1日1話・今日の話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『誇りに思う日本人たち』
『ビッグショッツ』
『黒い火』ほか

3月12日・ニジンスキーの跳躍

2017-03-12 | 芸術
3月12日は、中国や中東諸国のネット検閲に抗議する「世界反サイバー検閲デー」。この日は、作家ゴーゴリ(1809年)の生まれた日だが、舞踏家ニジンスキーの誕生日でもある。

ヴァーツラフ・ニジンスキーは、1890年、ロシア(現ウクライナ)のキエフで生まれた。両親ともにポーランド系のダンサーだった。ヴァーツラフは、三人きょうだいで、上に兄、下に妹がいた。彼は10歳でサンクトペテルブルクの帝国バレエ学校に入学。入学して1年後には、彼は踊り手としての才能を認められて、学校の寄宿生となった(妹も2年遅れで同校に入学)。彼が14歳の年に日露戦争が勃発した。
17歳で、学校を卒業したニジンスキーは、サンクトペテルブルクで高給をとるプロ・ダンサーとして活躍した。そして芸術プロデューサーのセルゲイ・ディアギレフと愛人関係(男色関係)を結んだ。ディアギレフ一座は、フランス、パリでバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)を旗揚げした。バレエ・リュスは話題を呼び、大成功した。主演のニジンスキーは「バラの精」で喝采を浴び、「牧神の午後」「春の祭典」では賛否両論の嵐を巻き起こした。モダン・バレエがはじまった瞬間だった。
23歳のとき、ニジンスキーは、彼の「追っかけ」だった裕福な家庭出身のハンガリー女性と結婚した。これによって「恋人」ディアギレフとの仲は決裂。一座から追いだされたニジンスキーは、自分のバレエ団を立ち上げるが、興行は首尾よく運ばなかった。
1919年、29歳のとき、ニジンスキーは精神異常の症状を示した。痴呆症状を示し、幻覚を見た。彼の耳には銃声が聞こえ、その目には死んでゆく兵士たちが見えるのだった。
32歳のとき、彼の発狂に責任を感じていたディアギレフが会いに来たが、もはやニジンスキーは彼を識別できなかったという。ニジンスキーは、めったに口をきかなくなった。
第二次大戦がはじまり、ナチス・ドイツが、ユダヤ人とともに精神病患者の絶滅にとりかかったころ、ニジンスキーは、ドイツ軍の勢力下にある町の病院に偽名で入院していた。その後、ソ連軍が優勢となり、町にロシア兵が押し寄せて来た。病院に銃をもったロシア兵があらわれると、ニジンスキーはロシア語でこう叫んだという。
「静かにしろ」
ロシア軍部は、ニジンスキーとわかると、この天才舞踏家を丁重にあつかった。
ニジンスキーは正気に帰らぬまま、1950年4月、英国ロンドンで没した。60歳だった。

ニジンスキーの跳躍は、信じられないくらい高く、長いあいだ、宙に浮いていたという。
ジャン・コクトーはこう書いている。
「ニジンスキーは平均以下の背丈しかなかった。精神の点でも、肉体の点でも、彼は職業的歪曲そのものであった。モンゴル系の彼の顔は、非常に長く非常に太い頸で胴体につながっていた。(中略)(彼のからだは)ひとたび舞台に登ると、すらりと細くなった。彼の背丈は伸び(彼のかかとは決して床につくことはなかったから)、その両手は彼のしぐさを飾る枝や葉となり、彼の顔は燦然と輝いた。」(朝吹三吉訳「存在困難」『ジャン・コクトー全集 第五巻』東京創元社)

「私は神であり人間である。私は心を持った動物である。私は肉体である。しかし私は肉体から生まれたのだ。神は肉体を作った。私は神である、私は神なのだ。神なのだ。……」(市川雅訳『ニジンスキーの手記』現代思潮社)
(2017年3月12日)


