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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

4月18日・島尾敏雄の結婚

2024-04-18 | 文学

4月18日は、東急グループを築いた五島慶太が生まれた日(1882年)だが、作家、島尾敏雄の誕生日でもある。

島尾敏雄は、1917年、横浜で生まれた。父親は輸出絹織物商だった。6人きょうだいのいちばん上だった。敏雄が6歳のとき、関東大震災により自宅が全壊したが、家族は福島の相馬の親戚の家にいたため、難を逃れた。
一家は、兵庫県へ引っ越し、敏雄は神戸の商業学校へ進み、19歳のとき、九州は長崎の高等商業学校へ進んだ。
高商時代、島尾は友人たちと同人誌を発行し、小説を書いた。ドストエフスキーやプーシキン、ゴーゴリといったロシア文学を読みふけっていた島尾たちの雑誌は、反戦思想の傾向をとがめられて内務省より発売禁止にされた。
23歳の年に九州帝国大学に進んだ島尾は、戦時のことで、半年繰り上げで大学を卒業し、海軍予備学生となった。海軍では魚雷部門に配属され、特攻を志願。27歳のとき、九州と沖縄のあいだにある奄美群島のなかの加計呂麻島に配属され、人間魚雷に乗って特攻出撃するときを待った。が、ついに出撃命令は出ないまま、28歳で敗戦を迎えた。
戦後は神戸の外語大学の講師をしながら同人誌に小説を書いた。その後、東京、千葉、奄美大島と転居し、精神病を発症した妻に付き添い、看護した体験に材料を得た『死の棘』など、病妻ものと呼ばれる一連の小説で有名になった。『魚雷艇学生』などを書いた後、1986年11月、脳梗塞のため没した。69歳だった。

戦争末期、魚雷の特攻隊員として奄美に配属された島尾敏雄は、国民学校の教師をしていた加計呂麻島出身の娘とはげしい恋に落ちた。島尾に出撃命令が出て、その出撃を見届けたら、娘も崖から身を投げて死ぬつもりだった。
しかし、出撃命令は出ぬまま、敗戦となった。
戦後、二人はすぐに結婚し、子どもをもうけた。が、夫の敏雄が外に女を作った。この浮気が原因で、妻は精神がおかしくなり、心因性発作を起こし、精神病棟に入ったり、自宅療養したりするようになり、それに夫は付き添った。この夫婦生活に材をとり、妻がねちねちと夫をいたぶる様子を延々と描写したのが代表作『死の棘』である。

「病妻もの」の島尾敏雄は、ある世代には絶大な人気があった。
『死の棘』は映画化され、カンヌ国際映画祭で審査員賞を受賞した。

それにしても、不遇な時代に咲いた若い、情熱的な恋が、ついに実を結び、晴れて結婚した後、二人には壮絶な夫婦生活が待っていた、という経緯は、人生についてあらためて考えさせる。よく、結婚することを「ゴールインする」と表現するけれど、結婚は単なるスタートにしかすぎないことがよくわかる。
ちなみに、作家だった奥さん(島尾ミホ)のほうは、夫より21年長生きして、2007年3月に、87歳で没している。
(2024年4月18日)



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