1日1話・今日の話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『誇りに思う日本人たち』
『ビッグショッツ』
『黒い火』ほか

1月28日・ファン・コーレンの円周率

2018-01-28 | 科学
1月28日は、作家の小松左京が生まれた日(1931年)だが、16世紀の数学者、ルドルフ・ファン・コーレンの誕生日でもある。円周率を35ケタまで計算した数学者である。

ルドルフ・ファン・コーレンは、1540年、ドイツのヒルデスハイムで生まれた。後にネーデルランド(オランダ)へ移り、デルフトの街で数学教師となり、同時にフェンシングも教えていた。
50歳前後から円周率の計算に身を入れだし、彼より1700年ばかり先に生まれた古代ギリシアのアルキメデスと同じ計算方法でもって、円周率の、より正確な算出に挑んだ。
56歳で数学書『円について』を出版し、そのなかで彼は小数点以下20ケタまでの円周率を示した。その後さらに研究してそれを35ケタまでのばした。
フェンシングも続けていて、54歳のとき、ライデンにフェンシングの養成学校を創設。
60歳のとき、ライデン大学初の数学教授となり、1610年12月の大晦日にライデンの地で没した。70歳だった。彼の墓碑には、
「3.14159265358979323846264338327950288...」
と、彼が算出した円周率の値が刻まれた。

アルキメデスやファン・コーレンが円周率をどうやって計算したかというと、まず、角の多い正多角形を考える。正三角形、正四角形、正五角形、正六角形……正二十四角形……などと角の数を増やしていくと、しだいにそれは円に限りなく近づいてゆく。
これを利用して、ファン・コーレンは、正4×(2の28乗)角形(=約10億角形)とか、正3×(2の31乗)角形(=約60億角形)などといったものすごい多角形を考えて計算し、そこから、円周率はこの数値とこの数値のあいだにあるはずだ、と、数を割り出していったようだ。ドイツでは円周率のことを「ルドルフ数」とも呼ぶ。

スタンリー・キューブリック監督の映画「博士の異常な愛情」に登場するストレンジラブ(異常な愛)博士のモデルと言われる「コンピュータの父」フォン・ノイマンは、1949年にコンピュータを70時間まわしつづけて、円周率を小数点以下2037ケタまで計算した。
現在ではスーパーコンピュータによって小数点以下10兆ケタまで計算されているらしい。

中学一年生のとき、数学の教師が、円周率を黒板に書き並べ、覚え方を教えてくれた。
「産医師異国に婿、産後疫なく(さんいしいこくにむこ、さんごやくなく)」
微分だとか積分だとかはほとんど忘れてしまったくせに、これだけはいまだに忘れないで覚えている。
なにかとりたてて役に立つわけでもないけれど、なぜかひかれる、というものに、生きているとときどき出会う。円周率はそのひとつである。
(2018年1月28日)



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1月2日・クラウジウスの提議

2018-01-02 | 科学
1月2日は、『正法眼蔵』を書いた道元禅師(どうげんぜんじ)が生まれた日(正治2年)だが、物理学者、ルドルフ・クラウジウスの誕生日でもある。「エントロピー」の概念を打ち立てた人である。

ルドルフ・ユリウス・エマヌエル・クラウジウスは、1822年、当時プロイセン王国だった、現在のポーランドのコシャリンで生まれた。父親は牧師で学校の校長だった。
ルドルフは歴史学を好んだが、やがて物理学を志した。大学を出た後、ギムナジウムや大学で教えながら、物理学の研究をし、論文を発表した。
彼がはじめて「エントロピー」の語を論文で使ったのは、43歳のときだった。
それまでに、熱力学の第一法則である「エネルギー保存の法則」がすでに知られていたが、クラウジウスはこれに第二法則「エントロピーの法則」を加えた。
チューリヒ大、ボン大など、数々の大学の教授を歴任し、ロンドン王立協会の外国人会員でもあったクラウジウスは、1888年8月、貧血症によりボンで没した。66歳だった。

熱力学の第一法則は、こういうものである。
「ある閉じた世界のなかで、エネルギーの総量は変化しない」
たとえば、ものが燃えて灰になると、物質のエネルギーが減ったわけだが、それは周囲の温度が上がるという、べつのエネルギーに移しかえられたので、全体として見れば、エネルギーの総量は変わらない、ということで、究極的に言えば、こうである。
「宇宙が閉じた世界ならば、宇宙のエネルギーの総量は一定である」

