1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

11月30日・モンゴメリの豊饒

2022-11-30 | 文学
11月30日は、文豪マーク・トウェインか生まれた日(1835年)だが、作家ルーシー・モード・モンゴメリの誕生日でもある。『赤毛のアン』の作者である。

ルーシー・モード・モンゴメリは、1874年、カナダの大西洋側のプリンス・エドワード島の、現在のニューロンドンで生まれた。スコットランドとイングランドの血をひく一族で、母親はルーシーが1歳のとき結核で亡くなった。すると父親はルーシーを彼女の母方の祖父母に預けて、カナダの中西部へ引っ越してしまった。
ルーシーは祖父母の農場で、昔話や物語を聞いて育った。
15歳のころ、彼女は中西部にいる父親のもとへ行ったが、父親の再婚相手とそりが合わず、1年ほどでプリンス・エドワード島へ舞いもどってきた。
このころからルーシーは詩やエッセイを新聞に投稿し、掲載されていた。
プリンスエドワードアイランド州の州都シャーロットタウンのカレッジへ進学したルーシーは、20歳で教員の資格をとり、となりの州の大学で聴講生として文学を学んだ後、プリンス・エドワード島へもどってきて学校教師になった。
その後、彼女は地元の郵便局長や新聞記者などをしながら、雑誌に短編小説を投稿していた。そうして、32歳で長老派の牧師と婚約。
34歳のとき、初の長編小説『赤毛のアン』を発表。出版されるとこの作品はたちまち世界的ベストセラーとなり、モンゴメリはただちに続編『アンの青春』にとりかかった。
36歳のとき婚約相手の牧師と結婚したモンゴメリは、その後も「赤毛のアン」シリーズを書きつづけ、1942年4月にトロントで没した。67歳だった。
死後百年たった後に、死因はうつ病による自殺だったことがわかった。

プリンス・エドワード島のとなりのニューファンドランド島。この島出身のニューファンドランド犬は、水を怖がらないので、昔から救助犬として使われる。

現代の若い人はどうか知らないけれど、かつては日本の女性たちの多くが「赤毛のアン」シリーズを読んでいたものだった。人口に膾炙した作品とは、まさにこういう作品をいうので、拙著『名作英語の名文句』でもとり上げた。

最初の作品『赤毛のアン』は、原題が『緑の切妻屋根のアン』の意味で、タイトルから広々とした農場に建つ農家の景色が目に浮かんでくる。ここに暮らす老いた兄妹が、跡継ぎのことを考えて、孤児院から男の子を譲り受けようとして、まちがってアンという女の子がやってきてしまうところから物語ははじまる。いまさら変わるはずもないが、邦題は『みどり屋根のアン』でもよかった気がする。
アンや、彼女を取り巻く人物も魅力的だけれど、まずロケーションがすてきな作品である。この作品にひかれて、プリンス・エドワード島を訪ねる世界各国の女性旅行者は多い。都会に住む人には逆立ちしても得られない種類の「豊かさ」がそこにはある。
(2022年11月30日)



●おすすめの電子書籍!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』(越智道雄選、金原義明著)
「赤毛のアン」「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。


●電子書籍は明鏡舎。
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11月29日・フレミングの法則

2022-11-29 | 科学
11月29日は、『若草物語』のルイーザ・メイ・オルコットが生まれた日(1832年)だが、「右手の法則・左手の法則」で知られる物理学者ジョン・フレミングの誕生日でもある。

ジョン・アンブローズ・フレミングは、1849年、英国イングランドのランカスターで生まれた。父親は会衆派教会の牧師だった。
子どものとき、ラテン語が苦手で、数学が得意だったジョンは、技師志望で、自分でアルバイトをしてお金を貯めては材料を買い、カメラや模型などを自作した。
ケンブリッジ大学に進んだ彼は、34歳のとき、同大学のフェローとなった。
彼はエジソン電灯会社で電気技師をしたり、さまざまな大学で教鞭をとったりしたが、大学で学生に電磁誘導について教えるときに考案したのが有名な「フレミング右手の法則」と「フレミング左手の法則」だった。
48歳のとき、ユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドンの研究所の所長に就任。企業への科学アドバイザーをし、発電所の設計などをした。
55歳のとき、フレミングは二極真空管を発明した。これは世界初の真空管であり、このとき人類の電子工学がはじまった。フレミングの二極管はやがて、トランジスタに替わり、半導体に替わっていった。
フレミングはアメリカテレビジョン学会の初代会長となり、ナイトの称号を授与された後、1945年4月、英国イングランドのシドマスの自宅で没した。95歳だった。

