1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

5月2日・秋元康の才

2024-05-02 | ビジネス
5月2日は、『青い花』を書いたノヴァーリスが生まれた日(1772年)だが、作詞家、秋元康(あきもとやすし)の誕生日でもある。AKB48の仕掛け人である。

秋元康は、1958年、東京で生まれた。父親は会社員で、康は2人兄弟の長男だった。
高校生時代、ラジオの深夜番組にパロディの脚本を送りつけたのをきっかけに、大学時代から放送作家のアルバイトをはじめ、しだいに作詞の仕事も受けるようになった。
テレビ番組「夕やけニャンニャン」の構成をし、27歳のころからアイドルグループ「おニャン子クラブ」の楽曲の歌詞を書き、プロデュースも担当し、名を馳せた。
47歳のとき、東京の秋葉原で、街の劇場で毎日会えるアイドルをコンセプトにしたアイドルグループ「AKB48」を立ち上げ、AKBの楽曲の歌詞を書いた。AKBは苦境の時期をへて、絶大な人気を誇るグループに成長。秋元は関連アイドルグループの全国展開、世界展開を進めつつ、乃木坂46、欅坂46など別グループのプロデュース、映画の企画、監督、大学教授職など多才な分野で活躍している。

秋元康が書いた歌詞に、好きなものがたくさんある。
稲垣潤一の「ドラマティック・レイン」「1ダースの言い訳」、
小泉今日子の「なんてったってアイドル」、
国生さゆりの「バレンタイン・キッス」、
AKB48の「ヘビーローテーション」「恋するフォーチュンクッキー」などなど。
女のコのアイドルが男の立場に立って歌うというAKB48のスタンスは、はじめて聴いたときは新鮮だった。聴いた人の人生を変えるとか、聴いた人の心に突き刺さるとかいうのとはちがうけれど、秋元康の詞には、おや、と思わせるものがある。時代の空気を軽やかにとらえたキャッチーなひねりがきいている。

秋元康のすごいところは、テレビ局やレコード会社、広告会社が利権を争って陣地取りをし、すでに産業化された業界に、個人として割って入って、周囲をうまく利用して、ちゃんと自分の居場所を確保した点である。彼は、すっかり組織化されてしまった現代社会における反逆者、新しい英雄とも言える。

ずっと以前、大手出版社の編集者がこんなことを言っていた。
「いやあ、このあいだ、週刊誌のグラビアを担当している社員と話していたら、若い娘の水着のグラビア写真に付けるキャプションで、ものすごく苦労しているって言うんですよ。あれはあれで、けっこう難しくて、若いモデルの水着写真の横にある文字は、あんまり意味があっちゃいけないんですよ。邪魔だから。そうかといって、あればいちおう読みますから、あんまりバカなことを書いてもまた写真の邪魔になってしまう。そういう、意味のない、邪魔にならない文句を並べるのに、日々四苦八苦しているって言っていました。自分のやっていることと同じだなあ、と」
秋元康がやってきたことが、グラビアページのキャプション書きと同じだとは言わないけれど、一脈通じる。彼は或る的をねらい、抜群の命中度を誇る実績をあげてきた。目から鼻に抜ける人は、いるものだ。
(2024年5月2日)



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5月1日・阿木燿子の魅力

2024-05-01 | 音楽
5月1日は、国際的な労働者の日「メーデー」。この日は作家、吉村昭が生まれた日(1927年)だが、作詞家の阿木燿子(あきようこ)の誕生日でもある。

阿木燿子は、1945年の敗戦直前、長野で生まれた。誕生時の本名は、福田広子。横浜で育ち、小中高と横浜の学校に通った。東京の明治大学に入学し、そこの軽音楽部に入部。そこで宇崎竜童(本名、木村修司)と知り合った。以前、テレビ番組で宇崎が語ったところによると、はじめて会ったとき、宇崎は彼女にこう声をかけたという。
「あのー、ぼくたち結婚することになっていると思うんですけど」
すると阿木燿子はこう答えた。
「そういうことにはなっていないはずですけど」
二人は熱烈な恋に落ち、彼女が26歳のときに結婚した。彼女は木村広子となった。
結婚の2年後、夫の宇崎は「ダウン・タウン・ブギウギ・バンド」を結成。阿木は夫のバンドのために「港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ」の歌詞を書いた。同曲は大ヒットし、歌詞の一節「あんたあの娘のなんなのさ」は当時、大流行した。そのほか「サクセス」「沖縄ベイ・ブルース」「身も心も」「裏切者の旅」をバンドに提供した彼女は、郷ひろみの「ハリウッド・スキャンダル」、キャンディーズの「微笑がえし」、中森明菜の「DESIRE」、水谷豊の「カリフォルニア・コネクション」、南こうせつの「夢一夜」などのヒット曲の詞も手がけた。そして、夫婦で山口百恵の全盛期を作った。
「横須賀ストーリー」
「夢先案内人」
「イミテイション・ゴールド」
「プレイバックPart2」
「絶体絶命」
「しなやかに歌って」
「ロックンロール・ウィドウ」
「さよならの向う側」
これらのヒット曲はすべて阿木燿子作詞、宇崎竜童作曲である。
作詞家として活躍するほか、彼女はレストラン兼ライブハウスを経営し、女優として映画やテレビに出演し、みずから映画監督もこなし、プロデューサーとしてフラメンコと浄瑠璃をミックスさせた演劇の公演をおこなうなど、多方面に活躍している。
63歳のころには、彼女は「新タワー名称検討委員会」の委員となり、捨てられかけた案「東京スカイツリー」を引っ張り上げて最終候補に残した。これが一般投票でタワーの名称に選ばれた。

才媛。才色兼備。天が三物も四物も与えた美女。阿木燿子を讃えることばは多い。
「港のヨーコ」「身も心も」「プレイバックPart2」の歌詞は、何度聴いてもため息が漏れる名品である。ことばを組み合わせるセンスが抜群で、趣向がお洒落。そして、イメージ喚起力と、ことばの造形力が圧倒的である。

人気絶頂にあったころ、彼女ら夫婦はときどきバイクの二人乗りでツーリングにでかけていた。当時、雑誌の「危なくないですか?」との質問に、彼女はこう答えていた。
「のろけるわけじゃないんですけど、彼といっしょだったら、いつ死んでもいいんです」
いい女、というのは、いる。
(2024年5月1日)



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