一方、クラウジウスによる熱力学の第二法則は、こうである。
「外に何も変化を与えずに熱を低温から高温へ移すことは不可能である」
これは、平たく言えば、こういうことである。
「エネルギーは、高いほうから低いほうへ流れるので、その逆はない」
「閉じられた世界のなかでは、エントロピーはつねに増大する」

クラウジウスが導入した「エントロピー」というのは、なかなかつかみづらい概念だけれど、「乱雑さ」「広がり具合」とも翻訳することができる。
熱いコーヒーに氷のかたまりを入れると、それは混ざり、ぬるいコーヒーになる。その逆(冷たい氷部分と、熱いコーヒー部分とに分離するなど)はあり得ない。
宇宙が閉じた世界だとすると、熱はつねに低いほうへと流れつづけ、ついに全体が同じ温度になり、熱の移動がない「宇宙の死」が訪れる。
整理整頓された部屋は、ほうっておくとどんどん乱れ散らかっていき、その逆(部屋がさらにきれいになっていくなど)はあり得ない。

こうしたクラウジウスの提議は、その後の人類に大きな影響を与えた。
地球の環境汚染や温暖化など、地球の生態系にとって、もっとも悪いことをしている種族はおそらく人間で、そうしてみると、人間こそエントロピーそのものだという気がしてくる。でも、地球環境に対してろくなことをしてこなかった人類のなかにクラウジウスのような人もいたのだから、まだ人間も捨てたものではない。
(2018年1月2日)


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12月27日・ヨハネス・ケプラーの楕円

2017-12-27 | 科学
12月27日は、大女優、マレーネ・ディートリッヒが生まれた日(1901年)だが、天文学者、ヨハネス・ケプラーの誕生日でもある。

ヨハネス・ケプラーは、1571年、ドイツのヴァイル・デア・シュタットで生まれた。ヨハネスは4人きょうだいの1人で、彼が生まれたとき、祖父は市長だった。ヨハネスの父親は、傭兵をしていて、ヨハネスが5歳のとき、家族を捨てて出ていった。母親は人を癒すヒーラーで、ヒーリングに植物を用い、魔法を試みたという。
神学校を出たヨハネスは、大学で数学を学び、23歳のころから、グラーツの学校で数学と天文学を教える学校教師になった。しかし、27歳の年に、プロテスタントの牧師と教師に対し、グラーツの町からの退去命令が出され、ケプラーは失業した。
翌年の28歳の年に、ケプラーはプラハに招かれ、宮廷付きの天文学者だったティコ・ブラーエの助手(または同僚)として働きだした。
ブラーエは、抜群の視力の持ち主で、望遠鏡を使わない観測者としては世界最高の精度を誇っていた。彼は恒星や惑星のほか、超新星や彗星などの追跡観測もおこなった。
ケプラーが29歳のとき、ブラーエが没すると、ケプラーはその後の職務を継いだ。ケプラーの目はそんなによくなかったのかもしれないが、彼はブラーエの残した膨大な観測データを分析し、そこからケプラーの法則と呼ばれる、つぎの三つの法則を導きだした。
「第1法則」惑星は、太陽をひとつの焦点とする楕円軌道上を動く。
「第2法則」惑星と太陽とを結ぶ線分が単位時間に描く面積は、一定である。
「第3法則」惑星の公転周期の2乗は、軌道の長半径の3乗に比例する。
ケプラーは、晩年は、魔女裁判にかけられた母親の弁護に奔走し、なんとか母親を助けた後、1630年11月、レーゲンスブルクで没した。58歳だった。

ケプラーについては高校生のときに物理学の教師からよく話を聞いていた。
人類の世界観、宇宙観は、ケプラー以前と、彼以後とで大きく変わる。
すなわち、ケプラーはまず、惑星が楕円軌道を描いてまわっていることを発見し、これが、すでにコペルニクスが遺言していた地動説を、より堅固なものとした。ケプラーの法則はまた、ニュートンの万有引力の発見へとつながっていく。ケプラーの法則から、
「惑星は、距離の二乗に反比例する力によって、太陽に引っぱられている」
という事実が導かれる。この「太陽と惑星のあいだに、ひっぱる力が存在する」ということに、ケプラーはすでに気づいていたと言われる。