「フレミング左手の法則」は、中学の理科の授業で教わった。これはファラデーの世紀の大発見「コイルのなか、またはコイルの近くで磁石を動かすとコイルに電流が流れる」という現象の、方向をわかりやすく示したもので、左手の親指が力、人差し指が磁界、中指が電流の、それぞれ方向を示すというものである。
科学を象徴する美しい指の形で、テスト中に左手の3本の指を立てた覚えがある。
才人というのは、いるものだ。

フレミングというと、ジェイムズ・ボンドの生みの親のイアン・フレミング、抗生物質ペニシリンの発見者アレクサンダー・フレミングもいて、まぎらわしい。英国人は似た名前が多い。

ジョン・フレミングは言っている。
「発展とは、根拠がなく、とても信用できないものである。(Evolution is baseless and quite incredible.)」(Brainy Quote)
(2022年11月29日)



●おすすめの電子書籍!

『科学者たちの生涯 第二巻』(原鏡介)
宇宙のルール、現代の世界観を創った大科学者たちの生涯、達成をみる人物評伝。ハンセン、コッホから、ファインマン、ホーキングまで。知的感動のドラマ。


●電子書籍は明鏡舎。
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11月28日・エンゲルスの社会主義

2022-11-28 | 思想
11月28日は、作家・宇野千代が生まれた日(1897年)だが、社会思想家フリードリヒ・エンゲルスの誕生日でもある。

フリードリヒ・エンゲルスは、1820年、現在のドイツ、ヴッパータールで生まれた。父親は紡績工場の共同経営者で、フリードリヒは8人きょうだいのいちばん上だった。
フリードリヒは22歳のとき、父親が英国のマンチェスターにもつ綿工場で働きだした。現地でフリードリヒは都市の工場労働者の貧困ぶりに衝撃を受け、彼らの生活ぶりを調査し『イギリスにおける労働者階級の状態』として出版した。
24歳のころ、カール・マルクスと意気投合し、二人は資本主義を批判する立場から経済学、社会学の研究を勧め、エンゲルスはつねにマルクスを援助し、助言し、励ました。
彼らはヨーロッパ各国の社会主義運動をあおり、共著『共産党主義宣言』を出版したため、フランス、ベルギー、ドイツなどヨーロッパ各国から国外退去命令を受けた。エンゲルスが29歳のころ、二人は英国イングランドへ逃げこんだ。
エンゲルスはマンチェスターで経営者をしながら、ロンドンで研究・執筆を続けるマルクスに仕送りを続けた。それでマルクスは主著『資本論』の第一巻を出版した。
エンゲルスが63歳のとき、マルクスが没した。エンゲルスは残された彼の原稿を整理し『資本論』第二巻、第三巻を出版した後、1895年8月、ロンドンで没した。74歳だった。

エンゲルスの『空想より科学へ』は岩波文庫にある。原題は『ユートピア的社会主義から科学的社会主義へ』で、原題のほうが内容に近く、誠実である。
この本のなかでエンゲルスは、サン=シモン、フーリエ、オーウェンをとり上げ、彼らをユートピア的な社会主義思想家とし、彼ら先駆者の理論をさらに発展させ、社会の歴史的発展段階を述べる。エンゲルスによれば、もともと内に矛盾を抱えている資本主義がどんどん進むと、矛盾が限界まで拡大する。すると、必然的に労働者階級によるプロレタリア革命が起き、労働者階級が権力を握り、人々は人間として解放される、これが科学的な社会主義である、と。ロシア革命の理論的根拠である。
たいした論理構築力だけれど、どうかな、と首をかしげる部分もある。サン=シモン、フーリエの理論家2人と、実践家だったオーウェンを同列に並べるのもいかがなものか。