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2月3日・ガートルード・スタインの凝視

2017-02-03 | 芸術
2月3日は、哲学者シモーヌ・ヴェイユが生まれた日(1909年)だが、作家ガートルード・スタインの誕生日でもある。

ガートルード・スタインは、1874年、米国ペンシルヴァニア州のアレゲニーで生まれた。
「スタイン」の名前から察せられる通り、ユダヤ系で、父親は羊毛を扱う商人で、鉄道会社に投資して潤沢な資産を築いていた。ガートルードは、7人きょうだいの末っ子で、当初5人きょうだいだったのが、上の2人が死んだため、急遽もうけられた下の2人のひとりが彼女だった。
長男のマイクが資産運用にたけた人物で、彼らきょうだいはその運用利益で、なに不自由なく暮らしていける身分だった。妹のガートルードは医学学校で勉強していたが、途中で退学。すぐ上の兄レオが住んでいたパリへ引っ越していった。これが1903年、29歳のとき。
レオとスタインのスタイン兄妹は、サロンを開き、そこには大勢の芸術家たちが集まった。画家のマチス、ピカソ、ブラック、詩人のアポリネールなども出入りしていた。
「20世紀でもっとも重要な肖像画」と言われるピカソの「ガートルード・スタインの肖像」が描かれたのはこのころである。
ガートルード・スタインは新進画家たちの絵画を収集するとともに、彼ら現代芸術家たちを擁護する論陣を張り、「これが芸術家か」と反発の強かった一般の人たちに、しだいに新しい20世紀芸術を受け入れ、認めさせる啓蒙家的な役割を果たした。
スタインが買い集めた絵画は、しだいに値が上がり、ついにスタインも手が届かないくらいに高価になった。
執筆活動も旺盛で、著作に小説『三人の女』、評伝『アリス・B・トクラスの自伝』『みんなの自伝』などがある。
第二次大戦中は、占領されたフランス国内にいたが、かろうじて迫害をまぬがれた。
1946年7月、胃ガンのため、ヌイイ=シュル=セーヌで没した。72歳だった。

ヘミングェイの処女小説『日はまた昇る』の扉にエピグラフとして、スタインのこんなことばか引用してある。
「あなたがたはみなうしなわれた世代の人たちです。(You are all a lost generation.)」
パリに住んでいたころ、作家の卵だったヘミングウェイに作文の指導をしたのは、スタインだった。スタインはヘミングウェイにこう教えた。
「もっと簡潔に。もっと筋の展開を早く」
「ヘミングウェイ、意見は文学ではない」
彼女の指導のおかげで、ヘミングウェイは、あのきびきびとしたハードボイルドと呼ばれる文体を作りだした。その影響はハメット、チャンドラーへと受け継がれてゆく。

ピカソの「ガートルード・スタインの肖像」のスタインが、じっと、にらんでいるのは何か? それは「美」だろう。19世紀までは、芸術家が美の女神に祈りを捧げ、一心不乱に作品に打ち込めば、おのずとそこに「美」が生まれた。しかし、20世紀に入るとそうはいかなくなった。芸術家は、まず創作する前に「美」をじっとにらみすえ、悩まなくてはならなくなった。これが「ガートルード・スタインの肖像」が重要であるゆえんだ。
(2017年2月3日)



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12月15日・エッフェル塔の美意識

2016-12-15 | 芸術
12月15日は、エッフェルの誕生日。フランスのパリにある、あのエッフェル塔を作ったエッフェル社のエッフェルである。

アレクサンドル・ギュスターヴ・エッフェルは、1832年、フランス中部のディジョンで生まれた。アルザス地方からやってきたドイツ系の家系で、父親は退役軍人で、母親は石炭関係の会社を経営していた。
小さいころからものを作ることが好きだったアレクサンドルは、工芸学校を出て技師免許をとり、鉄鋼会社や鉄道設備会社で働き、鉄橋建設などにたずさわった後、34歳のとき、エッフェル社を設立。国内外の駅舎ホール、工場、鉄道高架橋、天文台などさまざまな建造物を作った。
そして、55歳のときにエッフェル塔建設に着手。塔の設計は、エッフェル社の社員だったステファン・ソーヴェストルとモーリス・ケクランの二人が担った。約2年をかけて完成した。
エッフェルはそのほかにも、ポルトガルのドウロ川にかかるマリア・ピア橋や、ハンガリーのブダペストの駅舎など、美しく、モダンなデザインの建造物を作った後、1923年12月、パリの自宅で没した。91歳だった。エッフェルはベートーヴェンの交響曲第五番「運命」を聴きながら息を引きとった。

1889年のパリ万国博覧会にあわせて建てられたエッフェル塔は、高さが312メートルあり(アンテナを入れるとさらに高い)、米ニューヨークのクライスラービルにぬかれるまで、約40年間にわたって世界でもっとも高い建造物だった。

