1日1話・今日の話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『誇りに思う日本人たち』
『ビッグショッツ』
『黒い火』ほか

2月29日・赤川次郎のピュア

2016-02-29 | 文学
2月29日は4年に一度しかこない閏日(うるうび)。この日は、「セビリアの理髪師」の作曲家ジョアキーノ・ロッシーニ(1792年)が生まれた日だが、ミステリー作家、赤川次郎の誕生日でもある。

赤川次郎は、1948年、福岡の博多で誕生した。東京育ちで、桐朋高校を卒業。子どものころから本好きで、会社勤めをしながら小説を書いていた。28歳のとき、『幽霊列車』で「オール讀物推理小説新人賞」を受賞し、作家デビュー。以後、「三毛猫ホームズ」シリーズ、「三姉妹探偵団」シリーズなどを書き、ユーモア・ミステリーともいうべき、独特の味わいの推理小説を量産し、大ベセトセラー作家となった。

1980年代、赤川次郎は「ベストセラー作家」の代名詞だった。
当時は毎年、確定申告が終わると、国税庁から「長者番付」が発表されていたが、彼はその番付の常連だった。
「長者番付」の作家部門に、何年も連続で第一位に君臨しつづけていた。しかも、第二位の作家を大きく引き離し、断トツの一位。さらに、作家の収入などたかが知れているので、総合ランキングの上位に作家が食い込むことはふつうないのだが、赤川次郎は例外で、仕手戦を制した相場師や、土地成り金、大企業の創業家の人間たちに混じって、総合ランキングの上位に顔を出していた。
節税対策、蓄財に無頓着な人物だった、とも言えるだろう。

デビュー作の『幽霊列車』には感心した。軽いタッチで描かれたミステリーで、おもしろかった。それまで、推理小説というのは、重苦しい、緊張の張りつめたものがほとんどだったけれど、赤川次郎はそういうミステリー界に吹き込んだ心地よい新風だった。現在、流行しているライト・ノベルのはしりで、若い世代に圧倒的な人気があった。

彼の母校の、桐朋高校の国語教師と話したことがあり、その人は赤川次郎がいたクラスを教えたことがあって、次郎少年を覚えていた。
「いい子でしたよ、とっても」
赤川家は母子家庭で、次郎少年は大学受験が思うようにいかなくて、家計のこともあり、浪人をあきらめ、就職していった、そういう事情だと聞いた。
父親は家庭を捨てて、べつに家庭をもって別居していたらしい。

どこかのエッセイのなかで赤川次郎はこういう意味のことを書いていた。
「若いころから、小説を書くのが好きで、それが本になるとか、お金になるとか、とはべつに、自分は一生、小説を書きつづけていこうと心に決めた。学校を出て、就職した。朝、職場に出かけ、仕事をして、帰りに一杯やる集まりがあると、それにつきあって、夜遅くに帰ってくる。それから小説を書いて、3時間ほど眠り、また出勤していく。そういう生活を何年か、毎日つづけた」
お金持ちになりたいとか、プロの小説家になりたいとかでなく(そういう気持ちもあったろうけれど)、純粋に小説を書きつづけていきたい、というところを出発点にしたピュアさに感心する。
(2016年2月29日)




●おすすめの電子書籍!

『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、江戸川乱歩らをへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から大作家たちの生き様、作品を検討。読書体験を次の次元へと誘う文芸評論。



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2月28日・田原俊彦・試論

2016-02-28 | ビジネス
2月28日は、ザ・ローリング・ストーンズのリーダーだったブライアン・ジョーンズが生まれた日(1942年)だが、歌手「トシちゃん」こと、田原俊彦の誕生日でもある。

