1日1話・今日の話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『誇りに思う日本人たち』
『ビッグショッツ』
『黒い火』ほか

1月31日・大江健三郎の水泳

2018-01-31 | 文学
1月31日は、ロックバンド「セックス・ピストルズ」のジョン・ライドンが生まれた日(1956年)だが、ノーベル賞作家、大江健三郎の誕生日でもある。

大江健三郎は、1935年、愛媛県の大瀬村で生まれた。7人きょうだいの上から5番目だった。10歳の小学生だったときに日本が敗戦。
高校生のときにいじめを受け、県内のべつの高校へ転校した。転入先の高校で、後に映画監督となる伊丹十三と同級生になり、親交を結んだ。そして大江は伊丹の妹と交際するようになり、後に結婚した。
一浪して東京大学に入学。仏文科に進み、サルトルを研究。小説や戯曲を書き、東大在学中の23歳のときに『飼育』で芥川賞を受賞。大江より2年前に芥川賞を受賞した石原慎太郎に続いて、社会人経験をへずいきなりプロの小説家という学生作家となった。
以後、『個人的な体験』『万延元年のフットボール』『われらの狂気を生き延びる道を教えよ』『「雨の木」(レイン・ツリー)を聴く女たち』を書いた。
59歳のとき、ノーベル文学賞を受賞。受賞記念講演のタイトルは、ノーベル賞の先輩である川端康成の受賞記念講演『美しい日本の私』のパロディで『あいまいな日本の私』だった。ノーベル賞受賞の報に、当時の文部省はあわてて大江に文化勲章を授与しようとしたが、大江は、自分は戦後民主主義者で、民主主義に勝る権威と価値観を認めないとして、これを辞退した。
大江は60歳のころ、『燃えあがる緑の木』三部作を完成し、いったん小説家卒業宣言をしたが、後に宣言を撤回して、ふたたび小説を書きはじめた現役作家である。

1980年代、大江健三郎は多くの男子学生によって読まれていた。
「日本の作家は、大江健三郎以外はみんな根無し草だ」
と言う学生仲間もいた。
『万延元年のフットボール』を読み衝撃を受けた。知性と情念と、日本の土着的な歴史と、ヨーロッパ文明の教養と、そういったものをこねて丸めてぶつけられた巨大なかたまりだった。『万延元年のフットボール』のような重量感ある迫力をもった小説は、日本には多くない。『ヒロシマ・ノート』にも感心した。

かつて、ある若手の流行作家と話をしていたとき、作家は体力が大事だという話になって、その人がこんなことを言った。
「大江健三郎さんなんか、水泳やってますからね。ええ、泳いでます。年輩の方だけど、ぼくなんかより、よっぽど体力があると思う」
そんな話をした数カ月後、「大江健三郎、ノーベル文学賞受賞」のニュースが耳に飛び込んできた。そう、やっぱり作家は体力。水泳をやってノーベル賞なのである。
(2018年1月31日)



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『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、江戸川乱歩らをへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から日本の大作家たちの生き様、作品を検討していきます。既成の文学評価を根底からくつがえし、あなたの読書体験を次の次元へと誘う禁断の文芸評論。


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1月30日・長谷川町子の精神

2018-01-30 | マンガ
1月30日は、『アメリカの鱒釣り』の作者、リチャード・ブローティガンが生まれた日(1935年)だが、マンガ家、長谷川町子の誕生日でもある。「サザエさん」の作者である。

長谷川町子は、1920年、佐賀の多久で生まれた。三人姉妹のまんなかだった町子は、教師の似顔絵やマンガを描いて友だちに見せるマンガ少女だったが、一面、いじわるをする男の子をやっつけるやんちゃな娘でもあった。
14歳のとき、父親が没し、彼女たち一家は上京した。
彼女は高校生のころから、「のらくろ」の作者、田河水泡に師事。15歳で2ページのマンガ「狸の面」を雑誌に発表し、マンガ家デビュー。戦前からマンガの連載をもった。
終戦直後の26歳のとき、福岡県の地方紙に「サザエさん」を発表。以後、この4コママンガは「新夕刊」「朝日新聞」と掲載紙を替えながら、54歳まで連載が続いた。並行して、週刊誌に「エプロンおばさん」や「いじわるばあさん」を連載。
「サザエさん」や「いじわるばあさん」はテレビでドラマ化、アニメ化された。とくに「サザエさん」は、延々と放送が続き、2018年現在も続いている怪物番組となった。
姉とともに、姉妹社を創設して、著作権管理をおこなっていた長谷川町子は、生涯独身を通し、1992年5月、心不全のため、没した。72歳だった。

