1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

3/31・抵抗の映画監督、大島渚

2013-03-31 | 映画
3月31日は、「我思う、ゆえに我あり」と言ったデカルトが生まれた日(1596年)だが、映画監督、大島渚の誕生日でもある。
自分は、大島渚監督よりもまず、奥さんの女優、小山明子さんのファンだった。はじめてテレビで彼女をみたときから、
「なんときれいな、やさしそうな、品のある人だろう」
と、子ども心に、この美人女優にあこがれていたところ、しばらくして、彼女には夫がいると知れた。それが、大島渚という映画監督だというので、
「なんだ、監督が女優に手をつけてはいかんじゃないか。まるで駄菓子屋の店員が商品のお菓子をつまみ食いするようなものだ」
と憤慨したのだったが、自分が生まれたときには、すでに二人は結婚していたのだった。

大島渚は、1932年に、京都で生まれた。父親は役人で、水産試験場に勤務していたところから、「渚」と命名されたらしい。
京都大学法学部に入学し、学生時代は、劇団活動のかたわら、京都府学連の委員長として学生運動にも参加した。
22歳のとき、松竹大船撮影所に助監督として入社。
28歳の年には、「青春残酷物語」「太陽の墓場」「日本の夜と霧」と、3本の作品を監督し、「松竹ヌーヴェルヴァーグ」の監督して名を馳せた。
これら大島作品は、いずれも社会性が強い、反体制的な作風の映画だったが、とくに「日本の夜と霧」は安保闘争を真正面から扱った政治色の強い映画で、松竹は封切りから4日後に自主的に公開を中止。これに怒った大島渚は、松竹を退社。仲間とともに映画制作会社、創造社を設立し、独立プロダクションの船出となった。
以後、経営的な困難、官憲側との闘争などに苦しみながらも、刺激的な作品を発表しつづけた。
作品に「天草四郎時貞」「白昼の通り魔」「忍者武芸帳」「日本春歌考」「無理心中日本の夏」「絞死刑」「帰って来たヨッパライ」「愛のコリーダ」「愛の亡霊」「戦場のメリークリスマス」「御法度」などがある。
64歳のとき、「御法度」の制作発表した直後に脳出血で倒れた。治療、リハビリテーションを積んでなお不自由なからだを押して、「御法度」を完成させた後、2013年1月、肺炎により没。80歳だった。

世界を見渡しても、大島渚監督ほど個性の強い映画監督はすくない。
作品の一作一作が、体制側に対する闘争宣言であり、観客に突きつけた最後通牒であり、社会正義の訴えだったと思う。
パゾリーニやゴダールよれも、もっととんがった天才監督、そういう感じがする。
初期の作品の感性のとんがり具合もさることながら、年をとり、いっそう過激になったとんがり具合もすばらしい。
ポルノグラフィーを撮るのなら徹底的にやろうじゃないかと、露骨な性描写を敢行して、いまだに無修正完全版が日本でみられない「愛のコリーダ」や、ビートたけしや坂本龍一といった、後に映画界で世界的に活躍することになる才能を起用したホモセクシュアルの戦争映画「戦場のメリークリスマス」は、そのとんがった感性の記念碑的作品だと思う。
大島渚は、あこがれの女優をものにした憎い男ではあるが、やはり、日本の誇りである。

さて、大島監督が小山明子さんと結婚式を挙げたのは、「日本の夜と霧」の公開中止の直後のことだった。このとき、怒って松竹を飛びだした大島監督の伴侶ということで、自然と小山明子さんも松竹から干されてしまった。
もともと女優は望んだ職業ではなかったという小山さんは、ちょうどいいから、この際、エプロンをかけて待っているような奥さんになろう、とそう考えたらしい。彼女はこう言っている。
「女優をやめようかなと思ったけど、現実には彼は仕事がないし、家をつくっちゃったから、借金を返さなきゃいけない。これは私は働かなくっちゃと思って。それで仕事をまた始める」(大島渚『大島渚1968』青土社)
それ以後も、大島監督のところは、独立プロダクションだから、映画が興行的に失敗して莫大な借金を負ったりしているし、つぎの映画制作費を稼ぐために、奥さんも働き、監督もテレビに出、と、夫婦共稼ぎで苦労しつづけた。
そして、大島監督が倒れてからは、小山明子さんはその介護で大変な苦労をし、彼女自身もうつ病になったりした。それでも、彼女は最期まで大島監督を支えつづけた。夫もたいした監督だったが、奥さんも、まったく、たいした女性で、いい女だなあ、と思う。

それにしても、大島渚監督の人生は、闘いにつぐ闘いの人生だった。
その後を生きる自分たちは、彼の作品から、何かを受け継がなくてはならない、そう感じさせるだけの生きざまだったと思う。
ご冥福をお祈りします。
(2013年3月31日)


著書
『新入社員マナー常識』
メモ、電話、メールの書き方から、社内恋愛、退職の手順まで、新入社員の常識を、具体的な事例エピソードを交えて解説。

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句2』
「ガリヴァ旅行記」から「ダ・ヴィンチ・コード」まで、名著の名フレーズを原文で読む新ブックガイド。第二弾!

『12月生まれについて』
ゴダール、ディズニー、ハイネなど、12月誕生の31人の人物評論。ブログの元のオリジナル原稿収録。12月生まれの取扱説明書。

『コミュニティー 世界の共同生活体』
ドキュメント。ツイン・オークス、ガナスなど、世界各国にある共同生活体「コミュニティー」を具体的に説明、紹介。

『ポエジー劇場 子犬のころ2』
カラー絵本。かつて子犬だったころ、彼は泣いているリスに出会って……。友情と冒険の物語。
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3/30・個性の革命家、ゴッホ

2013-03-30 | 美術
3月30日は、英国のギタリスト、エリック・クラプトンが生まれた日(1945年)だが、炎の画家、ゴッホの誕生日でもある。
自分は小学校のときから、ずっとゴッホのファンで、あちこちの美術館でゴッホの絵画を見てきたし、彼の伝記や書簡集、評論なども読んできた。だから、彼の作品や生涯については、何度もおさらいしていて、よく知っている。
ゴッホは、その絵も、その生きざまも、強烈な魅力のある人で、まさに「運命の画家」といった感じがする。フェルメールとか、レンブラントとか、ネーデルランドにはほかにも偉大な画家がいるけれど、ゴッホには、ほかの画家にはない、ある宿命のオーラが宿っている。だから、日本の版画家、棟方志功が、
「わだば日本のゴッホになる」
と言った、その表現もうなずける。これは「日本のピカソになる」とか「日本のダ・ヴィンチになる」ではだめで、やはり「日本のゴッホになる」と言って、はじめて強い決意表明となるのである。

