1日1話・今日の話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『誇りに思う日本人たち』
『ビッグショッツ』
『黒い火』ほか

12月31日・マティスとの符合

2017-12-31 | 美術
12月31日。大晦(おおつごもり)のこの日は、「故郷に帰りたい」を歌ったシンガー・ソング・ライター、ジョン・デンバーが生まれた日(1943年)だが、画家、アンリ・マティスの誕生日でもある。

アンリ・マティスは、1869年、仏国の北部、ベルギーとの国境に近いル・カトー=カンブレジで生まれた。父親は裕福な穀物商人で、アンリは長男だった。
彼は最初、法律家を志していたが、20歳のとき、病気で療養しているときに絵画に興味をもちだし、急に絵画志望へと転向した。
ギュスターヴ・モローの教えを受け、ジョルジュ・ルオーと交友関係を結んだマティスは、写実的な作風から、しだいにゴッホやゴーギャンの影響を受けた、感覚的に色彩を大胆に使った作風へと変化していった。
30代半ばには、強い色彩をはげしいタッチで自由に描き、ドランたちとともに「フォーヴィスム(野獣派)」運動の中心的存在とみなされるようになった。
ピカソやブラックのキュビズムが理知的に画面を構成していくところ、マティスらのフォーヴィスムは感覚を重視し、明るい色調でのびのびとした画面を作った。
その後、マティスは、しだいに色彩と線を単純化していき、画面を構成する要素はどんどんすくなくなっていき、ついに、人物のシルエットが画面のなかで躍動しているだけという、切り絵のような作風を作り上げた。
晩年は実際に、油彩をやめ、紙を切り抜いて張り付けた切り絵の作品を作った。
「色彩の魔術師」と呼ばれたマティスは1954年11月、心臓発作のためニースで没した。84歳だった。

マティスの絵は、たいていの場合、とても大きな絵で、遠くからでもひと目でマティスとわかる。見ようとせずとも視界に入ってくる。こちらの意識に強引に割り込んでくる、強烈な個性の画家である。

マティスの芸術は、ゴーギャンの進んだ方向をさらに進み、煮詰め、余分なものをそぎ落としていったものである。
人物の顔のど真ん中に緑色を塗り付け、たくさんの種類の色を塗りたくった初期の作風から、どんどん色数を減らしていき、しまいには、背景に一色か二色、人物に一色か二色程度の色数のすくない画風にいたった。
小学生のころ、まだマティスを知らなかったが、初期のマティスに似た水彩画をよく描いていた。白い壁の家を、いろいろな色で塗りたくって表現して、なぜそういう色彩を使うのかわからないまま、ただ、そうしたかったのでそう塗ったのだけれど、美術の教師はそういう色の使用をなぜか褒めてくれた。
それから何十年もたって、最近は、リキテンスタインなどの色数のすくない絵が好きで、そうしてみると、縁がなかったと思われていたマティスの進み方と、なんだか歩調が合ってきた気がしてくる。
マティスの色彩のような、旗幟鮮明な生き方をしたいものだ。よいお年を。
(2017年12月31日)



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『芸術家たちの生涯----美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。彼らがいかにして作品を創造したかに迫り、鑑賞者はその美をどうとらえるべきか解説する美術評論集。会田誠など現代作家から、ウォーホル、岡本太郎、ダリ、棟方志功、シャガール、ピカソ、上村松園、ゴッホ、ルノワール、モネ、レンブラントをへて、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチなどルネッサンスの作家までをたどり、通読するとおのずと美の変遷史が把握される「読む美術史」。


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12月30日・開高健の切れ

2017-12-30 | 文学
12月30日は、『ジャングル・ブック』を書いた英国作家、ラドヤード・キプリングが生まれた日(1865年)だが、日本の作家、開高健の誕生日でもある。

開高健は、1930年、大阪で生まれた。父親は学校教師だった。
13歳の年に父親が没した。
大学在学中に学生結婚した開高は、学生時代から洋書書店で働き、卒業後は、サントリーの前身である壽屋(寿屋。ことぶきや)の宣伝部に入り、さかんに洋酒広告の宣伝コピーを書いた。サラリーマン生活のかたわら、小説を書き、28歳の年に小説『裸の王様』で芥川賞を受賞。退社して作家となった。
34歳のころ、新聞社の臨時特派員として戦争中のベトナムへ行き、死地をさまよい、奇跡的に生還した。その体験をもとに書いた『輝ける闇』などのほか、写真入りの釣り紀行『オーパ!』などを書き、酒通、食通としても知られた。
1989年12月、食道ガンに肺炎を併発し、没した。58歳だった。