テレビアニメの「サザエさん」は、長谷川町子が作ったキャラクターをもとに、作品ごとに、別々の人が脚本を担当しているので、作者が没した後も延々と続けられている。この「基本的なキャラクターだけは変えずに、あとは自由に動かして」という方法は、モンキー・パンチの「ルパン三世」の先駆だったといえる。

テレビアニメ「サザエさん」の安定感には、感心させられる。
会社勤めをする夫と、家庭を守る専業主婦という、高度成長時代のごく平凡な、しかし、実際にはありそうもない家庭をほのぼのと描いて、状況がまったく変化しない。
自殺者の増加や、ニートの問題、ホームレスの増加、ブラック企業、介護問題など、時々に噴出してくるあらゆる社会問題を無視して、テレビアニメ「サザエさん」は淡々と続いていく。登場する子どもたちは成長しないし、みんな老けていかない。男たちは、早朝出勤もないし、徹夜残業してくることもない。数字に追いかけられてノイローゼにおちいることも、リストラ対象になることもなく、いつまでたっても定年退職にならない。
一方、作者の長谷川町子が描いていた4コマの「サザエさん」は、つねに時代に敏感に反応し、痛烈な社会風刺がきらめいていた作品だった。その意味で、テレビアニメ版のほうは、本来の「サザエさん」がもっていた批判精神を完全に骨抜きにした、みごとな換骨奪胎の成果と言える。
テレビアニメの「サザエさん」は、古き良き時代の西部の街を見せるディズニーランドのようなテーマパークと同じで、破壊されていまではなくなってしまった「かつてあったもの」を見せて、郷愁を誘うノスタルジー・エンターテイメントの一種である。
テレビを観終わった後、テーマパークを出た後、周囲を見まわしてみる。すると、いま見てきたようなものはどこにも見当たらない。
(2018年1月30日)


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『デヴィッド・ボウイの生涯』(金原義明)
緊急出版。デヴィッド・ボウイ総論。至上のロックスター、デヴィッド・ボウイの人生、音楽、詞、方法論など、その全貌を明らかにする人物評論。遺作に込められたボウイのラストメッセージとは何か?


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1月29日・スウェーデンボルグの旅

2018-01-29 | 思想
1月29日は『ジャン・クリストフ』を書いたロマン・ロランが生まれた日(1866年)だが、スウェーデンボルグの誕生日でもある。この世とあの世を行き来した神秘思想家である。

スウェーデンボルグこと、エマーヌエル・スヴェードボーリは、1688年、スウェーデンのストックホルムで生まれた。彼の一族は鉱山にたずさわる裕福な家系で、父親はルター派教会の牧師だった。父親は、信仰よりもむしろ神との霊的親交こそが大切であり、天使や精霊が日常生活にいると信じる人で、この考えが息子に強い影響を与えたと言われる。
エマーヌエルは22歳で大学を卒業後、仏、蘭、独などヨーロッパの国々をまわり、英国に4年間住んだ。英国では、物理、機械工学、哲学など、さまざまな分野の研究をし、論文を書き、また詩を書いた。27歳のとき、スウェーデンへもどり、技術者として働きながら、自然科学の研究をはじめ、科学雑誌を発行した。
このころ、彼はスウェーデン国王に天文台の新設を進言した。進言はいれられなかったが、彼は王立鉱山局の監督官に任命された。
30歳のとき国王が崩御したにともない、僧侶の子息を貴族に列する慣例にしたがって、エマーヌエルたち兄弟は貴族となった。これに際し、彼らの家名も、スヴェードボーリから、スヴェーデンボーリ(英語読みで、スウェーデンボルグ)へと変更された。
彼は数学、物理学、工学、天文学、生理学、心理学など幅広い分野の学問を研究し、合理的な航空機のアイディアとしては人類初と言われる概念図を描き、太陽系の生成理論を確立し、大脳皮質に関する学説を打ちだし、各分野で目ざましい業績を残した。
56歳のとき、ネーデルランド(オランダ)を旅行中、スウェーデンボルグは夢のなかで霊界へ旅する不思議な心霊体験をするようになり、それは英国へ行った後も続いたが、彼はそれを霊界日記として書き残した。
59歳で鉱山局の役職から引退し、年金をもらいながら、ヘブライ語や精神世界の研究をはじめ、聖書の心霊的解釈に没頭した。そうして、著作を匿名で出版した。
たびたび英国に旅していたスウェーデンボルグは、英国滞在中の1772年3月に、英国で没した。84歳だった。没後、彼の霊界への探訪記『霊界日記』が刊行された。

