1日1話・今日の話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『誇りに思う日本人たち』
『ビッグショッツ』
『黒い火』ほか

12/31・ジョン・デンバーの思い出

2012-12-31 | 音楽
12月31日は、大晦日(おおみそか)。各月の最終日である晦日(みそか)の、大親分がついにお出まし、といったところ。そして、この1年の最終日は、米国のシンガー・ソング・ライター、ジョン・デンバーの誕生日でもある。
ジョン・デンバーは、第二次大戦中の1943年12月31日に、海軍中佐を父親として生まれた。
父方はドイツ系で、母方はアイルランドとドイツの家系である。
出生地はニュー・メキシコ州のロズウェル。1947年に、UFO(未確認飛行物体)が墜落し、なかから宇宙人の遺体をアメリカ空軍が回収したのではないかといわれている、あの「ロズウェルUFO事件」のあったロズウェルである。
だから、UFO事件は、デンバーが3歳くらいのときに、近所で起きた事件、ということになる。

デンバーは、父親の転勤の関係で、少年時代によく引っ越ししたらしいが、11歳のとき、祖母にアコースティック・ギターをプレゼントしてもらい、これをよく練習した。そして、カントリー・シンガー・ソング・ライターのジョン・デンバーが生まれた。
自分の好きなデンバーの曲を、思いつくままあげてみると、以下のようになる。

フォロー・ミー (Follow Me)
故郷に帰りたい (カントリー・ロード) (Take Me Home, Country Roads)
さすらいのカウボーイ (I'd Rather Be A Cowboy)
ロッキー・マウンテン・ハイ (Rocky Mountain High)
太陽を背にうけて (Sunshine on My Shoulders)
友への誓い (Friends With You)
緑の風のアニー (Annie's Song)
囚人たち(Prisoners)
プリーズ・ダディ(Please Daddy)
すばらしきカントリー・ボーイ (Thank God I'm a Country Boy)
マイ・スウィート・レディ (My Sweet Lady)

名曲が目白押し。
こうやって書き並べるだけで、なつかしさがこみ上げてくるが、あらためてみてみると、だいたい大ヒット曲で、1970年代の曲がほとんどである。

自分は、ジョン・デンバーが全盛のころを、よく知っている。
ラジオでそのヒット曲がよく流れたし、テレビでもその顔をよく見かけた。
さらさらとした金髪、人なつっこい丸顔に、レンズの大きな銀縁メガネをかけて、テンガロンハットをかぶり、チェック柄のシャツを着て、ブルージーンズをはいて、ギターを抱えて歌う、まさにアメリカ西部の田舎から来たカントリー・シンガーという感じだった。
でも、ひょろりと細くて、腕っぷしは弱そうで、いわゆる「西部の男」のたくましさはなかった。
口が大きかった。
「大きい口だなぁ、唇の端がここまできている」
と思う、もうすこし先まで口の端があった。
あれだけ口が大きいと、息を吸うのも楽だろうなぁ、と思われる口だった。
デンバーは歌声がきれいで、声量があって、歌声が長くなめらかに伸びる。
あの長い息が続く秘密は、もちろん肺活量もあるだろうが、酸素の取り入れ口であるあの大きな口にあると、自分は信じている。

1970年代の中ごろだったと思う。
当時は「ジョン・デンバー・ショー」というのか、タイトルは知らないけれど、米国に、デンバーが司会をして、歌手のゲストを迎えて、語り、歌を披露するという趣向の歌番組があって、それを見たのをよく覚えている。
自分が見たとき、たまたまゲストが、フランク・シナトラだった。デンバーは、シナトラを拍手で迎えると、笑顔でこういった。
「みなさん、フランク・シナトラさんは、よく遊び人だといわれるが、それはまちがっている」
と、ことばを区切ってから、
「彼は、遊び人、ではない。『すごい』遊び人だ」
いつも、そんな感じでジョークを飛ばしている人だった。
そのときの番組中では「すばらしきカントリー・ボーイ」を歌ったと思う。
自分はそのときはじめて聴いたけれど、
「ぼくはカントリー・ボーイだ、ありがとう、神さま」
という歌詞を聴いて、いい歌だなあ、としみじみ思った。
こういう歌は、たとえば、ボブ・ディラン、ビリー・ジョエル、ブルース・スプリングスティーンといった大歌手が歌っても、まったく説得力がないわけで、そこにジョン・デンバーの独壇場があると思う。

1977年ごろだったか、グラミー賞の授賞式の司会をジョン・デンバーがやっていたのをテレビでみた。
黒いタキシードに蝶ネクタイ姿なのだが、細身なので、これがまた似合って、かっこよかった。
だいたいの賞の発表は、プレゼンターがでてきて、ノミネートされている曲名を読み上げ、その曲がすこし流れ……と、ひと通り候補曲を紹介してから、封筒を開けて、最優秀○○曲を発表する段取りである。
ところが、そのときのある部門の最優秀曲賞の発表だけは、
「ここは趣向を変えて、自分が歌って紹介していきましょう」
と、デンバー自身が、ノミネートされた歌をすこしずつ、バックダンサーたちと踊りながら歌って紹介していった。そうして、最後のビージーズの「ステイン・アライブ」を歌い終えたとき、人指し指を上に向けて片手を高く掲げ、決めのポーズをとった。これは映画「サタデー・ナイト・フィーバー」で、主演のジョン・トラボルタが踊った有名なポーズだが、すぐにデンバーは笑いだし、
「トラボルタはクビだ!」
と腕をふって、クビをきるまねをした。
自分はテレビでそれを見ていて、
「アメリカン・ジョークってわかりやすくて、いいなあ」
と思った。
日本の多くのジョークのように、ひねったところがない、裏のない、ストレートなジョーク。それがよく似合うアメリカ人だったと思う。

ジョン・デンバーは生涯に二度結婚している。
一度目の妻はアニーで、全米ナンバーワン・ヒット・ソング「緑の風のアニー」のアニーその人である。デンバーはこの大ヒット曲を、スキーのリフトに乗っているあいだの、たった10分間で作曲したという。
アニーと夫婦だったころ、デンバーは男の子と女の子をよそから養子に迎えている。
ある日、養子となった二人、ジョンとアンナに、デンバーはこういった。
「これから自分のせいいっぱいをいうから聞いてくれ。ぼくは、すばらしい男の子の父親だ。ぼくは、すばらしい女の子の父親だ。ぼくが死んだら、ぼくはジョンとアンナの父親だった、と、それだけ覚えられていたら、もうぼくはじゅうぶんなんだ。いや、じゅうぶん以上なんだ」
デンバーは38歳のときにアニーと離婚した。
離婚後、相続問題がこじれて、デンバーは半狂乱となって、アニーの首をしめて殺しかけたこともあったらしい。
44歳のとき、デンバーは、オーストラリア人の女優と再婚し、一女をもうけている。
が、やがてそれも破局を迎え、1993年、デンバーは49歳でふたたび離婚している。
同じ年、デンバーは酔っぱらい運転で捕まり、保護観察下におかれる。
保護観察下にあった翌1994年、ふたたびデンバーは酔っぱらい運転でポルシェを林に突っこませるという事故を起こした。
クルマ好きのデンバーはまた、スキーヤー、ゴルファー、飛行パイロットでもあった。彼は飛行機マニアで、飛行機を買い集め、自分で操縦して空を飛んでいたのだが、1997年10月12日に、自分が操縦する飛行機で、太平洋のカリフォルニア沖に墜落し、死亡した。54歳だった。

ジョン・デンバーの死が報じられたとき、マスコミの多くはそれを、デンバーは全米に愛されたミュージシャンだったが、晩年はヒット曲に恵まれず、鬱々とした日々を送っていた、そうしてひとりで飛行機で飛び立ち、ひとりで死んだ、スターのさびしい死である、という論調で報じた。
まあ、そうかもしれない。
けれど、自分はそうばかりでもない気がする。

ジョン・デンバーは、1970年代に一度頂点をきわめた男である。
さらに、彼は、ある一時期にはやった流行歌手というのでなく、「ワン・アンド・オンリー」、つまり、ほかに代わりが考えられない、唯一の人だった。
彼の作った曲は、いつの時代にも、繰り返し演奏され、歌われる種類の曲である。
しかも、「すばらしきカントリー・ボーイ」のように、ほかの歌手が歌ったのではだめで、やはりデンバーの声で聴きたい、そういう曲である。
なので、たとえ晩年にヒット曲がなかったとしても、デンバーは、それはさびしい気持ちはあったろうが、凡人の想像するようなさびしさだけではない、そこにはどこか晏如(あんじょ)としたところがあったろうと思う。