田原俊彦は、1961年、神奈川の横須賀で生まれた。4人きょうだいの上から3番目で、俊彦は唯一の男の子だった。俊彦が小学校に入学すると間もなく父親が亡くなり、母親は俊彦ら子どもを連れて実家のある山梨の甲府へ引っ越した。経済的な困難から、俊彦は早くから自分が芸能界で出世して、母親の生活を楽にすると決意していた。
甲府の工業高校に入学してすぐ、東京の芸能プロダクション「ジャニーズ事務所」に入門。平日は高校に通い、週末は上京してレッスンを受けるという高校生活を送った。
高校を卒業するとすぐに上京。18歳で、武田鉄矢主演のテレビドラマ『3年B組金八先生』に出演。近藤真彦、野村義男、杉田かおる、三原じゅん子など、実際に中学生だった共演者たちに混じって、ひとりだけ飛び抜けて年上ながら中学生役を演じた。当時は1歳若く年齢を詐称していたらしい。
19歳で「哀愁でいと」を歌い、ソロ歌手としてデビュー。新曲を発売するごとに大ヒットを飛ばし、同時期にデビューした松田聖子とともに、トップアイドル歌手として活躍した。以後「ハッとして! Good」「ブギ浮ぎI LOVE YOU」「キミに決定!」「君に薔薇薔薇…という感じ」「原宿キッス」「NINJIN娘」「シャワーな気分」「ごめんよ涙」などヒット曲を量産した。26歳のとき、テレビドラマ「教師びんびん物語」に主演。33歳のとき、ジャニーズ事務所から独立。以後、所属事務所を変わりながら、芸能活動を続けている。

1980年代、日本では長渕剛、ユーミン、RCサクセション、サザンオールスターズといった自作自演のミュージシャンたちが活躍していた。ポップミュージックは、本人が書いた歌を本人が演奏し歌うのが主流になっていた。
そこへ登場してきたアンチテーゼが、松田聖子と、田原俊彦という「音楽産業の申し子」だった。
「いまさらアイドルではないだろう」という時代に、かわいこぶりっこで、古典的な優等生を演じ、いまもアイドル稼業は立派に通用するということを示したアイドル、それがセイコ、トシちゃんだった。

田原俊彦がデビューしたてのころ、彼がなんでそんなに人気があるのかわからなかった。けれど、しだいに、こういうのも極めれば、それはそれですごいことなのだ、と納得するようになった。曲を作る人、詞を書く人、演奏する人、振り付けを考える人、スケジュールを組む人、売り込む人、演出する人などと分業制が徹底した音楽産業のなかで、歌って踊ることだけに専念する。学年で4つも年下の連中と「たのきんトリオ」を組み、楽しげにガキのふりを演じる。そういうことを仕事と割り切って真摯に打ち込んできたアイドルのプロ、それが彼なのだと理解するようになった。
そうしてみると(郷ひろみと同様に)田原俊彦はどうしてあんなバカみたいな笑い方をするのだろうと疑問を感じていたのも、納得できるようになった。
「SMAP」「嵐」「AKB48」を見ても、自分が虚無感を感じないで楽しんで見られるのは、田原俊彦にアイドルという職業をすでに教わったおかげである。
(2016年2月28日)


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『しあわせの近道』(天野たかし)
しあわせにたどりつく方法を明かす癒し系マインド・エッセイ。「しあわせ」へのガイドブック。しあわせに早くたどりつくために、ページをめくりながら、しあわせについていっしょに考えましょう。読むだけで癒されるしあわせへの近道、ここにあります。


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2月27日・スタインベックの魅力

2016-02-27 | 文学
2月27日は、神秘思想家、ルドルフ・シュタイナーが生まれた日(1861年)だが、ノーベル賞作家ジョン・スタインベックの誕生日でもある。
『怒りの葡萄』『エデンの東』の作者である。

ジョン・アーンスト・スタインベックは、1902年、米国カリフォルニア州のサリナスで生まれた。父親はドイツ系の製粉業者で郡役場の収入役をしていた。母親はアイルランド系の元小学校教師だった。ジョンは4人きょうだいの上から3番目で、唯一の男の子だった。
子どものころから読書好きで、聖書をよく読んでいたというジョンは、高校時代はバスケットボールの選手として活躍した。
17歳で高校を卒業したスタインベックは、さまざまな職業に就いた。製糖の試験所の助手になったり、農場や道路の工事現場、ビル建設現場などで働いたり、貨物船の水夫になったり、山荘の番人をしたりした。職業を転々とする途中、スタンフォード大学に入り、休学、また復学と、出たり入ったりしていたが、結局、23歳のときに大学を退学した。
退学した彼は作家を志し、ポケットに3ドルだけをもって貨物船に乗り、ニューヨークへ出た。そして小説を書いては、出版社にもちこみ、突っ返されることを繰り返した後、27歳のときにようやく『黄金の杯』が出版された。その直後にニューヨークの株式市場が大暴落し、世界恐慌がはじまった。
スタインベックの小説の売れ行きはかんばしくなく、その後も作品を出版社から突っ返されることは多かったが、32歳のとき、短編『殺人』でO・ヘンリー賞を受けたのを契機に風向きが変わった。数社から出版を断られていた『トーティーヤ大地』が、33歳のときに出版されると、これがベストセラーとなり、映画化権が売れた。
以後、『二十日鼠と人間』『怒りの葡萄』『エデンの東』などを書き、60歳のときにノーベル文学賞を受賞。1968年12月、ニューヨークの自宅で心臓発作のため没した。66歳だった。