フィンセント・ファン・ゴッホは、1853年、ネーデルランド(オランダ)の南部、ベルギー国境に近いズンデルトで誕生した。父親は牧師だった。
フィンセントは子どものころから絵画を描くのが好きだったらしい。
市民学校を出たゴッホは、16歳のとき、絵画を扱う商店の店員となり、23歳で退職。聖職者を志すようになった。
25歳のとき、ベルギーの炭坑の村プティ=ヴァムで、ゴッホは伝道活動を始めた。しかし、貧しい村の人々に同情したゴッホが、自分の衣服を彼らに与え、自分がボロを着ていると、これが教会側に「権威を損なう行為」だとして非難され、伝道師の仮免許が剥奪された。
聖職者の道を断たれたゴッホは、27歳のころ、画家になることを決意。画商をしている弟のテオの仕送りを受けながら、デッサンや油彩を描き、ベルギー、ネーデルランド、フランスなどを転々とした。
29歳のときには、ネーデルランドのハーグで、モデルを頼んだ身重の売春婦に同情して援助し、彼女と彼女が産んだ子どもと共同生活をしている。
仏国では、パリ暮らしをへて、35歳のとき、地中海に面したアルルへ越した。ゴッホの傑作と言われる作品群は、ほとんどがこの地へ来て以降のものである。そのアルルでゴッホは、同じく画家のゴーギャンを迎え、共同生活をはじめた。創作に励む二人の画家の共同生活はしだいに緊張関係を生み、ついにゴッホが剃刀でゴーギャンに切り付けようとして失敗し、逆上して自分の耳を切り落とすという事件に発展する。ゴーギャンはアルルを去り、共同生活は2カ月ほどで決裂した。
ゴッホは精神病院に入退院した後、1890年7月、オーヴェルで自分の胸をピストルで撃ち、死亡した。37歳だった。

ゴッホの死んだ翌年、弟のテオも没した。
ゴッホの絵は、生前は一枚しか売れず、その絵が高く評価されだしたのは、没後のことである。兄弟の死後、テオの妻が、ゴッホの回顧展や、兄弟の書簡集を出版するなど尽力したことが、画家ゴッホの再評価につながったとされる。
ゴッホが絵画を描いたのは、ほんの10年ほどで、傑作は最晩年の2年間に集中している。それを考えれば、ゴッホは比較的早く評価された画家だったとも言える。もしもゴッホが50歳まで生きていたら、案外、鬱然たる大家として世界の美術界に君臨していたのかもしれない。

画家の池田満寿夫は生前、ゴッホを絶賛していて、その魅力についてこう言っていた。
「まず、厚塗りによる発色のよさ」
まったくその通りだと思う。
そして次に、強烈な印象を与える、あの骨太な点描画法である。
そして、三つ目の魅力として自分は、ゴッホの絵画の強い表現が、その裏側にある、自分の貧しさをかえりみず他人に同情してすべて投げだしてしまう、ゴッホのとてつもないやさしさと表裏一体となっているところに強く引かれる。

自分は、ゴッホは、美術界に個性の時代を開いた先駆者だと思う。
ゴッホ以前の画家たちは、そこに美が生まれることを念じて絵を描いていた。
ゴッホ以降の画家たちは、自分独自の描き方が作品に出ることを念じて描くようになった。そういうことである。
ゴッホ以降は、見ればすぐにその人の作品だとわかる、そういう画家の時代になった。
同時代のモネやゴーギャンもそうだし、モディリアーニ、それからポップアートのウォーホールや、リキテンシュタイン、奈良美智、村上隆などもそうだと思う。
極端な言い方をするなら、現代人は、誰が描いたかわからない、ただ美しい傑作にはありがたみを感じない。
「ああ、この人の作風だ」という個性を珍重する。
そういう意味で、ゴッホこそ、現代の持つ美意識の扉を開いた、美の革命家だったと思うのである。
(2013年3月30日)


著書
『出版の日本語幻想』
編集者が書いた日本語の本。編集現場、日本語の特質を浮き彫りにする出版界遍歴物語。「一級編集者日本語検定」付録。

『新入社員マナー常識』
メモ、電話、メールの書き方から、社内恋愛、退職の手順まで、新入社員の常識を、具体的な事例エピソードを交えて解説。

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句2』
「ガリヴァ旅行記」から「ダ・ヴィンチ・コード」まで、名著の名フレーズを原文で読む新ブックガイド。第二弾!

『2月生まれについて』
スティーブ・ジョブズ、村上龍、桑田佳佑など、2月誕生の29人の人物評論。ブログの元となったオリジナル原稿版。2月生まれの必読書。

『こちらごみ収集現場 いちころにころ?』
ドキュメント。ごみ収拾現場で働く男たちの壮絶おもしろ実話。

『ポエジー劇場 天使』
カラー絵本。いたずら好きな天使たちの生活ぶりを、詩情豊かな絵画で紹介。巻末にエッセイを収録。
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3/29・バンク-ミッケルセンのノーマリゼーション

2013-03-29 | 歴史と人生
3月29日は、世界最大の小売業者「ウォルマート」の創業者、サム・ウォルトンが生まれた日(1918年)だが、「ノーマリゼーションの父」バンク-ミッケルセンの誕生日でもある。
自分はかつて知的障害者のグループホームのお手伝いをしたことがある。そんな経験もあって、バンク-ミッケルセンが訴えた「ノーマリゼーション」の大切さが、すこしはわかっているつもりでいる。

ニルス・エリク・バンク-ミッケルセンは、1919年、デンマーク、ユトランド半島のスキャンで生まれた。生家は紳士服屋だった。
16歳のとき、ニルスはシェラン島にある首都コペンハーゲンの高校に入学。高校2年生のとき、合唱団で知り合った女生徒ビヤタと恋に落ち、これが周知の仲となると、二人はともに退学処分にあった。
バンク-ミッケルセンは大学入学検定試験を受け、コペンハーゲン大学の法学部に入学。大学在学中に、ビヤタと結婚した。
21歳の大学生だったとき、ドイツが不可侵条約を破ってデンマークに侵入。デンマークは降伏し、ドイツの占領下に入った。
バンク-ミッケルセンは、レジスタンスの地下新聞の編集発行をしていたが、逮捕され強制収容所に入れられた。約5カ月後に釈放され、彼はふたたびレジスタンス活動に入った。
ナチス・ドイツの占領が解けた戦後は、知人のつてをたどって、社会省(日本の厚労省に相当)に入省。希望に反して、精神薄弱福祉課に配属された。そこで施設行政を担当することになった彼は、知的障害者のおかれた環境の劣悪さに驚き、知的障害者の親の会とともに、行政府、立法府に改善を求めて働きかけた。彼らは「ノーマリゼーション」ということばを掲げ、
「知的障害者も人格があり、ノーマルな人々と同じように生活する権利を持つ人間である」
と訴えた。この訴えは、1959年、彼が40歳のときに法制化された。
以後、バンク-ミッケルセンは、国内外にノーマリゼーションを訴えて広く活動。
48歳のときには米国カリフォルニア州の知的障害者の施設を見学し、
「デンマークでは、家畜でもこのように取り扱いません」(花村春樹『「ノーマリゼーションの父」N・E・バンク-ミッケルセン』ミソルヴァ書房)
と批判し、当時カリフォルニア州知事だったロナルド・レーガンを激怒させた。が、その後、州が派遣した調査委員会の調査によって、批判がもっともであることが明らかになると、レーガン知事はしぶしぶ負けを認め、施設改善に着手した。
49歳のとき、バンク-ミッケルセンはケネディ国際賞を受賞。日本にも来訪し講義をした後、1990年9月、大腸ガンにより没。71歳だった。高校をいっしょに退学させられた恋人ビヤタとは、結婚して死別するまで、約50年間、伴侶として連れ添った。