エンゲルスは、高度資本主義社会における資本家階級は私利私欲をむさぼる鬼のような連中で、労働者階級は聖人君子の集まりのように言うけれど、現実的には、プロレタリアートもいざ権力を握る段になれば、権力をめぐって争い、私利私欲をむさぼる輩が大量に発生して、現場の労働者を酷使しだす。結局、支配者の首がすげかわっただけの元の木阿弥になる、それが現実である。この本はむしろ「ユートピア的社会主義の実践から机上の空論的社会主義へ」ではないか。

一般に金持ち、支配層は自分のことしか考えない連中がほとんどで、トリクルダウン理論はケイマン諸島の彼方に消えるという悲しい浮世の真実だが、事業家ロバート・オーウェンは例外だった。彼は英国で労働者の生活環境と企業の業績を同時に飛躍的にアップさせ、世界をあっと言わせた。その後、米国で理想郷を目指したコミュニティー「ニュー・ハーモニー」を建設した。資本主義が進むと、人間疎外が強まり、必然的にこうした人間的なふれあいのある生活の場を求め、コミュニティー(共同生活体)の建設が進む、これが科学的な歴史学である。
(2022年11月28日)



●おすすめの電子書籍!

『大人のための世界偉人物語2』(金原義明)
人生の深淵に迫る伝記集 第2弾。ニュートン、ゲーテ、モーツァルト、フロイト、マッカートニー、ビル・ゲイツ……などなど、古今東西30人の生きざまを紹介。偉人たちの意外な素顔、実像を描き、人生の真実を解き明かす。人生を一緒に歩む友として座右の書としたい一冊。


●電子書籍は明鏡舎。
https://www.meikyosha.jp


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11月27日・松下幸之助の耳

2022-11-27 | ビジネス
11月27日は、不世出の映画スター、ブルース・リーが生まれた日(1940年)だが、パナソニック(松下電器)を創った「経営の神様」松下幸之助の誕生日でもある。

松下幸之助は、1894年、現在の和歌山の禰宜で生まれた。地主の三男坊だった。
幸之助が5歳のころ、父親が米相場で失敗し破産。一家は和歌山市に引っ越して下駄屋を始めた。商売はうまくいかず、幸之助は尋常小学校を中退して丁稚奉公に出された。
16歳のとき、現在の関西電力に入った。
電力会社社員時代、彼はかんたんに電球を取り外せるソケットを発明。
23歳の年に独立して電球ソケットを作る電器会社を設立した。
会社は一時は倒産の危機に瀕したが、二股ソケットの発明・大ヒットにより、経営は上向き、自転車用電池ランプ、乾電池など製造分野を広げ「ナショナル」のブランド名を掲げて日本を代表するメーカーに成長した。
彼の松下電器産業は、大戦中は軍需製品を作り、戦後は国内的には「ナショナル」、国外向けには「パナソニック」のブランドを掲げる世界企業となった。
生涯に約5,000億円の資産を築いたとされる松下は、私財70億円を投じて財団法人の松下政経塾を設立し、政治家の養成に努めた後、1989年4月、気管支肺炎のため、大阪は守口の入院先で没した。94歳だった。

物心ついたときには、松下幸之助はすでに生きる神話だった。
いまとはちがって、その昔、子ども向けの偉人伝は、みな死んだ人の伝記だったけれど、生きた人物が子ども向けの伝記としてとり上げられたのは、松下幸之助が最初だったのではないかしら。
テレビでもよくその顔を見かけたけれど、印象的だったのは、なんといってもその耳だった。細面の顔に、両耳がとても大きく、しかもパラボラアンテナのように立ち上がって、はっきりと前方を向いているのだった。ひと言も聞き逃さないぞ、とでもいう風に。この耳なら、よく頭に入りそうだ。「幸之助」という名前もいい。
わが身を振り返れば、あいにく耳が寝ているせいか、人の話をついいいかげんに聞き流してしまう。

「経営の神様」松下幸之助の数多ある名言のひとつにこうある。
「こけたら、立ちなはれ」
(2022年11月27日)



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『大人のための世界偉人物語2』(金原義明)
人生の深淵に迫る伝記集 第2弾。ニュートン、ゲーテ、モーツァルト、フロイト、マッカートニー、ビル・ゲイツ……などなど、古今東西30人の生きざまを紹介。偉人たちの意外な素顔、実像を描き、人生の真実を解き明かす。人生を一緒に歩む友として座右の書としたい一冊。