スタインベックの『エデンの東』は、拙著『名作英語の名文句』でも取り上げた。
聖書の「カインとアベル」の話を下敷きにした小説『エデンの東』は映画化され、テーマ音楽も有名で、ジェームズ・ディーンが主演して大ヒットしたけれど、映画になったのは小説全体のごく一部である。映画にはない、ディーンが演じた青年の母親の若いころの話など、強烈におもしろい部分である。
スタインベックは、もっと読まれてもいい人だという気がする。
(2016年2月27日)


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『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』(越智道雄選、金原義明著)
「エデンの東」「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)をピックアップして解説。英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。

『世界文学の高峰たち』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。ゲーテ、ユゴー、ドストエフスキー、ドイル、プルースト、ジョイス、カフカ、チャンドラー、ヘミングウェイなどなど。文学の本質、文学の可能性をさぐる。


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2月26日・岡本太郎の真実

2016-02-26 | 美術
2月26日は、サザンオールスターズの桑田佳祐が生まれた日(1956年)だが、芸術家、岡本太郎の誕生日でもある。

岡本太郎は1911年、現在の神奈川の川崎市で生まれた。父親は有名な漫画家、岡本一平で、母親は作家、岡本かの子だった。父親は家計をかえりみない放蕩者で、母親は家事や育児を放棄し、夫公認の若い恋人をいっしょに住まわせるという壮絶な家庭で太郎は育った。小さいころから絵を描くのが好きだった太郎は、学校で授業を受けること自体がいやで、学校を始終変わった後、中学を出るとすぐ美術学校に進んだ。
18歳のとき、家族といっしょに船で仏国パリへ渡った。パリの町を5日間、市内観光すると、両親は太郎をひとり残して、英国へ旅立った。ロンドンで開かれる軍縮会議を傍聴する取材のためで、以後10年間、太郎はひとりパリで暮らした。
当時、絵を描くことに疑問を抱き、絵が描けなくなっていた。絵が描けないのなら、せっかくやってきたパリの文化を吸収するべきだとして、彼はフランス語を身につけ、ソルボンヌ大学で哲学や民俗学を学んだ。そんなとき彼は、パリでバプロ・ピカソを発見した。
「ピカソの絵の前で泣くほど感激するのには、二ヵ月半の迷いの生活が必要だった。」(岡本太郎『青春ピカソ』新潮文庫)
岡本太郎はピカソに挑戦し、ピカソを乗り越えることを目標として、芸術に取り組みだし「傷ましき腕」を描いた。29歳のとき、ドイツ軍のパリ侵攻を避けて帰国。展覧会に入賞し、個展を開いた。第二次世界大戦中は召集されて兵役につき、中国戦線で戦った。敗戦後も、半年ほど中国で抑留生活を送った後、復員。
37歳のとき「夜の会」を結成し、前衛芸術について論じ、挑発的な発言をした。
59歳のとき、大阪万博のシンボル・タワーとして「太陽の塔」を製作。芸術作品制作のかたわら、本を書き、テレビ番組や広告にも出演し、流行語を作った。
「芸術は爆発だ」
「どんなものにも顔がある。グラスの底に顔があったっていいじゃないか」
岡本は、縄文式土器の美術性を高く評価し、古代土器に対する日本人の見方を一変させ、するどい文明批評で日本文化に潜む欺瞞をあばいた。1996年1月、パーキンソン病による急性呼吸不全のため、東京の入院先で没した。84歳だった。

かつて岡本太郎はメキシコの古代美術に触れ、こう激賞した。
「けしからん。何百年も前にわたしのマネをしているとは!」

「自分はだめな人間なんだとか、こうやったらきっとだめになるだろう、それならそのマイナスの方に賭けてみるんだ。」(岡本太郎『自分の中に毒を持て』青春文庫)

「貧しいということは、苦しいかもしれないが、逆にその苦しいことが素晴らしい。だから一般には苦しい生き方をしていると、自分をみじめに思ってしまうが、これは大きなまちがいだ。」(同前)

岡本太郎は、ほんとうことを言ってくれる人だった。現代こそ彼の発言が望まれる時代だが、彼はもういない。生きている者が、ほんとうのことを言わなくては。
(2016年2月26日)


