1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

5月31日・ホイットマンの好

2019-05-31 | 文学
5月31日は、ロックバンド「レッド・ツェッペリン」のドラマー、ジョン・ボーナムが生まれた日(1948年)だが、詩人ホイットマンの誕生日でもある。

ウォルター・ホイットマンは、1819年、米国ニューヨーク州のロングアイランドで生まれた。両親はクエーカー思想の信奉者で、ウォルターは9人きょうだいの2番目だった。
貧しい家庭事情により、11歳から弁護士事務所の雑用係として働きはじめたウォルターは、その後、印刷工、新聞記者、学校教師などをへて、19歳のころにはみずから新聞の発行者となった。
一年足らずで自分の新聞を売却し、ふたたび印刷工や教師、編集者などをしながら、詩や文章を書きつづけた。
36歳のとき、代表作となる詩集『草の葉』を自費出版。最初の版では、12編の詩を収めた薄い詩集だったが、この初版に、ホイットマンは生涯をかけて、詩を追加し、改定し、版を重ねて完成させていった。
『草の葉』を読んだ彼の弟は、まったく価値を認めなかったというが、ラルフ・エマーソン、ブロンソン・オルコット、ヘンリー・ソローといった人々が絶賛した。
彼が42歳のときにはじまった南北戦争に際しては、北軍側の陸軍病院で看護士として勤務し、戦争後は、政府の役所に勤めながら、詩作と推敲を続けた。
49歳になる年に、英国でホイットマンの詩集が出版され、英国先行の形で彼の詩人としての評価が高まっていった。
72歳のころ『草の葉』を完成。増補改定が重ねられた完成版は389編の詩が収められた大詩集となっていた。
1892年3月、ニュージャージー州で、肺炎、腎炎により没。72歳だった。

ホイットマンは、山や海や川を歌い、田舎を歌い、都会を歌い、原子から宇宙までを歌い、人間については、奴隷や農民から、大工、木こりなどなど、老若男女すべての人々を歌った詩人だった。文豪ヘンリー・ミラーは言っている。
「まったく、たぶんこの世に生れて来た人間で、ウォルト・ホイットマンほど沢山のものを好きになり、僅かのものしか嫌わなかった人間はあるまい」(田中西二郎訳「わたし自身の歌」『ヘンリー・ミラー全集(11)わが読書』新潮社)

「ウォルト・ホイットマン、一個の宇宙人、正真正銘のマンハッタン子、
 騒ぎ建てることが好きで、肥り肉で、肉感的で、よく食い、よく飲み、よく種づけるもの、
 メソメソ屋ではなく、男たちや女たちのうえにはだかるものでもなければ、彼らから超然と離れているものでもない、
 不道徳者にくらべて堅造というのでもない。」(ホイットマン著、富田砕花訳『草の葉』グラフ社)

ホイットマンは言っている。
「知りたがりであれ、決めつけるのでなく。(Be curious, not judgmental.)」(Brainy Quote)
(2019年5月31日)



●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち 第二巻』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。サド、ハイネ、ボードレール、ヴェルヌ、ワイルド、ランボー、コクトー、トールキン、ヴォネガット、スティーヴン・キングなどなど三一人の文豪たちの魅力的な生きざまを振り返りつつ、文学の本質、創作の秘密をさぐる。読書家、作家志望者待望の書。