開高健の小説はあまりピンとこないのだけれど、随筆や紀行にはとても共感を覚える。語彙が豊富で、いかにも宣伝コピーを書いていた才人らしく、ことばの切れ味がいい。
とくに開高の世界釣り紀行『オーパ!』シリーズが好きで、ときどき開く。各巻の扉には、この有名な文句が記されている。
「何事であれ、ブラジルでは驚ろいたり感嘆したりするとき、『オーパ!』という。」(開高健・著、高橋昇・写真『オーパ!』集英社文庫)

『オーパ!』の冒頭には、中国の古いことわざとして、つぎの味わい深いことばが掲げられている。
「一時間、幸わせになりたかったら酒を飲みなさい。
 三日間、幸わせになりたかったら結婚しなさい。
 八日間、幸わせになりたかったら豚を殺して食べなさい。
 永遠に、幸わせになりたかったら釣りを覚えなさい。」(同前)

以前流行した「カピバラ」について、はじめて知ったのも、開高健の『オーパ!』によってだった。アマゾン河を旅する記述のなかにこうある。
「河を上流へいくにつれてワニは鷹揚になるが、それと同じなのが、カピヴァラである。(中略)姿はちょっと風変わりなブタというところだし、いつも水辺に棲んでいるというところから、ミズブタなどと呼ばれるのだが、本来ならば、ブタネズミと呼ばれてしかるべき妙な一族なのである。(中略)なかにはボートが近づくと、逃げたものか、逃げないものか、いずれとも決しかねたあげく、頭だけ藪につっこんで下半身はさらけだしたままという姿態をとったのもいた。」(同前)

わずらわしい人間社会から遠く離れて、原野を自由にさまよいたい、でも、書斎で本を読みながらウイスキーを飲む生活にもひかれる。開高健の紀行は、相反するふたつの気持ちをしきりにくすぐる。
(2017年12月30日)


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『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹らの現代作家から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、川端康成、江戸川乱歩ら昭和をへて、泉鏡花、夏目漱石、森鴎外などの文豪まで。読書体験を次の次元へと誘う禁断の文芸評論。


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12月29日・グッドイヤーの追求

2017-12-29 | ビジネス
12月29日。年の瀬も押し迫ったこの日は、チェロ奏者、パブロ・カザルスが生まれた日(1876年)だが、ゴムの加工法を発明したチャールズ・グッドイヤーの誕生日でもある。

チャールズ・グッドイヤーは、1800年、米国のコネチカット州ニューヘブンで生まれた。家は農家で、チャールズは6人きょうだいのいちばん上の子だった。
13歳のころ、彼は単身フィラデルフィアへ出て、金属製品の商売について学びだした。21歳のとき、故郷へもどった彼は、象牙や金属のボタン、農業器具の製造、販売をはじめた。うまくいっていた彼の仕事は、彼が30歳になるころに傾き、ついに倒産した。彼は債権者たちから訴えられ、刑務所に収監された。
そのころから、グッドイヤーはチューブなどを作るゴム製品に興味をもちだし、金属からゴムの研究に移った。
当時のチューブ用ゴムは、寒い季節には硬くこわばり、暑い夏場には溶けてベトベトになるお粗末な代物だった。
グッドイヤーはゴム製品の安定性を求めて、極貧の状況のなか、破産したりしながら実験と研究を重ねた。この過程で、ゴムを熱した際の煙を吸うなどにより、グッドイヤーはそうとう健康を害したが、40歳のころ、ついにゴムに硫黄を加えて加工し、ゴムに弾性と強度を与えることに成功した。
彼は出資者を募り、ゴム工場を立ち上げ、43歳のときに、加硫ゴムの特許をとった。
このゴムの製法については、特許を無視してまねされるケースが絶えず、グッドイヤーはいくつもの訴訟を起こし、なかなかなくならない特許侵害と戦いつづけ、1860年7月、
ニューヨークで没した。
亡くなったとき、彼には20万ドルの借金が残っていたという。