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『おひつじ座生まれの本』~『うお座生まれの本』(天野たかし)
おひつじ座からうお座まで、誕生星座ごとに占う星占いの本。「星占い」シリーズ全12巻。人生テーマ、ミッション、恋愛運、仕事運、金運、対人運、幸運のヒントなどを網羅。最新の開運占星術。


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2月25日・ジョージ・ハリスンの繊細

2016-02-25 | 音楽
2月25日は、印象派の画家、ルノワールが生まれた日(1841年)だが、20世紀最大の音楽グループ「ザ・ビートルズ」のジョージ・ハリスンの誕生日でもある。

ジョージ・ハリスンは、1943年、英国イングランドのリヴァプールで生まれた。父親はバスの運転手で、母親は食料品店を手伝っていた。母親は歌を歌うのが好きで、ジョージがお腹にいるとき、よくラジオでインド音楽を聴いていたらしい。
小さいころから音楽好きだったジョージは、洗濯板をギターがわりにかき鳴らしていた。それが友人にもらった中古ギターになり、母親に買ってもらったエレキギターになった。ギターの練習に熱中し、彼は仲間とスキッフル・バンドを組んだ。
14歳のころ、ジョージは一歳年上のポール・マッカートニーと出会い、ポールに紹介されて三歳年上のジョン・レノンに会った。ポールは、ジョンと組んでいる自分たちのバンドにジョージを引き入れようとした。ジョージは二人の前でギターを弾いて見せた。ジョンは彼の腕前に感心したが、若すぎるとして加入を認めなかった。それからジョージは、ジョンの後をくっついて歩くようになり、ついにジョンは加入を認めた。
ジョン、ポール、ジョージ、そしてリンゴ・スターをドラマーに迎えて、4人となったザ・ビートルズは1962年、ジョージが19歳のときにレコードデビューした。彼らはたちまち全英の人気者となり、やがて全世界の若者たちを熱狂させる人気グループとなった。
ビートルズには、ポールとジョンという二人の天才がいて、二人三脚で作詞作曲をしていたため、ジョージ・ハリスンが楽曲を発表する機会は限られていたが、それでもジョージはしだいに頭角をあらわした。彼は「タックスマン」「アイ・ウォント・トゥ・テル・ユー」「恋をするなら」「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」などの名曲を書いた。とくにビートルズの最高傑作ともされるアルバム「アビイ・ロード」は、彼の代表作「サムシング」「ヒア・カムズ・ザ・サン」が中心的な位置に収められ、「ジョージのアルバム」とも呼ばれる。
27歳のとき、ビートルズが解散。以後、ソロとなり、「マイ・スウィート・ロード」「美しき人生」「二人はアイ・ラヴ・ユー」「セット・オン・ユー」などのヒットを放った後、2001年11月、肺ガンと脳腫瘍のため、米国ロサンゼルスで没した。58歳だった。

ジョージは、ビートルズではリードギタリストを務め、インド精神世界への興味を持ち込んだ。ビートルズの面々をインドへヨガの旅に連れだしたのも、「ノルウェーの森」などビートルズの楽曲にシタール演奏を入れたのはジョージの功績である。その音楽センスは、年をへるしたがって輝きをいよいよ増し、時代がようやく追いついた感がある。

ビートルズがデビューしたころ、インタビューで、いつまでこの人気が続くと思うかと問われ、たしかジョージがこう答えていた。
「そんなに長続きするなんて思っていない。お金を貯めて美容院でもやるつもりだよ」

「サムシング」「ヒア・カムズ・ザ・サン」などジョージの曲にはうっとりとする瑞々しさがあって、聴く者を陶然とさせる。ジョンやポールとは異なる、独特の繊細な詩情である。
(2016年2月25日)


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『ロック人物論』(金原義明)
ロックスターたちの人生と音楽性に迫る人物評論集。エルヴィス、ディラン、レノン、マッカートニー、ペイジ、ボウイ、スティング、マドンナ、ビョークなど31人を取り上げ、分析。意外な事実、裏話、秘話、そしてロック・ミュージックの本質がいま解き明かされる。


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2月24日・チェスター・ニミッツの目標

2016-02-24 | 歴史と人生
2月24日は、コンピュータのアップル社の創立者、スティーブ・ジョブズが生まれた日(1955年)だが、米国海軍のチェスター・ニミッツ元帥の誕生日でもある。日本を敬い、日本を打ち負かした男である。