ところで、飛行機の操縦というのは、ものすごい快感らしい。
ハリウッド女優のアンジェリーナ・ジョリーも、
「セックスよりいいのよ」
といっていたが、それほどの快感ならば、つまり航空機のパイロットという職業は、AV男優などより快楽が強い仕事なのである。

また、一方で、ジョン・デンバーの父親は、爆撃機の最高スピードの記録を複数もち、空軍の殿堂入りを果たしている名パイロットだった。

そうした事実を考えあわせ、あらためてデンバーが亡くなった状況を考えるならば、そこには、悠々自適に、自分の好きなことができる身分になった男が、いままで生きてきていちばん快楽が強いとわかったことをして、それがまた父親といっしょになれるようなうれしさが重なっている、もう、この世にこれ以上の快楽などない、といったことに夢中になれるのだから、もう、いつ死んでもいい、と、そういう心境で飛行機に乗っていたのではないか、と自分には思われるのである。
もちろん、事故であって、トラブルから墜落するまでのわずかな時間は、切迫した気持ちもあったろうが、それも、搭乗する前から重々覚悟はしていたものだったろう、と、想像するのである。

今、名曲「さすらいのカウボーイ」を聴きながら、これを書いている。
「ぼくは、むしろカウボーイでいたかったよ。
愛の前に身を横たえて、婦人のくさりにつながれるよりは」
そんなフレーズにうっとりと聞き入ってしまう。
ジョン・デンバーというのは、ほんとうにいい声をしている。
(2012年12月31日)


著書
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12/30・国際派キプリング

2012-12-30 | 音楽
12月30日は、敬愛する作家、横光利一の忌日(1947年)だが、英国初のノーベル文学賞受賞者、キプリングの誕生日でもある。キプリング、あの『ジャングル・ブック』の作者である。

ジョゼフ・ラドヤード・キプリングは、1865年12月30日、インドのムンバイ(ボンベイ)で生まれた。当時のインドは、英国の植民地だった。
キプリングの両親は英国人だったが、父親が美術学校の教師として赴任するため、新婚ほやほやの夫婦そろって、英国からはるばるムンバイへやってきた、そこでジョゼフが生まれたのだった。
ジョゼフ・キプリングは、5歳のころまでインドですごし、それから英国へ送られ、べつの夫婦に預けられて育った。
16歳のとき、インドへ呼び戻され、インドの新聞社で記者の見習いとして働きはじめる。
インドで処女詩集を出版し、新聞に短編小説を掲載し、キプリングの文名はしだいに高まっていく。
24歳のとき、彼は英国へもどり、短編小説を量産して、英国でも文名は高まっていった。
26歳のとき、3歳年上の女性と結婚したが、式のとき、花嫁の父親役代理を、『ねじの回転』の作者ヘンリー・ジェイムズが務めたという。
新婚のキプリング夫妻は、アメリカへ渡り、バーモント州に家を借りて、そこであの『ジャングル・ブック』が書かれた。
30歳のころ、夫妻はまた英国にもどり、キプリングは詩や小説などを書きつづけた。
35歳のとき、代表作『キム』を発表。このころ、キプリングは英国でもっもと人気のある作家のひとりだった。
1907年、41歳のときに、英語作家としてはじめて、また史上最年少でノーベル文学賞を受賞。
その後も執筆活動を続け、第一次大戦で息子が戦死するなどの不幸もあった後、1936年、70歳で没している。
ところで、英国には、「桂冠詩人」の称号がある。
王室により「桂冠詩人」の称号が与えられると、王室の慶弔の折に、詩を作っては読みあげる役目をになうのだが、キプリングはこの称号について何度か打診されたが断っていたという。

大英帝国華やかなりし時代の作家という印象がある。
インド、英国、米国をいったりきたりし、そして、一時期は毎年冬になると、南アフリカへいっていたというから、まだ船旅の時代に、世界をまたにかけて動きまわった、たいした国際派である。
それでも、どこへいっても英語ですませられたのだから、大英帝国の威光たるや、おそるべし、である。

キプリングの代表作いえば、あの、動物が人間のようにふつうに会話する物語『ジャングル・ブック』であり、アイルランド人の子どもが現在のパキスタンの街で成長する小説『キム』である。
こうした異国情緒あふれる物語が、20世紀初頭の英国では好評を博したということで「ある国際化時代」を感じさせる。
現代も国際化時代だけれど、キプリングの時代とはまったく異なった意味の国際化時代になっていて、現代は、情報通信が進んで、英国もインドもブラジルも日本も、みんなごっちゃになってしまっている。
たとえば、YouTubeにディズニー映画の『ジャングル・ブック』が流れて、世界各地でいっせいに視聴されたとしても、
「ああ、インドらしい異国風情があっていいなあ」
という受け止め方をする人はほとんどいない。そういうことである。
あるいは、世界で最先端のものを表現するということは、キプリングの時代には、まだ人々によく知られていない土地をのぞいてきて、そこを舞台にした何かを表現することだったが、現代では、自分のいるその国、その土地の個性を徹底的に追求することが世界最先端のものを表現することになる、と、そういうちがいがあると思う。
だから、自分たちは、そういう時代認識をもって、目の前の現実に立ち向かうべきなのだろう。
(2012年12月30日)



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12/29・カザルスの思い出

2012-12-29 | 音楽
12月29日、いよいよ年の瀬の押し迫ったこの日は、20世紀最大のチェロ奏者といわれるパブロ・カザルスの誕生日である。
パブロ・カザルスは、1876年12月29日にスペインのカタルーニャ地方で生まれた。カタルーニャは、フランスと地中海に接している、スペイン東端の州で、州都はバルセロナである。
カザルスの父親は、教会のオルガン奏者で、聖歌隊の指揮者だった。
パブロは、4歳ですでにピアノ、フルート、ヴァイオリンが演奏でき、6歳のときにはヴァイオリン・コンサートを開ける腕前だった。
11歳のとき、はじめてチェロの生演奏を聴き、この楽器にほれこんだ。
母親は彼をバルセロナへ連れていき、音楽学校へ入れた。そこでカザルスは本格的にチェロの理論を学びだした。
カザルスは納得がいくまで練習を重ねる練習の鬼で、13歳のときバルセロナの音楽店で、もうボロボロになった中古のバッハのチェロの組曲の楽譜を手に入れると、それから毎日欠かさずその曲を練習しつづけ、彼が人前でその曲をはじめて演奏したのはそれから13年後だったという。
おそるべしバッハ、おそるべしカザルス、である。
17歳のとき、カフェでトリオ(三重奏団)で演奏しているところを、たまたま作曲家が見いだして、カザルスは宮廷での演奏会に飛び入りでゲスト出演することになる。
これがきっかけとなって、カザルスは王室から奨学金をもらいながら、首都マドリードで作曲の勉強ができた。
奨学金がきれた。18歳の彼はフランス、パリにでて、オーケストラのチェロ奏者の職についた。
それ以後、彼はパリで、バルセロナで、あるいはマドリードでと、オーケストラのチェロ奏者として、またソリスト(独奏者)として世界を演奏してまわり、しだいにその名声は高まっていく。

カザルスが学生だったころは、チェロは、両ひじをわきにくっつけて、堅苦しい恰好で弾くのが作法だったそうだ。
それをカザルスは、ひじをわきから離し、自由に動かすよう変更した。作法にこだわる演奏から、いい音色を追求する演奏へと技法改革をおこなったのである。

