1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

12月31日・林芙美子の凄味

2018-12-31 | 文学
12月31日。大晦日は、シンガー・ソング・ライターのジョン・デンバー(1943年)が生まれた日だが、作家、林芙美子(はやしふみこ)の誕生日でもある。

林芙美子は、1903年の大晦日、下関(北九州の説もあり)で生まれた。父親はテキ屋だった。芙美子が4歳のころ、父親の浮気がきっかけとなり、彼女の母親は彼女を連れ、父親の店の番頭をしていた男といっしょに家出した。この番頭が芙美子の養父となった。
旅商いをする両親について芙美子は九州、山陽地方を転々とした後、13歳のころ、広島県の尾道に落ち着き、ここで7年ほど、小学校から高等女学校までの時期をすごした。
夜や週末に働きながら通った女学校時代から、彼女は詩や短歌を書いては新聞に投稿する文学少女だった。
女学校を卒業した芙美子は、19歳になる年に上京し、会社の事務員やカフェの女給をし、男と同棲や結婚、離婚を繰り返しながら、同人誌に詩や小説を書いた。
宇野浩二の泊まっているホテルに押しかけて教えを乞うたり、徳田秋声の家に出入りし、紹介状なしに新聞社や出版社に乗りこんでいき、書いた雑文の原稿を置いてきたりした。たいてい原稿は不採用のまま郵便で返却されてきて、年に2、3度くらい採用されて原稿料が入ったという。
25歳のとき、雑誌に『放浪記』を連載するとこれが好評で、原稿の大幅な改稿、書き下ろしを加えて同作品は単行本として出版された。『放浪記』はベストセラーとなり、林芙美子は一躍大流行作家となった。
彼女は小説執筆に講演にと引っ張りだことなり、戦争がはじまると、新聞社の特派員、または内閣情報部の従軍作家として、南京や漢口などの戦地へ出かけ、各地の軍隊を慰問してまわった。
戦後も忙しく取材、講演に駆けずり回りながら執筆を続け、1951年6月、心臓麻痺で急死した。47歳だった。
作品に『清貧の書』『晩菊』『浮雲』などがある。

『放浪記』は舞台化され、森光子がでんぐり返しの演技を披露して2000回以上のロングラン公演を記録した。

林芙美子の『風琴と魚の町』が、高校の国語の教科書に載っていて、授業で習った。作者が子どものころの体験を題材にした話で、旅商いをする父親が怪しげな薬や化粧品を仕入れてきては、たまたま汽車を下りた町の縁日で売りさばく、子どもはいつもお腹をすかせていて、白いごはんと聞くと涙が出てくる、というような話で、強烈な印象だった。「尾道」という街の名をこの小説ではじめて知った。

出版社の編集者が、日本文学全集のなかの「樋口一葉」の巻の推薦文を、林芙美子に頼みにいったという話がある。林芙美子は推薦文を書いたが、ほんとうは樋口一葉が嫌いで、
「あんな六区のペンキ塗りの看板みたいな話、どこがいいの」
というようなことを言った。浅草の六区は、演芸所やストリップ小屋が並んでいたところで、林芙美子が言う感じはよくわかる。林芙美子と、樋口一葉とでは、たしかに東と西の地平線ほどちがうかもしれない。

林芙美子の作品は実生活の体験に裏打ちされていて、素朴で強い。読む者の胸を深くえぐってくる重たいものがある。
(2018年12月31日)


●おすすめの電子書籍!

『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、江戸川乱歩らをへて、鏡花、漱石、鴎外などの文豪まで。新しい角度から大作家たちの生き様、作品を検討。読書体験を次の次元へと誘う文芸評論。

●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.com

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12月30日・キプリングの意識

2018-12-30 | 文学
12月30日は「小説の神様」横光利一の忌日(1947年)だが、英国初のノーベル文学賞受賞者、キプリングの誕生日でもある。『ジャングル・ブック』の作者である。