文庫本で読んだ『霊界日記』は、抜粋・編集されたもので、日記全体の5パーセントに満たない分量らしい。その不勉強を踏まえた上で説明すると、以下のごとくである。
スウェーデンボルグによると、人間は死ぬと、霊たちのいる世界に連れていかれる。そこで重要になるのは、富とか地位とかの人間社会で通用している価値基準ではなく、霊性が高いか低いかということである。品行の善悪でなく、霊の善悪が問われ、それによって、住む世界が仕分けられ、いずれ、天界か地獄へと向かうことになる。地獄は、いわば魂の刑務所で、矯正の場である。なかには、いつまでたっても復讐や憎悪がしみついて抜けず、延々と地獄にいつづける魂もいる。こうした霊たちの世界、天界、地獄は、人間のいる世界と表裏一体であり、別世界ではないらしい。
この世、人間の社会にも天国や地獄は重なって、同時に存在している。けれど、霊性が低い人には見えない。そういうことかもしれない。

スウェーデンボルグは霊界の報告を通して、じつは、人間がいかに誠実に生きるべきか、誠実な生き方とは何か、という道徳観を語ろうとしたのではないか。
(2018年1月29日)



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『思想家たちの生と生の解釈』(金原義明)
古今東西の思想家のとらえた「生」の実像に迫る哲学評論。ブッダ、カント、ニーチェ、ベルクソン、ウィトゲンシュタイン、フーコー、スウェーデンボルグ、シュタイナー、クリシュナムルティ、ルソー、ブローデル、丸山眞男などなど。生、死、霊魂、世界、存在、認識などについて考えていきます。わたしたちはなぜ生きているのか。生きることに意味はあるのか。人生の根本問題をさぐる究極の思想書。


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1月28日・ファン・コーレンの円周率

2018-01-28 | 科学
1月28日は、作家の小松左京が生まれた日(1931年)だが、16世紀の数学者、ルドルフ・ファン・コーレンの誕生日でもある。円周率を35ケタまで計算した数学者である。

ルドルフ・ファン・コーレンは、1540年、ドイツのヒルデスハイムで生まれた。後にネーデルランド(オランダ)へ移り、デルフトの街で数学教師となり、同時にフェンシングも教えていた。
50歳前後から円周率の計算に身を入れだし、彼より1700年ばかり先に生まれた古代ギリシアのアルキメデスと同じ計算方法でもって、円周率の、より正確な算出に挑んだ。
56歳で数学書『円について』を出版し、そのなかで彼は小数点以下20ケタまでの円周率を示した。その後さらに研究してそれを35ケタまでのばした。
フェンシングも続けていて、54歳のとき、ライデンにフェンシングの養成学校を創設。
60歳のとき、ライデン大学初の数学教授となり、1610年12月の大晦日にライデンの地で没した。70歳だった。彼の墓碑には、
「3.14159265358979323846264338327950288...」
と、彼が算出した円周率の値が刻まれた。

アルキメデスやファン・コーレンが円周率をどうやって計算したかというと、まず、角の多い正多角形を考える。正三角形、正四角形、正五角形、正六角形……正二十四角形……などと角の数を増やしていくと、しだいにそれは円に限りなく近づいてゆく。
これを利用して、ファン・コーレンは、正4×(2の28乗)角形(=約10億角形)とか、正3×(2の31乗)角形(=約60億角形)などといったものすごい多角形を考えて計算し、そこから、円周率はこの数値とこの数値のあいだにあるはずだ、と、数を割り出していったようだ。ドイツでは円周率のことを「ルドルフ数」とも呼ぶ。

スタンリー・キューブリック監督の映画「博士の異常な愛情」に登場するストレンジラブ(異常な愛)博士のモデルと言われる「コンピュータの父」フォン・ノイマンは、1949年にコンピュータを70時間まわしつづけて、円周率を小数点以下2037ケタまで計算した。
現在ではスーパーコンピュータによって小数点以下10兆ケタまで計算されているらしい。