エッフェル塔の姿には、フランスらしい、ある美意識が感じられる。
いちばんのポイントは、単純にたてに棒状になっていず、塔の足元が四つに割れている点だろう。エッフェル塔は4本に別れた脚で支えられていて、塔の真下は、だだっぴろい広場になっている。だから、塔にのぼるためには、4本の脚の部分にあるいずれかのエレベーターに乗って、斜めにのぼっていくことになる。
一度のぼったことがあるけれど、あの斜めにのぼるエレベーターのなかは、なんともいえない不思議な気分だった。もちろん、東京タワーのように、真下からまっすぐ上へのぼる恰好のほうが、構造上安定するし、技術的にもかんたんなのだろうけれど、それをあえて、技術により困難なものにし、それに挑んだところがにくい。アーチを作っているあの4本の脚がちょっと短足な感じでユーモラスで、そこがまたよい。
万博に間に合わせるため、尋常でない急ピッチの工事日程を要求されたにもかかわらず、エッフェル塔はひとりの死者もださずに完成された。

鉄の時代の到来を告げる、エッフェルはモダニズムの寵児だった。
(2016年12月15日)


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12月3日・篠山紀信の大

2016-12-03 | 芸術
12月3日は「ワン、ツー、スリー」というマジシャンの声かけにちなんで奇術の日。この日は映画監督ジャン=リュック・ゴダールが生まれた日(1930年)だが、写真家の篠山紀信(しのやまきしん)の誕生日でもある。

篠山紀信(本名の読みは、しのやまみちのぶ)は、1940年、現在の東京の新宿じ生まれた。
父親は真言宗の寺の住職で、紀信は住職だった。
少年時代はとくに写真好きでもなかった紀信は、大学受験のとき、希望大学に進めず、衝動的に大学の写真学科に願書を出した。そして入学後、カメラマンを志し、大学に通いながら、写真の専門学校にも通った。在学中に広告制作会社に入社し、広告写真の章を受賞。華々しくデビューした。
大学卒業後、写真の賞を受賞した後、28歳の年に独立。フリーカメラマンとなった。
「カメラ小僧」として赤塚不二夫のマンガ「天才バカボン」にも登場し、山口百恵の顔を作ったと言われた。山口百恵のほか、多くの芸能人、有名人の肖像写真を撮りながら、雑誌「週刊朝日」の表紙で素人の現役女子大生をとり上げて話題を呼んだ。
51歳のとき、写真集「Water Fruit 不測の事態」を発表。これは、女優の樋口可南子をモデルに陰毛まで印刷したもので、表現の枠を大きく広げる歴史的作品となった。
以後、つねに時代を最先端を鮮やかに切り取った話題作を提供しつづけている。

篠山紀信は、それ以前は写真作品の後ろに隠れていたカメラマンが、撮影者みずから写真の前に出てきた最初のカメラマンの代表である。篠山は大きくふくらませたアフロヘアーにカメラを構えた自分のキャラクターを強く打ち出し、アンダーグラウンドでなく、つねにメジャーな題材を追い、メジャーな媒体で活動してきた。

「カメラ小僧」篠山紀信が、マンガ雑誌のグラビアを飾っていたころ、彼は、まだあちこちで走っていた機関車(SL)を写してマンガ誌に載せていた。その後、篠山紀信は歌手の南沙織と結婚し、「GORO」誌など、若者向け、大人向けの媒体で活躍するようになった。

南沙織と結婚し、宮沢りえをはじめとするおびただしい数の女性ヌード写真を撮った「篠山紀信」の名前を聞くと、つい嫉妬の情が先に立つが、やはり偉大な人である。
「Water Fruit」でヘアヌードの時代の扉を開いた功績はとんでもなく大きい。すでに押しも押されもしない一流写真家だったとはいえ、それでも、勇気のある行為、体制に戦いを挑む行為だった。それからみんな彼をまねしだした。

SM作家の団鬼六が、かつて出版社でSM写真集を企画していたとき、誰かの紹介で篠山紀信が打ち合わせに現れた。当時からすでに有名な大家だった篠山を知らなかった団は、
「きみも仕事がやりたいんなら、自分の撮った作品の見本をもってきなさい」
と言った。すると、篠山は怒ることなく、はい、わかりましたと素直に引き下がり、つぎの機会にちゃんと作品見本をもってきたという。後で篠山紀信がすでに大家であると知り、団は謝ったそうだが、そういうところに篠山の大人物がある。
(2016年12月3日)