ノーマリゼーションとは、知的障害者も、ふつうの人と同様、教育を受け、仕事をし、日常を過ごすといった、ごくふつうの生活を送る権利を持っているのであり、そういう生活が送れるようにする、ということである。
人々はそれを認めるべきだし、行政府はそれを補助しなくてはならない、というのがバンク-ミッケルセンの主張である。

自分が以前、宿直係をしていた知的障害社のグループホームは、20人弱くらいの入居者が暮らしているシェアハウスだった。
入居者はみななんらかの知的障害を持っていて、肉体的な困難も同時に抱えている人ばかりだった。
そこでの体験を通してわかったのは、知的障害者といっても、自分とそんなにちがいがあるわけではないということだった。たしかに彼らは、自分と比べて、計算が不得手だったり、ものが器用に扱えなかったりするけれど、考えていることも、持っている料簡も、自分とそんなにちがわない。なかには事前に、知能が3、4歳程度だと説明を受けていた入居者もいたが、でも、つきあってみれば、人間として、自分とそうちがいがあるわけではなかった。むしろ、自分のほうが、邪な料簡を肚に多く抱えているとさえ思った。
実際のところ、品性の面では、彼ら知的障害社より劣った人間が、一般の企業や大学にたくさんいて、えらそうな顔をしてふんぞりかえっていたりすることを自分はよく知っている。

ノーマリゼーションは、現代の日本では常識事項に入ると思うのだが、現実的には、日本人は二重思考を持っていて、巧妙にすりかえ、差別することがすくなくない。
「知的障害社にはやさしく」と言いながら、「うちのそばにそういう施設があると困る」とか。
「学業成績の善し悪しは、人間の徳には関係ない」と言っておきながら、つい「あちらの人は教育がないから」と軽蔑したり。
やはり、人間は、人間性で判断されるべきだと思う。
米国の公民権運動などを勉強してきた自分は、差別が嫌いなので、ノーマリゼーションには大いに賛成する。
ただし、弱者の力になりたいという気持ちはあるけれど、それが自分の主たるミッションだとは考えない。
学生時代、姫路出身の友人が、こんなことを言っていたのを思い出す。
「からだの悪い人とか、お年寄りとか、知的障害者とか、ああいう人たちのために、おれは何か特別なことをしようとは、よう思わんのや。ただな、そういう人が困ってるのを見かけたら、近くにいる人がごく自然に手を貸してやる。そういう社会であってほしいのや」
(2013年3月29日)

著書
『1月生まれについて』
村上春樹、三島由紀夫、モーツァルトなど1月誕生の31人の人物評論。ブログの元となったオリジナル原稿版。1月生まれの教科書。

『2月生まれについて』
スティーブ・ジョブズ、村上龍、桑田佳佑など、2月誕生の29人の人物評論。ブログの元となったオリジナル原稿版。2月生まれの必読書。

『新入社員マナー常識』
メモ、電話、メールの書き方から、社内恋愛、退職の手順まで、新入社員の常識を、具体的な事例エピソードを交えて解説。

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句2』
「ガリヴァ旅行記」から「ダ・ヴィンチ・コード」まで、名著の名フレーズを原文で読む新ブックガイド。第二弾!

『ポエジー劇場 天使』
カラー絵本。いたずら好きな天使たちの生活ぶりを、詩情豊かな絵画で紹介。巻末にエッセイを収録。
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3/28・「雀聖」阿佐田哲也こと色川武大

2013-03-28 | 文学
3月28日は、作家、邱永漢が生まれた日(1924年)だが、色川武大(いろかわたけひろ)の誕生日でもある。
色川武大、またの名を阿佐田哲也(あさだてつや)。
色川のほうは、純文学作家の名前で、阿佐田のほうは、麻雀小説を生みだした大娯楽小説家の名前である。
自分はどちらの名で書いた作品も読んでいるけれど、いちばんおもしろく読み、また感銘を受けたのは、やはり阿佐田哲也の代表作『麻雀放浪記』だった。
映画にもなった有名な作品で、なんともいえない痛快さと、苦み、そして悲しみがしみたピカレスクロマンである。
自分は、もう十年以上も麻雀牌(マージャンパイ)に触っていないが、若いころはよく麻雀をやっていた。麻雀を知らない人には「なんのことやら」だろうけれど、九蓮宝燈(ちゅうれんぽうとう)という手役に、自分は二度振り込んだことがある。
若い麻雀ファンだった自分にとって、「雀聖」阿佐田哲也はまさに神さまのような存在だった。

色川武大は、1929年、東京で生まれた。父親は元海軍の軍人だった。
色川は、小学生時代から授業をサボっては映画や演劇に通っていたという不良少年で、中学のとき停学処分を受けたまま終戦を迎え、そのままうやむやになって、結局中学は中退という経歴になった。
闇市の商売や博打打ちなどをした後、24歳のころ、雑誌社の編集者となった。
雑誌社を辞めた後、本名、色川武大の名で書いた『黒い布』で文学雑誌の新人賞を受賞。三島由紀夫に激賞され、文壇にデビュー。
39歳のころ、文章中に麻雀牌の図柄が登場する麻雀小説を書きだし、その後、週刊誌に連載した自伝的小説『麻雀放浪記』が爆発的な人気を呼んだ。
難病のナルコレプシー(眠り病)に生涯つきまとわれながら、麻雀や競輪のギャンブルと執筆を続けた。
色川武大の名で『怪しい来客簿』で泉鏡花文学賞、『離婚』で直木賞、『百』で川端賞などの文学賞を受賞。
1989年4月、心筋梗塞により入院した宮城県の病院で没。60歳だった。