中学一年生のとき、数学の教師が、円周率を黒板に書き並べ、覚え方を教えてくれた。
「産医師異国に婿、産後疫なく(さんいしいこくにむこ、さんごやくなく)」
微分だとか積分だとかはほとんど忘れてしまったくせに、これだけはいまだに忘れないで覚えている。
なにかとりたてて役に立つわけでもないけれど、なぜかひかれる、というものに、生きているとときどき出会う。円周率はそのひとつである。
(2018年1月28日)



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『科学者たちの生涯 第一巻』(原鏡介)
人類の歴史を変えた大科学者たちの生涯、達成をみる人物評伝。ダ・ヴィンチ、コペルニクスから、ガロア、マックスウェル、オットーまで。知的探求と感動の人間ドラマ。


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1月27日・マゾッホの夢

2018-01-27 | 文学
1月27日は、「至上の音楽家」アマデウス・モーツァルトが生まれた日(1756年)だが、作家ザッヘル・マゾッホの誕生日でもある。「マゾヒズム」の由来の作家である。

ザッヘル・マゾッホ。または、レーオポルト・フォン・ザッハー=マゾッホは、1836年、オーストリア帝国の伯爵家の貴族として、現在のウクライナのリヴィフで生まれた。
少年時代から、親戚の伯母さんの伯爵夫人を尊敬し、そのスリッパにキスし、ビンタされては感激していたというマゾッホは、法律、数学、そして歴史学に秀才ぶりを発揮して、20歳で大学の歴史学の講師となった。
オーストリア史の論文を書くうち、やがて創作のほうに熱中しだし、ユダヤ、ポーランド、ドイツ、ガリシアなど、作品ごとに民族色を強く打ち出した短編を多く発表し、文筆家となり、文名はしだいに高まっていった。
私生活では、愛人の女性と、女性を主人とし、マゾッホ自身は女主人に絶対服従する契約書を交わして生活した。その愛人への隷従生活を下敷きにして、33歳のときに小説『毛皮を着たヴィーナス』を発表。彼の文学的評価はいよいよ高まった。
この小説を発表した後、彼は愛人の男爵夫人を小説の女主人公と同じ「ワンダ」という名前で呼び、自分のことを典型的な召使の名である「グレガー」と呼ばせ、女主人と下僕の関係でいるという6カ月間の契約を結んだ。彼は愛人がなるたけ毛皮を着ているように依頼し、汽車に乗るときも、愛人は一等、自分は三等の車両に乗ったという。
37歳のとき、マゾッホは結婚した。彼はいやがる妻に強要して、小説のような主従関係の結婚生活を送ろうとしたが、どうも刺激が感じられないと結局離婚し、秘書と再婚した。
その後、マゾッホは、ユダヤとザクセンの人種の宥和や、女性の教育や参政権をテーマとする雑誌を編集し、再婚した妻とともに、反ユダヤ主義に対抗する成人教育の組織を運営した。晩年は精神障害のケアを受け、1895年3月、ドイツのリンドハイムで没した。

マゾッホは自分の美的理想を作品のなかで完成させ、そして現実のなかでも実現しようとした、本能的であるとともに、高度に理知的な人だった。自分の美的理想の集大成として彼は「カインの遺産」という連作小説を構想していたらしいが、それはついに完成できなかった。
マゾッホは、貴族でありながら、同時に自分で創作をする職人、芸術家でもあり、ペンで訴える社会運動家でもあって、多くの顔をもつ、行動する人だった。「マゾ」の側面ばかりが強調されるけれど、けっしてそれだけの人ではなかった。

サドとマゾが対極にあるとは考えないけれど、強いて比較するなら、サドのほうがより本能的、原始的で、マゾのほうがより理知的で、頽廃的である。
どちらかというとマゾのほうがしっくりくる。でも、心のうちには、サドの部分を含め、もっといろいろな側面がある。人間は、複雑な生き物である。
(2018年1月27日)



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『世界文学の高峰たち』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。ゲーテ、ユゴー、ドストエフスキー、ドイル、プルースト、ジョイス、カフカ、チャンドラー、ヘミングウェイなどなど三一人の文豪たちの魅力的な生きざまを振り返りつつ、文学の本質、文学の可能性をさぐる。読書家、作家志望必読の書。