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11月26日・ソシュールの論

2022-11-26 | 思想
11月26日は、ゴロで「いい風呂」の日だが、言語学者フェルディナン・ド・ソシュールの誕生日でもある。

フェルディナン・ド・ソシュールは、1857年、スイスのジュネーヴで生まれた。父親は鉱物と昆虫の学者で、母親は芸術を学んだピアノの名手だった。裕福な家庭に育ったフェルディナンの下には8人の弟妹がいた。
語学が好きだったフェルディナンは、少年時代にすでにドイツ語、英語、ラテン語、ギリシャ語を身につけ、14歳のころには、言語の一般理論として、 r と k が使われる単語はつねに権力と暴力を示すという説を立てた論文を書いていた。
ギムナジウムの学生だった16歳のとき、ギリシャ語のなかに、n であるべきところに a が替わる場合があるのを発見したが、彼はこれを当たり前のことと考えていた。
17歳のとき、スイスにいながらにして仏国のパリ言語学会に迎えられたソシュールは、18歳のときにその会報誌に論文を発表し、サンスクリット語を独学で勉強し、ドイツのライプツィヒ大学に留学した。彼がライプツィヒにいるとき、同大学の語学教授がギリシャ語の n と a の代替を世紀の大発見として発表したのにショックを受けた。
同大学で博士号を得たソシュールは23歳の年にフランスへ移り、高等研究院で講義をはじめた。そして34歳のとき、フランスの学界での最高の地位であるコレージュ・ド・フランスの教授への就任を要請されたが、タイミングが悪く、スイス・ジュネーヴの名門貴族である実家を継ぐ必要に迫られ、ソシュールは教授職を断り、帰郷することにした。フランス学界では彼が去るのを惜しみ、レジオン・ドヌール勲章を彼に贈った。
スイスへもどったソシュールは、ジュネーヴ大学の教授となり、結婚し、子どもをもうけた。言語学を刷新したソシュールは、晩年は記号論を離れ「ニーベルンゲンの歌」の研究に移っていった。そうして、1913年2月スイスのヴォー州で没した。55歳だった。

ソシュールは生前、著書を出版しなかった。彼の死後、講義録が刊行され、彼の記号論は構造主義の誕生をうながし、哲学や社会学など幅広い分野に影響を与えた。

言語学は、ソシュール以前と、ソシュール以後とではまったくちがったものになった。たとえば、英語で sheep (シープ)、仏語で mouton (マトー) といえば、ヒツジのことを、そうことばにして表した、とふつう考える。でも、ソシュールはそうではないという。
sheep は動物のヒツジのことだが、moutonは動物も食べるの肉も両方を指していて、二つの単語は比べられない、と。英語というシステムのなかで、ほかの dog, cat, mouse などといったことばとのちがいのなかに位置して、はじめて sheep ということばがある。言語には差異しかない、というのである。

言語に対するとらえ方を、ソシュールは一変させてしまった。カント的(コペルニクス的)転回である。
ソシュールは言っている。
「言語システムを明快に説き明かす書物、確固たる原則から出発して(言語という現象のあらゆる側面を)段階的に説明するような書物が書けるなどという考えは、妄想にすぎない。」(ポール・ブーイサック著、鷲尾翠訳『ソシュール超入門』講談社)
(2022年11月26日)



●おすすめの電子書籍!

『出版の日本語幻想』(金原義明)
編集者が書いた日本語の本。問題集の編集現場、マンガ編集部、書籍編集部で、本はどんな風に作られているのか? そこの日本語はどんな具合か? 涙と笑いの編集現場を通して、出版と日本語の特質、問題点を浮き彫りにする出版界遍歴物語。「一級編集者日本語検定」付録。


