1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

2月28日・ブライアン・ジョーンズの色

2023-02-28 | 音楽
2月28日は、世界最初のエッセイスト、モンテーニュが生まれた日(1533年)だが、ザ・ローリング・ストーンズのリーダーだったブライアン・ジョーンズの誕生日でもある。

ルイス・ブライアン・ホプキンス・ジョーンズは、1942年、英国イングランドのグロスターシャー州で生まれた。父親はウェールズ人の航空技師で、ピアノやオルガンを弾き、教会の聖歌隊のリーダーで、母親はピアノ教師という音楽一家だった。
ブライアンは4歳のとき、喉頭炎にかかり、その後の生涯ずっと喘息をひきずった。十代のころ、両親に買ってもらったサキソフォンとアコースティックギターを弾き、学校でクラリネットを吹いた。
ブライアンは知能指数が135あったが、まったく勉強に興味を示さず、学校や権威に対して反抗的で、ほとんどの教科のテストで0点をとった。それでも物理、化学、生物など理科系は成績優秀だった。
17歳のとき、14歳のガールフレンドを妊娠させ、フライアンは退学となり、ギターを片手に夏の北欧を放浪してまわった。路上でギターを弾いてはお金を稼ぎ、知り合った人にたかってその日その日をしのぐ旅だった。旅の後、ロンドンに出て、デパート店員をしながら音楽活動を続けていたブライアンは、20歳のとき、ジャズクラブでミック・ジャガー、キース・リチャーズに出会った。意気投合した3人はロンドン市内の安アパートで共同生活をはじめた。
彼ら3人に、ベースギターのビル・ワイマン、ドラムのチャーリー・ワッツが加わり、創成期のザ・ローリーング・ストーンズのメンバーがそろった。彼らはあちこちのクラブで演奏をし、1963年6月にレコードデビューを果たした。
5人組のストーンズは、すでに人気絶頂だったザ・ビートルズと対照的に、不揃いな、不良のイメージを押しだす戦略で人気を得た。
マネージャーの意向でミックとキースの作詩作曲コンビが作ったオリジナル曲を演奏するようになったストーンズのなかで、リーダーのブライアンはしだいに疎外感を募らせ、麻薬びたりになった。そしてついに音楽演奏が困難になり、自分が作ったバンドから追放された。
1969年7月、ブライアン・ジョーンズは、自宅のプールに沈んだ姿で発見された。27歳だった。ブライアンの死は、アルコールとドラッグによる溺死、事故死とされているが、他殺説も存在する。

ブライアン・ジョーンズのいたストーンズの曲はカラフルで独特の色気があった。マルチプレイヤーだった彼はシタール、ダルシマー、メロトロン、マリンバ、リコーダーなど多くの楽器を演奏した。初期のストーンズの名曲「黒くぬれ」や「アンダー・マイ・サム」はブライアンなしでは考えられない。彼なき後のストーンズは、ギターとドラムとヴォーカルのストレートな、男臭いロックバンドになった。
(2023年2月28日)



●おすすめの電子書籍!

『デヴィッド・ボウイの思想』(金原義明)
デヴィッド・ボウイについての音楽評論。至上のロックッスター、ボウイの数多ある名曲のなかからとくに注目すべき曲をとりあげ、そこからボウイの方法論、創作の秘密、彼の思想に迫る。また、ボウイがわたしたちに贈った遺言、ラストメッセージを明らかにする。ボウイを真剣に理解したい方のために。

『ロック人物論』(金原義明)
ロックスターたちの人生と音楽性に迫る人物評論集。ブライアン・ジョーンズ、エルヴィス・プレスリー、ボブ・ディラン、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ジミー・ペイジ、デヴィッド・ボウイ、スティング、マドンナ、マイケル・ジャクソン、ビョークなど31人を取り上げ、分析。意外な事実、裏話、秘話、そしてロック・ミュージックの本質がいま解き明かされる。

●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

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2月27日・ラルフ・ネーダーの先見

2023-02-27 | 歴史と人生
2月27日は、『エデンの東』『怒りの葡萄』を書いた文豪スタインベックが生まれた日(1902年)だが、消費者運動の先駆ラルフ・ネーダーの誕生日でもある。

