜん)」の意味を尋ねたところ、「腹を立てている様子」と回答した人が半数以上を占めていました。
この言葉の本来の意味は「腹を立てている様子」ではありません。
では、「憮然」という言葉は、元々、どんな意味なのでしょうか?
今日はこの言葉の本来の意味について調べることにしました。

「本来の意味」
「憮然」の「憮」は「がっかりするさま」や「失望するさま」を意味し、「然」は、この熟語における接尾語の働きをもっています。
接尾語とは、常に他の語の下について、意味を加えたり、品詞を変化させたり、丁寧さや数など文法上の変化をもたらしたりする語で、「然」は、接尾語として「そのもののような様子であること」を意味します。

広辞苑では「憮然」は、失望してぼんやりするさま。失望や不満でむなしくやり切れない思いでいるさま。と説明しており、
漢和辞典(三省堂)でも、①失意でがっかりするさま。②意外なことにおどろくさま。となっています。
この様に「憮然」の本来の意味は、失望や落胆、又は驚きのためにぼんやりしたり、呆然とする様子なのです。

「調査結果」
この言葉の調査は今回が3回目で、過去には平成15年度と平成19年度に行われていますが、今回の調査を含め、いずれの時も回答者の6割から7割くらいの人が本来の意味ではない「腹を立てている様子」と回答しています。

この世論調査では、「憮然として立ち去った。」という例文を挙げて「憮然」の意味を尋ねています。
その結果は下表のとおりでした。
                          H30年度  H19年度  H15年度
(ア)失望してぼんやりとしている様子 ・・・・・28.1%  17.1%    16.1%(本来の意味)
(イ)腹を立てている様子 ・・・・・・・・・・・・・・・・・56.7%  70.8%   69.4%
(ア)と(イ)の両方  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・6.3%    2.0%    2.7%
(ア),(イ)とは全く別の意味  ・・・・・・・・・・・・1.5%    0.7%    3.4%
 分からない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・  7.4%    9.5%    8.3%

この3回のアンケートの結果からは、全ての年代を通じて、本来とは違う「腹を立てている様子」という意味で使う人が、本来の意味である「失望してぼんやりとしている様子」を大きく上回っています。

「誤用の原因」
誤用の原因としては次のことが考えられるということです。
1.「憮然」の「ブ」という音が「ぶうぶう言う」などの「小言や苦情を言い立てるさま」などを連想させる可能性があること。
2.また、「ぼんやりとしている様子」としては「呆然」などを使うのが一般的であるために、「憮然」という語と「ぼんやりとしている様子」という意味が結び
  付きにくいこと、などがあるかもしれないということです。

この様なことからか、近年、「不機嫌なさま」という意味を加える辞書も出版されているようです。
精選版日本国語大辞典には、第2版では取り上げていなかった「不機嫌なさま。不興なさま。」を加えているようです。
誤用が一般化すると、辞書も本来の意味ではない解釈を加えることもあるようですね。

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カネノナルキの花

2020-02-25 | 

今日はカネノナルキの花をご紹介したいと思います。
カネノナルキ(金のなる木)はベンケイソウ科クラッスラ属の多肉植物で、正式名はクラッスラ・ポルツラケアと言い、園芸名ではカゲツ(花月)と呼ばれています。
そして、和名はフチベニベンケイ(縁紅弁慶)と言いますが、この名前はあまり使われていないようです。
原産地は南アフリカで日本には昭和初期に渡来しました。

「金のなる木の名前の由来」
「金の生る木」の名前の由来は、栽培業者が販売促進のために五円硬貨の穴を頂芽に通して固定し、若枝が硬貨の穴を通ったまま成長するようにして硬貨が生ったように見せかけ、一種の縁起物的な販売方法をとったためとする説や、葉が丸っこく分厚い形でお金のように見えるからとする説などがあります。
英語名では、葉が硬貨に似ていることから「dollar plant」と言われています。

・この鉢はまだ蕾の状態です。


「花の咲かせ方」
花期は冬で、花を咲かせるためには、1年を通して水やりを控え、出来るだけ日光に当て、そして、夏を過ぎたら絶対に切り戻しをしないことと、真冬の厳しい寒さ(0℃以下)や霜に当てないようにすることです。
以上の点に気をつければ比較的簡単に花を咲かせることができます。