ジョゼフ・ラドヤード・キプリングは、1865年、インドのムンバイ(ボンベイ)で生まれた。当時のインドは、英国の植民地だった。両親は英国人だったが、父親が美術学校の教師として赴任するため、新婚ほやほやの夫婦そろって、英国からはるばるムンバイへやってきた、そこでジョゼフが生まれたのだった。
ジョゼフは、5歳のころまでインドですごし、それから英国へ送られ、べつの夫婦に預けられて育った。
16歳のとき、インドへ呼び戻され、インドの新聞社で記者見習いになった。処女詩集を出版し、新聞に短編小説を掲載し、キプリングの文名はしだいに高まっていった。
24歳のとき、彼は英国へもどり、短編小説を量産して、英国でも文名は高まった。
26歳のとき、結婚。結婚式では、花嫁の父親役代理を『ねじの回転』の作者ヘンリー・ジェイムズが務めたという。新婚のキプリング夫妻は、アメリカへ渡り、バーモント州に家を借りて、そこで『ジャングル・ブック』を書いた。
30歳のころ、夫妻はまた英国にもどり、キプリングは詩や小説などを書きつづけた。
35歳のとき、代表作『キム』を発表。英国でもっもと人気のある作家のひとりとなったキプリングは41歳のときに、英語作家として初、また史上最年少でノーベル文学賞を受賞。
その後も執筆活動を続け1936年、70歳で没した。

キプリングは、大英帝国華やかなりし時代の作家である。インド、英国、米国を行ったり来たりし、一時期は毎年冬になると、南アフリカへいっていた。どこへいっても母国語ですませられたのだから、大英帝国の威光たるや、おそるべし、である。

キプリングの代表作『ジャングル・ブック』は、拙著『名作英語の名文句2』でも取り上げた。この作品は、動物が人間のようにふつうに会話する物語である。もうひとつの代表作『キム』は、アイルランド人の子どもが現在のパキスタンの街で成長する話である。異国情緒あふれる物語が、20世紀初頭の英国では好評を博したのである。

現代も国際化時代だけれど、キプリングの時代とはまったく異なった意味の国際化時代になっていて、現代は、情報通信が進んで、英国もインドもブラジルも日本も、みんなごっちゃになってしまっている。たとえば、YouTubeにディズニー映画の『ジャングル・ブック』が流れて、世界各地でいっせいに視聴されたとしても、
「ああ、インドらしい異国風情があっていいなあ」
という受け止め方をする人はほとんどいない。そういうことである。
あるいは、世界で最先端のものを表現するということは、キプリングの時代には、まだ人々によく知られていない土地をのぞいてきて、そこを舞台にした何かを表現することだったが、現代では、自分のいるその国、その土地の個性を徹底的に追求することが世界最先端のものを表現することになる、と、そういうちがいがある。だから、そういう時代認識をもって、目の前の現実に立ち向かうべきだ。
(2018年12月30日)



●おすすめの電子書籍!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句2』(金原義明)
「ジャングル・ブック」「ガリヴァ旅行記」から「ダ・ヴィンチ・コード」まで、英語の名著の名フレーズを原文(英語)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。好評シリーズ!


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12月29日・カザルスの香り

2018-12-29 | 音楽
12月29日は、ゴムの加工法を発明したチャールズ・グッドイヤーが生まれた日(1800年)だが、チェロ奏者パブロ・カザルスの誕生日でもある。

パブロ・カザルスは、1876年、スペインのカタルーニャ地方のベンドレイで生まれた。本名はパウ・カルラス・サルバドー・カザルス・イ・デフィリョ。父親は、教会のオルガン奏者で、聖歌隊の指揮者だった。
息子のパブロは、4歳ですでにピアノ、フルート、ヴァイオリンが演奏でき、6歳のときにはヴァイオリン・コンサートを開ける腕前だった。
11歳のとき、はじめてチェロの生演奏を聴き、この楽器にほれこんだ。彼はバルセロナの音楽学校に入り、本格的にチェロの理論を学びだした。
17歳のとき、カフェでトリオ(三重奏団)で演奏しているところを、たまたま作曲家に見いだされ、カザルスは宮廷で演奏会に飛び入り出演する機会を得た。それがきかっけとなって、カザルスは王室から奨学金をもらい、首都マドリードで作曲の勉強をした。
18歳のとき、彼はフランスのパリにでて、オーケストラのチェロ奏者の職についた。そして世界的チェロ奏者として知られるようになった。
28歳のころ、ピアノのアルフレッド・コルトー、ヴァイオリンのジャック・ティボーと組んでカザルス・トリオを結成し、トリオとして演奏活動をはじめた。
スペインのフランコ総統の独裁政権に反対して演奏活動をやめてしまったこともあった。彼は一貫して反ファシズム、平和主義で、核実験禁止運動に参加し、第二次世界大戦が終わると、平和の象徴として「鳥の歌」の演奏をはじめた。94歳のとき、ニューヨークの国連本部で、こうあいさつして「鳥の歌」を演奏した。
「わたしの故郷のカタルーニャの鳥は、ピース、ピース(平和、平和)と鳴きます」
国連平和賞を受賞した後、カザルスは1973年10月、晋三発作のため、プエルトリコのサンフアンで没した。96歳だった。