ラルフ・ネーダーは1934年、米国コネティカット州のウィンステッドで生まれた。両親はレバノンからの移民で、ギリシア正教会の門徒だった。アラビア語を離す両親は、ラルフたち子どもにレバノンのことわざや説話を伝え、ドル(金銭)で価値観を測らない独立独歩の姿勢を教えた。ラルフの父親は織物工場に勤めていたが、独立しパン屋兼レストランを興した。レストランの客たちと父親が、食料品に混ざった化学物質について話すのをラルフはそばで聞いて育った。
ラルフは名門プリンストン大学に進んだ。大学は彼に奨学金の資格をとるよう勧めたが、父親は奨学金はもっとそれを必要としている学生にいくべきだとして、これを断った。
ラルフはプリンストン大をへて、ハーバード大学のロースクールに入学。学生時代から消費者の安全についての論文を雑誌に投稿していた。24歳の年に同校を卒業した彼は、当時は合衆国に徴兵制があったため、6カ月間、米陸軍で兵役についた。
除隊後の25歳から、コネティカット州のハートフォードで弁護士として働きはじめた。
また、27歳から3年間、ハートフォード大学で歴史学の助教授も務めた後、合衆国労働長官だったダニエル・モイニハンに指名され、ワシントンDCで補佐官として働きだし、上院の自動車安全に関する委員会への助言もおこなった。
ネーダーは25歳のころから、自動車の安全性に関する論文を雑誌に発表していたが、彼の名を一躍高らしめたのは、彼が31歳のときに発表した本『どんな速度でも危険(Unsafe at Any Speed)』だった。本のなかで彼は、ゼネラルモーターズ傘下のシボレー社製の車種「コルヴェア」の欠陥を指摘し、メーカー側が安全に対する出費を惜しんでいると論じた。6人乗りスポーツタイプのコルヴェアは、サスペンションに問題があり、運転中に車体がスピンしやすく、横転する可能性が高いと指摘した。
ゼネラルモーターズ側は、探偵社を雇い、ネーダーの素行や経歴を調べ、電話を盗聴し、さらに売春婦を雇って彼に近づかせることまでして、ネーダーは信用できない人物だとの評判を立てようとしたが、逆にプライバシー侵害で訴えられ、賠償金を支払うはめになった。ゼネラルモーターズは、ネーダーに謝罪し、コルヴェアは生産中止となった。
この自動車業界告発は消費者たちを目覚めさせ、米国には多くの消費者運動家が誕生し、ネーダーも環境、福祉、健康、政治腐敗など、さまざまな市民運動にかかわった。
ネーダーはまた、 共和党、民主党の二大政党に属さない、第三の候補として大統領選にしばしば出馬した。2000年の大統領選挙の際には、共和党ジョージ・W・ブッシュと民主党のアル・ゴアの接戦のなか、ゴア候補の票をネーダーが食う形となり、民主党陣営から非難を浴び、共和党側から歓迎された。選挙では不正がおこなわれブッシュが当選した。
2004年のブッシュ政権の二期目の選挙、2008年のオバマが当選したときの選挙にもネーダーは出馬したが、いずれも0コンマ5パーセント程度の得票率で落選した。

ラルフ・ネーダーは、『沈黙の春』を書いて産業界の使用する化学物質の有害性を告発したレイチェル・カーソンと並び、産業界の負の面に人々の目を向けさせた偉人である。その先見性に脱帽する。
(2023年2月27日)



●おすすめの電子書籍!

『コミュニティー 世界の共同生活体』(金原義明)
ドキュメント。ツイン・オークス、ガナス、ヨーガヴィル、ロス・オルコネスなど、世界各国にある共同生活体「コミュニティー」を実際に訪ねた経験をもとに、その仕組みと生活ぶりを具体的に紹介する海外コミュニティー探訪記。人と人が暮らすとは、どういうことか?


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2月26日・桑田佳祐の過激

2023-02-26 | 音楽
2.26事件(1936年)があった2月26日は、芸術家、岡本太郎が生まれた日(1911年)だが、サザンオールスターズを率いるシンガー・ソング・ライター、桑田佳祐の誕生日でもある。

桑田佳祐は、1956年、神奈川県茅ヶ崎で生まれた。高校卒業後、青山学院大学に進み、大学の音楽サークルでバンド活動を開始。「脳卒中」「青学ドミノス」など、さまざまにバンド名を変え、メンバーが入れ替わった後、バンド名「サザンオールスターズ」で落ち着き、22歳のとき、「勝手にシンドバッド」でデビュー。サザンは、桑田の抜群の作詞作曲能力を武器に、またたく間に時代をリードするスーパー・バンドとなった。結局、桑田は大学を卒業できなかった。
サザンは以後、「いとしのエリー」「C調言葉に御用心」「いなせなロコモーション」「栞のテーマ」「メロディ」「真夏の果実」「マンピーのG・SPOT」「LOVE AFFAIR」「TSUNAMI」などの名曲を発表し、日本のポピュラー音楽をリードしつづけてきている。