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1月26日・所ジョージの創造

2018-01-26 | ビジネス
1月26日は、ソニーの創業者のひとり、盛田昭夫が生まれた日(1921年)だが、タレント・ミュージシャンの所ジョージの誕生日でもある。

所ジョージは、1955年、埼玉県の所沢で生まれた。出生時の名は、角田隆之(かくたたかゆき)。
彼は大学に進学したが、授業にまったく出席せず、学費滞納により除籍になった。
宇崎竜童が率いるダウン・タウン・ブギウギ・バンドの雑用係となり、ライブハウスでは、ブギウギ・バンドの前座を務めた。「所ジョージ」という芸名は、宇崎が命名したもので、出身地の所沢と、ミュージシャンの柳ジョージをかけたものだという。
22歳のとき、「ギャンブル狂想曲/組曲 冬の情景」でデビュー。
フォークギターを抱え、漫談をしゃべりながら、コミック・ソングを歌うシンガー・ソング・ライターとしてしだいに活動の場を広げ、ラジオ、テレビの人気者になった。

現代はお笑いタレント全盛の時代だけれど、創造的な才能を感じさせるタレントはそう多くない。なかでも、飛びぬけて強烈な創造性を感じさせる個性派タレント、それが所ジョージである。

所ジョージのデビュー当時、「冬の情景」「寿司屋」といった曲をよく聴いた。「あのねのね」の後継者、発展形という印象だった。当時、所ジョージはラジオの深夜番組をやっていて、それで受験生など深夜族を中心に所人気は高まっていった。

所ジョージの発言でいちばん感心したのは、テレビのバラエティー番組にゲスト出演した所ジョージが、新しい漢字を考えた、と紙に書いて紹介したときだった。

ふつう、漢字には、「かんむり」とか「にょう」とかいった部首があり、「音読み」と「訓読み」のふた通りの読み方がある。

所ジョージが考えた新漢字は、ふつうとはちょっと変わった部首があって、読み方が「かよー読み」と「じゃねーの読み」のふた通りがある。

たとえば、「京」の部首は「なべぶた」だが、「なべぶた」の上にブタの鼻のようなものを書き加えて「ブタぶた」という部首を作る。その「ブタぶた」の下に「肉」という字を書くと、これが彼の新漢字で、読み方は、
「かよー読み」が「また肉かよー」、
「じゃねーの読み」が「野菜とかも食べたほうがいいんじゃねーの」。

あるいは、「遅」の部首は「しんにょう」だが、しんにょうの左部分にかたつむりのカラを描き加えて、「でんでんにょう」とする。するとこれが新漢字となり、読み方は、
「かよー読み」が「まだ来ねーのかよー」、
「じゃねーの読み」が「もう来ねーんじゃねーの」。

こうした創作漢字を次から次へと披露していた。
才人というのはいるものだ。
(2018年1月26日)



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『しあわせの近道』(天野たかし)
しあわせにたどりつく方法を明かす癒し系マインド・エッセイ。「しあわせ」へのガイドブック。しあわせに早くたどりつくために、ページをめくりながら、しあわせについていっしょに考えましょう。読むだけで癒され、きっと心が幸福になれますよ。しあわせへの近道、ここにあります。


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1月25日・サマセット・モームの人生観

2018-01-25 | 文学
1月25日は、詩人、北原白秋が生まれた日(1885年)だが、作家サマセット・モームの誕生日でもある。

ウィリアム・サマセット・モームは1874年、仏国のパリで生まれた。父親は英国人の法律家で当時、英国の駐仏大使館の法律事務を扱っていた。そのころのフランスの法律には、フランスの国土の上で出生した者は、フランス軍の徴兵に応じる義務がある旨の法律があったため、ウィリアムの父親はこれを避けるため、ウィリアムを大使館のなかで生まれたことにしたという。
ウィリアムが8歳のとき、母親が結核で亡くなり、10歳のときに父親がガンで没し、彼は孤児となり、英国イングランドのケント州の親戚に引き取られた。
フランス育ちで英語下手で、吃音のあった孤児モームは、学校ではいじめられた。この少年時代の体験が、彼の人生観に大きな影を落としたと言われる。
モームは十代のころから作家志望だったが、生活の便宜のため、医学の道に進み、貧民街でのインターン勤務などをへて、23歳のころには医師の資格を取得した。
しかし、医師にはならず、小説や旅行記、戯曲などを発表し、作家になった。
40歳のとき、第一次大戦がはじまり、彼は軍医をへて、諜報部員になった。
一次大戦終了後の45歳のとき、『月と6ペンス』を発表。これが世界的なベストセラーとなり、それ以前に発表していた『人間の絆』などの作品も評価されだし、モームは世界的作家となった。小説『雨』『赤毛』、戯曲『おえら方』、評論『世界の十大小説』などを書いた後、1965年12月、南仏のニースで没した。91歳だった。