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11月25日・カール・ベンツの丈夫

2022-11-25 | ビジネス
11月25日は、三島由紀夫が没した(1970年)憂国記だが、「ガソリン自動車の父」カール・ベンツの誕生日でもある。

カール・フリードリヒ・ベンツは、1844年、現在のドイツのカールスルーエで生まれた。父親は機関車の運転士。母親の名はジョゼフィーヌ・ファイラントだった。カールの両親は「できちゃった結婚」でなく「生まれちゃった結婚」で、生まれたときの彼の名はカール・フリードリッヒ・ミヒャエル・ファイラントだった。
カールが生まれてようやく結婚した父親は、彼が2歳のとき父が鉄道事故で没し、それからカールは死んだ父親の姓を継いでカール・フリードリッヒ・ベンツとなった。
貧しいながら、小さいときから神童と呼ばれるほどの頭脳優秀さを示したカールは、15歳で大学の機械工学科に入学し、機械工学や内燃機関について学んだ。
大学卒業後、ベンツは天秤ばかり工場の設計、建設会社勤務などをへて、27歳のとき、友人と共同で機械工作所を設立した。しかし、友人とはうまくいかず、結婚したベンツは、妻の持参金で友人の持ち株を買い取り、妻との共同経営で会社を運営しだした。
ベンツは、2サイクルエンジン、点火プラグ、キャブレター、クラッチ、ラジエターなどの特許をとったが、経営はうまくいかず、39歳のとき、その会社を手離した。
ベンツは新しい友人と産業機械を作るベンツ・アンド・カンパニーを創業し、ガスエンジンの製造をはじめた。そして3輪車に4サイクルエンジンを積んだ自力走行の自動車を作り、特許をとった。
44歳の年からベンツは自動車の生産を開始した。人類初の自動車産業だった。
ベンツ社は年間500台以上を生産する世界最大の自動車メーカーになり、振動を抑える水平対向エンジンを作った後、同時代にべつに自動車を開発していたダイムラー社と合併してダイムラー・ベンツ社となった。
ベンツは1929年4月、気管支炎のため、ラーデンブルクで没した。84歳だった。

ベンツの奥さんは、ベンツが作った4サイクルエンジンの自動車を勝手に持ちだして、子どもを乗せ、100キロメートル離れた母親の家まで運転した。このドライブで、ブレーキやギアの改良点が発見され、その改良をへてベンツ社は自動車生産にこぎつけた。

1970年代、新しいもの好きの叔父がベンツを運転して家にきてこう言った。
「クルマに乗るならベンツに限るぞ。道路のまん中を走っていればいいんだから安全だ。対向車のほうがよけてくれる。もしもぶつかっても丈夫。ベンツの横っ腹に国産車が突っ込んできても、ベンツは平気で国産車のほうがくしゃくしゃになるんだからな」
ビートルズの面々が、ヨガの導師であるマハリシに、ヨーロッパ車を買いたいのだがどのクルマを買ったらいいかと相談されたとき、ポール・マッカートニーたちは、インドは道がよくないからじょうぶなのがいいとメルセデス・ベンツを勧めたそうだ。

ベンツは日本ではもちろんだが、米国でも高級車の代名詞として通っていて、ずっと前に従妹がアメリカみやげで買ってきてくれたナンバープレートカバーにこうあった。
「わたしのセカンドカーはメルセデスです」
(2022年11月25日)



●おすすめの電子書籍!

『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、デュポン財閥のエルテール・デュポン、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する


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11月24日・スピノザの神

2022-11-24 | 思想
11月24日は、『小公子』を書いたバーネットが生まれた日(1849年)だが、ネーデルランド(オランダ)の哲学者スピノザの誕生日でもある。

バールーフ・デ・スピノザは、1632年、ネーデルランドのアムステルダムで生まれた。父親はポルトガルから迫害され逃げてきたユダヤ人の貿易商で、家は裕福だった。父親は3度結婚していて、バールーフは2度目の妻の子で、彼が6歳のとき母親が肺病で没し、9歳のとき父親は3人目の妻を迎えた。バールーフの上に姉2人、兄1人、下に弟が1人いた。
ラビ(ユダヤ教の神学者)になるため、バールーフはユダヤの神秘主義思想カバラを研究したが、17歳のときに兄が没し、バールーフに家業を継ぐ期待が高まり、彼は家業を手伝うようになった。そして22歳のときに父親が没し、彼は仕事を引き継いだ。が、すぐに哲学に専心することを決意し、店をたたんだ。財産分けの際、彼はベッドとカーテンだけをとり、他はすべて家族に譲った。
24歳のとき、スピノザは無神論者と判断され、ユダヤ教団から破門された。彼は、レインスブルク、フォーブルク、ハーグと居を移しながら、研究と執筆を続けた。すると彼の支持者が現れだし、支持者から経済援助を受けたり、自分でレンズ磨きの仕事をしたりしてスピノザは生計を立てた。
41歳のとき、ハイデルベルク大学から教授職の招きを受けたが、組織の制約を嫌って辞退し、市井の一学者として研究を続けた。そうして、彼の哲学体系の集大成である『エティカ』を書いた後、1677年2月、肺結核のためハーグで没した。44歳だった。