桑田自身、どうしても「勝手にシンドバッド」を超える曲が書けないと言う、その「勝手にシンドバッド」をはじめて聴いたときの衝撃をいまでもはっきり覚えている。
1970年代、夕方のテレビ番組で「カックラキン大放送」という、劇場の舞台で歌手やタレントがコントを演じ、ゲストが歌を歌う番組があった。その番組にゲストとしてサザンが突然登場した。なんの紹介もなく、ただバンドを乗せた板がステージわきからすべってきて、サザンが演奏をはじめ、テレビのテロップに「勝手にシンドバッド」「サザンオールスターズ」と示されたのだった。
すごい曲だった。タイトルにも驚いたが、「ラララ……」と、乗りのいいメロディーもいいし、歌詞も信じられないほど斬新だった。あの不埒な感じがすばらしかった。歌詞はほとんど聞きとれなかったが、歌詞のテロップが出ていた。

ちなみに、よく、サザンの桑田の歌が聞き取りにくいので、テレビ画面に歌詞のテロップが流されるようになったと言う人がいるが、それは正しくない。
なぜなら、その「カックラキン大放送」という番組で、レギュラー出演していた歌手の野口五郎が「きらめき」という新曲を披露して、その歌詞がテロップに流れていたのをよく覚えているからだ。
それは歌詞が文字表示されたもっとも早い時期で、データによると、「きらめき」は、1976年6月10日発売。一方「勝手にシンドバッド」は、1978年6月25日発売である。

キャリアが長いベテラン・ミュージシャンとなっても、なお、ある種の素人くささ、アマチュアの匂いを桑田が大切にしつづけているところが、彼のよさである。

サザンのように、あれだけメジャーになってしまうと、なかなか過激な歌は歌いづらくなるし、また、過激なものを作れなくなってくるものだが、メジャーながら過激でありつづけようとする桑田の姿勢は立派である。その桑田でさえ、ステージ上での政権批判や勲章がらみのジョーク・パフォーマンスを批判され、後で弁解しなくてはならなくなったりする滑稽劇に現代の閉塞を感じる。
(2023年2月26日)



●おすすめの電子書籍!

『大音楽家たちの生涯』(原鏡介)
古今東西の大音楽家たちの生涯、作品を検証する人物評伝。彼らがどんな生を送り、いかにして作品を創造したかに迫る。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンから、シェーンベルク、カラヤン、ジョン・ケージ、小澤征爾、中村紘子まで。音に関する美的感覚を広げる「息づかいの聴こえるクラシック音楽史」。


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2月25日・ルノワールの光

2023-02-25 | 美術
2月25日は、『時計じかけのオレンジ』を書いた小説家アンソニー・バージェスが生まれた日(1917年)だが、仏国の画家ルノワールの誕生日でもある。

ピエール=オーギュスト・ルノワールは、1841年、仏国リモージュで生まれた。労働者階級出身で、子どものころ、陶磁器工房で働いていて、その技量を認められ、陶器に彩色デザインを施していた。
21歳のとき、パリの美術学校に入学。同時に画家シャルル・グレールのもとで絵画を学びだした。シスレーやモネと知り合ったのもそのころだった。
ルノワールが生きていた時代のフランスは、なにかと物騒だった。彼が29歳のとき、対プロイセンの戦争(普仏戦争)がはじまった。すると、彼は召集され、騎兵隊に配属された。しかし、赤痢にかかり、間もなく除隊となり帰ってきた。
翌年、普仏戦争が終わると、武装解除に抵抗するパリ国民軍の反乱が起きて、パリコミューンの臨時政府ができた。30歳のルノワールは、セーヌ川の岸辺で絵を描いていて、パリコミューン支持派の人々によって、敵方のスパイとまちがえられ、あやうくセーヌ川に投げこまれそうになったこともあったという。その後、盛り返してきた共和政権側により、パリコミューン派の大虐殺がおこなわれた。
そんな時代を、ルノワールはもっぱら絵画に打ち込んでいたが、サロンに出品する絵画作品はよく落選した。そんな彼が、同じ落選組のモネ、ドガたちといっしょに開いた絵画展が、有名な第一回印象派展で、これに33歳のルノワールは「桟敷」など数点を出品した。
第二回印象派展には「ぶらんこ」「陽光を浴びる裸婦」などの傑作を出品。ルノワール独特の木漏れ日の光が人物の上にこぼれ散っている、美しい人物画だったが、当時の批評家にはまったく理解されず、「腐った肉のようだ」と酷評された。
そして第三回印象派展には、名作「ムーラン・ド・ラ・ギャレット」を出品。
ルノワールは生涯、絵筆を離さなかった人だった。
50歳をすぎたころから、進行性のリューマチ性関節炎にかかり、66歳には、より暖かい気候を求めて、地中海に近い土地へ移った。車椅子による生活を余儀なくされ、右肩や手の硬直が進んだが、それでもルノワールは描く技術を鍛え、キャンバスが動くよう工夫したりして、描きつづけた。晩年の豊満な裸婦像は、そうして磨かれた技術の上に築き上げた新境地である。ルノワールは、1919年12月に没した。78歳だった。
映画監督のジャン・ルノワールは彼の息子である。