色川武大については、生前に親交のあった人の何人かから話を聞いたことがあり、また、奥さんが書いた回想記も読んだことがある。
ナルコレプシーというのは大変な病気で、すぐとなりで話をしているうちにも寝入ってしまうらしい。色川が眠りだすと、仕方がないので、起きるまで待っているのだ、と、その作家は言っていた。
奥さんの本のなかでは、こんな記述が強く印象に残っている。色川が大病をして生死の境をさまよった後、なんとか快復して病院から退院してきた、その日に悪い友だちが連れ立って家に遊びにやってきて、徹夜麻雀になったという。奥さんはその人たちを恨んだと書いていたと思う。
ギャンブラーというのは、大変だなあ、と思った。

自分の学生時代の友人に、「雀聖」タカクワと、仲間内で呼ばれていた男がいた。タカクワくんがなぜそう呼ばれていたのかというと、通信で受けられる雑誌主催の試験を受けて、麻雀の初段に受かり、その賞状を額に入れて下宿の部屋に飾ってあったからで、そんな風にちゃんと麻雀の資格を持っている者など、ほかにいなかった。
その「雀聖」タカクワが、自分によく言っていたことばがある。
「ええか、マンガンを上がろうと思ったら、あかん。ザンクを二へん上がりなさい」
麻雀を知らない人にはわからないと思うが、これは、いきなり8000点の大きな手をねらわずに、3900点の手を二回上がる、そういうつもりでやりなさい、という教訓である。

この教訓とはすこしちがうけれど、ほんものの「雀聖」色川武大は、こう教訓したそうだ。
「9勝6敗をねらえ」
これは、相撲の星とりで、15日ある開催場所中、はじめから8勝7敗でぎりぎり勝ち越しをねらうのはさびしいが、逆に、10勝をねらうと、どこかに無理が出る。そこで「9勝6敗」を目指しなさい、ということらしい。
あまり志が低いのも考えものだが、大きく出すぎるのもよくない、という心がけである。
二人の「雀聖」の教訓は、どこう通じるところがあるような気がする。
しかし、自分は、人間がまだまだできていないせいか、いまだに友人の「雀聖」にもらった教訓すら生かせていない。せっかく若く時分に教わったのに、残念なことである。
(2013年3月28日)

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『新入社員マナー常識』
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3/27・小林克也の前向きノリ

2013-03-27 | 音楽
3月27日は、浪速の女流作家、田辺聖子が生まれた日(1928年)だが、日本を代表するディスクジョッキー、小林克也の誕生日でもある(敬称略、以下同)。
自分は中学生のころから洋楽ファンだけれど、静岡の片田舎のことで、また昔のことで、ニュースソースは乏しかった。毎月本屋に並ぶ「ロッキングオン」などの音楽雑誌と、あとはラジオが主な情報源だった。テレビは海外のロック・ミュージック・シーンをなかなか取り上げなかった。そんな洋楽飢餓状態のテレビ番組のなかにあって、1981年にスタートした「ベストヒットUSA」は、砂漠でオアシスに出会ったような貴重な洋楽番組で、その番組の司会を務める小林克也は、自分の音楽の、まさにグルー(導師)だった。

小林克也は、1941年、広島県福山市に誕生した。12歳ごろからFENなどのラジオ放送を聴きだし、英語とロック・ミュージックに浸るようになった。
慶應義塾大学経済学部中退。外国人の観光案内や、ナイトクラブの司会などをへて、ラジオ番組のDJデヴュー。
テレビ深夜番組「ベストヒットUSA」の司会をはじめたのは、40歳のころで、以後、抜群の英語力と軽妙なユーモアセンス、そして時代を見抜く鋭い風刺精神を発揮し、日本を代表する洋楽紹介者となった。

ラジオだけを聞きかじって鍛えられたという小林克也の英語力は、まったくみごとなもので、自分は彼に、いろいろな英語の発音を教えられた。たとえば、英国のミュージシャンにエンヤ(Enya)という女性アーティストがいる。マリファナを吸いながら聴くのにいい曲、という喜多郎などと同じ理由で世界的にヒットしたともうわさされるアーティストだが、この人の名前をはじめて聞いたときから自分は、
「まさか、あちらではさすがに『エンヤ』とは発音しないだろうなあ」
と思っていたが、小林克也が、
「エーニャ」
と紹介するのを聞いて、「ああ、やっぱり」と思った。
英国のロック・バンド「オアシス(Oasis)」を「オエイシス」と「エイ」の部分にアクセントをおいて発音するのも、彼に教わった。

小林克也の洋楽に関する知識は膨大で、音楽業界の裏事情にも通じていて感嘆させられるのだけれど、音楽番組で海外のアーティストを迎えてインタビューしているとき、ときどき彼の発言がアバウトで、驚かされることがある。
以前、米国のシンガーソングライター、シンディ・ローパーを迎えて話しているとき、小林克也が、
「あなたの『トゥルー・カラー』という曲のビデオクリップにこんな歌詞があって……」
と話しだしたのを、すこし聞いていたシンディが、途中でそれをさえぎって、
「それは『トゥルー・カラー』じゃないわ。『タイム・アフター・タイム』よ」
と訂正するひと幕があった。
あるいは、べつの英国のアーティストを迎えて、デヴィッド・ボウイの「フェイム」という曲について話しているとき、小林克也が、
「これはボウイがベルリンで録音した曲で……」
と言いかけたのを、ゲスト・ミュージシャンが訂正した。
「いや、あれはベルリン時代より前の、『ヤング・アメリカンズ』という米国で録音したアルバムのなかの曲で……」
テレビでみていた自分はどちらも、まちがいにすぐに気づいたけれど、あれはたぶん小林克也がわざとまちがえて、会話にちょっとしたあやをつけようとしたのだろうと思った。いや、やはり勘違いなのだろうけれど、わざとまちがえたのだと思われるくらいに物怖じしない、みごとな平然さだった。まちがいを指摘されても、彼は余裕で、
「ああ、そうだったかな」
くらいの感じで、淡々となごやかに話を続ける。来日した大物アーティストを前にして、あの太さは、さすが大人という感じである。あの前向きなノリを、ぜひとも見習いたいと思う。
(2013年3月27日)

著書
『新入社員マナー常識』
メモ、電話、メールの書き方から、社内恋愛、退職の手順まで、新入社員の常識を、具体的な事例エピソードを交えて解説。

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句2』
「ガリヴァ旅行記」から「ダ・ヴィンチ・コード」まで、名著の名フレーズを原文で読む新ブックガイド。第二弾!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』
「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。