カザルスは納得がいくまで練習を重ねる練習の鬼だった。13歳のときバルセロナの音楽店で、ボロボロになった中古のバッハのチェロの組曲の楽譜を手に入れた彼は、それから毎日欠かさずその曲を練習しつづけ、人前でその曲をはじめて演奏したのはそれから13年後だったという。

カザルスが学生当時は、チェロは両ひじをわきにくっつけて、堅苦しい恰好で弾くのが作法だったのを、カザルスはひじをわきから離し、自由に動かすよう作法を変えた。

大学を卒業するとき、担当教官のお宅にうかがって、夕食をご馳走になった。アルコールがまわると、教授は古いカザルス・トリオのレコードを出してきてかけてくれた。
ベートーヴェンのピアノ三重奏曲第7番「大公」だった。
「カザルスのチェロに、コルトーのピアノと、ティボーのヴァイオリンの音がうまく溶け合って、これがいいんですね」
「文化的なもの」を感じた。以来、カザルスは、或る高級な文化の象徴になった。
(2018年12月29日)



●おすすめの電子書籍!

『大音楽家たちの生涯』(原鏡介)
古今東西の大音楽家たちの生涯、作品を検証する人物評伝。彼らがどんな生を送り、いかにして作品を創造したかに迫る。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンから、シェーンベルク、カラヤン、ジョン・ケージ、小澤征爾、中村紘子まで。音の美的感覚を広げるクラシック音楽史。


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12月28日・ウィルソンの苦闘

2018-12-28 | 歴史と人生
12月28日は、「コンヒュータの父」ジョン・フォン・ノイマンが生まれた日(1903年)だが、第28代米国大統領ウッドロウ・ウィルソンの誕生日でもある。

トーマス・ウッドロウ・ウィルソンは、1856年、米国バージニア州スタントンで生まれた。スコットランドとアイルランドの血をひく家系で、父親は長老派の牧師だった。ウッドロウは4人きょうだいの3番目で、上に2人の姉がいた。
ウッドロウは、名門プリンストン大学をへて、ヴァージニア大学で法律を学び、一時弁護士になったが、27歳のとき、メリーランド州のジョンズ・ホプキンズ大学に入り直し、アメリカ政治についての研究論文を書いて政治学の博士号をとり、学者になった。
34歳のとき、母校プリンストン大の教授となり、46歳で学長に就任。後、政治家へ転身し、54歳でニュージャージー州知事に当選した。
56歳のとき、民主党の大統領候補となり「ニュー・フリーダム」政策を掲げて大統領選挙に勝利。第28代合衆国大統領となった。
ウィルソン大統領が掲げた「ニュー・フリーダム」は、公正な自由競争を促進しようとするもので、彼は自由貿易をうながす関税引き下げ、大銀行による通貨独占を排除する連邦準備制度の創設、企業による市場独占を取り締まった。
彼が大統領になるとすぐに第一次世界大戦がはじまったが、ウィルソンは参戦せず中立を守ろうとした。しかし、ドイツ軍によって船舶の無差別撃沈がはじまるに及んで、対ドイツ参戦に踏み切り、徴兵制を敷き、反戦運動や労働運動を弾圧した。
大戦中、ウィルソン大統領は、秘密外交の禁止や、国際平和機構の設立などを含む「十四か条の平和原則」を発表し、戦後、彼の提案に沿って講和会議が進められ、大戦争再発防止のための国際組織「国際連盟」が創設された。
国際連盟設立の際、日本側から「人種差別撤廃」の提案がなされたが、植民地をもつ英国や、国内に人種問題を抱える米国のウィルソンはこれを拒絶した。
また、米国議会が国際連盟加盟に反対したために、提案者ウィルソンがいる米国が参加しないという異常事態となった。
ウィルソンは当初、しだいに運動が盛り上がってきていた女性参政権に反対していたが、途中で賛成にまわり、彼の任期中に憲法修正第19条が議会を通過し、米国では女性の参政権が認められた。また、彼の任期中、禁酒法が議会を通過した。これに対し、ウィルソンは大統領の拒否権を発動したが、議会で再可決され、禁酒法は成立した。以後、禁酒法はフランクリン・ルーズヴェルト大統領に解除されるまで約13年続いた。
ウィルソンは国際連盟の創設をした功績により、63歳のときノーベル賞を受賞したが、その寸前に脳梗塞を発症し、左半身不随、言語障害などの後遺症を負った。そのため大統領との文書のやりとりはすべて夫人を通すという異常な時期をへた後、ウィルソンは大統領職から降り、1924年2月、ワシントンDCの自宅で没した。67歳だった。