ルノワールたち印象派の画家たちは、光や色に対して、科学的なアプローチをもっていた。それまで「海の青」といえば、
「海がこういう色に見えるから」
と、青色を塗っていたのだったが、印象派の人たちはちがう。彼らは、
「海が青く見えるのは、海が青色の光を吸収せず、反射するからである」
と、そういう考えのもとに、画面の色彩を構成していった。

あのまばゆい輝きを放つルノワールの絵画が、当初、まったく評価されず、けなされたというのは、いまとなってはまったく信じがたい。当時のパリに行って、ルノワールの作品を、偏見なく、純粋に美を見つめられたかどうか、と、ときどき自問する。
(2023年2月25日)



●おすすめの電子書籍!

『芸術家たちの生涯----美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。彼らの創造の秘密に迫り、美の鑑賞法を解説する美術評論集。会田誠、ウォーホル、ダリ、志功、シャガール、ピカソ、松園、ゴッホ、モネ、レンブラント、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチまで。芸術眼がぐっと深まる「読む美術」。


●電子書籍は明鏡舎。
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2月24日・スティーブ・ジョブズの陰陽

2023-02-24 | ビジネス
2月24日は、ザ・ビートルズのジョージ・ハリスンが生まれた日(1943年)だが、コンピュータのアップル社の創立者スティーブ・ジョブズの誕生日でもある。

スティーブン・ポール・ジョブズは、1955年、米国カリフォルニア州サンフランシスコで誕生した。父親はシリア人。母親はアメリカ人で、出産当時、大学院生だった。母方の父親(ジョブズの祖父)が、結婚を認めなかったため、母親はひとりで子供を育てることの困難から、ジョブズは養子に出された。
育て親の両親のもとで育ち、オレゴン州のリード大学に進んだジョブズは、親の老後資金を食いつぶしてしまう高い学費と授業内容に疑問をもち、半年ほどで大学を中退。大学の講義をもぐりで聴講したり、インドを放浪したり、禅の修行をしたりした。そして、コンピュータ業界へ足を踏みだした。
高校生のときに知り合ったスティーブ・ウォズニアックと組み、ウォズニアックが作ったコンピュータ、Apple I を販売。この成功を足掛かりに、ジョブズとウォズニアックは、アップル社を設立。以後、ジョブズが陣頭指揮をとり、開発したMacintosh、iMac、iTunes、iPod、iPhone、iPadなどを発表し、彼のコンピュータ、音楽機器、電話機は、世界の産業をリードし、世界の人々の生活スタイルを大きく変えていった。
2011年10月、ジョブズはすい臓ガンがもとで、カリフォルニア州パロアルトの自宅で没した。56歳だった。

スティーブ・ジョブズは、車庫(ガレージ)でのコンピュータ作りからはじめて、パーソナル・コンピュータ(PC)を世のなかに普及させた。「各個人一人ひとりにコンピュータ」という概念は、1970年代半ばには存在せず、当時のヒューレット・パッカードの社員でさえ理解できなかった。それを、ジョブズが伝道師となって世界に布教し、世界を変えてしまった。彼はまた、音楽業界の構造も変えてしまった。

ジョブズは、怒ると、相手を汚いことばで罵倒し、その場で部下にクビを言い渡すことがよくあったらしい。自分の見込みちがいで在庫が増え、会社の業績が悪くなると、社員のクビを切って、急場をしのごうとした。
完璧主義者で、部下がもってきた企画や試作品を、満足のいくまで、気が遠くなるような回数やり直させた。かと思うと、一方では、提案とは関係のないべつの理由から、平気で案を却下した。大ヒット商品となった「iPod」の名称は、2度却下され、3度目に提案されて採用されたものだという。
アップル社のiPhoneに対抗して、グーグルがアンドロイドOSを公開すると、ジョブズは激怒し、こう言った。
「アンドロイドは抹殺する。盗みでできた製品だからだ。水爆を使ってでもやる」
こういうカリスマといっしょに仕事をするのは、大変だろう。きっと、ジョブズのせいで、神経症にあった社員もたくさんいたろうと想像する。平凡でいいから、穏やかでそこそこの生活を送りたい、という人には、つきあいづらい経営者である。でも、もしも、ドキドキ、わくわくする生き方をしたい思うなら、彼のような人といっしょに働くにしくはない。ジョブズは言っている。
「Stay Hungry. Stay Foolish. (ハングリーであれ。愚か者であれ)」
(2023年2月24日)



●おすすめの電子書籍!