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6月25日・ガウディと住人

2016-06-25 | 芸術
6月25日は、漫画家、本宮ひろ志が生まれた日(1947年)だが、アントニ・ガウディの誕生日でもある。

アントニ・ガウディは、1852年、スペインのカタルーニャ地方、タラゴナで生まれた。父親は銅製の鍋や釜を作る銅細工師で、アントニは、5番目の子だった。
小さいころ病弱だったアントニは、絵を描き、学校の演劇の際に大道具や小道具を作るのが好きな子どもだった。
彼は21歳からバルセロナで建築を学び、いくつかの建築事務所で働き、26歳のとき建築士の免許を得、パリ万博に出典する手袋の店のためにショーケースをデザインした。それがたまたま実業家エウセビオ・グエルの目に止まった。グエルは、グエル邸、コロニア・グエル教会地下聖堂、グエル公園などの設計をガウディに依頼した。そして1883年、31歳のとき、サグラダ・ファミリア(聖家族教会)の専任建築家に推薦された。
サグラダ・ファミリアは、すべて個人の寄付によって建設費を集めて建てようと計画された教会で、すでにべつの建築士が無償で引き受け、着工していた。でも、意見がぶつかり、建築士が下りてしまっていた。その後任として使命されたのがガウディで、彼は設計を一からやり直し、巨大な教会建築に取り組んだ。
1926年6月、バルセロナでホームレスらしい風体の男が路面電車にはねられた。男は、その3日後に死亡した。それがガウディだった。73歳だった。生涯独身だったガウディは、身なりに気をつかわず、彼と気づかれず、手当てが遅れたのだった。
彼がすべてを注ぎ込んで没頭したサグラダ・ファミリアは、着工から百年以上たった現在なお建造中である。

ひもに重りをつけてたらした形を、上下さかさにひっくり返した造形。
その土地の地形をなるかけ生かし、石などその場所でとれた材料を生かした建造。
角のない、すべてが曲面で構成された建築物。
ガウディの建築は、それまでに類を見ない、強烈に個性的なものだった。
いまでは日本でもガウディは有名で、ガウディの作品と聞けば、みんながこぞってちやほやほめるけれど、はじめて見たとき、とてもそういう感想はもたなかった。
個性的ではあるけれど、異様で気味が悪かった。レンガがいまにも崩れてきそうな感じで組み合わされた教会の天井など、悪趣味ではないか、と。
ガウディが造ったバルセロナの「カサ・ミラ」アパートなど、おどろおどろしい感じで、なかに住んでいる人はどんな気持ちかしら、といぶかっていた。日々不安定な気持ちでいたりしないかしらと。
先日、テレビを見ていたら、「カサ・ミラ」賃貸アパートにテレビカメラが入り、住人にインタビューしているのが映った。
その住人は品のよさそうな老婦人で、とても住み心地がいいと言っていた。天井にガウディが描いた絵があったりして、芸術に囲まれていて、気持ちがよい、と。テレビが映し出す室内も、明るくて、なかなか感じがよかった。現在は世界遺産に登録されているそうだ。
外見は異様な感じでも、ガウディ建築は案外暮らしやすいのかもしれない。
(2016年6月25日)


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6月8日・秋山庄太郎のポリシー

2016-06-08 | 芸術
6月8日は、音楽家、シューマンが生まれた日(1810年)だが、写真家の秋山庄太郎の誕生日でもある。

秋山庄太郎は、1920年、東京の神田で生まれた。生まれて間もないころに家族は横浜へ
引っ越し、3歳のとき、関東大震災にあった。
震災後、東京へもどり、小中学校に通った。中学校のとき、近所に好きな女の子ができて、その子の顔をいつもながめていられるように写真を撮ろうと、はじめて秋葉原でカメラを買った。
ところがそれをすぐにぶつけて壊してしまい、ドイツ製のバルディというカメラに買い換えた。そのバルディをもって修学旅行へ行き、その際、奈良で撮った逆光に輝くすすきの写真の出来ばえに自分で感心し、それから写真がおもしろくなって、熱心に撮るようになった。
高校と大学時代には写真部に在籍し、耽美的な作風の写真を撮った。
23歳のとき、大学卒業に際して、初の写真集を自費出版することを決意。愛用野カメラをたたき売って費用を作り、150部を作った。1冊あたり7円50銭の費用をかけ、友人に1冊5円で売って、売り上げは200円。売り上げはふた晩で飲んで消えたという。
陸軍に召集され、中国大陸を転戦した後、25歳のとき、長野で敗戦を迎えた。
26歳のとき、東京の銀座に写真館を構えたが、飲みに来る客ばかりで、写真の客が来ないため、1年で閉鎖。近代映画社の写真部に就職して、会社員のカメラマンとなった。
同社に4年ほど勤めた後、退社。31歳でフリーとなり、さまざまな雑誌の表紙写真を担当し、個展を開き、写真集を出した。宇野千代が出していた雑誌「スタイル」でも仕事をしていた。俳優や作家、政治家、など、さまざまな人物ポートレイトのほか、ヌード、植物、風景、静物などを撮る職人的写真家として活躍。日本を代表する写真界の大御所だった。
2003年1月、脳梗塞で倒れ、搬送された東京都内の病院で没した。82歳だった。