ウィルソンは難読症(ディスレクシア)で、9歳まで文字が読めず、11歳まで文章を書けなかったそうだ。そのため彼は自分に猛烈な努力を課して、人並み以上に勉学に励み、博士号をとり、学長にまでなった。彼は博士号をもつ最初の米国大統領だった。
大統領時代も、世界大戦がはじまり、議会は反対ばかりで、思うようにはいかなかった。つまり、苦闘し、けっしてくじけない、祝福されるにふさわしい人生だった。
(2018年12月28日)


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『ねずみ年生まれの本』~『いのしし年生まれの本』(天野たかし)
「十二支占い」シリーズ。十二支の起源から、各干支年生まれの性格、対人・恋愛運、成功のヒント、人生、開運法まで。


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12月27日・ディートリッヒの愛

2018-12-27 | 映画
12月27日は「近代細菌学の開祖」ルイ・パスツールの誕生日(1822年)だが、映画女優マレーネ・ディートリッヒの誕生日でもある。

マレーネ・ディートリッヒは、1901年、現在のドイツ、ベルリンで生まれた。本名はマリア・マグダレーネ・ディートリッヒ。父親はプロシア警察の将校で、マレーネが子どものころに没した。彼女には上に姉がいた。学校に通っていたころから、彼女は本名を縮めて「マレーネ・ディートリッヒ」と呼ばれていた。
マレーネは小さいころからピアノとバイオリンを習っていて音楽学校に入ったが、左手首を痛めて進路を変更、演劇の道に進んだ。
マレーネは各地を巡業してまわるレビュー団に入り、公演旅行にあけくれた。このころ彼女は客の人気を得るため、下着をはかずに舞台に立っていた。
20歳のころから、演劇の舞台にも立つようになり、それをたまたま映画監督ジョセフ・フォン・スタンバーグが観に来ていた。スタンバーグは彼女にほれこみ、彼女を自分の映画「嘆きの天使」に抜擢した。映画は大ヒットし、歴史に残る名作となった。
28歳のマレーネはスタンバーグといっしょに米国ハリウッドへ引っ越していき、今度はゲーリー・クーパーとの共演作「モロッコ」をハリウッドで撮った。
そのころ、ドイツではヒトラー率いるナチス党がユダヤ人迫害をおこなっていた。
マレーネはいったんドイツへ帰り、娘のマリアを不穏な母国から米国へと連れだした。ドイツには夫がいたが、彼らはずっと別居して暮らすようになった。ただし離ればなれでも家族であり、連絡はとっていたようだ。
「間諜X27」「上海特急」「鎧なき騎士」「狂恋」「情婦」「ニュールンベルク裁判」「ジャスト・ア・ジゴロ」「マレーネ」。パラマウントの大スター、マレーネ・ディートリッヒは、MGMのグレタ・ガルボと並んで、ハリウッドの二大美神として君臨した。「百万ドルの脚」といわれる脚線美で知られた。

ナチスのヒトラーは、ディートリッヒの大ファンで、彼女に帰国するよう懇願したが、ディートリッヒは大のヒトラー嫌いで、それを断り、第二次大戦がはじまると志願して、母国と敵対する連合軍兵士たちを慰問してまわりだした。ヨーロッパの戦争が終わったとき、ディートリッヒはド・ゴール将軍と、解放されたパリのシャンゼリゼ通りを行進した。
戦後のディートリッヒは、戦時の慰問中に米国政府からかけられた多額の未納税を支払うために、映画に出演したり、舞台で歌を歌ったりしていそがしかった。
74歳のころ、足を骨折したのを機に、ステージから引退。晩年はパリで暮らし、1992年5月、パリで没した。90歳だった。

十代のころからのディートリッヒ・ファンで「嘆きの天使」「モロッコ」「間諜X27」「上海特急」などにため息をついてきた。いずれもスタンバーグ作品で、映画フィルム自体に、監督の女優に対する愛が焼き付けられている。

ディートリッヒは占星術をよくして、会った人を占ってあげた。彼女は名女優だけでなく、人間として魅力的だった。世間体やプライドを気にせず、時々の気持ちに正直に人を愛し、人類全体をも愛した、愛のある豊かな人だった。
(2018年12月27日)



●おすすめの電子書籍!