スピノザは、長らく縁遠い存在だった。ノーベル文学賞をとった大江健三郎が、これからはスピノザを原語で読みたいと発言したのを聞き、すこし読むようになった。
ゲーテが『詩と真実』のなかで、スピノザは教会によって批判されているが彼の書には打つものがあったと書いている。実感を重視するゲーテらしいことばである。

スピノザはデカルトの実体論を発展させた人である。
デカルトが、精神と物体とを独立した実体として考えたところ、スピノザは両者をひとつの実体の両面ととらえた。スピノザにおいては、実体イコール神である。
スピノザは、存在するものはすべて神のなかにあり、何ものも神なしには考えられない。でも、神はすべてを超越する存在ではなく、神はすべてのなかに内在する原因である。神は自然のなかに内在し、自然すなわち神である、というように考えた。
こうした考え方が、無神論者とユダヤ教会側の目に映り、怒りを買った。

泉鏡花が、自然の草木や石などすべてのものには鬼神力と観音力が宿っていると信じていると書いていたけれど、この意見はスピノザに通じる。

亡くなった米国の友人が昔こんなことを言った。
「ぼくは、神というのは生活そのものだと思う」
これもちょっとスピノザに通じる。スピノザは言っている。
「欲望とは、人間の本質そのものである。」(工藤喜作、斎藤博役『スピノザ エティカ』中央公論社)
(2022年11月24日)



●おすすめの電子書籍!

『思想家たちの生と生の解釈』(金原義明)
「生」の実像に迫る哲学評論。ブッダ、カント、ニーチェ、ウィトゲンシュタイン、フーコー、スウェーデンボルグ、シュタイナー、クリシュナムルティ、ブローデル、丸山眞男など大思想家たちの人生と思想を検証。生、死、霊魂、世界、存在について考察。わたしたちはなぜ生きているのか。生きることに意味はあるのか。人生の根本問題をさぐる究極の思想書。


●電子書籍は明鏡舎。
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11月23日・久米正雄の業

2022-11-23 | 文学
11月23日は、勤労感謝の日。この日はインドの霊能師、サイ・ババが生まれた日(1926年)だが、作家、久米正雄の誕生日でもある。

久米正雄は、1891年、長野の上田で生まれた。父親は高等小学校の校長だった。
正雄が7歳のとき、学校が火事になり、学校に飾ってあった明治天皇の写真「御真影」も焼けてしまった。校舎が燃えたことよりも、天皇の写真一枚が焼けたことのほうが重要視される時代で、責任を感じた校長の父親は自宅で腹を切り、頚動脈に刀を突きたてて自殺した。
その後、正雄は母方の郷里である福島で育ち、東京帝国大学の文学部英文学科に進んだ。
東大在学中、松岡譲らと第三次「新思潮」を創刊した。
24歳のころ、文豪・夏目漱石の門人となり、芥川龍之介、菊池寛らと第四次「新思潮」の創刊にも立ち会った。
25歳のとき、師・夏目漱石が胃潰瘍で急死した。久米は漱石の長女・筆子に恋をし、求婚したが、筆子はこれを断り、松岡譲と結婚した。
久米は彼らへの恨み言めいた文章を発表し、自分の失恋事件を題材にして小説『破船』を雑誌に連載して、好評を得た。
小説家として活躍するかたわら、41歳のときには鎌倉の町会議員に当選し、政治活動もした。
1952年3月、脳溢血のため没した。60歳だった。