2010年に、英国ではMI6(英国の情報部の対外工作部門)の、1909年から1949年までの40年間の正史をまとめた本が出版された。40年間の極秘文書の閲覧がはじめて、この本を書いた歴史学者に許可され、それでそれまで秘密だった国家機密がたくさんおおやけになった。そのなかに、サマセット・モームもMI6の一員だった事実が含まれていて、これにより、モームが英国のスパイだったと明らかになった。

高校生のころ、モームの小説『月と6ペンス』を読んだ。ゴーギャンをモデルにした画家、チャールズ・ストリックランドという主人公が、とつぜん芸術に目覚めて、仕事も家族も友人もすべてを捨てて絵画に打ち込みだすという筋の小説で、衝撃的だった。
代表作の『人間の絆』のなかに、
「人生は無意味で無目的である」
という意味のフレーズがあって、これがモームの人生観ではないか、と言われている。モームは子ども時代につらい経験を多くした苦労人で、貧民街や各国の様子など見聞も広く、世の中のいろいろな悲惨を見てしまうと、そういう虚無的な人生観にならざるを得ないのかもしれない。でも、人生を捨てず、なかなかの長寿で天寿をまっとうしたのは立派である。
(2018年1月25日)



●おすすめの電子書籍!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』(越智道雄選、金原義明著)
「月と6ペンス」「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)をピックアップして解説。英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。


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1月24日・ボーマルシェの足

2018-01-24 | 文学
1月24日は、ドイツロマン派の作家ホフマンが生まれた日(1776年)だが、劇作家ほか多才な活躍をした才人ボーマルシェの誕生日でもある。

ボーマルシェことピエール=オーギュスタン・カロンは、1732年、フランスのパリで生まれた。10人きょうだいの7番目の子どもで、父親は時計職人だった。
13歳のとき、時計職人の修業をはじめ、やがて女性たちが放っておかない美しい若者に成長したピエールは、遊び好きの放蕩者となり、工房の高級時計を勝手に持ちだしてお金に替えて遊んだが、腕は抜群で、21歳で正確に時を刻む画期的な速度調節装置を発明した。
この発明を、王室ご用達の一流時計職人が盗み、自分の発明であると宣伝した。怒ったピエールは、設計図など資料をそろえ、科学アカデミーに「おそれながら」と訴えでて、アカデミーから「ピエールこそ発明者」とのお墨付きをもらった。これにより、一気に立場逆転、ピエールは王室ご用達の時計職人となった。
国王ルイ15世に面会し、王の愛人ポンパドゥール夫人のために精巧な指輪時計を作ったピエールは、宮廷内に交友関係を広め、23歳のとき、配膳係をする宮廷の役人となった。
そして24歳で貴族の未亡人と結婚した。この結婚相手がボーマルシェの地に土地をもっていたので、ピエールは「カロン・ド・ボーマルシェ」と貴族風に名乗るようになった。
翌年、妻が病死し、妻の資産は妻の実家へいき、彼はしがない独身の役人にもどった。

文学と音楽に通じていたボーマルシェは、ハープを改良して宮廷で演奏し喝采を浴び、やがてルイ15世の娘たちに乞われて王女らの音楽教師になった。王女たちの覚えめでたいことは、王に取り入りたい財界人たちと彼とを近しくさせ、しだいに金まわりがよくなった彼は29歳のとき「国王秘書官」の肩書をお金で買い、正式に貴族になった。
その後、王宮の密命をおびてスペインへ渡り外交工作をし、国内では森林開発事業に手を染め、35歳のとき『ユージェニー』が初演され、彼は戯曲家としてデビューした。
事業にまつわるいざこざや、遺産相続ほかの金銭問題、あるいは私怨で、幾多の法廷闘争を繰り広げ、国王の密偵として王室スキャンダルの火消しに英国ほか諸外国を飛びまわり、フランス政府の密命を受け、独立戦争を起こした新大陸の反乱軍(後の合衆国軍)へ物資を届けた。牢獄に入ったり出たりしつつボーマルシェは、43歳で『セビリアの理髪師』を、52歳で『フィガロの結婚』を書いた。