28歳のころ、カザルスは、ピアノのアルフレッド・コルトー、ヴァイオリンのジャック・ティボーと組んでカザルス・トリオを結成、トリオとして演奏活動をはじめる。
その後、指揮者兼ソリストとしてオーケストラに参加したり、さまざまな演奏活動をおこなった後、晩年には、スペインのフランコ総統の独裁政権に反対して演奏活動をやめてしまった一時期もあった。
彼の政治的立場は、一貫して反ファシズム、平和主義で、核実験禁止運動に参加し、第二次世界大戦が終わると、平和の象徴として「鳥の歌」の演奏をはじめた。これは、彼の故郷カタルーニャ地方の民謡をチェロの曲にしたもので、平和主義者カザルスのテーマ曲となった。
94歳のとき、ニューヨーク国連本部でカザルスは「鳥の歌」を演奏する前に、こうあいさつしたという。
「わたしの故郷のカタルーニャの鳥は、ピース、ピース(平和、平和)と鳴きます」
国連平和賞を受賞したカザルスは1973年、96歳で没している。

自分はクラシックにはうといが、若いころはさらに無知蒙昧だった。
そんな自分にも、カザルスについては、こういう思い出がある。
大学の卒業式があった晩、主任教授の自宅に、研究室の卒業生みんなでお邪魔して、教授の奥さまの手料理をご馳走になったことがあった。
自分は西洋史学専攻で、主任の川口博教授は京都帝国大学をでたネーデルランド史(オランダ史)の権威だった。
川口先生は、終戦当時は京大の学生だったようで、こんな話をしてくれたのをよく覚えている。
「広島に特殊爆弾が落とされた、というニュースを聞いたときは、わたしら文科の学生はわからなかったけれど、理科の学生は、知ってましたねえ、『あれは原子爆弾だ』って」
それくらいの世代の先生だった。
奥さまの手料理を食べ、酔いがまわってきたころ、
「これ、みんなにお聴かせしましょうか」
といって、先生が1枚の古びたレコードをとりだしてきて、ターンテーブルに載せた。
それは、カザルス・トリオによるベートーヴェンのピアノ三重奏曲第7番「大公」だった。
「カザルスのチェロに、コルトーのピアノと、ティボーのヴァイオリンの音がうまく溶け合って、これがいいんですね」
そう解説してかけてくれたレコードを、西洋史学科の卒業生たちは、かしこまって聴いていた。
自分は、ほろ酔いのいい心地で聴いていた。
アルコールにも酔っていたのだが、それ以上に文化の香りに酔っていた気がする。
自分の日常にある文化程度よりも、明らかに上にある「文化的なもの」に接した気分だった。

そのとき自分は、じつは「カザルス」の名も知らなかったのだが、酔った頭のかたすみに「カザルス」「ティボー」らの名だけはとどめていた。
それから10年以上たって、サラリーマン生活を送っていたある日、レコード屋でカザルス・トリオの「大公トリオ」を見つけ、
「ああ、これは」
と、運命を感じ、買い求めた。
アパートに帰って聴いてみると、やっぱり「うまく溶け合って、これがいいんですね」。
この音楽を聴くたび、川口先生のことを思いだす。
ふだんは、低俗な欲望と損得勘定に揺り動かされて生活していても、この音楽を聴くときだけは、ちょっと文化的な生活時間をもち、それに浸ることができる。
自分にとってカザルスは、そういう文化の香りのする音楽家である。
(2012年12月29日)

著書
『出版の日本語幻想』

『コミュニティー 世界の共同生活体』

『ポエジー劇場 子犬のころ2』


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12/28・コンピュータの父ノイマン

2012-12-28 | 科学
12月28日は、「コンヒュータの父」ジョン・フォン・ノイマンの誕生日。コンピュータにうとい、自分のような人間には「なんのことやら」だが、「ノイマン型」「非ノイマン型」というときの、あのノイマンである。
ジョン・フォン・ノイマンは、1903年12月28日にハンガリーのブダペストに生まれた。父親はユダヤ系ドイツ人の弁護士だった

ノイマンのもともとのハンガリー名は、ノイマン・ヤーノシュといったそうで、後に父親が、地方貴族の位をお金で買って、「フォン」という称号を付けて呼ばれるようになり「フォン・ノイマン・ヤーノシュ」となった。
それをドイツ語名で呼んで「ヨハネス・ルートヴィヒ・フォン・ノイマン」となり、後に米国へ移って英語名で「ジョン・フォン・ノイマン」ということになったらしい。

ノイマンはいわゆる神童で、6歳のころからラテン語と古代ギリシア語がすらすらできたという。
体育はまったくだめだったそうだが、それ以外の学科はすべて、並外れてできた。
理科系も強かったし、文科系も強かった。
要するになんでもできる頭脳の持ち主だった。
数学があまりにできるので、学校の数学ではもったいない(ノイマンにとって、もったいない)と、専門の家庭教師をつけて数学の勉強をしたという。
1930年ごろ、ドイツでナチス党が躍進し、ユダヤ人への迫害が強まり、ヨーロッパに暗雲がたちこめると、ノイマンの一家は米国へ移住した。

ノイマンはプリンストン大学の研究所員として迎えられ、あの相対性理論のアインシュタインの同僚となった。
ノイマンは、数学では、ゲームの理論に貢献し、ゲーデルとは別の第二不完全性定理を発見した。
物理学では、量子力学の数学的基礎付けに寄与した。
そして、計算機科学では、現代のほとんどのコンピュータの動作原理である「ノイマン型コンピュータ」という方式を考案した。

自分はコンピュータにはずぶの素人なので、くわしい方は眉をひそめるかもしれないが、あえて大胆に説明してしまうと、こういうことである。
「ノイマン型コンピュータ」というのは、一つひとつの計算を逐一おこなっていく計算機のことである。
われわれが使っているパソコンもみんなこのスタイルで、音楽を再生するにしても、画像を画面に映しだすにしても、みんなコンピュータが一つひとつ計算していって、それを積み重ねてやっと一つの音なり、色の部分なりができて、それを膨大に積み重ねて、その計算結果として、一曲の歌なり、一枚の写真が目の前に立ち上がってくる、と、こういう仕組みらしい。
計算がものすごく速いので、マウスをクリックしたとたん、魔法のように歌は流れだすが、それでもその元のところでは、一つひとつの足し算を、逐一計算しているのである。
それに対して「非ノイマン型コンピュータ」というのは、それ以外の形式のコンピュータを指していて、たとえば、こっちである計算をやっていて、同時に、あちらではべつの計算をやっていて、それを同時進行でおこなうと、計算はずっと速くなるが、そういうのは「非ノイマン型」である。(この辺の説明、まちがっていたら、ご指摘ください)
この前者、「ノイマン型」の方式を作ったのが、ノイマンだという。
実際には、その方式はチームによって作られたので、その論文をまとめたノイマンの名をとってそう呼ばれるようになったので、真の功労者はほかにもいるらしいが、それはひとまずおくとして、とにかくノイマンの名はコンピュータの世界では不朽のものとなった。

ノイマンは、米国の原爆製造計画である「マンハッタン計画」に参加していて、長崎に投下された原爆の一部分を開発したのは彼だった。
また、彼は「大きな爆弾による被害は、爆弾が地上に落ちる前に爆発したときの方が大きくなる」という理論を主張し、広島や長崎ではそれが実践された。
あるいは、ノイマンは「京都が日本国民にとって深い文化的意義をもっているからこそ、破壊しつくすべきである」と、京都への原爆投下を主張したという。
原爆をあつかった傑作映画に、スタンリー・キューブリック監督の『博士の異常な愛情』があるが、あのなかでピータ・セラーズ演じる原爆博士のモデルの一人が、ノイマンなのだそうだ。

ノイマンは、すい臓と骨のガンを51歳のとき発症し、その2年後、53歳で亡くなっている。ガンであるとの診断を受ける9年前に、彼はビキニ諸島でおこなわれた核実験に参加していて、そこでの被爆の可能性が疑われている。

ノイマンは数学、物理学、計算機科学の分野で、20世紀最重要の学者のひとりといわれる足跡を残したが、同時に、幼少時からずっと生涯を通じて古代史に深い関心をもち、ビザンチン帝国の歴史についてとくに専門家はだしの知識と意見をもっていて、ゲーテの大作『ファウスト』をすみからすみまで暗唱できた。
彼は、数学が直感的な学問であることを信じていて、問題が解けないまま、夜ベッドに入って、目がさめたときには問題が解けているということがあったという。

自分は、ときどきこんなことを考える。
コンピュータは、はたして、わたしたちの生活を、人生を、幸福にしただろうか、と。
便利にはなっただろう。でも、それが幸せと直結しないところに、人間の業がある。
コンピュータの出現によって、不幸になった人は、すくなからずいると思う。
でも、それがノイマンのせいだとは言うまい。
それにしても、まったく、おそろしい男もいたものだ、と驚かざるを得ない。
(2012年12月28日)