●電子書籍は明鏡舎。
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5月30日・ヒロ・ヤマガタの追跡

2019-05-30 | 美術
5月30日は、スウィング・ジャズのベニー・グッドマンが生まれた日(1909年)だが、芸術家ヒロ・ヤマガタの誕生日でもある。

ヒロ・ヤマガタは、1948年、滋賀の米原で生まれた。本名は、山形博導(やまがたひろみち)。実家は材木屋で、博導は6人きょうだいの上から3番目だった。
小さいときから絵画好きで、その才能を認められ、小学校時代、1年から6年生までずっと放課後に美術の特別授業を受けていた博導は、一面、サイクリングや天体観測に熱中する少年で、画家ではアンリ・ルソーのファンだった。
高校を卒業後、彼は上京し、画材店や広告会社で働きだした。
絵画の腕を変われ、広告用のイラストを描くようになった彼は、23歳のとき、自分から離れていった恋人を、イタリアのミラノまで追いかけていった。
しかし、結局ふられ、恋はよみがえらなかった。失意のヤマガタはフランスのパリへ移った。ユースホステルに泊まり、ブローニュの森で野宿する生活をへて、彼はパリ国立美術学校の聴講生になった。そうやってパリで芸術修行を続けていると、認めてくれる画商が現れ、オーストリアのウィーンで初の個展を開くことができた。
26歳の年には、フランスのサロンへ出品し、パリでレーザー光線を使ったインスタレーション(場所、空間そのものを芸術作品とし体験させるアート作品)を展開。さらに、英国、ドイツなどヨーロッパ各地で絵画展を開いた。当時は水彩、油彩が多かった。
30歳のとき、ヤマガタは米国ロサンゼルスへ引っ越した。
西海岸で彼はアクリル画、シルクスクリーン作品を精力的に制作しはじめ、個展を開いて好評を得、全米各地のアート展覧会に参加しだした。
百色以上の多色刷りの、細密に描かれた、明るいファンタジックな風景画は米国人の心をつかみ、「ヒロ・ヤマガタ」の名声は急速に高まっていった。
ヤマガタは人類飛行200年記念、自由の女神100周年、アメリカ移民200周年など記念事業のポスターや、カルガリー冬季五輪、ソウル夏期五輪などの公式ポスターの依頼を受ける世界的作家となった。
21世紀に入ってからも、アフガニスタンのバーミヤーン遺跡で、破壊された石仏像をレーザー映像で復元するインスタレーションなど、レーザーを使ったさまざまなインスタレーションを世界各地で展開している世界的芸術家である。
ヤマガタは芸術活動とはべつに、慈善団体「ヤマガタ財団」を設立し、障害者のためのチャリティーイベントを開き、映画女優エリザベス・テイラーとともにエイズ患者のためのチャリティー活動を展開するなど、慈善事業にも力を入れてきた社会事業家でもある。

ヒロ・ヤマガタ作品は日本でも人気が高い。個性的で、ひと目見て、すぐに、
「あ、ヤマガタだ」
とわかる。色鮮やかで、細部まで描写が緻密である。見ていて、楽しい。
すくない色数と単純な構図でインパクトを創りだしたロイ・リキテンスタインやアンディ・ウォーホールらの初期のポップアートを、ていねいな職人芸を大事にする日本人の感性で展開、発展させた人、それがヤマガタだろう。それもこれも、逃げた恋人をヨーロッパまで追いかけていったところからはじまった人生の旅の行方だと思うと、感慨深いものがある。
(2019年5月30日)



●おすすめの電子書籍!

『芸術家たちの生涯──美の在り方、創り方』(ぱぴろう)
古今東西の大芸術家、三一人の人生を検証する芸術家人物評伝。会田誠、ウォーホル、ダリ、志功、シャガール、ピカソ、松園、ゴッホ、モネ、レンブラント、ミケランジェロ、ダ・ヴィンチまで。彼らの創造の秘密に迫る「読む美術」。


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5月29日・美空ひばりのツイスト

2019-05-29 | 音楽
5月29日は、米国の大統領ジョン・F・ケネディが生まれた日(1917年)だが、至上の歌手、美空ひばりの誕生日でもある。

美空ひばりは、1937年、横浜で生まれた。本名は、加藤和枝。父親は、魚屋だった。
彼女は幼いころから歌が上手で、戦時中、出征する父親を送る壮行会で、6歳のひばりが歌うと、客たちがいっせいに泣き出したという。彼女の母親は、娘の才能を開花させるべく、ひばりの歌による慰問活動や、公演をおこない、娘を世に出すために尽力した。
NHKの「素人のど自慢」に出場し、「子どもらしくない」という理由で落とされたひばりは、10歳のころから漫談や音楽演奏の一座に前座歌手として加わり、全国各地を地方巡業してまわった。
11歳のころには、国際劇場などの大舞台に立つようになり、レコードデビュー。
12歳のとき、映画「悲しき口笛」に主演。シルクハットに燕尾服という扮装でひばりが歌う主題歌とともに映画も大ヒットし、国民的スターとなった。
以後、歌手として、映画、公演など幅広く活躍し、江利チエミ、雪村いづみとともに「三人娘」と呼ばれた。
20歳の年には、劇場でのショーの最中に、観客の少女に、顔に塩酸をかけられる事件があったが、奇跡的に顔に損傷は残らなかった。
50歳の年に、大腿骨骨頭壊死で入院。再起不能がささやかれたが、退院、リハビリに励み、足腰の痛みを抱えたまま、翌年の1988年、東京ドームのこけら落とし「不死鳥コンサート」のステージを務め、奇跡の復活を国民に印象づけた。
「リンゴ追分」「柔」「悲しい酒」「真赤な太陽」「愛燦燦」「川の流れのように」を歌ったディーバ(歌姫)は、1989年6月、肺炎により没した。52歳だった。