かつて芥川龍之介と久米正雄、そして菊池寛は流行作家の御三家だった。芥川が人生を銀のピンセットでもてあそび、久米は器用に箸でつまみ、菊池は素手でわしづかみにすると言われた。

久米正雄の『父の死』を読んだ。父親が御真影を火事から救えなかったために自殺した事件を扱ったものだけれど、いかにもお箸の国の人で、没後の評価をみると、やはり、銀のピンセットや素手のほうが、個性が際立って強いのだろう。

久米正雄が漱石の娘・筆子に求婚したころ、夏目家に怪文書が舞い込んだという。
その文書は、久米正雄が不能だとか性病にかかっているとか、目茶苦茶に非難した品位に欠ける誹謗中傷で、誰が書いたものははっきりとしないのだが、一説によると、書いたのは久米と敵対していた作家の山本有三らしい。真偽のほどは不明だが、『真実一路』『路傍の石』を書いたあの作家が、とすると、小説家の業が感じられて興味深い。

久米正雄は、トルストイやドストエフスキーを通俗小説だと切り捨てる私小説の礼賛者で、それでいてみずからを斬る私小説が書けず、通俗小説作家を通したという矛盾を抱えた作家だった。当人の苦渋が思われる。文士稼業は大変である。
(2022年11月23日)



●おすすめの電子書籍!

『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、江戸川乱歩らをへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から大作家たちの生き様、作品を検討。読書体験を次の次元へと誘う文芸評論。


●電子書籍は明鏡舎。
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11月22日・アンドレ・ジッドの昇華

2022-11-22 | 文学
11月22日は「いいふうふ」の語呂合わせで「夫婦の日」。この日は、ドイツのテニス・ヒーロー、ボリス・ベッカーが生まれた日(1967年)だが、仏国の作家アンドレ・ジッドの誕生日でもある。

アンドレ・ポール・ギヨーム・ジッドは、1869年、フランスのパリで生まれた。父親は大学の法学教授だった。
内気でからだの弱い少年だったアンドレは、学校ではよく殴られたいじめられっ子だった。10歳のとき父親が没し、11歳で病気のため学校を退学。以後、学校に再入学したり、退学したりした後、大学進学をやめ、作家になる志を立てた。
21歳のとき、初の創作『アンドレ・ワルテルの手記』を匿名で自費出版したが、反響はまったくなかった。
22歳のとき、兵役についたが、肺結核になり、1週間で除隊。
その後、ジッドは地中海を渡った北アフリカのアルジェリアに旅し、そこで娼家に出入りし、男色を味を覚えて帰ってきた。
32歳のとき、アルジェリアの体験をもとにした小説『背徳者』を出版。
以後『狭き門』『オスカー・ワイルド』『田園交響楽』『一粒の麦もし死なずば』『贋金つくり』などを書き、78歳の年にノーベル文学賞を受賞した。
1951年2月、パリで没した。81歳だった。

学生時代からジッドは読んでいた。当時は「アンドレ・ジイド」という表記が多かった。
ジッドはバイセクシュアルで、従姉と結婚したが、その従姉の妻とは性生活をもたず、外に作った不倫相手に子どもを産ませたりしていて、はっきりいってその生活は目茶苦茶である。
ジッドの作品は背徳的・反キリスト教的で、ローマ教皇から禁書とされたけれど、逆に言えば、キリスト教世界がまず前提としてあった上でという意味でキリスト教色が濃い文学である。
学生当時は無知で、また、オスカー・ワイルドとかデヴィッド・ボウイとかミック・ジャガーとか、バイセクシュアルの人が世に多くいるのを先に知っていたので、ジッドのカミングアウトにはそれほどショックを受けなかった。けれど、いまはカトリックや時代性についてもすこしは知るようになり、ジッドのインパクトの大きさがようやく察せられるようになった。

ジッドの純粋小説の観念には、感心した。
一方に、サルトルとかドス・パソスとか野間宏など、現実世界のすべてを小説のなかに取り込もうとする全体小説という考えがある。これは大きく大きくという小説の方向性である。
それに対して、ジッドの『贋金つくり』に登場する考えは、現実世界の余分なものはなるたけ排除して、小説に必要な要素だけで小説を組み立てようとする純粋小説の目論見で、小さく小さくという小説の方向性である。
ジッドは自身の内向的な資質を芸術に昇華させようとした人である。
(2022年11月22日)