チェスター・ウィリアム・ニミッツは、1885年、米国テキサス州フレデリックスバーグで生まれた。ドイツ系の家系で、家はホテルを経営していた。チェスターの父親は彼が生まれる前に没し、チェスターは祖父から強い影響を受けた。祖父は若いころ、ドイツの商船に乗り込んでいた元船乗りで、孫にこう教えたという。
「海はまるで人生そのもの、きびしい教師だ。もっともいいのは、学べることをすべて学び、ベストを尽くし、後悔しないことだ、とくに不可抗力のことについては」
祖父のホテルを手伝いながら育ったチェスターは、はじめウェストポイント(アメリカ陸軍士官学校)を希望していたが、同校への推薦が得られず、推薦が得られたアメリカ海軍兵学校へ16歳で入学した。こうしてテキサス生まれの彼は海へ出ることになった。
兵学校を卒業した20歳のとき、乗り込んだ戦艦が日本に寄港。ニミッツは、ロシア・バルチック艦隊を破ったばかりの連合艦隊司令長官、東郷平八郎と会って話したという。
第一次世界大戦中は潜水艦司令部の参謀だったニミッツは、1941年の日本軍によるハワイ真珠湾攻撃のニュースを、自宅のラジオで知った。46歳の彼は、ただちに米国海軍の太平洋艦隊司令長官に任命され、少将から飛び級で大将に昇格。彼は、マッカーサー陸軍大将が指揮する南西太平洋方面を除く太平洋方面の全軍を指揮することになった。
彼は空母、航空機の戦力増強に努め、潜水艦を含めた太平洋のゲリラ攻撃を推進し、また、本国政府からの意見よりも、現場の意見を重視して人事をおこなった。
1942年、47歳のとき、日本海軍がミッドウェー島を攻略しようとして奇襲攻撃をしかけたのをニミッツは先に読んで戦力増強して対応し、日本艦隊の主力を壊滅させた。これによって、戦局は大きく連合国側に傾き、日本は敗戦への道をたどりだした。
49歳で元帥に昇進。日本が無条件降伏するにあたり、米国代表として戦艦「ミズーリ」号上での降伏調印の署名に臨んだ。そしてニミッツは戦後、52歳で引退した。
引退後は、日米関係の修復と、東郷平八郎関連の施設の復興に尽力した後、1966年2月、脳卒中と肺炎により没した。81歳になる4日前だった。

太平洋戦争で、日本は要するにニミッツに負けた。彼は、男前で聡明で、謙虚な人物だった。

ニミッツは、ヒロシマ、ナガサキへの原爆投下にも当初は反対していたが、周囲に説得された。日本の降伏を知ったニミッツは、ただちに麾下の全軍に対して、日本人をののしったり、虐待したりしないよう厳命を下したという。

ミッドウェー沖海戦で勝利したニミッツは、日本軍の敗因を、敵に勝る大軍を率いて奇襲の必要がないのに奇襲を試みたことと、目標をひとつにしぼらなかったことだと分析した。ニミッツは攻撃目標を「日本の機動部隊の空母」と明確にしていた。
日露戦争の日本海海戦で、東郷平八郎は、砲撃目標を敵バルチック艦隊の旗艦に集中させた。ニミッツは39歳のとき、東郷平八郎の国葬に立ち会っている。彼の目標明確化の戦術方針は、尊敬する東郷を見習ったものだろう。
(2016年2月24日)


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『つらいときに開くひきだしの本』(天野たかし)
苦しいとき、行き詰まったときに読む「心の救急箱」。どうしていいかわからなくなったとき、誰かの助けがほしいとき、きっとこの本があなたの「ほんとうの友」となって相談に乗ってくれます。いつもひきだしのなかに置いておきたいマインド・ディクショナリー。


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2月23日・中島みゆきの日本

2016-02-23 | 音楽
2月23日は、ロック・ミュージシャン、宇崎竜童が生まれた日(1946年)だが、シンガーソングライターの中島みゆきの誕生日でもある。