『2月生まれについて』
スティーブ・ジョブズ、村上龍、桑田佳佑など、2月誕生の29人の人物評論。ブログの元となったオリジナル原稿版。2月生まれの必読書。

『コミュニティー 世界の共同生活体』
ドキュメント。ツイン・オークス、ガナスなど、世界各国にある共同生活体「コミュニティー」を具体的に説明、紹介。

『ポエジー劇場 天使』
カラー絵本。いたずら好きな天使たちの生活ぶりを、詩情豊かな絵画で紹介。巻末にエッセイを収録。


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3/26・ピュアな性欲、エリカ・ジョング

2013-03-26 | 文学
3月26日は、作家、今東光が生まれた日(1898年)だが、米国の作家、エリカ・ジョングの誕生日でもある。
エリカ・ジョングは、世界的ベストセラー小説『飛ぶのが怖い』を書いた女流作家。
ボーヴォワール、アナイス・ニンといった先駆者たちが、そこまで書くとさすがに自分が軽んぜられるとしてためらったタブーの領域まで、あえて裸足で踏み込み、全裸になって見せたのが、彼女だと思う。
わかりやすく言うなら、
「女にも性欲はある。そしてそれは悪いことではなく、当たり前のことだ」
と、声高らかに訴えた女性である。
彼女はずっと閉められていた雨戸を開け放った。
彼女は、「王さまは裸だ」と叫んだあの少年の、現代女性版だと言えると思う。

エリカ・マン・ジョングは、1942年、米国ニューヨーク市で生まれた。両親はともに東欧系のユダヤ人で、父親は陶器人形の製作会社の経営者だった。母親は画家で織物デザイナー。エリカは三人姉妹のまん中だった。
エリカは、コロンビア大学で18世紀英国文学を専攻し、卒業後、ニューヨーク市立大学で美術史を教え、詩集を出版した。
彼女は4度結婚していて、「ジョング」の姓は、2度目の夫だった中国系米国人の精神科医の姓からきたものである。彼女はこの2番目の夫と、1966年から約3年間、ドイツのハイデルベルクで暮らしている。このとき、英国人男性と不倫関係におちいり、その経験が彼女の自伝的小説『飛ぶのが怖い』となった。
1973年、31歳のときに発表された『飛ぶのが怖い』は、女性解放を志向した、セックスや不倫関係などスキャンダラスな内容によって一大センセーションを巻き起こし、600万部以上を売る世界的ベストセラーとなった。文豪ヘンリー・ミラーは、この本を出版直後から絶賛し、みずからすすんで外国の出版社に翻訳をすすめる手紙を書き送ったという。
著書はほかに『あなた自身の生を救うには』『ブルースはワイルドに』『五十が怖い』などがある。

自分は、専門が1960年代の米国文化史なので、エリカ・ジョングの名は若いころからよく知っていた。ただ、その著作を実際に読んだのは30代になってからだった。
米国で知り合った若い女性が『飛ぶのが怖い』を読んでいた。
「ああ、いまでも、読む人がいるんだぁ」
と自分は驚いた。おもしろいかどうか尋ねてみると、彼女は、
「おもしろい、とっても」
というので、日本に帰ってから、読んでみたのだった。読んでみると、果たして、すごくおもしろかった。さすがに、大ベストセラーだと感服した。もちろん、あの時代にこういうものを書いた勇気にも感心する。それで、自著の『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句2』という電子書籍のなかでも取り上げた。
続けて読んだ『五十が怖い』も、とても読み進みやすく、おもしろかった。うまい、と思う。
男性である自分が共感するというのも妙だけれど、
「うんうん、そうだよなあ」
と、納得できる部分が多かった。
現代日本で言うと、中村うさぎ、岩井志麻子といった書き手の先駆者にあたるかもしれない。ただし、ジョングはやはり詩人で、日本の後輩たちより、もっとピュアで、精神的により高いところにいるという気はする。
知的なのだけれど、セクシャルなことがらを真正面から扱っている。
セクシャルなのだけれど、俗に落ちない。純粋でいつづける。
それがエリカ・ジョングだと思う。
(2013年3月26日)



●おすすめの電子書籍!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句2』(金原義明)
「飛ぶのが怖い」「ガリヴァ旅行記」から「ダ・ヴィンチ・コード」まで、名著の名フレーズを原文で読む新ブックガイド。第二弾!


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3/25・「ミズ」のグロリア・スタイネム

2013-03-25 | 歴史と人生
3月25日は、伝説のテニスプレイヤー、清水善造が生まれた日(1891年)だが、米国のフェミニスト、グロリア・スタイネムさんの誕生日でもある。
自分は専門が米国1960年代文化史なので、1960年代後半から米国内で盛んになった女性解放運動(ウーマン・リヴ)について、学生時代からすこし勉強していて、スタイネムさんというえらい女性がいることは、当時から知っていた。
女性解放を前面に押しだしたフェミニズム雑誌「ミズ(Ms.)」が米国で創刊されたのが1972年。この創刊時の発行者がスタイネムさんで、同時に、彼女は執筆者としてこの雑誌にずっと原稿を寄せ続けた。
その昔、未婚女性は「ミス(Miss)」、既婚女性は「ミセス(Mrs.)」と分けていたところ、女性だけが結婚で変わるのはおかしいと、新たにできた「ミズ(Ms.)」を掲げ、一般に定着させたのが、スタイネムさんの雑誌である。
スタイネムさんは、避妊や出産、性教育、衛生指導、平等な労働条件、女性が生き方を選ぶ権利などについて積極的に発言し、米国をはじめ全世界の人々の意識を変えるのに絶大な貢献があった。
ほとんどの人はその名前さえ知らないと思うけれど、日本の全女性と、それを含む世界の女性のほとんどが、なんらかの形で彼女の恩恵を受けている。スタイネムさんは、それくらいのことをやってきた偉大な人だと思う。

グロリア・スタイネムさんは、1934年、米国オハイオ州のトレドで生まれた。「スタイネム」の名前から明らかなようにユダヤ系で、骨董品のセールスマンだった父親は、ドイツ、ポーランドから米国にやってきたユダヤ人移民の息子だった。グロリアの母親は、ドイツ、スコットランド系である。
スタイネムさんが3歳のとき、母親が深刻な神経症にかかった。
そして、10歳のとき、両親が離婚。父親は西海岸へ行ってしまい、残されたスタイネムさんは、それから17歳のころまで、幻覚症状におびえる母親をほとんどひとりで面倒をみた。このときの経験が彼女に、社会の不公正さを教えた。
大学を出た後、チェスター・ボウルズ・アジアン・フェローの資格を得て、インドに2年間滞在。
帰国後は、政府系機関などで働いた後、ジャーナリズムの世界に飛び込み、28歳のころ「エスクワイア」誌で書いた記事を皮切りに、フリーのライターとして活躍。
29歳のとき、プレイボーイクラブにバニーガールとして入り込み、みずからバニーの衣裳を身につけて働き、その内部事情を暴露した「プレイボーイクラブ潜入記」を発表。一躍、世界的に有名なジャーナリストとなった。
1969年、35歳のとき、「ニューヨーク・マガジン」誌の企画で、妊娠中絶について語る会を開催。彼女自身、中絶手術を受けたことがあることを告白した。これは、当時、米国で否定的に扱われていた人工中絶手術を、もっと開かれたものとし、子どもを生む、産まないの選択権を女性に与えよう、女性を自由にしようとする議論で、大論争を巻き起こした。
38歳になるすこし前に「ミズ」創刊。それ以後も、雑誌媒体への寄稿、各地を巡っての講演活動、女性団体の設立など、幅広い分野で、男女同権、女性の自由獲得のための活動を続けてきた。
2000年、66歳のとき、7歳年下の実業家の男性と結婚し、「あのスタイネムが結婚」と世界的に話題になった。