著書
『こちらごみ収集現場 いちころにころ?』

『出版の日本語幻想』

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12/27・ディートリッヒの豊かさ

2012-12-27 | 映画
12月27日は、ドイツが生んだ世紀の大女優、マレーネ・ディートリッヒの誕生日である。
マレーネ・ディートリッヒは、1901年12月27日、プロシア警察の将校を父親として、現在のドイツ、ベルリンで生まれている。
本名はマリア・マグダレーネ・ディートリッヒ。上にお姉さんがいて、父親は彼女らが子どものころに亡くなっている。
「マレーネ・ディートリッヒ」は、本名を縮めたもので、学校にいっていたころから使っていたらしい。
フランスの詩人ジャン・コクトーが、
「あなたの名は愛撫するように始まり、むちを打つ音で終わる」
とたたえた名前は、彼女の自作だった。

マレーネは、母親の意向で、小さいころからピアノとバイオリンを習っていて、音楽学校に入ったが、左手首を痛めて進路を変更、演劇の道に進む。母親は反対したらしい。
マレーネは各地を巡業してまわるレビュー団に入り、公演旅行にあけくれた。
舞台で踊るマレーネは、このころ、客の人気を得るため、下着をはかずに舞台に立っていたと聞いた。踊って、スカートのすそがひるがえる際、なかがちらっと見える、それを目当てに客が通ってくる、というねらいである。
たいした舞台根性で、この辺、彼女はショービジネスの核心がどういうものか、若くしてちゃんとつかみ、悟っていた、という気がする。

20歳をすぎてからは、演劇の舞台にも立つようになり、それを足がかりに映画にも出演する。
22歳のとき、映画の助監督だったルドルフ・ジーバーと結婚。マレーネは彼についてこう書いている。
「ルドルフ・ジーバーと毎日一緒に仕事をし、私は夢中になってしまった。そして、それは永遠に続くことになる。(中略)私はルドルフ・ジーバーを愛した。彼が私に映画の小さな役を世話してくれたり、何かと手を貸してくれたからではなく、彼がすばらしかったからである。ブロンドで、背が高く、賢くて、若い娘が望むすべてを兼ね備えていた」(『ディートリッヒ自伝』石井栄子他訳)
2人のあいだには、結婚の翌年、娘のマリアが誕生する。

ある日、舞台に立っていたマレーネを、たまたま映画監督のジョセフ・フォン・スタンバーグがみにきていて、彼女にほれこみ、彼がメガホンをとる映画への出演が決定する。それが「嘆きの天使」である。
マレーネが演じる役柄は、舞台で歌い、踊るレビューの女優という彼女の日常そのままで、彼女はこのなかで有名な劇中歌も歌う(自分が歌えるドイツ語の歌は、この「嘆きの天使」と第九の第四楽章だけだ)。
映画は大ヒットし、歴史に残る名作となった。
この映画の主演によって、一躍大スターとなったマレーネは、スタンバーグとコンビを組み、映画をつぎつぎと撮っていくことになる。
「嘆きの天使」は1930年、マレーネが28歳のころの映画だが、これが出来上がるとすぐに、マレーネはスタンバーグといっしょに米国ハリウッドへ引っ越していき、つぎのゲーリー・クーパーとの共演作「モロッコ」を今度はハリウッドで撮っている。
1930年は、ヒトラー率いるナチス党が総選挙で大躍進を遂げた年であり、ドイツ国内ではナチスによるユダヤ人迫害が勢いを増していた。
マレーネは翌1931年に、いったんドイツへ帰り、娘のマリアを不穏な母国から米国へと連れだしている。
以後、彼女は、夫ルドルフとはずっと別居して暮らすことになる。ルドルフはカトリック教徒で、離婚が認められていないこともあったが、彼らは離ればなれでも家族であり、ずっと連絡はとっていたようだ。
マレーネ・ディートリッヒは、米国移住後、スタンバーグをはじめ、ジャン・ギャバンなど数々の有名スターたちと浮名を流したが、それを遠くはなれたドイツにいる夫は、黙って見守り、家族の関係を保っていた。
当人の気持ちはわからないのだが、この辺、ルドルフ・ジーバーという人の懐の深さと、それからディートリッヒの(女性というより)人間としてのおおらかさについて考えさせるものがあって、興味深い。

マレーネ・ディートリッヒは、パラマウントが総力をあげて売りだし、大スターとなり、MGMのグレタ・ガルボと並んで、ハリウッドの二大美神として君臨した。
「間諜X27」「上海特急」「鎧なき騎士」「狂恋」「情婦」「八十日間世界一周」「ニュールンベルク裁判」「ジャスト・ア・ジゴロ」「マレーネ」……。
その存在感は、圧倒的だった。彼女がスクリーンに登場するやいなや、そこに独特の情感が流れだし、映画のなかから観客席へとあふれでてくるようだった。
ディートリッヒは「百万ドルの脚」といわれる脚線美を誇り、同時に「ハリウッドでいちばんスーツの似合う男優」と呼ばれるほど男装が似合った。

ナチスのヒトラーは、ディートリッヒの大ファンで、彼女に帰国してドイツ国民の女神となってくれるよう懇願したが、ディートリッヒは大のナチス嫌い、ヒトラー嫌いで、それをにべもなく断ったのはもちろん、あろうことか、第二次大戦がはじまると、みずから志願して、前線を慰問してまわり、連合軍兵士たちのナチス・ドイツ打倒を熱烈に応援した。
これはドイツ国民にとっては、裏切り行為だが、これはやはりマレーネ・ディートリッヒという人が、ナショナリズムという小さなくくりでしばることのできない、大きな人間愛の人だったせいだ、という気が自分にはする。
戦地では、危機一髪で難を逃れたこともあったらしい。おもしろいエピソードを彼女は前述の自伝のなかで披露している。
前線では水が貴重で、シャワーも何日かに一度浴びられるかどうかという状態だった。それで、慰問団の歌姫であるディートリッヒも、シャワーが使えなくて困った。
しかし、そこに兵士側からひとつの救済案が提案された。
ちらりと見せるなら、バケツ2杯分の水のシャワーが浴びられる。
2回ちらり、なら、バケツ3杯分。
キスを2、3回と、たっぷり見せるなら、バケツ4杯分。
髪を洗うには、バケツ4杯分は必要で、ディートリッヒはもちろん水と石けんのため、手段を選ばなかった。

ヨーロッパの戦争が終わったとき、ディートリッヒはド・ゴール将軍と、解放されたパリのシャンゼリゼ通りを行進した。
母国へ帰っていく兵士たちをのせた列車に向かって、ディートリッヒが、背中を兵士何人かに支えられながら、スカートのすそから伸びた脚を高く掲げ、さかんに脚を曲げたり伸ばしたりして見せる光景を、ドキュメント・フィルムで見たことがある。
あんなにうれしそうな顔をしたディートリッヒは、見たことがない。
米国へ避難していたイングリット・バーグマンたち映画俳優がヨーロッパへもどってくると、それとすれちがいに、ディートリッヒは米国へ引き上げた。
「戦争が終わった。それで、あなたたちは帰ってきたってわけね」
ディートリッヒは、もどってきた俳優たちにそういったという。
疎開していた一般市民を非難してもいけないと思うが、このことばに、ディートリッヒが戦争中にとった行動の非凡さがよくあらわれていると思う。

戦後のマレーネ・ディートリッヒは、米国政府からかけられた多額の未納税を支払うために、映画に出演したり、舞台で歌を歌ったりした。戦争慰問中も、彼女には刻々と税金がかけられていて、彼女は無一文なのだった(この辺は、給料がでるたびにせっせと映画会社の株を買いためていたグレタ・ガルボとずいぶんちがう)。
1970年には、来日して大阪万博のステージにも立っている。
74歳のころ、足を骨折したのを機に、ステージから引退。
晩年はパリで暮らし、1992年5月、パリで没した。
マレーネ・ディートリッヒが亡くなったとき、日本の週刊誌はいっせいに彼女の特集を組んだ。
そのグラビア写真で、亡くなったときの彼女のアパートの様子が紹介されていたが、自分がおもしろかったのは、彼女の部屋で見つかった雑誌のなかに載っていた、メリル・ストリープやカトリーヌ・ドヌーヴの写真だった。その写真の脚の部分に、ディートリッヒの字で、
「ugly(みにくい)」
とペンでなぐり書きしてあった。
メリル・ストリープはともかく、ドヌーヴの脚など、映画「終着駅」のなかで、相手役の男優が、
「きみのこの脚を見るために、ぼくは残ったのかもしれない」
というせりふをいう場面があるくらいきれいなのに、さすが百万ドルの脚をもつ美神は、自分を追ってくる者に対しては、きびしいなあ、と感心した。