彼はまた、法廷闘争にあたって、世論を味方につけるべく、裁判で闘う相手方を風刺し滑稽に描いた『覚書』という小冊子を出版しては、たちまち売り切れる大評判をとった。

フランス革命勃発は、ボーマルシェが57歳のとき。パリに贅をつくした大邸宅を建てていた彼は、62歳で全財産を没収され無一文になり、ドイツで亡命生活を送った。2年後に国外退去状態が解け、晴れて帰国。失った名声と財産を取り戻すべく彼は運動を起こし、それが実りつつあった1799年5月、パリで没した。67歳だった。

ボーマルシェの戯曲『セビリアの理髪師』と『フィガロの結婚』を読んだ。いずれも風刺がきいた楽しい恋愛コメディで、前者をロッシーニが、後者をモーツァルトがオペラ化したのはご存じの通りである。
生涯を通じて女性に大いにもて、きらめく知恵と活力で行動した人、ボーマルシェ。ジェットコースターのように激しく上昇下降した彼の人生は、彼が書いた戯曲よりもずっとドラマティックで現実離れしている。超人的な足どりで駆けぬけた一生だった。
(2018年1月24日)



●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち 第二巻』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。サド、ハイネ、ボードレール、ヴェルヌ、ワイルド、ランボー、コクトー、トールキン、ヴォネガット、スティーヴン・キングなどなど三一人の文豪たちの魅力的な生きざまを振り返りつつ、文学の本質、創作の秘密をさぐる。読書家、作家志望者待望の書。


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1月23日・諏訪根自子の音

2018-01-23 | 音楽
1月23日は、『パルムの僧院』を書いたスタンダールが生まれた日(1783年)だが、ヴァイオリニスト、諏訪根自子(すわねじこ)の誕生日でもある。

諏訪根自子は、1920年、東京の現在の渋谷区広尾で生まれた。
もともと声楽家志望だった母親の影響もあり、根自子は3歳からヴァイオリンを習いだした。7歳のとき、公爵家の園遊会でヴァイオリン演奏を披露し、10歳のときには、来日したロシアのヴァイオリニスト、エフレム・ジンバリストの前で協奏曲を演奏し、天才少女と呼ばれるようになった。
12歳で最初のリサイタルを開き、ベルギー駐日大使の推薦で、ベルギーに留学。
18歳のとき、諏訪は仏国パリへ移ったが、パリにいるとき、第二次世界大戦がはじまった。諏訪はドイツへ渡り、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団と共演。ナチスの宣伝大臣だったゲッベルスから名器ストラディヴァリウスを贈られた。諏訪は戦中もヨーロッパで演奏活動を続けたが、連合軍の攻撃によってベルリンが落ち、ドイツが降伏すると、諏訪の身柄は米軍によって拘束され、彼女は米国をへて日本へ帰国した。
終戦を25歳で迎えた諏訪は、戦後は国内で演奏活動をおこなった。
40歳のころに引退し、彼女は伝説中の人物となった。
48歳のとき、10歳年上の元外交官、大賀小四郎と結婚。大賀根自子となった。大学でドイツ語教師もした夫・大賀は、彼女が71歳のときに亡くなったが、その後彼女は20年以上生き、2012年3月に没した。92歳だった。
2013年には、彼女が十代なかばの、神童と言われていた当時の演奏録音がCD発売された。

深田祐介が書いた『美貌なれ昭和』という本で、諏訪根自子を知った。戦前、天才少女とうたわれ、ヨーロッパでも演奏し拍手喝采を浴びたヴァイオリニストだが、写真を見ると、その器量のよいこと。以来、「美貌」ということばを聞くと、諏訪根自子を思い浮かべるようになった。

諏訪は、戦争の暗い時代に、世界に飛びだして活躍した東洋の名花だった。後半は、それまでのころの華やかな生活ときっぱり縁を切り、一市井の人として、人生の半分以上を表舞台から縁のないところで過ごした。グレタ・ガルボにちょっと似ているが、諏訪は引退後20年くらい沈黙していた後、60歳前後からふたたびバーハやベートーヴェンの演奏を録音し、リサイタルを開いていて、ガルボのように完全に引きこもっていたわけではない。