美空ひばりは風雅の人で、秀逸な和歌を詠んだ。
「我が胸に、人の知らざる泉あり
 つぶてをなげて乱したる君」(佐藤勢津子、小菅宏『姉・美空ひばりの遺言』KKベストセラーズ)
これは24歳のころに、俳優の小林旭のことを歌ったもので、当時、美空ひばりと小林旭はともに人気絶頂で、二人は1962年、ひばりが25歳の年に結婚した(後に離婚)。

某歌謡ショーのリハーサルのとき、歌手の近藤真彦が、舞台の袖で美空ひばりのリハーサルを惚れ惚れと聞いて、歌い終えた彼女に声をかけた。
「おばさん、歌、上手いねえ」
美空ひばりはこう言ってと喜んだという。
「真彦ちゃんに褒められちゃった」

その昔、ラジオでシンガーソングライターの山下達郎がしみじみと言っていた。
「やっぱり(美空ひばりさんみたいに)歌うために生まれてきた人っているんですね」

美空ひばりが着物姿で、ハンドマイクを片手にツイストを踊ったのを、テレビで見たことがある。和服を着て、草履をはいて、あんなに粋にツイストを踊れる人は、世界中さがしても、彼女以外にいない。
(2019年5月29日)



●おすすめの電子書籍!

『つらいときに開くひきだしの本』(天野たかし)
苦しいとき、行き詰まったときに読む「心の救急箱」。どうしていいかわからなくなったとき、誰かの助けがほしいとき、きっとこの本があなたの「ほんとうの友」となって相談に乗ってくれます。いつもひきだしのなかに置いておきたいマインド・ディクショナリー。


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5月28日・イアン・フレミングの流儀

2019-05-28 | 文学
5月28日は、「ブルー・ライト・ヨコハマ」「また逢う日まで」「木綿のハンカチーフ」「ギンギラギンにさりげなく」の作曲家、筒美京平が生まれた日(1940年)だが、作家イアン・フレミングの誕生日でもある。007号ジェイムズ・ボンドの生みの親である。

イアン・フレミングは、1908年、英国ロンドンで生まれた。彼の祖父、ロバート・フレミングは、貧しい境遇から身を起こしロバート・フレミング銀行を創立した立志伝中の人物で、孫のイアンは、使用人が70人いる大邸宅で育った。イアンの父親は、第一次世界大戦中に戦死した。イアンは男ばかりの4人兄弟の二番目だった。
名門出のイアンは、甘えのない英国紳士を育成する英国流の教育法にのっとり、8歳から寄宿学校に入れられ、12歳で名門イートン校に入学した。
イートンを卒業したフレミングは、18歳の年にサンドハースト士官学校に進んだが、軍隊の歯車となるのを嫌いドロップアウト。ロイター通信社の記者となった。記者として外国を渡り歩いた後、祖父の創立した銀行系の金融会社に入社。そこに6年在職し、遊びまくった。裕福で、容姿端麗、スポーツ万能のプレイボーイだった。第二次世界大戦中は海軍の情報局に所属し、スパイ活動にたずさわり、37歳で終戦を迎えた。
大戦後は「サンデー・タイムズ」紙の外信部長を務めた後、44歳のときに結婚。優雅な独身貴族の生活に終止符を打つ心境を、フレミングはこう述べている。
「結婚を目前に控えていた──それはわたしを恐怖とそわそわする気持で一杯にする未来図だった。何もしていない両手に何かすることを与えてやるために、そして四十三年の独身生活のあとで入る結婚生活というものに対する不安への抗体として、わたしはある日机に向かってじっと坐りこみ、本を書くことにした」(井上一夫訳「エッセイ スリラー小説作法」『007号/ベルリン脱出』早川書房)
彼は毎年2カ月の休暇をとって、ジャマイカにある「ゴールデン・アイ」という別荘に行き、そこで毎年一作ずつ本を書き上げた。それが『カジノ・ロワイヤル』『死ぬのは奴らだ』『ロシアから愛をこめて』『女王陛下の007号』『007号は二度死ぬ』と続く「007号シリーズ」だった。英国諜報部員のジェイムズ・ボンドが活躍するこのスパイ小説シリーズは、世界的ベストセラーとなり、映画化作品も大ヒットした。
フレミングは、そのほか童話『チキチキバンバン』を書いた後、遺作『黄金の銃をもつ男』の校正中だった1964年8月、心臓麻痺で没した。56歳だった。

イアン・フレング人は名文家の誉れ高く、英国ではスティーブンソンの再来と言われた。
洗練された、洒落っ気のある簡潔で切れ味がいい英文を書いた。

フレミングは言っている。
「ものを書くということは、人を周囲の状況に対して生き生きと敏感にさせる。そして生きるということの主な要素は──多くの人たちの様子を見ていると、そうは思えないかもしれないが──生き生きとしているということにある以上、これは書くということのまさに骨折りがいのある副産物である」(同前)
(2019年5月28日)



●おすすめの電子書籍!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句2』(金原義明)
「ロシアより愛をこめて」「ガリヴァ旅行記」から「ダ・ヴィンチ・コード」まで、英語の名著の名フレーズを原文(英語)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。好評シリーズ!