この文章のなかに題名が登場した映画は、すべて自分がみたことがあるもので、何作かはDVDでもっている。
どれもいいけれど、とくにおすすめの傑作は「嘆きの天使」「モロッコ」「間諜X27」「上海特急」である。
いずれもスタンバーグ作品で、なぜいいのかというと、映画フィルム自体に、監督の女優に対する愛が焼き付けられている、そういう感じがするからである。
こういう、撮る側の出演者への愛が焼き付けられた映画というと、ほかにジャン・リュック・ゴダールが撮った、アンナ・カリーナ主演の「気狂いピエロ」が思い浮かぶ。

自分は、マレーネ・ディートリッヒの書いた本や、彼女について書かれた本も何冊かもっている。
自分にとってはディートリッヒは、ガルボ、ドヌーヴと並ぶ、銀幕の世界のミューズである。
ただ、ディートリッヒは、カルボやドヌーヴとちがい、単に映画女優として魅力的だっただけでなく、人間として生きるその姿勢が豊かで、美しかった。
世間体やプライドを気にせず、時々にそばにいる人間をひたむきに愛し、人類全体をも愛した、そういう人だったという気がする。
(2012年12月27日)

著書
『出版の日本語幻想』

『ポエジー劇場 子犬のころ』

『ポエジー劇場 大きな雨』
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12/26・巨人ミラー

2012-12-26 | 文学
12月26日は、米国の作家ヘンリー・ミラーの誕生日である。
『北回帰線』『南回帰線』を書いた小説家ヘンリー・ヴァレンタイン・ミラーは、1891年12月26日にニューヨーク州で生まれている。
父親は洋服の仕立屋だった。
やんちゃな子ども時代をニューヨーク市ブルックリンで過ごしたミラーは、18歳でニューヨーク私立大学に入学したが、ばかばかしくなって2カ月で退学。セメント会社に就職した。
給料をもらうようになってから、ミラーは性欲を全開にして、女と見れば手当たりしだいに関係をもつという性的遍歴をはじめる。売春婦からデパートの売り子、ダンサー、看護婦など、ニューヨークにいるさまざまな業界の女性に手をだし、母親ほども年のちがう女と同棲したりした。
その後、ミラーは、各地を放浪したり、父親の仕事を手伝ったりしていたが、26歳のとき、ピアニストの女性と結婚する。そして一女をもうけた。
家庭をもっても、ミラーの生活態度は変化せず、彼は相変わらずさまざまな職に就いたり離れたりを繰り返しながら、性愛と読書にあけくれていた。

32歳のとき、ニューヨークのダンスホールでジューンという女性と出会う。
2人は恋に落ち、ジューンはミラーにこう告げた。
「小説を書く以外のことをするな」と。
ミラーがやりたいことをやっているのを見るのが、自分の生き甲斐であり、ミラーがやるべきことは、書くことである、やりくりは自分が引き受けるから、ミラーはとにかく書くことに専念せよ、と。
ミラーは仕事をやめ、二度と就職せずに、創作に打ち込むことを決意する。
ミラーは妻と離婚し、ジューンと再婚する。
これによって、ミラーは小説家への第一歩を踏みだしたわけだが、それは地獄めぐりの旅のはじまりでもあった。
というのも、ミラーの原稿はなかなか売れず、極貧の生活がつづいたから。
また、ジューンは彼を励まし、彼の生活を助けはしたが、一方で、性的に自由奔放で、ミラーと夫婦でありながら、同性とも異性とも平気で関係をもったし、自分のからだを利用してお金を稼ぐこともしたからである。
ミラーはジューンと2人でもぐりの酒場を開いたり、いっしょにヨーロッパを1年かけて旅したりした後、ニューヨークへ帰った。
この時代のことを、後にミラーは長編小説として書いている。
それが、『セクサス』『プレクサス』『ネクサス』と続く「薔薇色の十字架」三部作である。

38歳のとき、ミラーは今度は単身フランスへ渡り、パリで暮らしはじめる。
はじめのうちは、ニューヨークにいるジューンから仕送りが届いたが、やがてそれも途絶えた。
ミラーは異国の都パリで困窮した。
が、どんな人間ともすぐに打ち解けて友だちになれる天性の才能を生かし、彼は同性や異性の世話になって暮らした。
ときにはたかりや物乞いをして街をさまよい、寝られるところならどこでも寝るという生活をつづけながら、身の回りにある紙という紙にパリでの生活をもとにした自伝的小説を書きつづけた。
「絶望的な行為だった」
と彼自身ふり返っていっているが、そうやって成ったのが、ミラーの処女長編『北回帰線』で、当初その小説は、発表されたものの3倍の長さがあり、3度書き直して現在の形になったという。

42歳のとき、『北回帰線』が出版され、その大胆な性描写によって一大センセーションを巻き起こし、毀誉褒貶の嵐のなか、本はベストセラーの第1位を長期間にわたって独走する大ヒットとなった。
これにより、ミラーは一躍、世界的作家と目されるにいたり、以後『南回帰線』『セクサス』『冷却装置の悪夢』『追憶への追憶』『わが読書』など、小説や評論を精力的に発表しつづけた。
1980年6月7日、ミラーは循環器系の障害が原因で亡くなっている。88歳だった。
ミラーは生涯に5回結婚していて、最後の妻は日本人のホキ・徳田である。

自分は学生時代からヘンリー・ミラーの大ファンで、オレンジ色と黒のツートーンカラーの全集を全13巻そろいでもっている。
全集に入っていないミラーの著作や、ミラー関係の本をほかに10冊くらいもっていて、英語のミラー本も何冊かもっている。
とはいっても、どれもすこししか読んでいなくて、ときどき思いだして拾い読みする程度である。
生きているうちに全部読みたいとは思っているけれど、むずかしいかもしれない。

自分が、生きているのがつまらなくなったり、元気がなくなったりしたとき、開いて読み返すのは『北回帰線』で、もう3回以上は読んでいると思う。
ミラーの援助者であり、愛人でもあったアナイス・ニンが『北回帰線』に序文を寄せていて、その冒頭にこうある。
「ここに一冊の本がある、もしもそういうことが可能ならばだが、実在への根源的なわれわれの欲望を復元させる、そういう本が」
(Here is a book which, if such a thing were possible, might restore our appetite for the fundamental realities.)
たしかに、この長編には、なかなかほかの本には見当たらない種類の「力」があると思う。

ヘンリー・ミラーの好きなところは、ほんとうのことを隠さずいってくれる、という感じのするところである。
小賢しいまねはしない、自分の恥ずかしい部分も、恥ずかしいと思いつつ、その恥ずかしい気持ちをも含めて、そのまま見せ、自分も他人も分け隔てなく並べて観察し、人間のほんとうのところはどうなのだ、とまっすぐ問いつづける、その原始人のような素朴な態度がえらいと思う。
ぶれない、どっしりとした巨人で、嫌いな人も多いかもしれない。
たとえば、つぎのような彼の文章に出会うとき、自分はしびれ、ひかれるのだが、とくに日本人など眉をひそめる人もすくなくないと思う。
「日々、人間は本能を押しつぶし、欲求をこらえ、衝動を、直感を、抑え込んでいる。人は、わなにかけられてはまりこんだ、このくそったれシステムから抜け出し、したいことをしたほうがいいのだ。でも、われわれはこう言う。『だめだよ、ぼくには妻や子どもがいる。そんなことは考えないほうがいいんだよ』かくして、われれは毎日自殺しつづけるわけだ。したいことをして失敗したほうが、誰でもない者になるより、ましだ。そうではないだろうか?」(『わが生涯の日々』)
(Every day, men are squelching their instincts, their desires, their impulses, their intuitions. One has to get out of the fucking machine he is trapped in and do what he want to do. But we say,"No, I have a wife and children. I better not think of it." That is how we commit suicide every day. It would be better if a man did what he liked to do and failed than to become nobody. Isn't that so?) from 'My Life and Times'