「増やし方」
増やし方は挿し木で行います。
時期は5~8月が適期で、方法は葉のついた茎を5センチ前後の長さに切ります。
日陰で切り口をよく乾かして用土に挿します。
1か月ほどで発根します。


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竹島の日

2020-02-23 | 時事

昨日の2月22日は「竹島の日」でした。
日本固有の領土である竹島も、現実には韓国が不法に占拠しており、加えて、政府でも韓国に遠慮してか、情報発信をあまりしていないことから、若い人たちを中心に国民の間で次第に関心が薄れてきているように感じます。
そこで今日は竹島について調べることにしました。

「竹島」
竹島は島根県の沖合いにある岩礁で日本固有の領土ですが、現在は韓国が不法占拠しています。
島根県の隠岐の島との距離は一番近いところで157㎞、韓国領の鬱陵島との一番近い距離は87㎞のところに位置し、その面積は0.23平方k㎡で、東京の日比谷公園の1.4倍程度の島といわれています。
1905年(明治38年)2月22日、島根県告示40号に基づき、島根県知事が所属所管を明らかにしています。

・竹島です(ウィキペディアより)


「竹島の日」
「竹島の日」は、竹島が島根県に編入された2月22日を記念する日です。
そして、竹島を編入して100周年に当たる平成17年3月16日に「竹島の日」の制定に関する条例が島根県議会で可決されて制定されました。
その目的は、国民の竹島への関心を深めてもらうこととされています。

竹島は安政4年(1857年)長久保赤水(ながくぼせきすい)が作成した「亜細亜小東洋図」にも日本の領土として掲載されています。
この地図には竹島は「竹シマ」と書かれて色で塗り分けされています。

・1857年に作成された亜細亜小東洋図に示されている「竹シマ」です


「李承晩ライン」
その竹島が戦後、韓国の李承晩大統領によって不法に占拠されることになったのです。
その経緯は、外務省のHPによれば、竹島は1952年(昭和27年)1月,李承晩韓国大統領が「海洋主権宣言」を行って,いわゆる「李承晩ライン」を国際法に反して一方的に設定し,同ラインの内側の広大な水域への漁業管轄権を一方的に主張するとともに,そのライン内に竹島を取り込みました。
そして、1954年(昭和29年)6月,韓国内務部は韓国沿岸警備隊の駐留部隊を竹島に派遣したことを発表して不法占拠が始まったのです。

外務省HPより


「李承晩ライン設定の経緯」(外務省HPより)


李承晩ラインによって竹島が韓国の支配下にあると一方的に宣言した事に対し、アメリカは1954年(昭和29年)に竹島問題はサンフランシスコ平和条約により日本領として残したこと、李承晩ラインの宣言が一方的で違法であると韓国政府に伝達しました。
しかし、韓国はこれを無視し続け、現在に至っています。

このとき日本政府は一体何をしていたのでしょうか?
何故、明確に日本の領土であると主張しなかったのでしょうか?
このことが現在の領土問題をこじらせ、不法占拠を許している最大の要因のように思われます。



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じゃが芋の植え付け

2020-02-21 | 家庭菜園

大阪南部の熊取地方は2月中旬から下旬にかけてジャガイモの植え付け時期となります。
そこで一昨日、我が家でもジャガイモの植えつけをしました。

「畑の準備」
今年は雨が多くて、土が乾かなかったことから畝作りが思うようにできませんでした。
そんな中、日照りが続いた今月の初めにじゃが芋用として2畝つくりました。
当地の農家は、畝作りでは石灰も肥料も何にも入れません。肥料は植えるとき、或いは植えた後に入れています。
そこで、我が家もそれに倣って、ただ、畝だけをつくりました。

「種芋の準備」
種芋は毎年1月に農協で購入しているのですが、今年は求めたい大きさの芋が早々に売り切れたことから、ホームセンターで購入しました。
種別は、きたあかり3㎏、メークイン1㎏です。
種芋は植え付けの2~3日前に1片の重さが30g~60g程度で2~3個の芽がつくように縦に切ります。
そのまま、切り口がコルク化するまで、新聞紙の上で乾かします。

・縦に切って乾かした種芋です。


「植え付け」
幅70cmの畝に深さ10㎝程の溝を2列に掘り、その溝に種芋の切り口を下にして、株間30㎝で千鳥掛けに植え付けます。
なお、切り口を上に向けると断面に水が溜まるなどして芋が腐りやすくなります。