タイヤ・メーカー「グッドイヤー社」は、チャールズ・グッドイヤーの名前から社名をとったにはちがいないが、グッドイヤー本人または彼の遺族とは無関係らしい。

グッドイヤーは、実験に注ぎ込むために家財を売り払い、ついには食べるものにもこと欠き、12人の子どものうち半数が幼少時に没したという。まさに発明家の執念の生涯だった。横光利一のことばを思いだす。
「よく作家が寄ると、最後には、子供を不良少年にし、餓ゑさせてしまつても、まだ創作をつづけなければならぬかどうかといふ問題へ落ちていく。ここへ来ると、皆だれでも黙つてしまつて問題をそらしてしまふのが習慣であるが、この黙るところに、もつとものつぴきのならぬ難題が横たわつてゐると見てもよからう。」(横光利一「作家の生活」『横光利一全集 第十二巻』河出書房)
いろいろと考えさせられる人生である。

グッドイヤーは言っている。
「人は、つぎの場合にのみ、後悔する正当な理由をもつ。それは自分が種をまいたのに、誰も刈りとってくれないときである。(A man has cause for regret only when he sows and no one reaps.)」(Brainy Quote: http://www.brainyquote.com/)
(2017年12月29日)


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『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、デュポン財閥のエルテール・デュポン、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。


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12月28日・石原裕次郎の目

2017-12-28 | 映画
12月28日は、官公庁御用納めの日で、「コンピュータの父」フォン・ノイマンが生まれた日(1903年)だが、戦後最大の日本映画スター、石原裕次郎の誕生日でもある。

石原裕次郎は、1934年、兵庫の神戸で生まれた。父親は学歴のないところから汽船会社の重役にまでなったたたき上げで、父親の転勤にともなって、裕次郎は北海道の小樽、神奈川の逗子と転々としながら育った。裕次郎は、作家・政治家になった二つちがいの兄、石原慎太郎と2人兄弟である。
子どものころからスポーツ万能だった裕次郎は、少年時代から水泳、スキー、、バスケットボール、ヨットに熱中し、女と酒と遊びにふける放蕩息子となった。
高校生だった16歳のとき、父親が没した。父親が亡くなっても、裕次郎の放蕩はやまず、母親のハンコと預金通帳を持ちだして遊びにつかった。
「たまに家に帰ってくる弟(裕次郎)を母がなじると、弟は、それなら親父が残したものをきちんと三等分にして自分に渡してくれ、自分は自分で納得いくように使うからなどともいい出した。
 弟の使い道など知れているから、それがなくなった時にどうするつもりだといえば、それはその時のこと、俺は俺の好きなように生きるから死んだ親父のつてで船員にでもなるという始末だった。(中略)結局、母も私もはらはらしながらいつも弟のいいなりに引き摺られていった。」(石原慎太郎『弟』幻冬社文庫)
裕次郎はその後、慶応大学に進学した。学生時代に映画会社の俳優オーディションを受けたが、片っ端から不合格だった。
裕次郎が21歳のとき、兄の慎太郎が『太陽の季節』で芥川賞を史上最年少で受賞。兄は一躍人気作家となり、その作品が映画化されるにあたり、兄のごり押しによって、裕次郎はわき役として映画初出演した。そして、つぎの慎太郎・原作の映画『狂った果実』でも兄の押し売りによって、裕次郎は主役を演じた。そして、一気にスターダムにのしあがった。「足の長い俳優」石原裕次郎は日本中に「太陽族」ブームを巻き起こし、圧倒的な人気を誇る日本最大のスターになった。
石原裕次郎は、みずからプロダクションを興し、俳優を育て、映画やテレビ番組制作に乗りだすとともに、歌手としても活躍した。そして1987年7月、肝細胞癌のため、東京の病院で没した。52歳だった。

映画『狂った果実』は、トリュフォーやゴダールら、フランス・ヌーヴェルバーグの監督たちが「聖書」としてあがめた傑作だけれど、あの映画の鮮烈な印象には打ちのめされた。感性のきらめく斬新なフィルム編集、そして、出演者では、岡田眞澄と石原裕次郎の存在感が圧倒的だった。
無邪気な笑顔、予測不能な行動の奔放さ。若いころの石原裕次郎のきらきらした魅力は、ちょっとほかでは見られない種類のものだ。母親は兄・慎太郎にこう言ったという。
「お前はいつもきちんとしていて男前だったけど、あの子はお前に比べれば不細工な顔をしていたわよね。でも子供の頃から目が、目だけはいつもきらきらと綺麗な子だなあと思っていたのよ」(同前)
(2017年12月28日)