原節子、高峰三枝子の若いころから、夏目雅子、早見優、南野陽子の時代まで網羅し、加賀まり子や大原麗子のセミヌードまで撮っている秋山は、岸信介、佐藤栄作の兄弟から、福田赳夫や中曾根康弘、あるいは、若いころの石原慎太郎、田中角栄と娘時代の田中真紀子の父子ツーショットまで撮った、戦後映像の生き証人だった。

秋山が撮った花や木々の写真には、わざとピントをずらして、ぼかしたものもたくさんある。ピントがどうこうよりも、最終的な美しさが問題なのである。

「写真に撮るときは目で見たときより美しくならないといい写真にならない」(秋山庄太郎「花の写真を」『写真家 秋山庄太郎』学研パブリッシング)
大酒飲みだった秋山庄太郎は、写真のよさが、見る人にわかってもらえる、そういう美しさを追求した写真家だった。だから、秋山作品は難解な感じはしない。まだカメラという機械が高価で扱いが難しかった時代の草分け的職人だった。

秋山庄太郎の座右の銘は、釈宗演という禅僧のことばで、こういうものだった。
「独居如接客、接客如独居」(独り居ること客に接するが如く、客に接すること独り居るが如し)
(2016年6月8日)


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3月22日・マルセル・マルソーの啓示

2016-03-22 | 芸術
3月22日は、政治学者、丸山眞男が生まれた日(1914年)だが、パントマイムの第一人者マルセル・マルソーの誕生日でもある。

マルセル・マルソーは、1923年、仏国ストラスブールで生まれた。本名は、マルセル・マンジェル。両親はユダヤ人で、肉屋をしていた。
5歳のとき、マルセルは母親に連れられて、チャーリー・チャップリンの映画を観にいき、映画を観て感激し、マイムの世界へ進みたいと思うようになった。
第二次世界大戦がはじまると、マルセルが16歳のとき、一家はフランス中西部の街リモージュへ逃れた。戦中、マルセルはユダヤ人であることを隠すため、マルセルという苗字を名乗り、弟とともにレジスタンス運動に従事した。
彼が21歳のとき、父親がドイツのゲシュタポに捕らえられ、アウシュビッツ強制収容所に送られ、殺害された。
戦後、マルセルは23歳のとき、サラ・ベルナール劇場の演劇学校に入学。同校の同級生に、ジャン=ルイ・バローがいて、その後、マルセルが舞台劇へ進んだのに対し、バローは映画へ進み、映画『天井桟敷の人々』に主人公バチスト役で出演し、初期のムーンウォークを披露した。
マルセルは肉体の動きだけで表現する無言劇をはじめ、24歳のときには、彼のトレードマークとなる「ビップ」というキャラクターを創造。くたびれたシルクハットに、白く塗った顔、胸に横縞の入ったシャツに白いズボンといういでたちでパントマイムを演じ、パントマイム専門の劇団を立ち上げ、公演を開始した。
32歳のころからは世界各国を公演してまわるようになり、日本にも来日した。
44歳のとき、ジェーン・フォンダ主演の映画「バーバレラ」に出演するなど、映画出演をし、絵本を出版した後、 2007年9月、心臓発作のため、フランス中南部の街カオールで没した。84歳だった。
マイムの可能性を広げ、マイムを世界に広めたパントマイムの第一人者だった。