『おひつじ座生まれの本』~『うお座生まれの本』(天野たかし)
おひつじ座からうお座まで、誕生星座ごとに占う星占いの本。「星占い」シリーズ全12巻。人生テーマ、ミッション、恋愛運、仕事運、金運、対人運、幸運のヒントなどを網羅。最新の開運占星術。


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12月26日・菊池寛の懐

2018-12-26 | 文学
12月26日は、米国の作家ヘンリー・ミラーが生まれた日(1891年)だが、作家、菊池寛(きくちかん)の誕生日でもある。

菊池寛は、1888年、香川の高松で生まれた。本名の読みは「きくちひろし」。菊池家は高松藩の儒学者の家系で、寛は中学校を首席を出、東京の高等師範学校に進んだが、授業をサボり退学。その後、大学入学、中退を繰り返した後、京都帝国大学の英文科に入った。
学生時代は、懸賞小説に当選し、久米正雄、山本有三、芥川龍之介らとともに、東大の同人誌である「新思潮」に参加して戯曲「屋上の狂人」などを発表した。
28歳の年に大学を卒業後は、新聞社に入り、記者仕事のかたわら、戯曲「父帰る」や小説「無名作家の日記」「忠直卿行状記」「恩讐の彼方に」をなどを発表。31歳で記者を辞め、作家活動に専念。新聞小説「真珠婦人」でベストセラー作家となった。
35歳になる年に出版社・文藝春秋社を創業し、雑誌「文藝春秋」を創刊。雑誌は売れ、事業は成功し、彼は大金持ちになった。菊池は出版社経営のかたわら、映画会社社長を兼務し、49歳のころには東京市議に当選し、政治家としても活動した。太平洋戦争中は、文芸銃後運動を発案し、作家を国内や満州などで講演させて国威高揚運動に務めた。
敗戦の翌年、彼は文藝春秋社を解散した(その3カ月後に同志が集って文藝春秋を再興)。戦争に協力したとして、菊池は59歳の年に公職から追放された。そうして失意のなか、1948年3月、狭心症のため没した。

芥川龍之介が人生を銀のピンセットでもてあそぶと言われたところ、素手でいきなりつかむと言われたのが菊池寛の作風だった。『藤十郎の恋』『形』『入れ札』といった短編を読むと、その感じがよくわかる。谷崎潤一郎はこの菊池寛の作風が嫌いで、菊池の『忠直卿行状記』や『恩讐の彼方に』についてこう書いている。
「テーマばかしが露骨に出てゐて、書きかたが如何にも粗つぽい気がした。ああいふ文章を読むと、僕とは全然肌合ひの違ふ人だといふことが強く感じられて、どうや好感が持てなかつた」(「追憶」『谷崎潤一郎全集 第二十二巻』中央公論社)
この感じはよくわかる。でも、谷崎は菊池の戯曲は褒めている。
「戯曲も随分テーマが露骨で、線が太く、粗つぽいとは思つたけれども、戯曲の場合は小説とは違ひ、舞台へかけて見ると却つてその方が旗幟鮮明で、印象がはつきりし、観客に強い感銘を与へたやうに思ふ。要するに、僕は小説家としてよりも戯曲家としての菊池君を上に見るもので、一時菊池君の戯曲が演劇界を風靡したのも、まことに偶然でないのである。」(同前)

菊池寛の小説や戯曲は若いころから読んでいた。
菊池は川端や小林など後輩作家にとても親切で、金策の相談に来ると、すぐにお金や仕事を用意してあげた。川口松太郎など、菊池を思いだすだけで涙が出ると言っていた。また、川端康成によると、菊池寛は、大学生だった川端に、
「あれはえらい男だから友だちになれ」(川端康成「思い出すともなく」『一草一花』講談社文芸文庫)
と、当時まだ無名だった横光利一に紹介した。清濁あわせのむ懐の深さといい、先見の明といい、クリエイターである以前にオーガナイザーだった。
(2018年12月26日)


●おすすめの電子書籍!