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『映画監督論』(金原義明)
古今東西の映画監督30人の生涯とその作品を論じた映画人物評論集。監督論。人と作品による映画史。チャップリン、溝口健二、ディズニー、黒澤明、パゾリーニ、ゴダール、トリュフォー、宮崎駿、北野武、黒沢清などなど。百年間の映画史を総括する知的追求。


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12月27日・ヨハネス・ケプラーの楕円

2017-12-27 | 科学
12月27日は、大女優、マレーネ・ディートリッヒが生まれた日(1901年)だが、天文学者、ヨハネス・ケプラーの誕生日でもある。

ヨハネス・ケプラーは、1571年、ドイツのヴァイル・デア・シュタットで生まれた。ヨハネスは4人きょうだいの1人で、彼が生まれたとき、祖父は市長だった。ヨハネスの父親は、傭兵をしていて、ヨハネスが5歳のとき、家族を捨てて出ていった。母親は人を癒すヒーラーで、ヒーリングに植物を用い、魔法を試みたという。
神学校を出たヨハネスは、大学で数学を学び、23歳のころから、グラーツの学校で数学と天文学を教える学校教師になった。しかし、27歳の年に、プロテスタントの牧師と教師に対し、グラーツの町からの退去命令が出され、ケプラーは失業した。
翌年の28歳の年に、ケプラーはプラハに招かれ、宮廷付きの天文学者だったティコ・ブラーエの助手(または同僚)として働きだした。
ブラーエは、抜群の視力の持ち主で、望遠鏡を使わない観測者としては世界最高の精度を誇っていた。彼は恒星や惑星のほか、超新星や彗星などの追跡観測もおこなった。
ケプラーが29歳のとき、ブラーエが没すると、ケプラーはその後の職務を継いだ。ケプラーの目はそんなによくなかったのかもしれないが、彼はブラーエの残した膨大な観測データを分析し、そこからケプラーの法則と呼ばれる、つぎの三つの法則を導きだした。
「第1法則」惑星は、太陽をひとつの焦点とする楕円軌道上を動く。
「第2法則」惑星と太陽とを結ぶ線分が単位時間に描く面積は、一定である。
「第3法則」惑星の公転周期の2乗は、軌道の長半径の3乗に比例する。
ケプラーは、晩年は、魔女裁判にかけられた母親の弁護に奔走し、なんとか母親を助けた後、1630年11月、レーゲンスブルクで没した。58歳だった。

ケプラーについては高校生のときに物理学の教師からよく話を聞いていた。
人類の世界観、宇宙観は、ケプラー以前と、彼以後とで大きく変わる。
すなわち、ケプラーはまず、惑星が楕円軌道を描いてまわっていることを発見し、これが、すでにコペルニクスが遺言していた地動説を、より堅固なものとした。ケプラーの法則はまた、ニュートンの万有引力の発見へとつながっていく。ケプラーの法則から、
「惑星は、距離の二乗に反比例する力によって、太陽に引っぱられている」
という事実が導かれる。この「太陽と惑星のあいだに、ひっぱる力が存在する」ということに、ケプラーはすでに気づいていたと言われる。

ティコ・ブラーエとケプラー。この二人が宇宙の構造をがらりと変える一石を、人類の歴史の池に投げこんだのである。その波紋により、彼ら以前の人類は、たちまち「古い人種」となった。
現代人が信じている世界観など、すこしたつと、がらりと変わってしまうのかもしれない。すると、未来の人類から、われわれ現代人など、まだ魔女裁判をやっていた人々といっしょにひとくくりにされ、無知蒙昧な時代の、生まれ落ちてわけもわからず右往左往して死んでいったに人種として分類されるにちがいない。
(2017年12月27日)



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『科学者たちの生涯 第一巻』(原鏡介)
人類の歴史を変えた大科学者たちの生涯、達成をみる人物評伝。ダ・ヴィンチ、コペルニクスから、ガロア、マックスウェル、オットーまで。知的探求と感動の人間ドラマ。

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12月26日・藤沢周平の時代

2017-12-26 | 文学
12月26日は、『北回帰線』を書いた米国の巨人、ヘンリー・ミラーが生まれた日(1891年)だが、時代小説家、藤沢周平の誕生日でもある。