マルセル・マルソーの弟子である英国のパントマイマー、リンゼイ・ケンプの来日公演を観たことがある。シェイクスピアの「春の夜の夢」のパントマイム版だった。

そのリンゼイ・ケンプにマイムを教わったのがデヴィッド・ボウイで、ボウイは1970年代前半のグラム・ロック時代の初期には、マーク・ボランの前座として、パントマイムを演じていた。だから、ボウイは、マルセル・マルソーの孫弟子にあたる。

人間は、しゃべることもできるし、歌うこともできる。ドラムを叩いたり、笛を吹いたりもできる。でも、あえて音を出すことを排除して、からだの動きだけで表現することで、表れてくるものがある。マルソーが追求した無言劇、パントマイムの道はその行き方だった。
いろいろできることをあえて禁じ、やることを限定することで、かえって表現が豊かになる。マルソーの行った道は、とても大事なことを教えてくれているという気がする。
(2016年3月22日)





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3月12日・ニジンスキーの跳躍

2015-03-12 | 芸術
3月12日は、中国や中東諸国のネット検閲に抗議する「世界反サイバー検閲デー」。この日は、作家ゴーゴリ(1809年)の生まれた日だが、舞踏家ニジンスキーの誕生日でもある。

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(2015年3月12日)


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12月3日・篠山紀信の大人物

2014-12-03 | 芸術
12月3日は「ワン、ツー、スリー」というマジシャンの声かけにちなんで奇術の日。この日は映画監督ジャン=リュック・ゴダールが生まれた日(1930年)だが、写真家の篠山紀信(しのやまきしん)の誕生日でもある。山口百恵の顔を作ったと言われるカメラマンである。

篠山紀信(本名の読みは、しのやまみちのぶ)は、1940年、現在の東京の新宿じ生まれた。
父親は真言宗の寺の住職で、紀信は住職だった。
少年時代はとくに写真好きでもなかった紀信は、大学受験のとき、希望大学に進めず、衝動的に大学の写真学科に願書を出した。そして入学後、カメラマンを志し、大学に通いながら、写真の専門学校にも通った。在学中に広告制作会社に入社し、広告写真の章を受賞。華々しくデビューした。
大学卒業後、写真の賞を受賞した後、28歳の年に独立。フリーカメラマンとなった。
「カメラ小僧」として赤塚不二夫のマンガ「天才バカボン」にも登場し、山口百恵のほか、多くの芸能人、有名人の肖像写真を撮りながら、雑誌「週刊朝日」の表紙で素人の現役女子大生をとり上げて話題を呼んだ。
51歳のとき、写真集「Water Fruit 不測の事態」を発表。これは、女優の樋口可南子をモデルに陰毛まで印刷したもので、表現の枠を大きく広げる歴史的作品となった。
以後、つねに時代を最先端を鮮やかに切り取った話題作を提供しつづけている。

篠山紀信は、それ以前は写真作品の後ろに隠れていたカメラマンが、撮影者みずから写真の前に出てきた最初のカメラマンのひとりだと思う。篠山は大きくふくらませたアフロヘアーにカメラを構えた自分のキャラクターを強く打ち出し、アンダーグラウンドでなく、つねにメジャーな題材を追い、メジャーな媒体で活動してきた。

「カメラ小僧」篠山紀信が、マンガ雑誌のグラビアを飾っていたころ、自分は彼の名前を知った。そのころ彼は、まだあちこちで走っていた機関車(SL)を写してマンガ誌に載せていたと記憶する。その後、篠山紀信は歌手の南沙織と結婚し、「GORO」誌など、若者向け、大人向けの媒体で活躍するようになった。学生のころ、自分のテニス仲間の女子学生が「週刊朝日」の表紙に載ったことがある。

南沙織と結婚し、宮沢りえをはじめとするおびただしい数の女性ヌード写真を撮った「篠山紀信」の名前を聞くと、どうしても嫉妬の感情が先に立ってしまう。でも、やはり偉大な人である。
「Water Fruit」でヘアヌードの時代の扉を開いた功績はとんでもなく大きい。すでに押しも押されもしない一流写真家だったとはいえ、それでも、勇気のある行為、体制に戦いを挑む行為だったと思う。自分は発売直後に買ったこの写真集をいまでももっている。それからみんなまねしだした。

