自転車のサドルの上で・・・

サドルの上での気ままなひとりごと

29年目の仇討ち

2024-03-03 | Weblog
 午前中は寒く、絵を描いていた。午後から、中3日の近隣歴史探方サイクリング。
 まずは、椿方面へ。巨大しだれ梅で有名な「鈴鹿の森」も先週から1週間経って、午後は落ち着いている感じ。落花も進んでいるのか?な。通り過ぎて、しばらくの所を左折し、長沢野田の集落の方へ。初めて通過したが、入道岳が奇麗に見える道だ。県道を右折して、西庄内へ。東海自然歩道経由、両尾~白木~亀山城址へ。今日の目的地、「石井兄弟亀山敵討遺跡」碑の前へ到着(見出しの写真)。石碑は昭和7年5月に建立。
 昨年は関の小万の仇討ち(1783年)の石碑を訪ねたが、今回は石井兄弟の仇討ち(1701年)。
 信州の小諸藩主が大阪城代となって、大阪にいる時に、父の友人が養子(源五右衛門)の指導よろしくと頼みに来た。源五右衛門は藩士に槍を教えていると聞き、父は「もう少し稽古してからが良い」と言うと、源五右衛門は立腹し、父に槍の試合を申し込む。父は源右衛門を打ち負かしたが、遺恨を持って、父の家に入り込み、帰宅した父を槍で刺し殺した(1673年11月)。
 長男と次男は父の仇と、まず、養父(父の友人)を草津で討ち果たし、源五右衛門をおびき出すために「美濃の国の何某方にいる」と高札を立てた。しかし、美濃の家の庭で行水している時に、源五右衛門に逆に討たれてしまう。次男はその後、瀬戸内海で海難にあい死亡。
 残された、3男、4男が源五右衛門を仇討にと、行商人などに扮して各地を探す。源五右衛門は名前を変えて、亀山藩に仕えていた。亀山藩は城下に他国者は宿泊あいならん等のふれを出すなど源右衛門をかばっていた。
 しかし、亀山藩士の奉公人として雇われ、機会を伺うことが出来た。28年目となる元禄14年、1701年5月、宿直から帰る源五右衛門を大手門辺りで討つことが出来た、という。
 時に、松の廊下での事件はこの年の3月、赤穂浪士の討ち入りは翌年12月である。
 父が殺されたとき、3男は5歳、4男は3歳であった。
 時代小説作家長谷川伸は「29年目の仇撃」という小説の題材にしている、という。
 帰路は、阿野田から下庄経由で帰宅。走行54㎞。
 
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