『出版の日本語幻想』(金原義明)
編集者が書いた日本語の本。問題集の編集現場、マンガ編集部、書籍編集部で、本はどんな風に作られているのか? そこの日本語はどんな具合か? 涙と笑いの編集現場を通して、出版と日本語の特質、問題点を浮き彫りにする出版界遍歴物語。「一級編集者日本語検定」収録。


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12月25日・ヒルトンの信仰

2018-12-25 | ビジネス
12月25日、クリスマスは、万有引力を発見したあのニュートンが生まれた日(1642年)だが、実業家コンラッド・ヒルトンの誕生日でもある。ヒルトン・ホテルの創業者である。

コンラッド・ニコルソン・ヒルトンは、1887年、米国ニューメキシコ州がまだ準州だったころ、同州のソコロ郡で生まれた。父親はノルウェーからの移民で、母親はドイツ系米国人だった。コンラッドは8人きょうだいの一人だった。
コンラッドは、小さいときから父親が経営する雑貨屋を手伝って、商売に親しんでいた。
ニューメキシコの工学系の学校を出たコンラッドは、イリノイ・ウェスリアン大学の学生クラブで国際的秘密結社であるTKEのメンバーとなり、ニューメキシコ州が州に格上げされて、州議会ができると、共和党議員として最初の州議会議員になった。
第一次世界大戦が始まると陸軍兵士として出征し、フランスを転戦した。
兵役を終えて米国へ戻ったヒルトンが32歳のころ、テキサスで石油ブームが起きた。ヒルトンはテキサスで銀行を買収して金融業をはじめようと考えたがうまく行かず、結局テキサスでホテルを買った。
それは40部屋あるホテルで、一日にひとつの部屋を3組の客が利用するほどの高回転で業績がよく、ヒルトンはテキサス州内にホテルを買収したり建設したりして傘下のホテル・チェーンを増やしていった。
彼が42歳のころにはじまった大恐慌の際には破産しかけ、何軒かのホテルを失ったが、彼はくじけず、7軒のホテルをなんとか持ちこたえ、しだいに盛り返していった。
52歳ではじめてテキサス州外に進出し、60代に入ると、折からの米国人の海外旅行ブームに乗って国外にも進出し、結局ヒルトンは米国内の38の都市に188軒のホテルと、海外に54軒のホテルを展開するにいたった。そして、1979年1月、老衰のため、カリフォルニア州のサンタモニカで没した。91歳だった。

ヒルトンの両親は経験なローマン・カトリック教徒で、息子のヒルトンはそれに大きく影響を受けていた。彼は母親の教えを守り、困難な状況にぶつかった折には、かならず教会へ行き、祈った。祈りことが最大の投資である、との母親を教えを信じ、大恐慌の危機的状況も祈りによって耐え抜くことができたという。
さすがクリスマス生まれ。一般に、信仰心がうすい日本人は、そういう面では弱い。日本のビジネスマンや政治家はしばしば、お金を崇拝しているだけだったりする。すると、お金がなくなったとき、拝む頼りがなくなる。

ただ、祈るばかりではやはり成功はおぼつかなくて、ヒルトンは言っている。
「成功……それは行動することに関係があるようだ。成功する者は、動き続けている。彼らはミスをする、けれど、彼らはやめない。(Success ... seems to be connected with action. Successful men keep moving. They make mistakes, but they don't quit.)」
(Goodreads Inc: http://www.goodreads.com/)
(2018年12月25日)


●おすすめの電子書籍!

『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、デュポン財閥のエルテール・デュポン、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。


●電子書籍は明鏡舎。
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12月24日・ハワード・ヒューズの秘密

2018-12-24 | ビジネス
クリスマス・イヴの12月24日は、大富豪ハワード・ヒューズの誕生日でもある。生前は人前に姿を見せない謎の富豪として有名だった。

ハワード・ロバード・ヒューズ・ジュニアは、1905年に、米国テキサス州ヒューストンで生まれた(異説あり)。父親ヒューズ・シニアは、石油採掘現場で止揚するドリルの刃の特許をもつ会社を経営する大金持ちだった。息子は11歳でラジオ発信機を自作し、12歳のときには原動機付き自転車を自作して、地元に新聞に写真が載るような少年だった。
彼は16歳のときに母親を亡くし、18歳で父親を亡くし、孤児となった。相続した遺産、会社や特許権をもって、彼はカリフォルニア州へ引っ越し、好きな事業をやりはじめた。
ヒューズは20代後半から、資金力にものをいわせて制作費を惜しげもなく注ぎ込んだ映画を作った。ハリウッド時代には、ベティ・デイヴィス、エヴァ・ガードナー、キャサリン・ヘップバーン、ジンジャー・ロジャース、ジョーン・フォンテーンなどといった女優たちとロマンスを繰り広げた。ただし、一人ひとりの女優を愛し、求婚し、彼女らのキャリアを助ける、愛人に尽くす男だった。しかし、キャサリン・ヘップバーンにも、ジョーン・フォンテーンにもプロポーズを断られた。