中島みゆきこと本名・中島美雪は1952年、北海道の札幌で生まれた。父親は産婦人科医で、子どものころは、岩内、帯広、山形、ふたたび帯広と引っ越しが多かった。
帯広の高校を出、札幌の女子大で国文学を専攻した。高校時代から自作の歌を歌うようになり、大学時代はあちこちの音楽コンテストに出場し「コンテスト荒らし」と呼ばれた。
大学卒業後も、帯広を活動の拠点として音楽活動を続け、23歳のとき、音楽コンテストで「傷ついた翼」を歌い入賞。「アザミ嬢のララバイ」でレコード・デビューした。
同じ年におこなわれたコンテストで「時代」を歌い、グランプリ受賞。「中島みゆき」の名前はこの楽曲とともに一躍全国に知れ渡った。
以後「わかれうた」「悪女」「空と君のあいだに/ファイト!」「旅人のうた」「地上の星/ヘッドライト・テールライト」などを発表。ユーミンこと松任谷由美と並んで、ニューミュージック界の女王と呼ばれ、ユーミンが「純愛の神さま」であるのに対して、中島は「失恋の神さま」と、その歌の内容に陽と陰との対照があるとされる。
ほかの歌手に提供した楽曲も多く、研ナオコ「あばよ」、桜田淳子「しあわせ芝居」、工藤静香「黄砂に吹かれて(作詞のみ)」、吉田拓郎「永遠の嘘をついてくれ」、TOKIO「宙船(そらふね)」などのヒット曲がある。

最初、中島みゆきの曲を聴いたときは、テーマと真摯に向き合った、やや暗い感じの内容を、若い声で朗々と太く歌い上げる変わった女性、という印象だった。
その後、ラジオの深夜番組をやっているのを聴いたら、軽く明るい、はじけたキャラクターで、そのギャップに驚いた。
彼女の写真を見たのはその後だった。いわゆるかわいこちゃんタイプの女性で、そのギャップに三たび驚いた。だから、自分にとって中島みゆきは、ばらばらなイメージをつぎはぎした感じの人である。

ご覧になった方もいるかと思うが、以前、タレントのマツコ・デラックスがテレビ番組のなかで、中島みゆき論を語っていた。中島みゆきの「タクシードライバー」の歌詞とそっくりな体験をしたことがあるとマツコは言っていた。恋人も、仕事も失い、心がボロボロの状態でタクシーに乗り、後部シートで泣いていると、タクシーの運転手が野球の話ばかりを延々と繰り返していた、と、ほとんど歌詞そのままの体験談だった。
それを聞き、ああ、と、納得するものがあった。
心がボロボロにくずれているのが、明らかに見てとれるとき、想像力を働かせて相手の心の内を察し、あえて相手の気持ちに触れないでおこうという思いやりがある。中南米や欧米人に、そういう心の遣い方は見たことがないので、ひょっとするとこれは日本人独特の気遣いかもしれない。一般に諸外国の人々は、あまり他人の心に想像力を働かせない。
そうしてみると、この歌に関して、中島みゆきの発想はとても日本的なもので、また、苦労人こそそういう想像力のある思いやりを発揮するものだと彼女が考えているとわかる。これは芭蕉に通じる考え方で、やはり日本的である。
(2016年2月23日)



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『デヴィッド・ボウイの生涯』(金原義明)
緊急出版。デヴィッド・ボウイ総論。至上のロックスター、デヴィッド・ボウイの人生、音楽、詞、方法論など、その全貌を明らかにする人物評論。遺作に込められたボウイのラストメッセージとは何か?


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2月22日・ショーペンハウエルの偏屈

2016-02-22 | 思想
2月22日は、映画監督、ルイス・ブニュエルが生まれた日(1900年)だが、哲学者のショーペンハウエルの誕生日でもある。

アルトゥール・ショーペンハウエルは、1788年、ドイツのダンツィヒで生まれた。ドイツ貴族の家系で、父親は裕福な商人で、母親は作家だった。
アルトゥールが5歳のとき、一家はハンブルクへ引っ越した。
17歳のとき、父親が(おそらく自殺で)没し、 母親はヴァイマールへ越していった。アルトゥールはハンブルクに残って商人の修行を続けていたが、1年でそれをやめ、母親のもとに身を寄せた。
21歳のとき、大学に入学。最初は医学を専攻したが、後に哲学科へ転じた。
30歳のとき、主著『意志と表象としての世界』を完成し、翌年に出版。
32歳でベルリン大学の講師となった。そのころ、同大学では、ショーペンハウエルが大嫌いなヘーゲルが講義をしていたが、そちらに学生をとられて、ショーペンハウエルの講義にはたった5人の学生しか集まらなかった。怒った彼は、すぐに大学を辞めてしまった。
43歳のころ、ベルリンにコレラが流行し、ショーペンハウエルはそれを避けてフランクフルトへ越し、そこで生涯を過ごした。1860年9月、猫といっしょに長椅子にすわっているとき、心不全を起こし、没した。72歳だった。