自分はスタイネムさんのファンで、彼女の著書をいくつか読んでいる。有名な「プレイボーイクラブ潜入記」も読んだし、そのほかの短い文章や、マリリン・モンローの人間像に迫った『マリリン』も読んだ。
『マリリン』には、感心した。これは、スタイネムさんから見たノーマ・ジーン(マリリン・モンローの本名)論だけれど、ノーマ・ジーンという女性の知性、人間性、努力と苦闘、そして社会の女性差別のなかで犠牲となった悲劇をみごとに描き上げている。
スタイネムさんのように、マリリン・モンローという人を、ひとりの生きた女性として、ちゃんと考えた人は、それ以前にはいなかった。それまでのはたいてい、セックスがらみのスキャンダル本や、死を巡るミステリー本ばかりで、マリリン・モンローを人間とも思わない扱いをしたものがほとんどだった。
「彼女の伝記作家の大半は、彼女が独学しようとする努力をけなすか、もしくはばかにしてきた。たとえばノーマン・メイラーの言葉によると、『教養がない(美しい金髪に共通するこの悩み)うえに、彼女にはまったく文化というものもなかった……』」(道下匡子訳『マリリン』草思社)

この本のなかに引用されているマリリン・モンローのつぎのことばが、スタイネムさんが闘ってきた対象の本質をよく言いあらわしていると思う。
「『ハリウッドでは女の子の貞操など、彼女の髪形ほどの価値もないのです』と彼女はハリウッドに対する痛烈な批判を書いている。『あなたは自分の中身によってではなく、単に外見だけで判断されるのです。ハリウッドは、ひとつのキスのためにはあなたに1000ドル支払い、あなたの魂には50セントしか支払わぬところです。私はよく知っています。なぜなら私は最初のほうの申し出をずいぶん断り、50セントのほうに手を差し伸べたのですから」(同前)
強烈に現代性を感じる。現代の日本でも、そのまま通じる批判だと思われるのは、自分の勘違いだろうか。
(2013年3月25日)

著書
『新入社員マナー常識』
メモ、電話、メールの書き方から、社内恋愛、退職の手順まで、新入社員の常識を、具体的な事例エピソードを交えて解説。

『2月生まれについて』
スティーブ・ジョブズ、村上龍、桑田佳佑など、2月誕生の29人の人物評論。ブログの元となったオリジナル原稿版。2月生まれの必読書。

『1月生まれについて』
村上春樹、三島由紀夫、モーツァルトなど1月誕生の31人の人物評論。ブログの元となったオリジナル原稿版。1月生まれの教科書。

『12月生まれについて』
ゴダール、ディズニー、ハイネなど、12月誕生の31人の人物評論。ブログの元のオリジナル原稿収録。12月生まれの取扱説明書。

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句2』
「ガリヴァ旅行記」から「ダ・ヴィンチ・コード」まで、名著の名フレーズを原文で読む新ブックガイド。第二弾!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』
「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。
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3/24・華のある孤独、マックイーン

2013-03-24 | 映画
3月24日は、1185年に壇ノ浦の合戦があり、平家が滅亡した日だが、この日はまた、米国の映画スター、スティーブ・マックイーンの誕生日でもある。
スティーブ・マックイーンは、自分の子どものころからのヒーローだった。
いまとなっては想像しづらいが、少年時代には、たまに、
「スティーブ・マックイーンに似ている」
などと言われたこともあって、そういうときは有頂天になって、言ってくれた人に「寿司食いねえ」とおごりたくなったものだ。
自分は、マックイーンの出演した映画の八割以上は観ている。テレビ・シリーズの「拳銃無宿」も観た。日本で出ている彼の伝記はすべて読んだし、彼の写真集や映画のソフトも、もちろんたくさん持っている。
ひたすらかっこいい。アメリカの匂いがぷんぷんする、映画スターらしい映画スターだった。

スティーブ・マックイーンは、1930年、インディアナ州で生まれた。本名は、テレンス・スティーブン・マックイーン。父親は曲芸飛行のパイロットだった。生後間もなく父親と別れたマックイーンは、3歳のとき母親にも捨てられ、母方の祖父母と大伯父のもとで育った。4歳のとき、大伯父に三輪車をプレゼントされ、マックイーンがレースに興味をもちはじめたのはそれ以来のことだという。
8歳のとき、再婚した母親に引き取られたが、義父とそりが会わず、マックイーンは街の非行グループに入った。盗みを働いて警察に捕まった。家で義父にさんざん殴られた彼は、義父にこうののしったそうだ。
「お前のそのくさい手で、このつぎおれに触れたときには、かならずお前を殺してやるからな」
14歳で彼はカリフォルニア州チノにある少年感化院へ入れられた。
16歳のとき、施設を出たマックイーンは、さまざまな職業を転々とし、海兵隊員を務めた後、21歳のころ、つきあっていた恋人の勧めにしたがって、演劇学校のオーディションを受けた。そして40倍以上の倍率の難関をくぐって入学者に選ばれ、復員者奨学資金をもらいながら、演技を勉強しだした。
テレビや映画の端役を務める下積み時代の後、マックイーンは28歳のとき、西部劇のテレビ番組「拳銃無宿」の主役に抜擢され、一躍人気者となった。そして、30歳のとき、ユル・ブリンナー主演の映画「荒野の七人」の準主役に選ばれ、この作品の大ヒットによって一気に世界的スターとなった。
以後、強力な観客動員力をもつ人気スターとして、「ガールハント」「大脱走」「シンシナティ・キッド」「ネバダ・スミス」「砲艦サンパブロ」「華麗なる賭け」「ブリット」「栄光のル・マン」「ゲッタウェイ」「パピヨン」「タワーリング・インフェルノ」などの名作に出演した。
1980年11月、メキシコのフアレスで、中皮腫により没。50歳だった。