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5月27日・アメリア・ブルーマーの受難

2019-05-27 | 歴史と人生
5月27日は、『沈黙の春』を書いたレイチェル・カーソンが生まれた日(1907年)だが、女性解放運動家アメリア・ブルーマーの誕生日でもある。女性の運動着「ブルマー」の由来である(他説あり)。

アメリア・ジェンクス・ブルーマーは、1818年、米国ニューヨーク州、ホーマーで生まれた。ブルーマーは、学校教師や住みこみの家庭教師をした後、22歳のとき、弁護士と結婚。奴隷解放運動や女性解放運動に刺激を受けたブルーマーは、31歳のとき、週2回発行される新聞「ザ・リリー(ユリの意)」を発行しだした。「ザ・リリー」は、セネカ・フォールズという町の女性禁酒協会の会員向けの家庭向け配布紙で、その紙面に彼女は、結婚法の改正や、女性参政権、女性のための高等教育などについての記事を載せ、発行部数は4000部を超え、後世の女性参政権運動の見本となった。
ブルーマーは彼女の新聞「ザ・リリー」について言っている。
「女性のための新しい福音となる真実を報せる媒体が必要とされていたのです。いったんそれを始めたら、もう後には引けませんでした」
彼女が33歳のときのこと。ニュー・イングランド地方に住むエリザベス・ミラーという女性が、足首のところで裾をつぼめた、ゆったりした女性用のズボンを考案した。ミラーの従妹がそれを気に入り、従妹はがそれをはいてブルーマーを訪ねた。ブルーマーは賞賛した。動きやすいし、からだにいい、と。さっそく自分もそのズボン・スタイルを取り入れるとともに、自分の新聞でも取り上げた。すると、彼女の名をとって「ブルマー」と呼ばれたそのスタイルは、たちまち社会のはげしい非難の的となった。
南北戦争前夜の当時は、女性にはズボンというものはあり得なかった。女性は、ウエストをきつくコルセットでしめつけ、広がった長いスカートをはくものであり、そうやってバストとヒップを強調し、男の目から見た「女らしさ」を装うもの、とされていた。動きにくさや、腹をしめつけすぎて卒倒するとか、食事がとりづらいなど、女性の便宜や健康への配慮は、いっさい度外視されていた。そこへ出現した「ブルマー」は、社会の風紀を乱すハレンチな装束以外の何者でもなかった。
米国に一時広まり、ヨーロッパへも飛び火したブルマー・スタイル「ブルーメリズム」は、当時はその上に短いスカートをはいて用いられたそうだが、まだデザインが洗練されていなかったこともあって、それほど流行らなかった。
女性解放運動の先駆者、ブルーマーは、1894年12月に、76歳で没している。

ココ・シャネルが女性のスカートにポケットをつけたのは、女性の日常生活の一大事件だったけれど、ブルマーの採用はもっと革命的なできごとだった。当時、通りでブルマーをはいて歩くと、ののしられ、石やトマトをぶつけられた。ブルマーをはくこと自体、相当な勇気がいることだった。そのスタイルは細々と受け継がれて、しだいに洗練され、現代の女性のパンツ・ルックとなり、短くスポーティーな運動用ブルマー、ホットパンツとなった。だから、現代の東京の原宿や秋葉原を、トマトをぶつけられることもなく、思い思いのファッションで歩いている女性たちも、ブルーマーら先駆者の恩恵をすこしはこうむっていると言える。
(2019年5月27日)




●おすすめの電子書籍!

『女性解放史人物事典 ──フェミニズムからヒューマニズムへ』(金原義明)
平易で楽しい「読むフェミニズム事典」。女性の選挙権の由来をさぐり、自由の未来を示す知的冒険。アン・ハッチンソン、メアリ・ウルストンクラフトからマドンナ、アンジェリーナ・ジョリーまで全五〇章。人物事項索引付き。フェミニズム研究の基礎図書。また女性史研究の可能性を見通す航海図。


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5月26日・モンキー・パンチの苦み

2019-05-26 | マンガ
5月26日は、「モダン・ジャズの帝王」マイルス・デイヴィスが生まれた日(1926年)だが、漫画家、モンキー・パンチの誕生日でもある。「ルパン三世」の作者である。

