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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

4月29日・中原中也の響き

2022-04-29 | 文学
「昭和の日」の4月29日は、「A列車で行こう」のデューク・エリントンが生まれた日(1899年)だが、詩人の中原中也の誕生日でもある。

中原中也は、1907年、山口の湯田温泉で生まれた。誕生時の名は柏村中也。中也は長男で、中也が7歳のときに下の弟が没した。父親は陸軍の軍医だった。中也が8歳のとき、父親が開業医の中原家と養子縁組をし、一家は中原姓となった。
小さいころから詩や短歌を書いていた中也は、学校を落第し、16歳の年に単身、京都へ引っ越して立命館中学に転入。下宿に新劇女優の長谷川泰子を連れ込み、同棲をはじめた。中原が18歳になる年に二人は上京。二人の住む部屋に、中原の友人で、東京大学仏文科の学生だった小林秀雄が出入りするようになり、彼らは三角関係におちいった。結局泰子は中原の部屋を出て、小林と同棲することになった。
さまざまな同人誌に関わり、詩を発表していた中原は、26歳のとき、翻訳『ランボオ詩集(学校時代の詩)』を発表。同じ年に遠縁にあたる女性と結婚。
翌年、27歳で長男が生まれ、詩集『山羊の歌』を上梓した。
29歳のとき、長男が死亡したショックで精神を病むようになった。千葉、鎌倉と転居した後、30歳のとき、故郷の山口へ引っ越すことにし、詩集『在りし日の歌』の原稿を小林秀雄に託した直後、結核性脳膜炎を発症し、1937年10月に没した。30歳だった。

小林秀雄は長谷川泰子にこう言った。
「あなたは中原とは思想が合い、ぼくとは気が合うのだ」(長谷川泰子『中原中也との愛』角川ソフィア文庫)
彼ら三人の恋愛事件は有名な話だけれど、怒鳴り合いとか乱闘とかいうものはなく、表面上は淡々としたものだった。
「私はこう言いました。
『私は小林さんとこへ行くわ』
もうそのときは、運送屋さんがリヤカーを持って表で待っていたんです。あのとき、中原は奥の六畳でなにか書きものをしておりました。そして、私のほうも向かないで、
『ふーん』といっただけなんです。」(同前)
中原は、彼女が置いたままにした荷物を後で届けてやり、こう書いた。
「私はほんとに馬鹿だつたのかもしれない」(同前)
「女が盗まれた時、突如として僕は『口惜しい男』に変つた」(小林秀雄「中原中也の思ひ出」『小林秀雄全集第二巻』新潮社)
中原中也が18歳、長谷川泰子が21歳、小林秀雄は23歳だった。

「秋の夜は、はるかの彼方(かなた)に、
 小石ばかりの、河原があつて、
 それに陽は、さらさらと
 さらさらと射してゐるのでありました。」(「一つのメルヘン」『在りし日の歌』青空文庫)
中原中也は、一つひとつのことばの響きに、瑞々しい叙情姓がある独特の詩人だった。もっと長生きした後に書いた老境の詩も読みたかった。夭逝が惜しまれる。
(2022年4月29日)



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