『大人のための世界偉人物語2』(金原義明)
人生の深淵に迫る伝記集 第2弾。ニュートン、ゲーテ、モーツァルト、フロイト、マッカートニー、ビル・ゲイツ……などなど、古今東西30人の生きざまを紹介。偉人たちの意外な素顔、実像を描き、人生の真実を解き明かす。人生を一緒に歩む友として座右の書としたい一冊。

『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、デュポン財閥のエルテール・デュポン、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。

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2月23日・宇崎竜童の音

2023-02-23 | 音楽
2月23日は、作家、倉田百三が生まれた日(1891年)だが、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドを率いたミュージシャン、宇崎竜童の誕生日でもある。

宇崎竜童は、1946年、京都で誕生した。引っ越して東京で育った宇崎は、明治大学の法科を出た後、27歳のころ、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドを結成し「スモーキン・ブギ」「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」「カッコマン・ブギ」「裏切者の旅」「涙のシークレット・ラヴ」「沖縄ベイ・ブルース」「サクセス」「身も心も」「欲望の街」など名曲を発表。彼のバンドは一世を風靡した。以後、竜童組のバンドや、あるいはソロとしても演奏活動を続けた。
自身で演奏活動をつづける一方、作曲家としても活躍。作詞家である妻の阿木燿子とコンビを組み、「横須賀ストーリー」「夢先案内人」「イミテイション・ゴールド」「プレイバックPart2」「絶体絶命」「美・サイレント」「しなやかに歌って」「ロックンロール・ウィドウ」「さよならの向う側」など一連の山口百恵のヒット曲をはじめとして、さまざまな歌手に楽曲を提供。1970年代を代表するヒットメイカーとなった。

宇崎竜童は、妻の阿木燿子とは、同じ大学に通っていて知り合った仲で、はじめて見かけたとき、宇崎竜童はピンとくるものがあり、初対面の彼女にこう言ったという。
「あのー、あなたは、ぼくと結婚することになっているんですけど」
彼女はこう返したそうだ。
「そういうことにはなっていないはずですけど」
その後、二人は結婚し、夫婦ともに大活躍し有名人となった。
二人がおしどり夫婦コンビとして、山口百恵のヒット曲を量産していたころ、阿木燿子が雑誌のインタビューに答えているのを読んだことがある。当時、彼女は才色兼備の女性として、世間の注目の的だったが、そんな彼女が、いまでも宇崎竜童がハンドルを握るバイクの後ろに乗って、ふたり乗りでツーリングに出かけるというのを聞き、インタビュアーが「危なくないですか?」と心配すると、彼女は笑ってこう答えた。
「のろけるわけじゃないんですけど、彼といっしょなら、いつ死んだっていいんです」
いい女とは、いるものだ。彼女はその後、映画女優になり、映画監督になった。

ダウン・タウン・ブギウギ・バンドのCDをもっていて、いまでもときどき「港のヨーコ~」を聴く。この名曲は、いま聴いてみても、古さをまったく感じない。歌詞がいまなお新鮮で、サウンドがシャープ、演奏が洗練されている。数十年たってなお、新鮮でありつづける曲づくりと演奏。あのサウンドセンスに脱帽する。
(2022年2月23日)



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『デヴィッド・ボウイの思想』(金原義明)
デヴィッド・ボウイについての音楽評論。至上のロックッスター、ボウイの数多ある名曲のなかからとくに注目すべき曲をとりあげ、そこからボウイの方法論、創作の秘密、彼の思想に迫る。また、ボウイがわたしたちに贈った遺言、ラストメッセージを明らかにする。ボウイを真剣に理解したい方のために。


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2月22日・ブニュエルの針

2023-02-22 | 映画
「ニャンニャンニャン」の2並びから「猫の日」の2月22日は、俳人、高浜虚子が生まれた日(1874年)だが、映画監督、ルイス・ブニュエルの誕生日でもある。