あと、篠山紀信がえらいと思うのは、こんな話である。SM作家の団鬼六が、かつて出版社でSM写真集を企画していたとき、誰かの紹介で篠山紀信が打ち合わせに現れた。当時からすでに篠山紀信はビッグネームだったが、篠山を知らなかった団は、
「きみも仕事がやりたいんなら、自分の撮った作品の見本をもってきなさい」
というようなことを言った。すると、篠山は怒ることなく、はい、わかりましたと素直に引き下がり、つぎの機会にちゃんと作品見本をもってきたという。後で篠山紀信がすでに大家であると知り、団は謝ったそうだが、そういうところに篠山の大人物を自分は感じる。
(2014年12月3日)




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10月22日・ロバート・キャパのセンス

2014-10-22 | 芸術
10月22日・ロバート・キャパのセンス

10月22日は、大女優、サラ・ベルナールが生まれた日(1844年)だが、写真家ロバート・キャパの誕生日でもある。

ロバート・キャパは、1913年、ハンガリーのブダペストで生まれた。本名はフリードマン・エルネー・エンドレ。ハンガリーでは、日本と同様、姓名の順に書くので、彼のファーストネームはエンドレである。ユダヤ系の家系で、母親は婦人服の仕立屋を経営していて、父親はそこの裁縫師だった。エンドレは男ばかりの三人兄弟のまん中だった。
エンドレは早くから政治やジャーナリズムに目覚め、ギムナジウム(中高一貫校)の生徒だった17歳の年に、ゼネストのデモに加わって逮捕された。卒業後は、ドイツ・ベルリンへ行き、写真通信社に暗室係の助手として勤務しだした。19歳のとき、ロシアの革命家トロツキーがデンマークのコペンハーゲンにやってきたとき、エンドレは社命を受け、小型カメラをポケットに隠し持って駆けつけ、演説中のトロツキーを撮影した。この写真は、トロツキー本人が生存中に発表されたトロツキーの唯一の肖像写真となった。
エンドレが20歳になる1933年にナチス党のヒトラーが首相になると、はげしくなったユダヤ人迫害から逃れ、エンドレはフランス・パリへ脱出した。
パリで彼は2歳年上の女性ゲルダ・ポホリレスと出会い、恋に落ちた。ゲルダはドイツ生まれのユダヤ系の金髪美女で、二人は同棲し、エンドレが写真をとり、ゲルダがキャプションをつけて通信社に売り込む、あるいはゲルダも写真を撮るなど、チームを組んで仕事をするようになった。写真をもっと高く売るため、彼らは「ロバート・キャパ」という架空の人物を作り上げ、その有名な米国人カメラマンが撮った写真だとして売り込みはじめた。こうしてロバート・キャパが誕生した。
スペインで内戦がはじまると、キャパとゲルダは戦場へ乗りこんだ。このとき撮った戦場の死を象徴する写真「崩れ落ちる兵士」が雑誌に掲載され、23歳のキャパの名前は一躍世界に鳴り響いた。翌年、ゲルダはスペイン戦線で味方軍の戦車にひかれて死んだ。
ひとりになったキャパは、その後も戦場カメラマンとして、第二次世界大戦の連合軍に同行しノルマンディー上陸作戦の写真を撮り、パリ解放を撮り、戦後は写真家集団「マグナム」を結成し、第一次中東戦争を撮った。1954年5月、第一次インドシナ戦争に取材に行き、ベトナムの戦場で地雷を踏み爆死した。40歳だった。

キャパはブレた臨場感のある戦争写真だけでなく、画家のピカソや、女優のイングリッド・バーグマンなど、交友のあった著名人の肖像も撮っていて、そういうピントの合った写真もみごとである。

キャパが書いた『ちょっとピンぼけ(Slightly out of Focus)』を、自分は若いころに読み、いまでももっている。
「もはや、朝になっても、起上がる必要はまったくなかった。(中略)私には時間など問題ではなかった。有り金といえば五セントのニッケル貨一枚きり──電話のベルでも鳴って、誰かが昼飯に呼んでくれるか、仕事の口でもくれるか、すくなくとも金でも貸してくれそうな話でもないかぎり、ベッドを離れるつもりは毛頭なかった。」(ロバート・キャパ著、川添浩史、井上清一郎訳『ちょっとピンぼけ』文春文庫)
この冒頭部分を呼んだだけで、キャパがあるセンスをもっているのがわかる。それが写真にも反映されたのでは。二枚目だったキャパは、バーグマンほか数々の美女たちとつぎつぎと恋をし、いつもモテモテだったようだ。容貌もさることながら、彼のセンスも大きな魅力だったと思う。
(2014年10月22日)


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