自分も、ミラーのいっていることに、すべてそのままうなずくわけではない。
それでも、自分にとっては、ミラーは、世界でも数少ない、そこにいてくれてほんとうによかった、と思える作家のひとりなのである。
ヘンリー・ミラーについては、「心あまりて言葉たらず」の業平朝臣で、うまく書けない。
(2012年12月26日)



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『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』(越智道雄選、金原義明著)
「北回帰線」「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。


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12/25・冬生まれのニュートン

2012-12-25 | 科学
12月25日はクリスマス。この日は、西洋科学史にそびえる巨人、ニュートンの誕生日。
木からリンゴが落ちるのを見て、万有引力を発見したという、あのニュートンである。

後に「ナイト」の称号を受けたので「サー」を付けて呼ばれるサー・アイザック・ニュートンは、1642年12月25日に、英国イングランドの、北海に面したリンカーンシャー州の寒村で生まれた。この日付は、ユリウス暦によるもので、現在広く使われているグレゴリオ暦だと、すこしずれる。

ニュートンの父親は、独立した自営農園を営んでいたが、ニュートンが生まれる3カ月前に亡くなっていた。
早産で生まれたニュートンは未熟児で、母親は、
「1クォート(約1.1リットル)のジョッキに入るくらい小さかった」
といっている。
ニュートンが3歳のとき、母親は経済的理由もあって再婚し、ニュートンは祖母に預けられた。
彼が10歳のとき、再婚相手が死亡し、母親はもどってきたが、再婚相手とのあいだにもうけた3人の子どもを連れての帰宅だった。
幼い異父きょうだいの世話に追われる母親が、ニュートンをかまわなかったのは想像に難くない。
12歳になったニュートンは、薬剤師の家に下宿して学校に通いだした。
学業成績は抜群だったが、からだが弱かった彼は、学校の友だちによくいじめられたらしい。
その後、ニュートンはいったん学校をやめて家の手伝いをしたこともあったが、また復学し、大学受験の準備を進め、ケンブリッジのトリニティ・カレッジに入学する。
ケンブリッジでは、大学のフェローの身の回りの世話をしたり、食事の給仕を手伝ったりするかわりに、学費が免除になる身分の苦学生だった。
当時180人いた学生のうち、ニュートンのような免費の苦学生は13人だけだったという。

大学でも猛勉強したニュートンは、卒業前に特待生の資格をとり、4年間、給付金付きの研究生の待遇を与えられた。
そうして、大学を卒業した22歳の夏、ペスト(黒死病)が流行する。
ロンドンの人口の4分の1が失われたといわれる大流行だったが、ケンブリッジ大学も閉鎖された。
しかたなく、ニュートンは故郷の村に帰り、研究と思索の日々を過ごした。そのときあの有名な「リンゴ」を発見するのである。

ニュートンの三大発見というと、
「万有引力」
「光の分析」
「微積分法」
の三つだが、故郷に帰っていたこのころ、ニュートンはすでにこれらをすべて発見していたといわれる。
おそるべき男である。
24歳でケンブリッジ大学へもどったニュートンは、フェローの資格を受け、研究費を受けられる身分になり、その後、教授職も手にする。

ニュートンは、猜疑心の強い、屈折したところのある人で、学界では人とぶつかることが多かった。
彼は、自分の発見をなかなか発表しなかった。
ニュートンの力学についての科学書『プリンキピア』は、この本によって、宇宙がそれ以前と変わったといわれる西洋科学史上の金字塔だが、彼はその主な内容を20代半ばには発見していながら、実際にそれを著したのは、40代半ばのことである。
世紀の発見をしても、それを隠していて、ほかの誰かが発表すると、急に目の色を変えて、
「自分こそが第一発見者だ」
と、訴えだすのだった。
メルカトールが発表した級数を、それよりずっと早く発見していたニュートンは、万有引力の発想についてロバート・フックと、微積分についてライプニッツと、先取権を争った。
ニュートンとライプニッツは、微積分の問題について手紙をやりとりしていたが、ライプニッツが自分の研究の進み具合をよく相手に伝えたのに対して、ニュートンは自分の手をうちをほとんど明かさなかったという。
陰険なところがあったらしい。

周囲から愛情を注がれることがすくなかった少年時代、同世代の人間にひけめを感じることの多い青年時代をすごした影響なのか、屈折したニュートンは、交際を苦手とし、研究に没頭することをよしとした。
そういう自分の性格を、自分でも持て余していたのかもしれない。
『プリンキピア』を出版した2年後には、ケンブリッジ大学の選出による国会議員となり、それ以降は、科学研究者というより、世間的な栄誉を楽しむ名士として生きた。
王立造幣局長、庶民院議員、王立協会会長、ナイトの位授与、グリニッジ天文台監察委員長などの職をつぎつぎと歴任した後、ニュートンは1727年、84歳で亡くなっている。
ケンブリッジのフェロー制度が、結婚を許可していなかったこともあり、ニュートンは生涯独身だった。

ニュートンの偉大さときたら、とんでもないもので、彼こそは西洋科学の王さまのような存在だったと思う。
ニュートン以前と、ニュートン以後とでは、この世の中はまったくちがうものになった。
ニュートン力学以降は、この宇宙はずっと、ニュートンの指示した通りに動いていた。
20世紀になって、アインシュタインの相対性理論や、ボーアらの量子力学が登場するまで、宇宙はニュートンの支配下にあった。
それくらい、すごい人だった。それを承知の上で、恐れ多くも書いています。

一方で、ニュートンは、自分のことを科学哲学者と見なしていて、錬金術や聖書研究にも、多く時間を割いていたらしい。
自分の使命をはっきりと感じ、それを信じることができた人、という気がする。
それにしても、未熟児として生まれ、からだが弱かった子どもが、研究にそうとうの集中力と忍耐力を発揮し、意地になり消耗することも多かったろうに、よくじょうぶに長生きしたと思う。
さすが、クリスマス生まれ、である。
クリスマスは、もともと、キリストの降誕祭を冬至にもってきたという説もあるくらいで、いちばん日が短いころである。そういう時期に生まれると、赤ちゃんは最初はつらいだろうけれど、それさえやりすごせば、だんだん日も長く、暖かくなってきて、めきめき体力がついて、その初速の勢いがけっこう長持ちするのかもしれない、なんて思うのであります。
(2012年12月25日)

『コミュニティー 世界の共同生活体』

『こちらごみ収集現場 いちころにころ?』

『ポエジー劇場 ねむりの町』
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12/24・Xマスの男ハワード・ヒューズ

2012-12-24 | 今日という日に爪を立てて
12月14日は、クリスマス・イヴ。自分は長らく、この「イヴ」というのは「前の夜」という意味だとばかり思っていたら、ちがうんですね。キリスト教の教会の暦では、一日のはじまりが日没からなので、だから教会暦の12月25日クリスマスは、わたしたちのいう24日の陽が落ちた瞬間からもうはじまっている。それでクリスマス・イヴは本来「クリスマスの夜」という意味なのだそうで。
半世紀以上もずっと知らずにいました。われながら驚き、あきれ、あ然。
さて、12月24日は、米国の大富豪ハワード・ヒューズの誕生日。1970年以降に生まれた人は知らない人がほとんどだと思うけれど、昔は世界にその名をとどろかせた富豪中の富豪で、とくに、人前に姿を見せない、謎の富豪として有名だった。

ハワード・ロバード・ヒューズ・ジュニアは、1905年12月24日に、米テキサス州ヒューストンで生まれた。これには異説もあって、誕生日を同年の9月24日とした記録が教会にあるそうだけれど、ハワード・ヒューズ本人が、親戚の証人付きで誕生宣誓証明書に署名して、
「自分は12月24日に生まれた」
といっているので、まあ、クリスマス・イヴ生まれでいいのだろう。