ヒューズは飛行機マニアで、飛行機の開発もしたし、自分で操縦もした。31歳のときにはニューヨーク=ロサンゼルス間の大陸横断飛行の新最速記録を作った。
1943年5月17日、38歳のヒューズはロシア製の飛行機を操縦して、カリフォルニアを飛び立った。民間航空管理局の視察官など4名と女優のエヴァ・ガードナーを機に乗せていた。機はいったんラスベガスに着陸してガードナーをおろし、ふたたび飛び立って、アリゾナ州とネヴァダ州の境にあるミード湖を目指した。が、墜落し、搭乗していた2人が死亡し、ヒューズ自身も頭部に重症を負った。このときに使った麻酔剤が、その後中毒となり、ヒューズは神経をやられ、脅迫神経症の症状をきたすにいたった。異常にバイ菌を恐れるようになり、すこしでも雑菌のありそうな場所には入って行けない。手を洗いはじめると、手から血がでるまでやめられないようになった。それで晩年は、買いとったラスベガスのホテルの最上階に閉じこもって、公衆の面前へはいっさい姿を見せなくなった。
1976年4月、ヒューズは危篤状態におちいり、治療のため自家用飛行機で移動中、機内で息を引きとった。70歳だった。

飛行機好きだから、空の上で死ねるのは、本望だったろう。ヒューズの生涯を題材に、マーティン・スコセッシ監督が映画『アビエイター』を撮った。映画ファン必見である。

ヒューズは、自分の興味のある分野に大胆に切り込んでいく事業家で、冒険好きの飛行機乗りだった。亡くなったとき、彼の総資産は15億ドルで、当時の合衆国の国内総生産の1190分の1にあたる額だったそうだ。たいした男である。
もしも彼のように18歳で孤児となり、莫大な遺産を相続したとして、彼ほどにわが生を生きられたろうか。否。さすが、クリスマス・イヴ生まれである。
(2018年12月24日)



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『映画監督論』(金原義明)
古今東西の映画監督30人の生涯とその作品を論じた映画人物評論集。監督論。人と作品による映画史。チャップリン、溝口健二、ディズニー、黒澤明、パゾリーニ、ゴダール、トリュフォー、宮崎駿、北野武、黒沢清などなど。百年間の映画史を総括する知的追求。


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12月23日・チェット・ベイカーの浮沈

2018-12-23 | 音楽
12月23日は、平成の今上天皇が生まれた日(1933年)だが、「トランペットの詩人」チェット・ベイカーの誕生日でもある。

ジャズ・ミュージシャン、チェット・ベイカーは、1929年、米国オクラホマ州イェールで生まれた。本名は、チェスニー・ヘンリー・ベイカー・ジュニア。父親は、プロのギタリストで、その影響もあって、チェットは小さいころから、教会の合唱団で歌い、トロンボーンやトランペットなどの楽器に親しんでいた。
16歳のとき、チェスニーは学校をやめ、軍隊に入った。ドイツに駐留し、そこで軍の音楽隊員として活動。2年後に除隊し、ロサンゼルスの大学で音楽を勉強しはじめた。が、間もなく退学して、サンフランシスコへ移り、そこの軍OBのバンドや、夜のジャズ・クラブで演奏するようになった。
彼は、天才サックス奏者といわれたチャーリー・パーカーに認められていっしょにプレイしたり、ジャズの帝王と呼ばれたマイルス・デイビスとプレイしたりし、1950年代には絶大なる人気を誇った。
38歳のころ、彼は麻薬がらみのけんかで殴られ、前歯が折れ、唇に甚大な傷を負った。これによって、トランペットの演奏ができなくなり、一時はガソリンスタンドで働いて食いつないだこともあったという。その後、義歯をいれ、演奏を復活した。57歳のころには、日本にもきている。
そうして1988年5月13日、チェット・ベイカーはネーデルランド(オランダ)、アムステルダムのホテル・リンス・ヘンドリックの窓から地上に転落して死亡した。彼の泊まっていた部屋からは、ヘロイン、コカインが見つかっており、解剖された彼の遺体からも同じ薬物が検出されたという。死因は、頭部を強打したためだが、衣服に争った形跡がなく、自殺を裏付ける証拠にも乏しいことから、事故死として処理された。享年58歳だった。