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『世界文学の高峰たち 第二巻』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。サド、ハイネ、ボードレール、ヴェルヌ、ワイルド、ランボー、コクトー、トールキン、ヴォネガット、スティーヴン・キングなどなど三一人の文豪たちの魅力的な生きざまを振り返りつつ、文学の本質、創作の秘密をさぐる。読書家、作家志望者待望の書。


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11月21日・ビョークの光

2022-11-21 | 音楽
11月21日は、仏国の思想家、ヴォルテールが生まれた日(1694年)だが、シンガーソングライター、ビョークの誕生日でもある。

ビョーク・グズムンズドッティルは、1965年、アイスランドのレイキャヴィークで生まれた。父親は電気技師の労働組合指導者で、母親は発電所拡大に対する反対運動をする活動家だった。ビョークが生まれると間もなく両親は離婚した。母親は娘ビョークを連れてコミュニティー(共同生活体)に入り、彼女はコミュニティーで育った。
6歳で入った音楽学校でクラシックピアノとフルートを学んだ彼女は12歳でデビュアルバム「ビョーク・グズムンズドッティル」を発表。童謡を歌う一躍アイスランドの国民的少女歌手となった。彼女はその後、国民的少女歌手であることをやめ、パンク・バンドやジャズ・フュージョン・バンドを組んで音楽活動を続けた。
そして21歳の年に結婚、子どもを出産し、並行してバンド「シュガーキューブス」として活動を開始。28歳のとき「デビュー」というソロアルバムを発表。これが大ヒットとなり、アーティスト「ビョーク」の名前は世界中に鳴り響いた。
以後、音楽活動と並行して35歳のとき、ミュージカル映画「ダンサー・イン・ザ・ダーク」に主演。カンヌ国際映画祭の最優秀女優賞を受賞した。
政治的発言のほか、災害被災者支援、環境保護活動でも知られる彼女は、2012年、47歳のとき、声帯にポリープがあり、治療と療養の為休養する旨を発表した。

ビョークほど骨のあるアーティストは現代ではすくない。その前衛的な音楽性もさることながら、音楽業界の在り方自体にも疑問を投げかけるその根源的な姿勢は、他の不良ロックバンドがやわなお坊ちゃんバンドに見えてくるくらいとんがっている。
そんな彼女をアーティストとして最初に評価してくれたのは日本だとビョークは考えているようで、彼女は三島由紀夫を読む日本びいきである。

感性が蛍光灯で「いいなあ」と思うのが人よりだいぶ遅い。ビートルズを聴きはじめたのは彼らの解散後だったし、学生のころ、先輩たちが偏愛していたデヴィッド・シルヴィアン率いるJAPANを聴いても、どこがいいのだかわからなかった。それから10年たって、JAPANを宗教のように聴くようになった。ビョークの音楽が好きになったのも、21世紀に入ってからで、最初は、新しいとは感じたが、なかなか好きになれなかった。でも、いま彼女の「デビュー」などを聴くと、うっとりして気が遠くなる。

ビョークの面目躍如たるのは、2008年3月に、中国の上海でのコンサートで彼女が突如、予定していなかった楽曲「Declare Independence」を歌い、
「チベット、チベット」
と連呼した瞬間だろう。中国側はもちろん彼女を拒否し、以降の外国人アーティストに対する規制を強めた。この辺は、不良のイメージで売っているローリング・ストーンズが、歌詞を変更してくれと言われればただちに変えるし、この楽曲はやらないでくれと言われれば素直にしたがうゼリー状の従順さを持ち合わせた商業バンドであるのと対照的である。外国人と思われないその風貌、その地球的な音楽性もさることながら、ビョークのとんがり具合を見るたび、心の蛍光灯に電気が通うのを感じる。
(2022年11月21日)



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『ロック人物論』(金原義明)
ロックスターたちの人生と音楽性に迫る人物評論集。エルヴィス、ディラン、レノン、マッカートニー、ペイジ、ボウイ、スティング、マドンナ、ビョークなど31人を取り上げ、分析。意外な事実、裏話、秘話、そしてロック・ミュージックの本質がいま解き明かされる。

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