モンキー・パンチこと、本名、加藤一彦は、1937年に、北海道厚岸郡浜中町で生まれた。
高校時代から漫画を描いていた彼は、高校卒業後、上京し、東海大学の電気科に入学した。が、アルバイトの漫画のほうに夢中になり、大学を中退。本格的に漫画家を目指した。28歳のとき、「がむた永二」のペンネームでデビュー。
29歳のとき、出版社側から押しつけられたペンネーム「モンキー・パンチ」を名乗った。
30歳のとき、雑誌に「ルパン三世」の連載を開始。連載開始のころには「ルブラン原作」とクレジットが入っていたという。
この「ルパン三世」がヒットし、テレビ・アニメ化され、映画化され、ゲーム・ソフト、パチンコ台にまでなり、時代を越えて多くの世代に愛される彼の代表作となった。
2003年、65歳のとき、東京工科大学の修士課程に入学。自分がさらに進歩するため、現代の情報メディアを勉強し直す必要を感じたためという。
2010年、73歳で、東工大の客員教授に就任。そして、2019年4月、誤嚥性肺炎のため没した。81歳だった。

もともと、007号ジェイムズ・ボンドと、怪盗アルセーヌ・ルパンを合わせたらどうなるかというところから構想されたという「ルパン三世」は、「トムとジェリー」のトム役に銭形警部を、ジェリー役にルパン三世を、と登場人物を配し、トリックは古今東西の推理小説から借用して作られた。このいわくを知り、007シリーズと怪盗ルパンの愛読者だった自分がなぜルパン三世にひかれるのか腑に落ちた。

マンガ、テレビ、映画などなど、バリエーションに富む「ルパン三世」は、どれもおもしろいけれど、もっとも強烈な魅力を感じるのは、雑誌「漫画アクション」に連載されていた元祖「ルパン三世」である。
モンキー・パンチ自身が構想を練り、描いていた元祖漫画版のほうは、エロチックで、サディスティックで、いかがわしくて、ギャグの精神を忘れない、大人の味わいを持った漫画作品だった。たぶんあの形のままでは、ここまでのメジャー展開はむずかしかっただろうけれど、あそこにこそ「ルパン三世」の本質がある、という気がする。

自ら映画「ルパン三世」を監督した際、モンキー・パンチはこう発言していた。
「女性をほっぽりだしても自分は逃げると。そういう冷たさみたいなものをルパンはもっている。戦うときも女の子をかばわない。ハードボイルドタッチと、ゲーム的なおもしろさを出したい」
小説のアルセーヌ・ルパンもそうだけれど、元祖漫画版の「三世」にも、独特の苦みがある。この「苦み」こそが、漫画でも音楽でもなんでも、秀逸な作品を、凡庸な作品から隔てている急所である。
(2019年5月26日)



●おすすめの電子書籍!

『心をいやす50の方法』(天野たかし)
見て楽しめるヒーリング本。自分でかんたんにできる心のいやし方を一挙50本公開。パッと見てわかる楽しいイラスト入りで具体的に紹介していきます。「足湯をする」「善いことをする」「あの世について考える」「瞑想する」「五秒スクワット」「雲をながめる」「四コママンガを描く」などなど、すぐに実行できる方法が満載。ストレス、疲労、孤独、悲哀、無力感、空虚な気分、やる気が出ないイライラなどの諸症状によく効きます。また、退屈しのぎにも効果が。