「フォーブス」誌によると、スティーブ・マックイーンは、亡くなった後も、彼の肖像権が広告などに使われて、2012年度で約800万ドル(約6億4000万円)の収入があったそうだ。
マックイーンの魅力とは、いったいなんなのだろう。
それは、彼がもつ、颯爽とした感じ、孤独な感じ、華のあるところ、そして、絶対に逃げない男気のある雰囲気だと思う。
男くささを売りにする男優はたくさんいる。孤独の影を感じさせる映画スターも、たくさんいる。華麗な雰囲気の俳優もたくさんいる。けれど、華のある孤独の影を背負った男らしい男優は、そうはいない。あのマックイーンの独特の雰囲気は、やはり彼の不遇な生い立ち、遍歴時代があってのもので、後の演技修行で身につくものではない、という気がする。

自分はマックイーンの映画はみな好きだけれど、どの作品での彼がいちばん素敵かと問われれば、やはり「荒野の七人」だと答える。
あの映画のなかのマックイーンの、若い、獣のようなしなやかさは、「ローマの休日」のオードリー・ヘップバーンなどと並び、世界映画史におけるひとつの奇跡だと思う。
ご存じの通り、「荒野の七人」は、黒澤明監督の「七人の侍」を、ユル・ブリンナーが西部劇に翻案したもので、七人のガンマンが、貧しい村に用心棒として雇われ、村を襲ってくる山賊たちと戦うという話である。
あの映画のなかに、こんな場面がある。
村は、せっかく用心棒のガンマンを雇ったのだが、山賊に脅されて、ガンマンを解雇することにする。村に居すわった山賊のボスは、ガンマンたちに武装解除を要求する。
「村を出ていった後で返してやるから、いったん銃をこちらに預けろ」
雇い主に裏切られた恰好で、仕方なく、ガンマンたちはガンベルトをはずすのだが、そのとき、山賊のボスが、ガンマンたちの頭領であるブリンナーに尋ねるのである。
「わからないのは、そもそもお前みたいな男が、なぜこんな仕事を引き受けたのかということだ」
すると、ブリンナーはこう答える。
「自分でもわからないさ」
そのとき、マックイーンがこう言うのである。
「以前、エルパソで会ったやつに似ている。そいつは、裸になって、サボテンのなかに飛び込んでいったんだ。おれは、そいつに、まったく同じ質問をした、なぜそんなことをしたんだ、と」
山賊のボスは続きをうながす。それで、なんと答えた?
マックイーンは答える。
「そいつが言うには、そのときは、それがいい考えだと思ったんだそうだ」(He said it seemed like a good idea at the time.)
そうして、マックイーンは腰のガンベルトをはずして、山賊のボスのテーブルに置くのである。
自分はこのマックイーンのせりふに感激して、以来、ずっとこのせりふを信条に生きてきた。いつか死ぬときがきて、誰かに、
「そもそも、どうしてこんな人生を送ろうと思ったんだい?」
と訊かれたら、こう答えるのだ。
「そのときは、それがいい考えだと思ったんだ」
(2013年3月24日)


著書
『2月生まれについて』
スティーブ・ジョブズ、村上龍、桑田佳佑など、2月誕生の29人の人物評論。ブログの元となったオリジナル原稿版。2月生まれの必読書。

『1月生まれについて』
村上春樹、三島由紀夫、モーツァルトなど1月誕生の31人の人物評論。ブログの元となったオリジナル原稿版。1月生まれの教科書。

『12月生まれについて』
ゴダール、ディズニー、ハイネなど、12月誕生の31人の人物評論。ブログの元のオリジナル原稿収録。12月生まれの取扱説明書。

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メモ、電話、メールの書き方から、社内恋愛、退職の手順まで、新入社員の常識を、具体的な事例エピソードを交えて解説。
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3/23・黒澤明のリアリズム

2013-03-23 | 映画
3月23日は、「チボー家の人々」の作家、マルタン・デュ・ガールが生まれた日(1881年)だが、日本の映画監督、黒澤明の誕生日でもある。
現代で世界的映画監督の「クロサワ」と言えば、黒沢清だが、それはそれとして、黒澤明はやはり偉大な巨匠だった。日本人の映画好きで、黒澤明を褒めない人に、自分は会ったことがない。無論、自分も大好きな監督である。

黒澤明は、1910年に東京で生まれた。4男4女の末っ子で、父親は元軍人の体育教師だった。
中学時代にロシア文学に傾倒した黒澤明は、画家志望だったが、その道を断念し、映画制作会社に入社。助監督をへて、33歳のとき、「姿三四郎」で監督デビュー。以後、「わが青春に悔なし」「素晴らしき日曜日」「醉いどれ天使」「羅生門」「生きる」「七人の侍」「蜘蛛巣城」「隠し砦の三悪人」「椿三十郎」「天国と地獄」「デルス・ウザーラ」「影武者」「夢」など名作を発表。
1998年9月、脳卒中により没。88歳だった。次回予定作は「雨あがる」だった。

黒澤明は41歳のころ、大好きだったドストエフスキー原作の「白痴」を日本を舞台にして映画化した。しかし、完成版は4時間半近い大作で、映画会社の意向によって2時間近くがカットされ、ぶつ切りになって公開された。するとこれが大不評で、あちこちの映画評でたたきにたたかれ、この映画に関わったスタッフはみな左遷され、黒澤が予定していたつぎの映画の仕事も、ことごとくキャンセルされた。
仕事がなくなった黒澤は、多摩川に釣りに出かけた。川岸に着いて釣り竿を振った。ところが、仕掛けがなにかに引っかかって切れてしまった。ついていないときは、なにをやってもだめだ、と思ったという。
それで、釣りをしないまま家に帰ってきた。すると、「白痴」の前年に公開した「羅生門」がヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞したとの報せが届いて、大騒ぎになった。事態は一変した。黒澤の家にはマスコミが押し寄せ、次回作をぜひとのオファーが殺到し、左遷されていたスタッフはみな呼び戻された。黒澤明は、このときのことを回想して、こう言っている。
「世の中、ずいぶんはっきりしてやがる、と思ったね」