・種イモを30センチ間隔に置いたところです。


種イモを囲うように4か所にショベルで隙間を作り、化成肥料を一握りずつ施し、更に種芋間にも施します。

・千鳥掛けに置いた種芋の周り4か所に化成肥料を施したところです。


植え付け後、土を戻して畝を作り直し、マルチ用の黒いビニールを張ります。
その目的は、地温の上昇と草が生えるのを防止するためです。
使用するマルチは、前年にイチゴに敷いたものを再利用しています。



「栽培のポイント」
・ジャガイモの生育適温は15~20℃なので、遅霜に注意が必要です。
・芽は草丈が10㎝程度伸びた頃、1~2芽を残して弱い芽を掻き取ります。
・新しい芋は種芋の上方につくので、マルチをしない場合は株元に2回ほど土寄せを行って芋が地上に露出しないようにします。
・3ヶ月余りで収穫できる短期野菜なので栽培しやすく、6月上旬には収穫が楽しめます。

 

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大和三山「三角関係」伝説

2020-02-19 | 趣味

奈良県南部の飛鳥周辺には大和三山と呼ばれる三つの小さな山があります。
この大和三山には、神代の昔に畝傍山を巡って争った「恋の三角関係」の伝説があるので、今日はそのことについてご紹介します。

・天香久山(あまのかぐやま)152m
・畝傍山(うねびやま)199m
・耳成山(みみなしやま)140m
この三つの山が大和三山と呼ばれている山々で、これらの頂点を結ぶと三角形になり、藤原宮跡はその中心部に広がるという位置関係にあります。
(藤原宮とは、694年(持統8年)から710年(和銅3年)までの16年間、都城制を敷いた初めての都です。平城京に遷都されるまでの日本の首都でした。)

伝説は、その三山の一つ、美しい畝傍山を巡って耳成山と天香久山が恋争いをしたと言われているものです。
このことは万葉集にも次のように詠われています。

「香具山は 畝傍(うねび)ををしと 耳成(みみなし)と 相あらそひき 神代より かくにあるらし 古昔(いにしへ)も 然(しか)にあれこそ うつせみも 嬬(つま)をあらそふらしき」(中大兄皇子巻1-13)

意味は、香具山は畝傍山を男らしい者として古い恋仲の耳成山と争った。神代から、こうであるらしい。昔もそうだからこそ、現実にも、愛する者を争うらしい。

・美しい畝傍山です。


この歌には二つの説があります。
万葉集の中で詠まれた歌の「香具山は 畝傍ををしと 耳成(みみなし)と 相争ひき神代より・・・」の下線部分の「ををし」を「雄々し」と読むか、「を愛(を)し」と読むかで三山にまつわる伝説の内容が正反対になってしまいます。
即ち、「雄々し」と読めば畝傍山が男性で、香具山・耳成山が女性となり、「を愛(を)し」と読めば畝傍山が女性で、香具山・耳成山が男性になります。

・天香久山です。


「伝説」
伝説では、出雲のアボニカミ(阿菩大神)という神様が、香具山と耳成山の二人の男が、畝傍山を妻にしようと争っているのを聞いて、仲裁のため播磨の国まで来たところ、争いがおさまったので、この国にとどまった、とあります。
「万葉集」巻一にも、

 「香具山と耳梨山と争(あ)いしとき 立ちて見に来し 印南国原」
 
意訳:香久山と耳成山が妻争いをしたとき、阿菩の神が、この印南原まで見にやって来たのです。
 という歌が残っています。

・耳成山です。


この伝説を踏まえて、現実に、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=後の第38代天智天皇)が弟の大海人皇子(おおあまのおうじ=後の第40代天武天皇)と額田王(ぬかだのおおきみ)を中にはさんだ三角関係があったのです。
そして、みずからが大和三山の妻争いの伝説にたとえて、三角関係というものが、昔からあったからこそ、いまの自分達も、こうして妻争いをするのだろう、と長歌で告白したのです。

なお、この妻争いが原因で、この兄弟はたいへん仲が悪くなりました。
そして、天智天皇の死後の皇位を巡って、弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と息子の大友皇子(おおとものおうじ)との間で争った「壬申の乱」がありましたが、この兄弟争いもその一因だったのでは? とも言われています。

 

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枕詞「あおによし」

2020-02-17 | 雑学

 
「あをによし 寧楽(なら)の京師(みやこ)は   咲く華の  薫(にほ)ふがごとく  今盛りなり 」 小野 老(万葉集巻3-328)