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5月25日・エマーソンの宇宙

2019-05-25 | 思想
5月25日は、「ニットの女王」ソニア・リキエルが生まれた日(1930年)だが、米国の思想家兼詩人、エマーソンの誕生日でもある。

ラルフ・ウォルド・エマーソンは、1803年、米国マサチューセッツ州ボストンで生まれた。父親はユニテリアン派の牧師だった。きょうだいは8人いたが、うち3人は子どものころに亡くなり、成人したのは5人で、そのまん中がラルフだった。
ラルフが8歳になるすこし前に、父親が胃ガンで没し、彼は母親と、親戚の女性たちによって育てられた。
9歳から学校へ通いはじめた彼は、14歳のとき、ハーヴァード大学に入学。大学生のころから詩を書き、式典の折などに朗読した。
大学卒業後、エマーソンは兄がはじめた女学校を手伝って、そこの校長を務めたり、自分の私塾を開いたりしたが、23歳のころ、体調をくずし、暖かいフロリダへ転地療養に向かった。フロリダで知り合った、ナポレオン・ボナパルトのおいのアシール・ミュラと親友になり、また現地ではじめて奴隷のオークションを目撃し衝撃を受けた。
マサチューセッツにもどったエマーソンは、26歳のころから教会の牧師として働きはじめた。しかし、そのころ花嫁に迎えた18歳の妻が、結核で20歳で没すると、古い儀式を墨守するだけの教会に疑問を持つようになり、29歳のとき、牧師を辞めた。
彼はヨーロッパ旅行に出発した。そうして、ヨーロッパ各地で、ジョン・スチュアート・ミル、ワーズワース、カーライル、コールリッジといった世界的な知識人と交流を深めた。
30歳で米国に帰ったエマーソンは、講演家として活動をはじめた。一回の講演に10ドルから50ドルの講演料をもらって、自然、人生、社会などTPOに応じてさまざまな演題で話してまわった。そして、講演会での話を本にして出版した。
33歳のときから、彼はマサチューセッツの、志向を同じくする知識人の仲間で「トランセンダリスト(超越主義者)」のクラブを作り、定期的に集まるようになった。トランセンダリストは、人道主義、個人主義の考え方をもち、人間性の解放を訴える人たちで、『ウォールデン』を書いたヘンリー・ソロー、「フルーツランド」を作ったブロンソン・オルコット、「ブルック・ファーム」を作ったジョージ・リプリーが顔を見せ、女性運動家のマーガレット・フラーもその仲間だった。講演家、著述家として、米国の内外に強い影響力をもったエマーソンは、『緋文字』の作者ホーソーンとも友人だった。
60代の後半から、エマーソンは記憶力が衰えだし、しだいに物忘れがひどくなり、やがて自分の名前も忘れるようになった。そうして公衆の面前に出なくなった彼は、1882年4月、肺炎により没した。78歳だった。

エマーソンは、『バガヴァッド・ギーター』を読み、インド思想に深く共鳴していた。彼は、人間一人ひとりの内にある魂、精神に絶対の信頼を置き、それを型にはめてゆがめようとする社会の制度や組織を批判的に見た。もちろん奴隷解放論者だった。

エマーソンはいかにもトランセンダリストらしいことばを吐いている。
「きみがいったん決心する。すると、全宇宙がそれを実現しようと画策しだすのだ(Once you make a decision, the universe conspires to make it happen.)」(Brainy Quote)
(2019年5月25日)



●おすすめの電子書籍!

『思想家たちの生と生の解釈』(金原義明)
古今東西の思想家のとらえた「生」の実像に迫る哲学評論。ブッダ、道元、ルター、デカルト、カント、ニーチェ、ベルクソン、ウィトゲンシュタイン、フーコー、スウェーデンボルグ、シュタイナー、オーロビンド、クリシュナムルティ、マキャヴェリ、ルソー、マックス・ヴェーバー、トインビー、ブローデル、丸山眞男などなど。生、死、霊魂、世界、存在、認識などについて考えていきます。わたしたちはなぜ生きているのか。生きることに意味はあるのか。人生の根本問題をさぐる究極の思想書。


●電子書籍は明鏡舎。
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5月24日・ボブ・ディランの耳

2019-05-24 | 音楽
5月24日は、温度計の華氏ファーレンハイトが生まれた日(1686年)だが、米国のシンガーソングライター、ボブ・ディランの誕生日でもある。

ボブ・ディランは、1941年に、米国ミネソタ州、ダルースで生まれた。本名は、ロバート・アレン・ジマーマンで、祖父の代にロシアからやってきたユダヤ人移民の三世である。
小さいころからラジオで、ブルース、カントリー、ロックを聴いて育ったロバートは、高校生のころからバンドを組んで音楽活動をはじめた。
18歳でミネソタ大学に入学した後も、カフェなどでライブをおこない、このころ英国の詩人ディラン・トーマスからとって、「ボブ・ディラン」と名乗るようになった(21歳のとき、本名も「ボブ・ディラン」に改名した)。後に、彼は名前について言っている。
「人は生まれる、まちがった名前、まちがった親のもとに。時として、ね。でも、自分がそう呼んで欲しい名前を名乗ればいい。ここは自由の国なんだから」
19歳のとき、彼は1年目の終わりに大学をドロップアウトし、ニューヨークに出た。この大都市で音楽活動をするため、また、あこがれのシンカーソングライター、ウディ・ガスリーに会うためだった。ディランは入院していたガスリーに会い、グレニッチヴィレッジのクラブに出演するようになった。自作した曲を、自分ひとりでフォークギターを弾き、フォルダーで支えたハーモニカを吹きながら、独特のだみ声で歌う。ディランの音楽スタイルは常識破りに斬新で、個性的だった。
20歳でデビュー・アルバム「ボブ・ディラン」発表。これはあまりヒットしなかったが、22歳のときに発表したセカンド・アルバム「フリーホイーリン・ボブ・ディラン」は歴史的な名盤となった。このアルバムに収録された「風に吹かれて」は大ヒットシングルとなり、公民権運動やベトナム戦争反対を象徴するプロテスト・ソングとして、ワシントン大行進の際にも歌われた。
以後「時代は変る」「はげしい雨が降る」「ライク・ア・ローリング・ストーン」「ガッタ・サーヴ・サムバディ」など、鋭い表現とメッセージ性の強い歌詞を盛った数々の名曲を発表してきた生ける音楽の神さまである。2016年にノーベル文学賞を受賞した。