ルイス・ブニュエルは、1900年、スペインのアラゴン地方、カラダンで生まれた。17歳で、マドリードに出て、そのころ、詩人のガルシーア・ロルカ、画家のサルバドール・ダリらと友だちになった。
20代半ばのころ、ダリといっしょに話をしているうちに、夢で見た光景の話で盛り上がり、ついに二人で一本の短編映画を撮りあげた。それがシュールレアリズム映画の金字塔「アンダルシアの犬」である。
その後、スペイン、メキシコ、フランスと国を変えながら映画を撮りつづけ、「糧なき土地」「忘れられた人々」「昼顔」「哀しみのトリスターナ」「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」「自由の幻想」「欲望のあいまいな対象」などの作品を発表した後、1983年7月に没した。

まだDVDもインターネットもなかった昔。東京の名画座でよくブニュエルの映画がかかっていた。そのころからのブニュエル・ファンで、「ブニュエル2本立て」などという新聞広告を見ると、せっせと名画座に足を運んでいた。

ブニュエルがダリと共同監督した「アンダルシアの犬」は、冒頭の有名な目をカミソリで切るシーンとか、アリがはいまわるシーンとか、最後の「春」の風景とか、夢にでてきてうなされそうな印象深いシーンが多い傑作だった。
初期の「糧なき土地」や「忘れられた人々」といった作品は、荒涼とした救いのないドキュメンタリー・タッチの作品で、こちらも忘れがたい。
カトリーヌ・ドヌーヴが、昼間だけ娼婦になる主婦を演じたブニュエル作品「昼顔」は、映画史に残る名作である。
「自由の幻想」は、ブニュエルらしさがもっともよく出た作品なのかもしれない。みんなでひとつテーブルを囲んで下着をおろして便器にすわり楽しく話しながら排泄をして、食事をするときはせまい個室に隠れてひとりこそこそと食べるという有名なシーンが入っているのは、この映画である。
「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」や「欲望のあいまいな対象」のような、皮肉とユーモアがきいたシュールレアリズム作品を観ると、なんだか自身を切られるような気がする。観ていて、胸に痛く響くものがあって、なんともいえない、苦い味が、みた後もずっと心のなかに残って、忘れがたい。

向こうがなぜかこちらをよく知っていて、「ほら、ここは感じるだろう?」と、こちらの弱みを針で的確に突いてくる。観る者の心の奥の、ほかの人がまず立ち入らない敏感なところに、ずかずかと入り込んできて、きれいな傷をつけてゆく。ブニュエルはそういう表現者である。
いまでも、ときどき、もっているブニュエル作品のDVDをときどき見返しては、胸が痛むのを楽しんでいる。ちょうど、サボテンをさわってみて「痛っ」と手をひっこめた後に、またさわってみようとする少年のように。
(2022年2月22日)



●おすすめの電子書籍!

『映画監督論』(金原義明)
古今東西の映画監督30人の生涯とその作品を論じた映画人物評論集。監督論。人と作品による映画史。チャップリン、溝口健二、ディズニー、黒澤明、パゾリーニ、ゴダール、トリュフォー、宮崎駿、北野武、黒沢清などなど。百年間の映画史を総括する知的追求。


●電子書籍は明鏡舎。
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2月21日・ミラ・アルファサの力

2023-02-21 | 歴史と人生
2月21日は、ファッションデザイナー、ジバンシィが生まれた日(1927年)だが、南インドにある巨大コミュニティー「オーロヴィル」の創設者「マザー」こと、ミラ・アルファサの誕生日でもある。