皆さまがよくご存じのこの和歌は、奈良時代の貴族であり、歌人である小野 老(おののおゆ)が詠った有名な和歌です。
そして、その意訳は
「すべてがすばらしい奈良の都は、花が咲き乱れて、よい香りが漂っている頃のように、今、真っ盛りで賑やかなことよ」
この様な意味になります。

この歌は、小野 老が大宰府(現福岡県太宰府)の地に大宰少弐として派遣されていた時、奈良の都を賞讃して詠んだとされる望郷歌とも、出張帰りの時に都を懐かしむ上司の大伴旅人たちに奈良の華やかな繁栄の様子を報告した歌などとも言われています。

・平城京跡に建つ歌碑です。


ところで、この和歌に歌われている「あをによし」の「青丹(あおに)」ですが、これは「なら」にかかる枕詞です。
でも、なぜ「あおに」が奈良の枕詞なのでしょうか?
今日は青丹(あおに)について調べました。

「青丹(あおに)」は岩緑青(いわろくしょう)の古名で、昔、平城(なら)の地の北側の丘陵地帯で良質なものが産出されていたことから生まれた語です。
「青」は現在の緑のことで、「丹」は土を意味し、緑みのある土の色を指しています。
顔料や化粧料の黛(まゆずみ:眉を書く墨)に使われた青粘土のような暗く鈍い黄緑色です

これが青丹(あおに)色です。


「あをによし」の「あをに」は「青丹」と表記され、奈良は良質の青土が取れることから「青丹よし」という褒め言葉として奈良にかかる枕詞が出来たと考えられているそうです。

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春一番の認定条件

2020-02-15 | 季節

一昨日の大阪地方は夜半から未明にかけて春一番を思わせるような強風が吹き荒れました。
日中にかけては強風も収まり、春を思わせるような暖かい一日でしたが、気象台からの春一番の発表はありません。
ということは、春一番ではなかったのでしょうか?
そこで、今日はどのような条件下で吹く風が春一番なのか調べることにしました。

春一番は、立春から春分までの期間に吹くやや強い南風で、認定条件は次のようになっています。

「春一番の認定条件」
「春一番」の認定条件として、気象庁は次の4項目を定めています。
 1.立春から春分の日の間に吹く風であること。
 2.日本海で低気圧が発達していること。
 3.風速8メートル以上の南よりの強風であること。
 4.前日に比べて気温が上昇すること。
この4つの条件を満たしたとき、その年に最初に吹く風を「春一番」と言い、これ以降、同じ期間に同様の風が複数回発生した場合には「春二番」、「春三番」などと呼ばれます。
反対に上記の認定条件に当てはまらない場合は、例え風速8メートル以上の南よりの強風であっても「春一番の観測なし」とされます。

「春一番」名称の由来
ところで、「春一番」という呼び方の由来ですが、この呼び方は長崎県壱岐郡(現・壱岐市)の漁師の間で使われていた言葉なのだそうです。
1859年(安政6年)2月13日、長崎県壱岐郡の漁師が五島列島沖に漁に出かけた時、いきなり南からの突風が巻き起こり、漁船全てが転覆して53人の漁師全員が死亡したと言う遭難事故がありました。
この事故以来、春先の強風を「春一」もしくは「春一番」と呼ぶようになり、その後、全国に広まったといわれています。

気象予報士 饒村 曜(にょうむら よう)氏によれば、「春一番」という言葉を、気象関係者が使い始めたのは昭和31年(1956年)2月7日の日本気象協会の天気図日記だそうです。
この日記は毎日1枚、9時の天気図にその日の出来事等を簡潔にまとめたものです。
そして、マスコミに取り上げられたのは昭和37年2月11日の朝日新聞夕刊で、「…地方の漁師達は春一番という…」と、毎日新聞夕刊の「…俗に春一番と呼び…」だそうです。

この「春一番」が気象用語として使用されるようになったことを記念して、今日2月15日は「春一番名付けの日」とされています。


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建国記念の日

2020-02-13 | 時事

一昨日の2月11日は「建国記念の日」で国民の祝日でした。
建国記念の日には特別な行事はありません。
なので、一昨日の祝日についても何の記念日か知らない方も多かったのではないでしょうか?