ボブ・ディランの曲は、どれも好きだけれど、とくに「自由の鐘」「アイ・シャル・ビー・リリースト」「ハリケーン」「コーヒーもう一杯」「ラヴ・シック」が好きである。あのざらついた耳触りな声が、聴いているとくせになる。

初渡米したザ・ビートルズの4人にマリファナを教えたのはボブ・ディランだが、初対面のとき、ディランの側では、彼らはとうにマリファナなど経験ずみだろうと思っていた。なぜかというと、ビートルズの大ヒット曲「抱きしめたい(I Want to Hold Your Hand)」の歌詞に「I get high, I get high(ぼくはハイになる、ハイになる)」という歌詞が出てくるからだった。これについてジョン・レノンがディランに釈明した。
「いや、あそこは、I can't hide, I can't hide と言ってるんだよ」
ネイティブのディランが、この聞きまちがい。この話が好きである。
(2019年5月24日)



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『ロック人物論』(金原義明)
ロックスターたちの人生と音楽性に迫る人物評論集。エルヴィス・プレスリー、ボブ・ディラン、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ジミー・ペイジ、デヴィッド・ボウイ、スティング、マドンナ、マイケル・ジャクソン、ビョークなど31人を取り上げ、分析。意外な事実、裏話、秘話、そしてロック・ミュージックの本質がいま解き明かされる。


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5月23日・マーガレット・フラーの先進

2019-05-23 | 歴史と人生
5月23日は、世界で初めて空を富んだ男リリエンタールが生まれた日(1848年)だが、米国の女性運動の先駆、マーガレット・フラーの誕生日でもある。米国初の女性編集者である。

サラ・マーガレット・フラーは、1810年、マサチューセッツ州ケンブリッジポートで生まれた。父親は後に国会議員になった人で、彼は最初の子どもとして女のサラが生まれると、男の子のようにきびしく教育した。父親は娘に、女性向けの礼儀作法の本や小説を禁じ、歴史や自然を教えた。彼女が5歳のころから英語とラテン語が日課になり、さらにギリシャ語、古代ローマの歴史と必修科目は増えていった。父親の厳格な教育のストレスで、小さかった彼女は悪夢にうなされ、眠ったまま歩きまわったという。
9歳のころから、彼女は学校へ通ったが、16歳のときには、学校をやめて、家で語学や外国文学を独学しだした。そのころから彼女は、自分はふつうの女性らしい女性としては生まれてこなかった、同年代の同性たちとは気が合わないと感じていた。
26歳のころから、ブロンソン・オルコットが開いた私学などで教師をした後、30歳のときに、ラルフ・エマーソンたちトランセンダリスト(超越主義者)の雑誌「ダイヤル」の編集者となった。「ダイヤル」誌に彼女が連載していた「大訴訟──男・対・女」は、35歳のときに単行本化され、『一九世紀の女性』として出版された。
この書は、米国で出版された最初のフェミニズムの書である。
「ダイヤル」誌編集部に4年ほどいた後、彼女はニューヨークへ出て、34歳のとき「ニューヨーク・トリビューン」紙の編集者になった。彼女は文芸批評を担当し、米国の書籍のほか、外国の書籍、コンサート、講演、展覧会などのレビューを書いた。
36歳のとき、フラーは、トリビューン社史上初の女性海外特派員として、ヨーロッパに派遣された。彼女は、トーマス・カーライルや、ジョルジュ・サンドらにインタビューし、イタリアの革命家と恋に落ち、38歳のとき、男の子を産んだ。
彼らは、ローマ共和国の樹立を目指すジュゼッペ・マッツィーニの革命を支援していたが、革命運動が頓挫したため、二人は米国へ避難することにした。
フラーは夫と幼い息子とともに、1950年5月に、船に乗った。それは、イタリアから米国へ大理石を運ぶ船で、乗船したフラーは、書き上げた自信作『ローマ共和国』の原稿をたずさえていた。これを出してくれる出版社を、米国でさがすつもりだった。
航海の途中で船長が天然痘で死亡するというアクシデントが起き、船長に代わって一等航海士が指揮をとった。が、その航海の終わりごろ、ニューヨークの沖合にいたって、船が座礁してしまった。ニューヨークのロング・アイランドの大西洋側にファイヤー・アイランドという細長い土地があるが、そのファイヤー・アイランドから百メートルも行かない、目と鼻の先で起きた海難事故だった。
乗客や乗組員の一部の者たちは、船を捨てて飛び込み、泳いで岸にたどりついたが、幼子連れの彼女ら家族は船に残っていた。そこへ大波が襲い、彼女ら三人の姿は船上から消えた。1850年6月、フラーが40歳のときのことだった。
『ウォールデン』の著者ヘンリー・ソローは、ニューヨークへフラーの遺体をさがしにきた。息子の遺体は発見したが、夫妻の遺体と原稿はついに見つからなかった。