ミラ・アルファサは、1878年、仏国パリで生まれた。父親はトルコ人の銀行家、母親はエジプトのカイロ出身だった。
ミラは4歳のころからヨガをはじめ、よく瞑想した少女で、12歳のころには、フォンテンブローの森の樹木の声が聞き取れるようになった。
13歳のときミラは、はじめて幽体離脱を体験した。成長したミラは、心霊研究に邁進し、オカルト研究会を主催し、降霊術の会を開き、霊力開発のトレーニングをつづけ、自分の意志で幽体離脱し、霊体となって自由に飛びまわれるようになった。
46歳のころ、ミラはインド南部、タミル・ナヴゥ州のポンディチェリーに、インドの神秘思想家オーロビンドを訪ねた。そしてそこに集まってきた弟子たちを束ねる「オーロビンド・アシュラム(修行道場)」のマネージャーのような存在になった。オーロビンドはミラを「マザー」と呼び、弟子たちもそれにならった。
アシュラムの規模はしだいにふくれ、修行者は百人を超え、一帯に20軒ほどの住居に分かれて住む一大コミュニティーとなり、さらに第二次世界大戦下で難民を受け入れ、難民家族に食事を与え、子どもたちのために学校を作り、ミラみずから教壇に立った。
1950年12月に、オーロビンドが没した後のアシュラム、学校は「マザー」ミラが率いた。彼女の教育方針とは、こういうものだった。
「青白い顔の画一的な生徒などいらない。個性を尊重し、楽しんで学ぶことを尊び、子どもたちの直覚、直感を発展させることが肝要である。大切なのは、地球で何が起きてきたかを教えることではなく、生徒自身が自分が何者であるか知り、自分の運命を自分で選び、自分がなりたいものになる意志を持つ人間となるよう指導することである」
この学校はその後アシュラムから独立し「聖オーロビンド国際教育センター」となり、ミラはさらに世界市民の街の設立を訴え、インド政府や国連のユネスコなどが応じ、「オーロヴィル」という巨大なコミュニティーが創設された。オーロヴィル(夜明けの街の意)には、現在、世界数十か国から来た2500人以上のメンバーが住んでいる。
ミラ・アルファサは1973年11月に没した。95歳だった。遺体はオーロビンド・アシュラムの、オーロビンドと同じ石棺に安置されている。
「大切なのは、自分が何者であるか知り、自分の運命を自分で選び、自分がなりたいものになる意志を持つこと」
というミラのことばに強い共感を覚える。ずっと学校で「地球で何が起きてきたか」を教わってきたが、彼女の言う通りである。
(2023年2月21日)



●おすすめの電子書籍!

『オーロビンドとマザー』(金原義明)
インドの神秘思想家オーロビンド・ゴーシュと、「マザー」ことミラ・アルファサの思想と生涯を紹介。オーロビンドはヨガと思索を通じて、生の意味を追求した人物。その同志であるマザーは、南インドに世界都市のコミュニティー「オーロヴィル」を創設した女性である。「生きる意味」とは?

『オーロヴィル』(金原義明)
南インドの巨大コミュニティー「オーロヴィル」の全貌を紹介する探訪ドキュメント。オーロヴィルとは、いったいどんなところで、そこはどんな仕組みで動き、どんな人たちが、どんな様子で暮らしているのか? 現地滞在記。あるいはパスポート紛失記。南インドの太陽がまぶしい、死と再生の物語。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp

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2月20日・志賀直哉の肉体

2023-02-20 | 文学
2月20日は、「ミスター野球」長嶋茂雄が生まれた日(1936年)だが、小説家、志賀直哉の誕生日でもある。

志賀直哉は、1883年、宮城県石巻町に生まれた。父親は銀行マンで、後、高校や鉄道会社などに勤務した。直哉は2歳のとき東京へ引っ越し、祖父母のもとで育った。小学校から高校まで学習院に通った。スポーツと歌舞伎、女義太夫にいれこみ、東大の英文科に入学したが、大学にはほとんど行かず、小説を書き、遊び、旅をしてすごし、退学した。
志賀は武者小路実篤、里見弴、有島武郎らと、同人誌「白樺」を創刊し『網走まで』『剃刀』『老人』『濁った頭』などを書き短編の名手とうたわれた。さらに『城の崎にて』『和解』『焚火』、唯一の長編である『暗夜行路』を書き「小説の神様」と呼ばれた。
日本ペンクラブ会長を務め、文化勲章を受賞した後、1971年に没した。88歳だった。

志賀直哉の作品に「沓掛(くつかけ)にて」という短い文章がある。これは、長野県の沓掛にいたときに、芥川龍之介が自殺した報せを聞いて書いたもので、「芥川君のこと」という副題がついている。生前の芥川龍之介と会って話した思い出を、志賀らしい簡潔で、力のこもった文体でつづったものだけれど、心打たれる名文である。
川端康成は、この文章を読むと、芥川のことを思って涙する、と言った。
志賀自身も、べつのところで、「沓掛にて」を書いたときは、そうとうに強い気持ちがあった、と書いていた。噴きだしてきそうになる情緒的なものを、あえて押し殺し、強い気持ちで書いた、そういう文章で、紙から立ち上がって読者の胸を突き刺してくる、そういう気合いのようなものこもった志賀の文章の典型的な例である。