藤沢周平は、1927年、山形の鶴岡で生まれた。本名は、小菅留治(こすげとめじ)。家は農家で、彼は5人きょうだいのまん中だった。
働きながら中学の夜間部をでた小菅は、山形の師範学校をでて、22歳の年に中学校教師になった。が、その後、肺結核となり、休職して入院生活を送った。右肺の一部を手術で切除したという。
退院後は、東京にでて、業界新聞の記者となり、仕事のかたわら、小説を書きはじめ、文芸誌の新人賞に投稿しだした。
投稿をはじめて数年後、44歳の年に雑誌の新人賞を受賞し、翌年、『暗殺の年輪』で直木賞を受賞。47歳の年に業界新聞をやめ、作家生活に入った。
江戸時代の庶民や下級武士の哀歓を描いた時代小説作品で知られ、『本所しぐれ町物語』『蝉しぐれ』『たそがれ清兵衛』『漆の実のみのる国』などを書いた後、1997年1月、肝炎により没した。69歳だった。

歴史小説と時代小説とは、別ものである。独断的にいうと、時代小説は主に江戸時代を舞台にすえ、当時の風俗を背景に人情を自由に描いたもの。一方、歴史小説は、歴史の文献を踏まえ、そこに書かれている事実を骨格として、想像力で肉付けして、あるまとまった感慨を表したもの、である。
歴史小説と時代小説の境目は判然としないけれど、藤沢周平は明らかに時代小説の作家で、司馬遼太郎は歴史小説家である。
歴史学の研究者だから歴史書は読むけれど、歴史小説はあまり読まないし、時代小説にいたってはまったくと言っていいほど読まない。それでも藤沢周平作品をいくつか読んだことがあるのだから、いかに藤沢周平が高名か、ということである。

藤沢周平は、ヒューマニズムの作家である。温かい人情があり、市井の名もない人々の価値をすくい上げようとする作者のやさしい目がきらめいている。
それでもなお、あまり読む気にならないのは、「時代小説」と銘打ちながら、時代小説には時代性があまり感じられないからかもしれない。
たしか、芥川龍之介がどこかでこういう意味のことを書いていた。
「現代の歴史小説というのは、現代人が、過去のその時代へ行って、当時の服を着て歩いているようなものばかりである。風俗は当時のものだが、感じ方や考えていることは現代人そのままである。できれば、そういう歴史小説ではなく、風俗は現代のままで、感情や考え方だけが昔の時代を反映している、そういう歴史小説を読んでみたい」
まったく同感で、たぶん、何百年も昔の人は、いまとはぜんぜんちがった価値観で生きていた人が多いはずなので、そういう考え方の人間や時代精神そのものを見てみたい。
(2017年12月26日)



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『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹らの現代作家から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、川端康成、江戸川乱歩ら昭和をへて、泉鏡花、夏目漱石、森鴎外などの文豪まで。新しい角度から大作家たちの生き様、作品を検討。読書体験を次の次元へと誘う文芸評論。


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12月25日・植木等の光

2017-12-25 | ビジネス
12月25日は、クリスマス。この日は、リンゴを落ちるのを見て万有引力を発見したアイザック・ニュートンが生まれた日(1642年。ユリウス暦による)だが、コメディアン植木等の誕生日でもある。

植木等は、1926年、愛知県の名古屋で生まれた。父親は、真宗の僧侶だった。
等が3歳のころ、父親の転勤(寺の住職として赴任)のため、三重県の伊勢へ一家は引っ越した。
植木等は、13歳のころ、坊主の修行をするために東京へでた。そうして大学の学生だった20歳のころ、レコード会社の新人歌手オーディションに合格。ラジオ番組で歌うようになり、このころからギターを練習し、ジャズにのめりこみはじめた。
24歳のころからジャズバンドで演奏しだし、30歳のとき、ハナ肇、谷啓らのバンド「クレージーキャッツ」に参加。ジャズ演奏をするバンドでありながら、お笑いコントもするという不思議な集団の中心的存在として活躍した。
テレビの番組「シャボン玉ホリデー」で披露した、
「お呼びでない? こりゃまた失礼いたしました」
のギャグは大流行し一世を風靡した。
植木は36歳の年に、映画「ニッポン無責任時代」に主演。映画は大ヒットし、以後「無責任男」シリーズの映画に出演し、ソロ歌手として「スーダラ節」「ハイそれまでヨ」などお笑いソングを歌い、大ヒットさせた。
2007年3月、呼吸不全により、東京の入院先で没した。80歳だった。