マーガレット・フラーは言っている。
「女性にどんな仕事ができるのかと問われたなら、わたしは答えます、なんでもと……船の船長だってできる。女性がその仕事を立派にこなすことに疑いをいれません」
(2019年5月23日)



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『女性解放史人物事典 ──フェミニズムからヒューマニズムへ』(金原義明)
平易で楽しい「読むフェミニズム事典」。女性の選挙権の由来をさぐり、自由の未来を示す知的冒険。アン・ハッチンソン、メアリ・ウルストンクラフトからマドンナ、アンジェリーナ・ジョリーまで全五〇章。人物事項索引付き。フェミニズム研究の基礎図書。また女性史研究の可能性を見通す航海図。


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5月22日・コナン・ドイルの偏向

2019-05-22 | 文学
5月22日は、大作曲家ワーグナーが生まれた日(1813年)だが、作家コナン・ドイルの誕生日でもある。「名探偵シャーロック・ホームズ」の生みの親である。

アーサー・コナン・ドイルは、1859年、英国スコットランドのエディンバラで生まれた。両親はアイルランド系で、カトリックだった。父親はアルコール中毒で、変わり者だったが、母親は教養豊かな女性で、幼いアーサーによく物語を語って聞かせた。
親戚に学費を援助してもらい、アーサーは医学の道へ進んだ。
22歳のときエディンバラ大学卒業。捕鯨船の船医をへて、23歳のとき、ポーツマスで眼科の医院を開業した。しかし、患者が来ず、ドイルはひまを持て余し小説を書きはじめた。
小説を書いては、出版社に送り、ボツにされる、その繰り返しが続いたが、そのうちに一編の探偵小説が出版社に売れ、雑誌に掲載され、好評を博した。それが名探偵シャーロック・ホームズを主人公とする第一作『緋色の研究』で、ドイルが27歳のときだった。
ドイルは、もともと歴史、SF小説志向で、推理作家は本意ではなかったが、ホームズものが爆発的人気を博したため、医者をやめて作家業に専念することにした。そうして、長編4作、短編56作のホームズものを書き、ホームズもののほかに『勇将ジェラールの冒険』『失われた世界』などを書いた。
1902年、43歳のとき、ドイルはナイトの勲章を授与された。ただし、叙勲は当時英国が南アフリカで起こした侵略戦争「第二次ボーア戦争」を擁護する小冊子をドイルが書き、南アフリカで医師として勤労奉仕した貢献に対してのものだった。
ドイルは晩年は、妖精の研究に没頭した。捏造した妖精の写真をほんものとして発表して物議をかもした。1930年7月、ドイルはイーストサセックス州の自宅の玄関で、胸をつかんで亡くなっているところを発見された。死因は心臓発作とみられる。71歳だった。

ホームズ・シリーズの成功は、もちろん犯罪トリックや推理やストーリー展開もあるけれど、名探偵シャーロック・ホームズという魅力的な人物の造形による部分が大きい。
ホームズという人は、かなりの変人で、いつも暗い部屋に閉じこもって、たばこやアヘンを吸っていて、女性にまったく興味がなく、博識だけれど、その教養は、植物、毒薬、化学などに偏っていて、文学、哲学、政治などにはまったく無知である。
現代ならば、これはゲイのオタク・ヤオイ系探偵小説と分類されるだろうけれど、ガス灯の時代の霧の都ロンドンを背景にすると、その変人ぶりがまたちょうどいい具合に名探偵のアクセントになった。ホームズ以後、クリスティの「ポアロ」から、現代の東野圭吾の「探偵ガリレオ」にいたるまで、世界の推理小説に登場する名探偵は、かならず偏向した性格づけをされる約束になったけれど、これはドイルの発明である。

『バスカヴィル家の犬』『赤毛連盟の謎』『踊る人形の秘密』は惚れ惚れする傑作だと感服した。拙著『名作英語の名文句2』で取り上げた『ボヘミア王のスキャンダル』(短編集『シャーロック・ホームズの冒険』中の一編)は、魅力的な女性が登場する、ホームズ・シリーズ中では異色の作品で、もっとも好きなホームズものである。
(2019年5月22日)



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