ショーペンハウエルは若いころに読んだ。『自殺について』『読書について』などなつかしい。

ショーペンハウエルは、世界の根本は「盲目的な存在意志」だとして、厭世哲学を説いた。この世の中がもともと生命を求める意志で動く本能的で衝動的なものなので、この世はどうしても対立と闘争の絶えない世界となる。それを調整するために、人は国家や法律を作るけれど、それでも個人的エゴイズムが集団的エゴイズムに代わるのがせいぜいで、根本的な解決にはならない。解決方法は、意志の否定しかない。具体的には、禁欲、清貧、粗食による解脱、聖者の生活である。と、彼の思想はペシミズムで、仏教に近い。

ショーペンハウエル本人も悲観的で心配性だったそうだ。いつも、だまされないかとか、盗まれないかとか、いつも神経をとがらせていて、夜寝るときはピストルと剣をいつもそばにおいていたらしい。そうかと思うと、かんしゃくもちで、自分の本など読む人はいない、と母親に言われると、こう言い返した。
「わたしの本はあんたが書いたくずのような本が消えてなくなったころに、長く読み継がれる本なのだ」
彼の『意志と表象としての世界』は、出版後1年半で百部も売れなかったという。

「女性は、個体としてよりも、種族としてより多く生きている」
「孤独は、すぐれた精神の持ち主の運命である」
そう言ったショーペンハウエルは、熱烈な恋に落ちたこともあったらしいが、
「結婚するとは、男の権利を半分にして、義務を二倍にすることである」
として生涯独身を通した。偏屈な変わり者だったが、自分など共感する部分も多い。
(2016年2月22日)



●おすすめの電子書籍!

『思想家たちの生と生の解釈』(金原義明)
古今東西の思想家のとらえた「生」の実像に迫る哲学評論。ブッダ、カント、ニーチェ、ウィトゲンシュタイン、フーコー、スウェーデンボルグ、シュタイナー、クリシュナムルティ、ブローデル、丸山眞男などなど。生、死、霊魂、世界、存在、認識などについて考察。わたしたちはなぜ生きているのか。生きることに意味はあるのか。人生の根本問題をさぐる究極の思想書。


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2月21日・ジバンシィと友情

2016-02-21 | ビジネス
2月21日は、南インドにあるコミュニティー「オーロヴィル」の創設者ミラ・アルファサが生まれた日(1878年)だが、ファッションデザイナー、ジバンシィの誕生日でもある。

ユベール・ド・ジバンシィは、1927年、仏国、パリの北にある町、ボヴェで生まれた。ジバンシィ家は、イタリア貴族を先祖にもつ侯爵家で、ユベールはその次男として生まれた。ユベールが3歳のとき、父親がインフルエンザで没し、彼は兄や母親とともに母方の祖母のもとで暮らした。母方の祖父は、タペストリーをデザイン、製造する工房の経営者だった。侯爵の爵位は後に兄が継いだ。
ユベールは10歳のとき、パリで開催された万国博覧会を見て、ファッション・デザインの世界で生きることを決意。パリの美術学校をへて、18歳のころからファッション・デザイナー、ジャック・ファットのもとで商業デザインをはじめた。
25歳のとき、独立。自分の会社を興して、コレクションを発表した。ジバンシィのデザインはエレガントではあったが、当時の主流派だったディオールの保守的なデザインとは対照的に、斬新で個性的だった。シャツ素材で、開襟、ワッフル袖のベッティーナ・ブラウスを作り、世界のファッション界をあっと言わせた。経済的な理由から、初期のジバンシィの服は、コットンなど比較的安価な素材で作られていたが、デザインの先進性がそれを補って余りあった。
26歳のとき、ハリウッド映画「麗しのサブリナ」の衣裳を担当した。二つ年下の主演女優オードリー・ヘップバーンは、その映画の後「おしゃれ泥棒」「シャレード」「ティファニーで朝食を」などでもジバンシィを着た。
ジバンシィはその後、ウエストもヒップもない「自由なライン」のシュミーズドレスを発表して話題を集め、香水、紳士服、装身具などにも進出した後、1995年、68歳のとき、後任デザイナーを指名して引退した。

ジバンシィが映画「麗しのサブリナ」の衣裳を引き受けたとき、彼は主演女優を、名女優キャサリン・ヘップバーンだと勘違いしていたらしい。主演がオードリーだとわかると、ジバンシィは落胆し、断ろうとした。しかし、以前からジバンシィのデザインを気に入っていたヘップバーンにほだされ、結局彼は衣裳を作った。その後、ジバンシィとヘップバーンの友情は終生続いた。