志賀直哉にはまた、「泉鏡花の思い出」という随筆がある。こちらは、生前の泉鏡花に会ったときの記憶を書いたもので、そのなかに、訪ねていった泉鏡花の自宅で、将棋をさしたときの様子が書いてあって、それはこんな風である。
「将棋をされるといふので、私はあまりうまくなかつたが、駒を並べ、さて始めようとすると、こつちの飛車と向ふの飛車と、こつちの角と向ふの角とが向ひ合つてゐた。注意するのは何となく悪いやうな気がして拘泥したが、そのままでは指せないので、遠慮しながら、注意した。泉さんはあわてて飛車と角とを置きかへられた。ところが、やつてみるとどうもへんなので、よく見ると間違つてゐたのは私の方だつた。これには、自分ながら驚いた」(「泉鏡花の思い出」『志賀直哉全集9』岩波書店)
泉鏡花は志賀の大先輩だが、たがいにその才能を認め、尊敬の念をもち合っている作家同士で、その二人の性質がよく出ている場面である。

ともに短編小説の名手である芥川龍之介と、志賀直哉。二人のちがいについて、谷崎潤一郎はこう述べている。
「同じ短編作家でも芥川君と志賀君との相違は、肉体的力量の感じの有無にある。深き呼吸、逞しき腕、ネバリ強き腰、――短編であつても、優れたものには何かさう云ふ感じがある」(谷崎潤一郎「饒舌録」『谷崎潤一郎全集 第二十巻』中央公論社)
「肉体的力量の感じ」がある文章。こんな文章を書く人は、古代から現代までを通して、日本には志賀以外にいなかった。
(2023年2月20日)



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『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
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2月19日・村上龍の感嘆符

2023-02-19 | 文学
2月19日は、地動説のコペルニクスが生まれた日(1473年)だが、作家、村上龍の誕生日でもある。

 村上龍は、1952年、長崎県佐世保市で生まれた。本名は、村上龍之介。両親はともに教師だった。村上は、武蔵野美術大学在学中に書いた小説『限りなく透明に近いブルー』で群像新人文学賞し、同作品で芥川賞も受賞。以後、『海の向こうで戦争が始まる』『コインロッカー・ベイビーズ』『テニスボーイの憂鬱』『69』『愛と幻想のファシズム』『トパーズ』『五分後の世界』『ヒュウガ・ウイルス』などつねに時代を揺さぶる話題作を発表してきた。作家としての活動のほか、ラジオやテレビのパーソナリティー、映画監督、ウェブ・マガジン編集、キューバ・ミュージシャンの公演プロモーションなど、幅広い分野で活躍している。

 村上龍のデビュー作『限りなく透明に近いブルー』は、ロックとファックとドラッグを前面に打ちだしたスキャンダラスな風俗小説で、百万部以上売れた大ベストセラーである。発売直後は売り切れ続出で、地方の書店では入手しづらかった。それでも発売数日後に一冊見つけて手に入れ、すぐ読んだ。痛烈におもしろかった。以来、聖書のような愛読書となり、読み返すたびに、おもしろさに感嘆している。一つひとつのエピソードが刺激的で、次々に飛びだしてくる作者のイメージが新鮮で、胸にジュワァッとしみこんでくる。だが、これを読んでおもしろかったと言う人に、いまだ出会ったことがない。たいていの人の感想は「わからなかった」「むずかしかった」というものだった。
一方、村上の長編『コインロッカー・ベイビーズ』は、読んでおもしろくなかったという人に、いまだ会ったことがない。読んだ人はみんな「あれは、すごい」「最高だった」と、興奮ぎみに語る。

『コインロッカー・ベイビーズ』はたしかに「すごい」小説だった。
あの小説は、たしか村上龍が、デビュー作で得た大金をつかい果たし、講談社に二千万円くらい借金をして、長編を書いてその印税で返すからと講談社の山荘に缶詰めになって書いたものだった。そして、三百枚くらい書いた時点で、李恢成の『見果てぬ夢』を読んで反省し、書いた原稿をすべて捨て、また最初から書きはじめた、そうしてでき上がった作品だった。背水の陣に立った作家の人生がかかった、全身全霊を打ち込んだ自身の存在証明で、三島由紀夫でいえば『仮面の告白』にあたる重要な作品である。だから、作者の熱が読者に伝わらずにいないのだろう。

若いころの村上龍にサインをもらったことがある。彼の著書を差しだし、
「座右の銘をお願いします」
とお願いすると、「勇気!」と書いてくれた。そのサイン本はいまももっている。
「勇気」とは、およそ文人の揮毫らしくない、スポーツ選手などが色紙に書きそうな、短いことばだけれど、ゲーテも、エリック・ホッファーも、勇気こそ大切だと言っている。勇気を失うくらいなら、いっそ生まれてこなければよかった、と。
「勇気」の後に感嘆符が付いているのが、村上龍らしい。
(2023年2月19日)



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