美貌と才能。天が二物を与えた典型的な例、それが諏訪根自子である。でも、戦争直前のヨーロッパに渡り、爆撃や市街戦で目茶苦茶になった異国の地で生きぬいた、そんな彼女のたくましさこそ、たたえられるべきかもしれない。

彼女が65歳のころに録音したベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第5番を聴いた。音色がなめらかで、品がある。彼女は言っている。
「ひとり、音楽のことを考えている時、どうしても、目の前に大きく聳えたっているのは、バッハとベートーヴェンなんですね。一生かかっても克服出来ない。けれども、挑戦していかなければならない音楽だと思っています」
(2018年1月23日)



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『大音楽家たちの生涯』(原鏡介)
古今東西の大音楽家たちの生涯、作品を検証する人物評伝。彼らがどんな生を送り、いかにして作品を創造したかに迫る。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンから、シェーンベルク、カラヤン、ジョン・ケージ、小澤征爾、中村紘子まで。音の美的感覚を広げるクラシック音楽史。


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1月22日・森敦の歩幅

2018-01-22 | 文学
1月22日は、英国の詩人バイロン卿が生まれた日(1788年)だが、作家、森敦の誕生日でもある。

森敦は、1912年、長崎で生まれた。父親は書家で、母親は従軍看護婦だった。男ばかりの4人兄弟の、敦は三男だった。敦が5歳のとき、一家は朝鮮半島の京城(現在のソウル)に引っ越し、彼は京城の学校を出た。
18歳の年に父親が没し、同じ年、京城に講演会にやってきた菊池寛、横光利一の講演を聞き、話す機会を得、これが縁で「小説の神様」横光利一に師事することになった。
一浪した後、19歳で旧制一高に入学したが、翌年には退学。
22歳のとき、横光の推薦を受けて、小説『酩酊舟』を新聞に連載した。
新聞小説以後、森は捕鯨船に乗りこんだり、樺太に渡ったり、山形の山奥に住みついたりと、各地を放浪するようになった。放浪して、お金がなくなると、機械工場や建設現場で働き、しばらくするとまた放浪の旅に出るという人生を送った。
それでも、29歳のときには結婚し、いっしょに暮らしたり、離れて暮らしたりしながらも、妻が没して死別するまでずっと結婚は続けていた。
流転の生活のなかで、ときどき小説や随想を書いたが、完成しないものが多かった。
61歳のとき、同人誌に『月山』を発表。これが芥川賞候補となり、芥川賞はもともと新人作家のために設けられた賞だったため、62歳の新人がいてよいのか、との議論もあったが、結局受賞が決まり、以後、森は作家生活に入った。
芥川賞受賞の翌年、妻が没。
1989年7月、森は腹部大動脈瘤破裂のため没した。77歳だった。著書に『鳥海山』『わが青春 わが放浪』『われ逝くもののごとく』『意味の変容』などがある。

森敦の小説『月山』を学生のころに読んだ。芥川賞作家の宮本輝がかつて、
「数ある芥川賞受賞作のなかでも『月山』と『限りなく透明に近いブルー』は別格だ」
と発言したが、そうかもしれない。『ブルー』は村上龍が24歳、『月山』は森敦が61歳だったときの作品である。

モダンで感覚鋭い横光利一とおよそ対照的な作風の森敦が師弟なのは興味深い。

ある時期『わが青春 わが放浪』『われ逝くもののごとく』『意味の変容』など、むさぼるように読んだ。
その人生を歩く歩幅の大きさ、その歩調のゆったりとした悠然としたさまに驚かされた。
おおよそ、十年働いて、十年さすらい、また十年働く、という感じで人生を送った人で、お金に背中をたたかれ、こせこせと始終せわしなくしている小者の多い現代日本のなかで、これだけ姿の大きな人は、めったに見当たらない。
こういう人の横に並ぶと、たいていの人は、みな忙しく動きまわっている小ねずみのようなものである。細かなことにこだわらず、森敦のように、ゆったりとした歩幅でわが道を歩みたいものだ、とは願うものの、なかなかそうはいかない。それで、せめて『月山』や『われ逝くもののごとく』を読み返す。
(2018年1月22日)



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『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹らの現代作家から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、川端康成、江戸川乱歩ら昭和をへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から日本の大作家たちの生き様、作品を検討していきます。既成の文学評価を根底からくつがえし、あなたの読書体験を次の次元へと誘う禁断の文芸評論。


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