オードリー・ヘプバーンは亡くなる前、米国ロサンゼルスで悪性腫瘍の治療を受けていた。1992年の暮れになると、周囲の者はヘップバーンをスイスの自宅で最期のときを迎えさせたいと考え、本人もそれを希望した。ロサンゼルスの滞在先には「ローマの休日」で共演したグレゴリー・ペックも付き添っていた。
衰弱したヘップバーンを、空港の人ごみに連れだすことがはばかられたが、このときジバンシィがジェット機を手配した。彼は資産家の友人に連絡をとり、プライベート・ジェット機をチャーター。それで、ヘップバーンは人ごみを避けてこっそりと、花がいっぱいに飾られたジェット機に乗り込み、スイスへ飛ぶことができた。そうして、年が明けた1993年の1月にスイスの自宅で亡くなった。
ペックやジバンシィがずっとヘップバーンのよき友人でいつづけた話が自分は好きである。
(2016年2月21日)



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2月20日・長嶋茂雄の偉大さ

2016-02-20 | スポーツ
2月20日は「燃える男」が生まれる日である。落語家の立川談志が生前、石油危機が叫ばれていたころ、たしかこう言っていた。
「石油がなくなるって世の中で騒いでますがねぇ、もしも石油がなくなったら、アントニオ猪木とか、長嶋茂雄とか、燃える男を燃しゃあいいんですよ」
2月20日はプロレスのアントニオ猪木(1943年)、そして、プロ野球界の「ミスター」長嶋茂雄の誕生日でもある。

長嶋茂雄は、1936年、千葉の、現在の佐倉市で生まれた。父親は町役場に勤める役人で、茂雄は4人きょうだいの末っ子だった。
野球少年だった茂雄は、「物干し竿」と呼ばれた長いバットで打ちまくる強打者、藤村富美男の大ファンで、藤村の所属する阪神タイガースのファンだったという。彼は手縫いのボールとグローブ、手製のバットで野球の練習をした。
高校時代には野球部の4番打者として活躍した。卒業にあたり、社会人野球やプロ野球の読売ジャイアンツからも誘いがあったが、父親がすべて断り、茂雄を大学へ進学させた。
立教大学に入学した長嶋は、野球部に入部。六大学リーグのホームラン記録を作った。
卒業後、22歳で読売ジャイアンツに入団。大型新人だったが、開幕デビュー戦では、国鉄の金田正一投手に完全に抑えられ、4打席すべてを連続三振した。その後はヒットとホームランを量産しだし、プロ野球の新人ホームラン記録を作った。
「4番、サード、長嶋」とアナウンスされる長嶋は、サードゴロを猛ダッシュしてとりにいき、フルスイングで空振りする「見せる野球」で人気者になった。ジャイアンツの主軸メンバーとなり、3番打者「一本足打法」の王貞治とともに「ON砲」と呼ばれた。
38歳のとき、現役選手を引退。引退セレモニーのスピーチで、
「我が巨人軍は永久に不滅です」
とあいさつした。彼の背番号「3」は永久欠番となった。現役引退後は、読売の監督、オリンピック代表チームの監督などを務め、77歳のときに国民栄誉賞を受賞した。

野球に自分はうといので、ひいきの球団をめぐってファンがケンカしたニュースなどを聞くと、どうして他人の商売をあれだけ熱心に応援できるのか不思議な気がする。どういう選手がいるかもよく知らない。けれど、そんな自分でも、王貞治、長嶋茂雄、野茂英雄、イチローといった選手たちのレベルになると、その偉さをすこしは知っている。

その昔、江夏豊投手が村上龍のテレビトーク番組に出演しているのを見た。江夏投手は当時、米国のメジャー球団の入団テストを受けてきたところだったのだけれど、彼が、米国の選手たちが、練習前のロッカールームで音楽を大音響で鳴らして、素っ裸になって踊りはじめ、びっくりした、という話をした。すると、村上龍が、
「長嶋茂雄選手だったら、そういうのにも入っていけますかね?」
と尋ねた。すると、江夏投手は、すこし考えてから答えた。
「うん、ミスターだったら、裸になって、いっしょに踊りだすかもしれない」
これを聞いたとき、はじめて長嶋茂雄の偉大さが、すこしわかった気がした。
(2016年2月20日)


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