植木等こそ、日本の大スターだった。圧倒的な存在感の人だった。
植木等は、ずっと以前、テレビのトーク番組に出演して、こんな逸話を語っていた。寺の住職だった彼の父親は、子ども時代の等の前で、お寺のご本尊の仏像をものさしでペンペンとたたき言った。
「これは木を彫ったのに金箔を塗っただけのものだ。べつにありがたくもなんともない……檀家の者には言うなよ」
彼の父親はまた、徴兵を受けた檀家の若者が出征前のあいさつに来ると、
「戦闘になったら、隠れていて弾をよけ、終わったのを見計らって、戦っていたような顔をしてでていけ。生きて帰ってこいよ」
と送りだした。それで特高警察に引っ張られた。坊主が説教されたわけである。
その父親に、植木等が「わかっちゃいるけど、やめられない」のフレーズで有名な「スーダラ節」を、今度歌うことになった新曲だと恐る恐る紹介すると、父親は「親鸞上人の教えの通りの歌だ」と激賞した。

植木等は人のいいところを見つけ、褒める人だった。そして「洒落っけ」を大切にした。
負けん気の強い努力家の部分を表に見せないダンディズムの持ち主だった。「一所懸命やっています」ということを全面に表すことを要求される昨今では、流行らない、粋だった。
「クリスマス生まれ」にふさわしい、世に光をもたらす人物だった。
(2017年12月25日)


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『おひつじ座生まれの本』~『うお座生まれの本』(天野たかし)
おひつじ座からうお座まで、誕生星座ごとに占う星占いの本。「星占い」シリーズ全12巻。人生テーマ、ミッション、恋愛運、仕事運、金運、対人運、幸運のヒントなどを網羅。最新の開運占星術。


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12月24日・北川悦吏子の現実

2017-12-24 | ビジネス
12月24日は、クリスマス・イヴ。この日は、米国の富豪、ハワード・ヒューズが生まれた日(1905年)だが、脚本家、北川悦吏子の誕生日でもある。

北川悦吏子は、1961年、岐阜の美濃加茂市で生まれた。大学を卒業した後、広告会社、撮影所勤務をへて、28歳の年にテレビ番組「赤い殺意の館」の脚本でデビュー。
31歳のころ、中森明菜と安田成美が主演したドラマ「あすなろ白書」を書き、彼女は一気に有名になった。そして34歳のときに「ロングバケーション」。木村拓哉が天才ピアニストを演じたこの番組の影響で、ピアノを習いだす男性が続出したという。
38歳のときに「ビューティフルライフ」。下半身不随の車椅子生活をする女性役を常盤貴子が、その恋人役の美容師役を木村拓哉が演じて、これもまた大ヒットした。
44歳のときに「たったひとつの恋」を発表。綾瀬はるかが、骨髄移植をした良家の娘を、その恋人の貧しい鉄工所の跡取り息子役を亀梨和也が演じた。
北川は「恋愛ドラマの神さま」と呼ばれるヒット番組作りの名人である。

北川悦吏子という名前を知ったのは、木村拓哉と山口智子が主演した「ロングバケーション」というテレビドラマの作者としてで、当時彼女はすでに大家だった。
ドラマ「ロングバケーション」の最終回は、よく覚えている。最終回が放送された翌日、ラジオを聴いていたら、女性のDJが、開口一番こう言ったのだ。
「みなさん、昨夜のロンバケの最終回、見ましたぁ?」
あの番組の最終回では、ピアニストの木村拓哉がなにかのコンテストで優勝して、ヨーロッパへ行くことになるのだけれど、そのとき、木村拓哉が、恋人の山口智子に、いっしょについてきてほしいと、告げる。それに対し、山口智子がどう答えるのか? というと、彼女はなにも答えない。意味深長な顔つきで、黙ったきりでいる。すると、じれた木村拓哉が彼女を抱きしめて、
「なにも答えないんなら、キスしちゃうぞ」
とかなんとか言っていた。そのくだりについて、ラジオの女性DJが、
「そうかあ、と思いましたね。ああいうときは、ああいうタメが大事なんだぁ、と」
それを聴いて、世のなかの人々の、北川作品の受け止め方がすこしわかった。