「建国記念の日」
「建国記念の日」とは、「建国をしのび、国を愛する心を養う日」として、1966年(昭和41年)に定められました。
「建国記念の日」は嘗ての「紀元節」で、初代神武天皇が即位した日に由来しています。
神武天皇が即位した日とは、日本書紀によれば、神倭磐余彦命(カムヤマトイワレヒコノミコト)が大和国の橿原の宮で初代神武天皇として即位し、日本国を統一した日で、紀元前660年1月1日とされています。この日は新暦に換算すると2月11日になります。

「制定の背景」
「紀元節」とは、明治政府が定めたもので、明治政府は日本書紀が伝える神武天皇の即位日を日本の紀元の始まりとして明治5年(1872年)11月15日に太政官布告によって制定しました。
しかし、戦後、占領軍は紀元節は日本の憲法の精神にそぐわないとして廃止しましたが、昭和26年頃から「紀元節」復活に向けた動きが見られ、1966年(昭和41年)「建国記念の日」として再制定され、昭和42年2月11日から「建国をしのび、国を愛する心を養う」との趣旨で祝日として復活しました。
「建国記念の日」が「建国記念日」ではないのは、史実に基づく建国の日とは関係なく、建国されたという事実そのものを記念する日だからだと言われています。

「第126代今上天皇」
既述のように建国記念の日」は紀元前660年1月1日に初代神武天皇が即位し、日本国を統一した日が由来となっています。
その神武天皇から昨年5月に即位された今上天皇陛下は第126代になります。
この間、2680年に亘って男系天皇が続いている、いわゆる「万世一系」が保たれているのです。
皇位継承問題で、仮に民間人と結婚された愛子さまが次の天皇に即位され、愛子さまの子供がその次に天皇陛下に即位されると、そこで2680年以上続いた男系の「万世一系」が途切れるのです。
2680年以上続いた皇室の万世一系を途切れさせて良いのか?
それが皇位継承問題の大きな争点となっているのです。

「万世一系(神武天皇からの男系)」
万世一系(ばんせいいっけい)とは、永久に一つの系統が続くことで、多くは皇室・皇統(天皇の血筋)について言われます。
日本では有史以来、男系皇位継承が保持されてきたので、男系で辿ると必ず神武天皇、天照大御神、須佐之男命、月読命、そして前者の三柱の父神である伊邪那岐命に辿り着くとされています。
これに対して女系天皇は架空の概念であるため、女系で先祖を辿っても初代天皇である神武天皇には辿り着かないことから、女系天皇は「神武天皇からの男系」とは異なる系統になるのです。
従って、皇位継承問題では、男系の天皇の即位が求められているのです。

「参考」
男系・・・男子が皇統(男の血筋)
女系・・・母のみが皇統

 

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まんがえー

2020-02-11 | 地元紹介

小生の故郷、岡山県やその周辺の中国・四国地方に「まんがえー」という方言があります。
「漫画絵(まんがえ)」ではありません。

「まんがえー」の「まん」は「運」とか「めぐり合わせ」の意味であり、「えー」は「良い」という意味です。
使い方は、例えば、宝くじに当たったとすれば、「まんがえーのー(運が良いですね)」と言いますし、反対に乗り物などに乗り遅れたとすれば、「まんがわりー(運が悪い)」と使用します。

東京女子大学の篠原教授が書かれた記事によれば、「まん」の由来は、「間」の変化とも、「間」と「運」が結びついた言葉だとも言われ、江戸時代には既に使われていたそうです。

30年ほど前に公開された伊丹十三監督の映画に「あげまん」がありましたが、この「あげまん」も「まんを上げる」、即ち、運気が上がっているさまを表しており、主に付き合った男性の運をあげる女性のことを指して使われていました。

更に、ウィキペディアでも「あげまん」とは、より良い巡り合わせにする女性をいい、反対に不運な巡り合わせにする女性を「さげ(下げ)まん」と称すとしており、その語源については、「まん」とは「間」が転化したもので、運気・潮目・出会い・巡り合わせの意味。関西方言では「まん(間)が良い/悪い」のように使うという説、と説明していました。

今年は7月に東京オリンピックが開催されます。
ところが「まんがわりー(巡り合わせが悪い)」ことに、新型のコロナウイルスによる肺炎が世界的に流行して収まる気配がねーのー(ないですね)。
オリンピックを安全に開催するためにも、遅くとも5~6月ころまでには完全に収束するよう、願いてーものじゃのー(願いたいものですね)。
岡山弁を使用して失礼しました。

 

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