自分は、黒澤映画のなかでは、「蜘蛛巣城」「隠し砦の三悪人」「影武者」「夢」といった作品が好きだけれど、最高傑作はなにかと問われれば、迷わず「羅生門」を挙げる。
筋立てのヒューマニズムと、画面のダイナミズム。そして、表現のリアリズム。これら、黒澤明の三大特徴が、すべて入った作品、それが「羅生門」である。
世界ではじめて太陽にカメラレンズを向けたと言われる有名な太陽をとらえたシーンが、まず美しい。そしてなにより、自分がいちばん衝撃を受けたのは、三船敏郎と森雅之が一対一で殺し合うシーンだった。二人以外にはほかに誰もいない場所で、やるかやられるかの状況で、延々と戦うのだけれど、その怖さといったらなかった。二人ともおたがいに、相手に殺されるのも怖いけれど、相手を殺すのも怖い、といった気持ちを抱いている。それが二人の息づかいを通して伝わってくる。人をひとり殺すというのは、ほんとうに大変なことだ、ほんとうに怖いことなのだと、この格闘シーンは訴えていた。
それまでの映画では、「えい、やあ」「やられたぁ」で、かんたんに人を殺し、かんたんに人が死んでいたけれど、人の命をあやめるというのは、ほんとうはそんなものじゃない、ものすごく恐ろしいことなのだ、と黒澤明は明確に表現した。見ていて思わず息を呑む、研ぎ澄まされたリアリズム。これこそが、黒澤明が世界映画に衝撃を与えた核心だと自分は思う。
(2013年3月23日)


著書
『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句2』
「ガリヴァ旅行記」から「ダ・ヴィンチ・コード」まで、名著の名フレーズを原文で読む新ブックガイド。第二弾!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』
「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。

『新入社員マナー常識』
メモ、電話、メールの書き方から、社内恋愛、退職の手順まで、新入社員の常識を、具体的な事例エピソードを交えて解説。

『1月生まれについて』
1月が誕生日の人31人をめぐる人物評論。ブログ発表原稿より長い元の原稿を収録した一冊。1月生まれの教科書。

『コミュニティー 世界の共同生活体』
ドキュメント。ツイン・オークス、ガナスなど、世界各国にある共同生活体「コミュニティー」を具体的に説明、紹介。

『ポエジー劇場 天使』
カラー絵本。いたずら好きな天使たちの生活ぶりを、詩情豊かな絵画で紹介。巻末にエッセイを収録。
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3/22・共感、丸山眞男

2013-03-22 | 思想
3月22日は、仏国のパントマイマー、マルセル・マルソーが生まれた日(1923年)だが、日本の政治学者、丸山眞男(まるやままさお)の誕生日でもある。
知の巨人「丸山眞男」の名前は、自分は学生のころから知ってはいたが、その著作は、ごく最近になるまでまともに読んだことはなかった。自分は米国現代史が専門で、主に英語の資料ばかりあさっていたので、日本の思想や政治を論じる丸山の著作とはすれちがってしまった。とは言い訳で、要するに不勉強な学生で、歴史学を勉強する基礎の段階で、読んでおくべきだった丸山眞男をすっ飛ばしていたのである。

丸山眞男は、1914年に大阪で生まれた。父親は新聞記者だった。
7歳のころ、東京に引っ越した。
旧制一高生だった19歳のとき、唯物論研究会の集会に出て逮捕、拘束され、取り調べを受けた。当時、特高警察に目をつけられていたマルクス主義の運動とは丸山は無縁だったが、その集会に出ていたのは大学生や社会人ばかりで、高校生の出席者は2人だけだったために、かえって大物と勘違いされたのだった。
東京大学法学部を卒業した丸山は、同学部に残り、研究者の道を進んだ。
30歳のとき、同学部助教授だった丸山は召集され、陸軍二等兵として出征。広島に原爆が投下されたときは、投下直下から約4キロメートルの地点にいて被爆。原爆爆発のときは、戸外に整列して部隊参謀の朝の訓話を聞いている最中だった。放射能については無知で、投下の翌々日には爆心地を丸山は歩いたという。
戦後は、東京大学教授として、日本政治思想史を研究しながら、戦後民主主義を代表する知識人として、ジャーナリズムの舞台でも発言を続けた。
マックス・ヴェーバーの影響を受けた近代主義者の学者で、戦後の天皇制を批判し、安保闘争を支持し、果敢に論戦の矢面に立った。
1996年8月15日に没。82歳だった。著書に『日本政治思想史研究』『現代政治の思想と行動』『日本の思想』など。

最近になって自分が、丸山眞男を読むようになったきっかけは、家永三郎の『戦争責任』である。この名著のはじめのほうに、1956年に「戦争責任について」と題する知識人の座談会が開かれ、その席で丸山眞男がいい提案をした旨が書かれている。その席で、丸山は、戦争責任をていねいに分析して、細かく分けて議論するべきだと言ったらしい。
「なんのことやら」
と思われるかもしれないけれど、読んでいて自分はとても感心した。戦争責任というと、すぐに、
「善いか悪いか、どっちなのだ」
と、丁半バクチみたいに結論を急ぎたがったり、
「では、土下座外交をしろというのか」
と、民族主義的な憤りをあらわにしたり、あるいは、
「とにもかくにも天皇制は守らなくてはいけない」
と、結論が先にありきの屁理屈をふりかざしたりする発言者が多いなか、丸山眞男は論理展開がていねいで、信用できる、という気がした。それで、すこし彼の書いたものを読んでみようという気になったのだった。

読んでみると、共感する部分が多かった。
「なんだ、丸山先生、なかなかわかっているじゃないか」
そんな気にさせられる、もっと早く、若いころに読んでおけばよかった、と自分が悔やむ著者のひとりである。

丸山眞男は、日本人の自己欺瞞とリアリズムの欠如を指摘し、グルー元駐日大使のつぎのようなことばを紹介している。
「日本人の大多数は、本当に彼ら自身をだますことについて驚くべき能力を持っている。……日本人は必ずしも不真面目なのではない。このような義務(国際的な)が、日本人が自分の利益にそむくと認めることになると、彼は自分に都合のいいようにそれを解釈し、彼の見解と心理状態からすれば全く正直にこんな解釈をするだけのことである」(「軍国支配者の精神形態」)
まったく、その通りだと思う。昔から、日本人一般の思考はへんちくりんな二重性をもっていて、いまもそれはまったく変わっていない。
日本人にとっては、耳に痛いことをたくさん言った人だけれど、いまこそ、あらためてその発言に耳を傾けてみるべき人だという気がする。
(2013年3月22日)

著書
『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』
「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句2』
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『新入社員マナー常識』
メモ、電話、メールの書き方から、社内恋愛、退職の手順まで、新入社員の常識を、具体的な事例エピソードを交えて解説。

『1月生まれについて』
1月が誕生日の人31人をめぐる人物評論。ブログ発表原稿より長い元の原稿を収録した一冊。1月生まれの教科書。

『コミュニティー 世界の共同生活体』
ドキュメント。ツイン・オークス、ガナスなど、世界各国にある共同生活体「コミュニティー」を具体的に説明、紹介。

『ポエジー劇場 天使』
カラー絵本。いたずら好きな天使たちの生活ぶりを、詩情豊かな絵画で紹介。巻末にエッセイを収録。
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