ヒューズの父親ヒューズ・シニアは、ドリルの刃の特許をもって、それを製造する会社を興した。そのドリルの刃は画期的な性能で、各地の石油採掘現場で活躍し、それをリースで貸し出す父親の会社に莫大な利益をもたらした。
ヒューズは11歳でラジオ発信機を自作し、12歳のときには原動機付き自転車を自作して、地元に新聞に写真が載るような少年だった。
ヒューズはお金持ちの息子だったが、16歳のときに母親を亡くし、18歳で父親を亡くし、孤児となった。
彼は相続した遺産、会社や特許権などをもって、西海岸カリフォルニア州へ引っ越し、自分の好きな事業をやりはじめた。

ヒューズは20代後半から、資金力にものをいわせて制作費を惜しげもなく注ぎ込んだ映画を作り、映画会社をもったりした。
そうしたハリウッド時代には、彼はベティ・デイヴィス、エヴァ・ガードナー、キャサリン・ヘップバーン、ジンジャー・ロジャース、ジョーン・フォンテーンなどといったそうそうたる女優たちとロマンスを繰り広げた。
ただし、映画女優たちとつかの間の遊びにふけるお金持ちのプレイボーイというよりは、一人ひとりの女優をほんとうに愛し、求婚したり、彼女らのキャリアを引き上げようと努力したりした、恋多き、愛人に尽くす男だったようである。
キャサリン・ヘップバーンにも、ジョーン・フォンテーンにもプロポーズしたが、受け入れられなかったらしい。

ヒューズは、一面、飛行機マニアで、飛行機の開発もしたし、自分で操縦もした。
30歳のころ、航空機製造会社を興し、38歳のころには航空会社を傘下におさめている。
航空関係の事業家でありながら、お忍びで航空会社のパイロットもやり、あるいは本名で飛行機の記録にも挑戦している。
31歳のとき、彼はニューヨーク=ロサンゼルス間を自分で操縦して飛び、7時間28分25秒という大陸横断飛行の新最速記録を樹立した。
そして1943年5月17日、38歳のヒューズはロシア製の飛行機を操縦して、カリフォルニアを飛び立った。民間航空管理局の視察官2名と、自分の部下2名、それに女優のエヴァ・ガードナーを機に乗せていた。機はいったんラスベガスに着陸して、女優ガードナーをおろし、ふたたび飛び立って、アリゾナ州とネヴァダ州の境にあるミード湖を目指したが、事故はその後に起きた。
搭乗していた視察官1名と、部下1名が死亡し、ヒューズ自身も頭部を深く割る重症を負った。
このときの治療に使った麻酔剤が、その後、中毒となり、ヒューズは神経をやられ、脅迫神経症の症状をきたすにいたった。
異常にバイ菌を恐れるようになり、すこしでも雑菌のありそうな場所には入って行けない。手を洗いはじめると、手から血がでるまでやめられないようになった。
それで晩年は、買いとったラスベガスのホテルの最上階に閉じこもって、公衆の面前へはいっさい姿を見せなくなった、と、そういう事情だったらしい。

1976年4月、70歳のヒューズは危篤状態におちいった。そして治療のため自家用飛行機で移動中、機内で息を引きとった。
飛行機好きだったから、空の上で死ねるのは、本望だったと思う。
彼の生涯を題材に、マーティン・スコセッシ監督が、レオナルド・ディカプリオ主演で映画『アビエイター』を撮っている。こちらについても、映画好きだった故人は草葉の陰で喜んでいるかもしれない。

ヒューズは、自分の興味のある分野に大胆に切り込んでいく事業家で、冒険好きの飛行機乗りだった。
映画女優との恋ばかり書いて、言及しなかったけれど、じつは彼は生涯に3度結婚している。
彼が亡くなった時点で、彼の総資産は15億ドルで、当時の合衆国の国内総生産の1190分の1にあたる額だったそうだ。
もともと大金持ちの子息だったとはいえ、18歳で両親を亡くしてからは、自分の力だけを頼りに道を切り開いていったわけで、まったくたいした男だと思う。
大会社創業家の御曹司として生まれて、引き継いだ会社のお金をつかいこみ、海外のカジノで何十億円もすってしまうのもいれば、ヒューズのような男もいる。
お金のつかい方云々でなく、自分の境遇に押しつぶされずに、自分の人生を突っ走って生きたのがえらいと思う。
自分がもしも彼のように18歳で孤児となり、莫大な遺産を相続したとして、彼ほどに自分として生きられたろうかと想像してみると、とてもそんな自信はない。
ハワード・ヒューズは、ただの富豪ではなかった。ただ者ではなかった。さすが、クリスマス・イヴに生まれた男である。
(2012年12月24日)

著書
『コミュニティー 世界の共同生活体』

『こちらごみ収集現場 いちころにころ?』

『新入社員マナー常識』
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12/23・王子さま、チェット・ベイカー

2012-12-23 | 今日という日に爪を立てて
12月23日は、平成の今上天皇の誕生日(1933年)だが、「トランペットの詩人」チェット・ベイカーの誕生日でもある。
ジャズ・ミュージシャン、チェット・ベイカーは、1929年12月23日に米国オクラホマ州に生まれた。平成天皇より四つ年上の男だった。

チェットの父親は、プロのギタリストで、その影響もあって、チェットは小さいころから、教会の合唱団で歌い、トロンボーンやトランペットなどの楽器に親しんでいた。
16歳のとき、学校をやめ、軍隊に入った。ドイツへ派遣され、そこで軍の音楽隊員として活動。
2年後に除隊し、ロサンゼルスの大学で音楽を勉強しはじめた。が、間もなく退学して、サンフランシスコへ移り、そこの軍OBのバンドや、夜のジャズ・クラブで演奏するようになった。
彼は、天才サックス奏者といわれたチャーリー・パーカーに認められていっしょにプレイしたり、ジャズの帝王と呼ばれたマイルス・デイビスとプレイしたりし、1950年代には絶大なる人気を誇った。

1960年代の後半、38歳のころ、彼は麻薬がらみのけんかで殴られ、前歯が折れ、唇に甚大な傷を負った。これによって、トランペットの演奏ができなくなり、一時はガソリンスタンドで働いて食いつないだこともあったという。
その後、義歯をいれ、演奏を復活した。

チェットは57歳のころ、日本にもきている。
そうして1988年5月13日、チェットはネーデルランド(オランダ)、アムステルダムのホテル・リンス・ヘンドリックの窓から地上に転落して死亡した。
彼の泊まっていた部屋からは、ヘロイン、コカインが見つかっており、解剖された彼の遺体からも同じ薬物が検出されたという。
死因は、頭部をはげしく打って損傷したためだったが、衣服に争った形跡がなく、自殺を裏付ける証拠にも乏しいことから、事故死として処理された。享年58歳だった。

自分はロック少年で、ジャズにはうとかった。
ジャズ音痴といってもいいかもしれない。
でも、興味はあって、学生のころから、ジョン・コルトレーンとか、マイルス・デイビスとか、名盤といわれているレコードを買って繰り返し聴いてみたし、当時は街にけっこう見かけたジャズ喫茶に入って、コーヒーを頼み、うつむいてチェーン・スモークしながら音楽に聴き入っているサラリーマンとか、頭を細かく揺すり白目を見せて聴いているOLだとかの客たちに混じって、ジャズ通のふりをして長らくすわっていたりもした。でも、
「ジャズっていいなあ」
とは、なかなか思わなかった。
自分の体質に合うジャズというと、せいぜいグレン・ミラーとかデューク・エリントンとかのビッグ・バンドくらいかなあ、と思っていた。のだが、かつてニューヨークへいったとき、グリニッジ・ヴィレッジのジャズ・クラブで、たまたま生前のアート・ブレイキーの生演奏を聴く機会があって、そのときは、
「ああ、ジャズっていいなあ」
とはじめて思った。
それからも、チャーリー・パーカーのものすごく速い演奏や、マイルスの鋭い緊張感ある演奏を聴いたのだが、あまりピンとこなかった。
まあ、自分は、ジャズには縁がないのだろう、と思っていた。

でも、あるとき、なにかのきっかけで、チェット・ベイカーの「いつか王子さまが(Someday My Prince Will Come)」というCDを手に入れて、聴いてみた。タイトルにひかれたのだったが、聴くと、これがよかった。
チェットの、肩の力のぬけた、ゆったりとして急がない、穏やかな演奏で、
「えっ、これもジャズなの?」
という感じだった。はじめて、からだにしっくりとくるジャズを見つけた、そう思った。