ほとんどテレビドラマを見ないけれど、「ロングバケーション」「ビューティフルライフ」「たったひとつの恋」の何回かは見た。とくに悲恋もの「ビューティフルライフ」はつい引き込まれた。北川作品はたいてい美男美女の恋愛劇で、絵空ごと、夢の話のようなのだけれど、その一方で、ある側面にリアルさがある、不思議な作品だった。

「ビューティフルライフ」制作のころ、北川は治療困難な難病を発症し、闘病しながらの脚本執筆だったらしい。彼女はまた、50歳のころ、聴神経腫瘍にかかり、左耳が聞こえず、ずっと耳鳴りがしている状態だという。もともと腎臓も悪かった。
困難を抱えながら、それをマイナスととるのでなく、仕事へのプラスアルファとして、恋愛ドラマを彼女は書いてきた。あの、夢のような話のなかにあったリアリティーは、そういう闘いから来ていたのである。
(2017年12月24日)


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『しあわせの近道』(天野たかし)
しあわせにたどりつく方法を明かす癒し系マインド・エッセイ。「しあわせ」へのガイドブック。すべての人が求めている「しあわせ」。でも、ひと口にしあわせといっても、いろいろ種類があって、また人それぞれでちがいます。思うようにいかない人生のなかで、つかもうとしてなかなかつかめないしあわせ。自分の求めるしあわせになるたけ早くたどりつくために、ページをめくりながら、しあわせについていっしょに考えていきましょう。読むだけで癒され、きっと心がすこし幸福になれますよ。しあわせへの近道、ここにあります。


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12月23日・シャンポリオンの才

2017-12-23 | 歴史と人生
12月23日は、天皇誕生日。この日は、ジャズ・トランペッターのチェット・ベイカー(1929年)だが、古代エジプト学者シャンポリオンの誕生日でもある。

ジャン=フランソワ・シャンポリオンは、1790年、フランスのフィジャックで生まれた。父親は行商人をへて、祈?所や農学書、医学書などを扱う本屋の主人だった。母親は読み書きができなかったという。ジャン=フランソワは7人きょうだいの末っ子だった。彼は小さいころから、年の離れた兄に教わり、また、多く独学でさまざまな言語を習得した。
シャンポリオンは語学の天才で、16歳のころには、ラテン語、ギリシア語、ヘブライ語、アラビア語、シリア語、アムハラ語、ペルシア語、サンスクリット語、アヴェスター語など、12の言語を読み書きできるようになっていた。当時彼がマスターした言語のなかには、ササン朝時代のペルシア語であるフラヴィー語や、バビロニアのことばであるカルデア語もあった。
そうして、グルノーブルの高等学校に入ったシャンポリオンは、さらに多くの言語をものにし、パリへ出て、苦学してコプト語を習得。健康をくずしながら、ロゼッタ・ストーンに刻まれたヒエログリフの解読に挑んだ。
シャンポリオンは、18歳のとき、パリからもどり、グルノーブル大学の助教授となった。そして、さらにヒエログリフの研究をつづけた。
エジプトのロゼッタで発見されたロゼッタ・ストーンには、3種類の文字で同じ内容が書かれていた。ひとつはギリシア文字、ひとつは古代エジプト語の民衆文字で、そこまでは解読ができていた。そして、もうひとつの、古代エジプト語の神聖文字(象形文字、ヒエログリフ)は、当時はまだ誰も読むことができなかった。
ヘビや鳥などの絵文字が並んだ象形文字に取り組んだシャンポリオンは、32歳の年に、ついに解読した。解読に成功したとき、彼は家を飛びだし、兄の勤め先へ駆けに駆けた。そうして着くなり、
「わかったよ」
と叫び、気絶した。それから彼は5日間、昏睡状態にあった。
シャンポリオンの解読をきっかけに古代エジプトの文献がつぎつぎと翻訳されだし、それまで知られなかった古代エジプトの様子が次々と明らかになっていった。
シャンポリオンは、パリの大学で古代エジプト学教授を務めた後、1832年3月、パリで没した。41歳の若さだった。どうやら、パリの気候が体質に合わなかったらしい。