ロック少年で、ずっとジャズにはうとかった。ジャズ喫茶で頭を揺らしながら聴いているサラリーマンやOLが不思議な生き物に見えた。
でも、あるとき、チェット・ベイカーの「いつか王子さまが(Someday My Prince Will Come)」のCDを聴いた。すると、これがよかった。チャーリー・パーカーの緊張感あふれる演奏にはない、力のぬけたゆったりとして急がない演奏で、
「えっ、これもジャズなの?」
という感じだった。からだにしっくりとくるジャズだった。
このCDは1979年のデンマークのコペンハーゲンでのライブ録音だった。ということは、チェットがけんかでケガをし、義歯を入れて復活した後の演奏ということになる。
1950年代の録音よりも、義歯を入れた後のチェットのほうが、体質的にしっくりくる。
チェットの「アイム・オールドファッションド(I'm Oldfashioned)」なども、聴いていて、ほっとする。力の抜けた力業というのもある。
(2018年12月23年)



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12月22日・ラマヌジャンの身体

2018-12-22 | 科学
12月22日は、「蝶々夫人」「トゥーランドット」を書いた作曲家プッチーニが生まれた日(1858年)だが、インドの天才数学者ラマヌジャンの誕生日でもある。

シュリニヴァーサ・アイヤンガー・ラマヌジャンは、1887年に、南インドのタミル・ナードゥ州クンバコナムに生まれた。生家は貧しいバラモンの家で、身分は高かったが、近所の人に食べ物をわけてもらわなくては生きていけないくらい貧しかった。
小さいときから学校の成績のよかったラマヌジャンは、15歳のときに『純粋数学要覧』という本に出会った。英国の数学者ジョージ・カーが書いたその本は、数学の定理が6000個近く並べられた本だった。一つひとつの定理について、くわしい解説はない。
ラマヌジャンは、この本に夢中になり、そこに並んだ定理を片っ端から証明していった。そうして、数学一辺倒の人間になっていった。
17歳のとき、ラマヌジャンはクンバコナム大学に入学するが、数学しかやる気がないために、1年で退学。ラマヌジャンは数学の勉強だけを続け、自分で発見した定理をノートにせっせと書きためていった。
彼は家庭教師をしたり、経理の仕事をしたりして食いつなぎながら、数学の論文を書いた。それが数学の学会誌に掲載された。ラマヌジャンはさらに自分の発見した定理を、インドの学者に見せ、宗主国であった英国の学者にも送った(インドは英国の植民地だった)。
こうした手紙はほとんど無視されたが、送りつけられた学者のひとり、ケンブリッジ大学の学者、ゴッドフレイ・ハーディはそれに目を通した。ハーディは、ラマヌジャンの定理の数々に驚いた。
「これまで、これにすこしでも似たものを見たことがない」
ハーディはラマヌジャンを英国へ呼び寄せるよう手配した。

バラモンには海を渡ってはいけないという戒律のしばりがあった。その戒律を破ると、バラモンのコミュニティーから追放されてしまう。
ラマヌジャンの周囲では「行ってはいけない」「いや、行くべきだ」とすったもんだがあって、結局ラマヌジャンとその支持者が、ヒンドゥー教の神さまの「行ってよろしい」というご宣託を受け、ラマヌジャンは晴れて渡英した。

ラマヌジャンは、ケンブリッジに約5年間いた。ハーディは無神論者で、数学においては証明の厳格さを重んじていた。一方、ラマヌジャンは信仰心厚く、数学においては直感に頼っていた。それで、二人の共同作業は、ラマヌジャンが毎日もってくる新定理の数々を、ハーディが証明し論文を書く、というものになった。
しかし、寒い英国の気候がからだに合わず、宗教上の理由から食事の栄養が偏り、栄養不足になりがちで、さらに英国の習慣からくるストレスが重なり、彼は病気で倒れた。ラマヌジャンは、結局、31歳のときにインドへ帰っていった。
その凱旋は地元に人々に大歓迎されたが、彼の健康は回復することなく、ラマヌジャンは1920年4月、マドラスチェットペットで、没した。32歳の若さだった。
死因は結核、ビタミン欠乏症、肝炎など諸説がある。
頭の天才とからだの弱さ。天は二物を与えずということはあるものだ。
(2018年12月22日)



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『オーロビンドとマザー』(金原義明)
インドの神秘思想家オーロビンド・ゴーシュと、「マザー」ことミラ・アルファサの思想と生涯を紹介。オーロビンドはヨガと思索を通じて、生の意味を追求した人物。その同志であるマザーは、南インドに世界都市のコミュニティー「オーロヴィル」を創設した女性である。われわれ人間の「生きる意味」とは? その答えがここに。


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