このCDは、いまも手元にあるので見てみると、1979年のデンマークのコペンハーゲンでのライブ録音らしい。
ということは、チェットがけんかでケガをし、義歯を入れて復活した後の演奏ということになる。
1950年代の録音も聴いたことがあるけれど、自分は、義歯を入れた後のチェットのほうが、体質的にしっくりくるような気がする。
チェットの年齢ということもあるかもしれない。
ある程度年齢がいって、枯れた、倦怠感のある感じがいいのである。
チェット・ベイカーは、歌もいい。「マイ・ファニー・バレンタイン」など、名唱とされるが、自分も彼の歌は好きである。
いま、久々にチェットの「アイム・オールドファッションド(I'm Oldfashioned)」を聴きながら、これを書いている。
久しぶりに音楽を聴いて、いい気分にひたれて、よかった。

余談ながら、小説家、村上春樹のデビュー作『風の歌を聴け』のなかに登場する架空の小説家、デレク・ハートフィールドは、ニューヨークのエンパイア・ステイト・ビルから飛び降りて死んだことになっているが、この挿話は、チェット・ベイカーから思いついたのではないかと自分は思っているのだけれど、これは見当ちがいだろうか?
(2012年12月23年)

著書
『ポエジー劇場 天使』

『出版の日本語幻想』
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12/22・数学の天才ラマヌジャン

2012-12-22 | 今日という日に爪を立てて
12/22・数学の天才ラマヌジャン

12月22日は、『蝶々夫人』を作曲したプッチーニ(1858年)や、日露戦争の英雄、東郷平八郎(1847年)の誕生日だが、インドの数学者、ラマヌジャンの誕生日でもある。
ラマヌジャンといっても、知らない人が多いだろうけれど、彼は南インドが生んだ数学の天才である。
以前、北野たけしが、テレビ番組に登場して、
「芸能界のラマヌジャン、ビートたけしです」
と自己紹介したことがあったが、果たしてどれだけの視聴者がその意味を理解したかどうか。

シュリニヴァーサ・アイヤンガー・ラマヌジャンは、1887年12月22日に、南インドのタミル・ナードゥ州クンバコナムに生まれた。
生まれたのは、貧しいバラモンの家だった。
バラモンとは、インドの特殊な身分制度カーストのうちでも、いちばん高い階層である。
一般にインドの南部、いわゆるドラヴィダ語圏は、カーストの低い人が多いと思う。
身分をきびしくわけるカースト制度は、インドのさらに北から南下してインド亜大陸へ移動してきたアリーア人たちが作ったものなので、もともと北インドにいたところ、アーリア人たちに押され、南へはじきだされたドラヴィダ人たちの身分は低くなるのである。
インダス文明は、このドラヴィダ人たちが、まだ北のインダス川あたりにいたころに作ったものだと推定されているが、アリーア人たちが押し寄せてインド亜大陸に居すわり、いまではアリーア人こそが由緒正しいインド人だという顔をしている。
だから、ラマヌジャンの家は、案外アーリア系だったのかもしれない。
身分は高かったが、彼の家は、近所の人に食べ物をわけてもらわなくては生きていけないくらい貧しかった。
ラマヌジャンは、極貧の、しかし、誇り高い一族の一人として生まれ、育てられたということである。

小さいときから学校の成績のよかったラマヌジャンは、15歳のときに『純粋数学要覧』という本に出会う。
英国の数学者、ジョージ・カーが書いた『純粋数学要覧』は、数学の定理が6000個近く並べられた本らしい。
もちろん、一つひとつの定理についてくわしい解説はない。
ラマヌジャンは、この本に夢中になり、そこに並んだ定理を片っ端から証明していった。
そうして、数学一辺倒の人間になっていった。
17歳のとき、ラマヌジャンはクンバコナム大学に入学するが、数学しかやる気がないために、1年で退学。
ほかの大学に入り直したが、そちらも退学。
学生でなくなっても、ラマヌジャンは数学だけはせっせとつづけ、自分で発見した定理をノートに書きためていった。

21歳のとき、ラマヌジャンは職につかぬまま10歳の娘と結婚し、その後、睾丸がふくれあがる病気にかかった。その治療には外科手術が必要だったが、彼にはそのお金がなかった。
しかし、無料で手術してくれる外科医と出会い、その医師の好意により手術を受けることができた。

彼は家庭教師をしたり、経理の仕事をしたりして食いつなぎながら、数学の論文を書き、それが数学の学会誌に掲載された。
ラマヌジャンはさらに自分の発見した定理を、インドの学者に見せ、宗主国であった英国の学者にも送った(インドは英国の植民地だった)。
こうした手紙はほとんど無視されたが、送りつけられた学者のひとり、ケンブリッジ大学の学者、ゴッドフレイ・ハーディはそれに目を通した。ハーディは、ラマヌジャンの定理の数々に驚いた。
「これまで、これにすこしでも似たものを見たことがない」
ハーディは、これらの定理が真実なのにちがいないと考えた。なぜなら、もしもそれが真実でなかったとしても、そんな定理をでっちあげる想像力をもった人間などこの世に存在しないだろうから。
さっそく、ハーディはラマヌジャンを英国へ呼び寄せるよう手配した。

ところで、バラモンには戒律のしばりがあって、海を渡ってはいけないのだそうだ。
その戒律を破ると、バラモンのコミュニティーから追放されるのだという。
それで、ラマヌジャンの周囲では、
「行ってはいけない」
「いや、行くべきだ」
とのすったもんだがあって、結局ラマヌジャンとその支持者が、ヒンドゥー教の神さまの「行ってよろしい」というご宣託を受け、ラマヌジャンは晴れて渡英したのだった。

ラマヌジャンは、ケンブリッジに約5年間いた。
ハーディは無神論者で、数学においては証明の厳格さを重んじていた。
一方、ラマヌジャンは信仰心厚く、数学においては直感に頼っていた。
それで、二人の共同作業は、ラマヌジャンが毎日もってくる新定理の数々を、ハーディが証明し論文を書く、というものになった。
しかし、暑い南インドと、寒い英国では気候がまったく異なり、ラマヌジャンは宗教上の理由から英国人たちと同じ食事をとらず栄養が不足がちで、さらに異国の慣れない習慣と人間たちに囲まれたストレスから、ついに病気で倒れる。
ラマヌジャンは、王立協会フェローとなる栄誉を得るが、結局、31歳のときにインドへ帰っていった。
その凱旋は地元に人々に大歓迎されたが、彼の健康は回復することなく、ラマヌジャンは32歳の若さで世を去った。
結核だったのではないかと推定されているらしい。

ラマヌジャンが生まれたクンバコナムの町は、チェンナイ(マドラス)から南へ270キロメートルほどいったところにある。
自分はクンバコナムには行かなかったけれど、タミル・ナードゥ州にはしばらく滞在していたことがある。
さすが南インドで、暑くて湿気が高い。
海ばたに魚が並べて干してあっても、湿気が高いし、スコールもあって乾ききらず、強くにおっている、そんなところだった。
あの蒸し暑い土地に、そんなにすごい独創的な天才が生まれたとは、感慨深いことである。
夭逝した数学者というと、19世紀初頭のフランスに生きたエヴァリスト・ガロアが思いだされる。
群論で知られるガロアは、子どものころ、難解な数学書をまるで小説でも読むように読んでいたという神童で、21歳のとき、決闘をして死んでしまった。
ガロアのノートも、途中の証明がすっとばしてあることが多く、後世の学者がそれを証明するのに苦労した、と聞いた。
ガロアの伝記は高校生のときに読んで、いまもその本をもっているが、ガロアより、ラマヌジャンのほうが、より天才的、霊感的と言えそうだ。
自分は数学は、文系にしてはそこそこできたと思うが、それも高校3年までで、いまとなっては中学3年の問題が解けるかどうかといったレベルだと思う。
数学ができると、「頭がいい人」という感じがする。
実際、頭がいいのだろう。うらやましい。
でも、頭がよくて、数学が天才的にできても、それで幸せかというと、本人はなかなかそうばかりでもないようだ。
(2012年12月22日)


著書
『ポエジー劇場 大きな雨』

著書
『ポエジー劇場 子犬のころ2』

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