シャンポリオンについての本を何冊か読んだ。感慨深かった。
シャンポリオンは、ロゼッタ・ストーンの実物を、見ていない。ロゼッタ・ストーンは、ナポレオンがエジプト遠征でフランスへもち帰り、それを英国が奪って、ロンドンの大英博物館へもっていってしまい、シャンポリオンがパリに出たときには、すでに英国へ渡った後だった。彼が見たのは写しで、それを解読したのである。
それにしても、おそるべき語学の天才もいたものだ。語学ができない人からすると、なんだか地球の人ではない、宇宙から来た人のようである。母親も誇りに思っていたろう。
(2017年12月23日)


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『大人のための世界偉人物語』(金原義明)
世界の偉人たちの人生を描く伝記読み物。シャンポリオン、エジソン、野口英世、ヘレン・ケラー、キュリー夫人、リンカーン、オードリー・ヘップバーン、ジョン・レノンなど30人の生きざまを紹介。意外な真実、役立つ知恵が満載。人生に迷ったときの道しるべとして、人生の友人として。


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12月22日・プッチーニの達成

2017-12-22 | 音楽
12月22日は、南インド、タミル・ナードゥ州出身の天才数学者、ラマヌジャンが生まれた日だが、イタリアの作曲家、プッチーニの誕生日でもある。オペラ「トスカ」「蝶々夫人」「トゥーランドット」を書いた人である。

ジャコモ・プッチーニは、1858年、イタリア、トスカーナ地方のルッカで生まれた。家は代々続く宗教音楽家の家系で、7人きょうだいの1人として生まれたジャコモも、とうぜんのごとく、音楽の道を志した。
彼が6歳のころ、父親が亡くなり、彼はおじに音楽教育を受けた。
ジャコモは、最初、教会の聖歌隊の歌い手となり、後に教会のオルガン弾きになった。そして、ヴェルディのオペラを見て、急にオペラ作曲家を志した。
音楽学校を出た後、26歳のころからオペラを書きだした。
35歳のときに、オペラ「マノン・レスコー」を発表し、一躍脚光を浴び。
その後、オペラ作品「ラ・ボエーム」「トスカ」「蝶々夫人」「トゥーランドット」などを書き、1924年11月、喉頭ガンの治療のため訪れていたベルギーのブリュッセルで没した。65歳だった。

かかわる男を破滅に導くファム・ファタル(運命の女)を描いた「マノン・レスコー」、
パリの貧乏詩人とお針子の恋愛病死もの「ラ・ボエーム」、
ナポレオン戦争時代のローマの悲恋物語「トスカ」、
日本の長崎を舞台に蝶々夫人と米国士官の恋を描く「蝶々夫人」、
そして、中国の王女と異国の王子の謎かけ恋物語「トゥーランドット」と、
プッチーニが手がけたオペラは、どれも時代、場所など趣向が凝っていて、観客の興味をいろいろな角度から刺激してやまない。さらに、プッチーニは、オペラ作品のなかに、かならず美しい印象的なメロディーの歌曲を挿入し、さらに魅力を加えている。
「ラ・ボエーム」の劇中歌「冷たい手を」、
「トスカ」の劇中歌「歌に生き恋に生き」、
「蝶々夫人」の劇中歌「ある晴れた日に」、
「トゥーランドット」の劇中歌「誰も寝てはならぬ」などは、誰でも聴けばわかる。とくに、2006年のトリノ冬季五輪の女子フィギュアスケートで、荒川静香選手が「誰も寝てはならぬ」の曲を使って金メダルをとったことで、この曲は日本人の常識となった。

「トスカ」というと、大女優サラ・ベルナールである。彼女は、この歌劇のヒロインの歌姫フロリア・トスカを演じていて、最後高所から身を投げるシーンの墜落事故で足を切断する羽目になった。

オペラは、もともと、ルネッサンス以降のヨーロッパで、古代ギリシアの演劇を復活させようとしてはじまったもので、その後、オペラから劇の部分だけをとり除いて、管弦楽や交響曲のオーケストラによるコンサートになったものである。
その意味で、プッチーニはヨーロッパ文化の最高到達点のひとつだと言っていい。
(2017年12月22日)



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『大音楽家たちの生涯』(原鏡介)
古今東西の大音楽家たちの生涯、作品を検証する人物評伝。彼らがどんな生を送り、いかにして作品を創造したかに迫る。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンから、シェーンベルク、カラヤン、ジョン・ケージ、小澤征爾、中村紘子まで。音に関する美的感覚を広げる「息づかいの聴こえるクラシック音楽史」。


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