ティコ・ブラーエとケプラー。この二人が宇宙の構造をがらりと変える一石を、人類の歴史の池に投げこんだのである。その波紋により、彼ら以前の人類は、たちまち「古い人種」となった。
現代人が信じている世界観など、すこしたつと、がらりと変わってしまうのかもしれない。すると、未来の人類から、われわれ現代人など、まだ魔女裁判をやっていた人々といっしょにひとくくりにされ、無知蒙昧な時代の、生まれ落ちてわけもわからず右往左往して死んでいったに人種として分類されるにちがいない。
(2017年12月27日)



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12月14日・ティコ・ブラーエの目

2017-12-14 | 科学
12月14日は、堀部安兵衛ら赤穂浪士四十七士が吉良邸へ討ち入りした忠臣蔵の日だが、この日は、天文学者ティコ・ブラーエの誕生日でもある。

ティコ・ブラーエは、デンマークの貴族の生まれで、1546年に生まれた。
20歳のころには、数学の公式の正誤をめぐってべつの貴族と決闘をし、鼻柱を切りとられるという事件を起こし、それ以降、彼は金属製の鼻を張り付けて暮らした。
当時は、天動説の時代。まだ望遠鏡のないころのことで、ブラーエは自分の目で天体観測をつづけた。おそらく、肉眼での天体観測者としては、人類史上最高の精度をもった観測者だった。
われわれが夜空を見上げて、
「星がきれいだなあ」
と言っているのとは、レベルがちがう目のもち主で、ものすごく微細な光をブラーエの目はとらえていた。彼はカシオペヤ座の超新星を発見し、1年以上もその星を肉眼で観測し追いつづけた。
晩年、53歳のころ、ブラーエはプラハへ行き、神聖ローマ帝国の宮廷付きの天文学者となった。当時のことだから、占星術師も兼ねていたろう。
一説によると、ブラーエは、晩餐会でトイレに立つのをがまんして、膀胱が破裂して死んだと言われているが、水銀中毒説もある。ブラーエは1601年10月、54歳で没した。

ブラーエの名前は、高校時代、物理の授業中に知った。
物理の教師がブラーエのとケプラーのことを紹介してくれた。

彼が残した記録を、ブラーエの助手で、彼の後を継いで宮廷占星術師となった、25歳年下のヨハネス・ケプラーが分析して、ケプラーの第一、第二、第三法則の大発見につながった。
英国で活躍したドイツ人、ウィリアム・ハーシェルが、自作の望遠鏡で天王星を発見するのは、ブラーエが没して、180年後のことになる。

人間が、ほかの動物よりも繁栄している理由は、いろいろあるけれど、そのひとつは、文字による情報・知識の記録・伝達である。ブラーエからケプラーへ受け継がれたような知識。これがなかったら、人類の文明はこんなに発達していない。
知識の伝達、蓄積がなく、生まれた人間がいつも白紙の状態から文明をゼロから築き上げなくてはならないのだったら、いつまでたっても、ほら穴暮らしの狩猟生活で、コンビニでおにぎりを買って食べる都会生活にたどりつけない。だから、先人の書いたものを読むし、なにかしら文明に寄与できたらとこうやって書いている。果たして、読むに値するか否かは覚束ないけれど。鼻を失ったブラーエの目に感謝。
(2017年12月14日)



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11月20日・カール・フォン・フリッシュの部屋

2017-11-20 | 科学
11月20日は、『ニルスのふしぎな旅』を書いた女流作家、セルマ・ラーゲルレーヴが生まれた日(1858年)だが、動物行動学者のカール・フォン・フリッシュの誕生日でもある。ハチの「8の字ダンス」を発見した人である。

カール・リッター・フォン・フリッシュは、1886年、オーストリアのウィーンで生まれた。父親は外科医で泌尿器科医だった。カールは4人兄弟のいちばん下だった。
カールははじめ医学の道に進んだが、途中で自然科学方面へ進路を変えた。24歳の年に博士号となった彼は、ミュンヘン大学の動物学部で助手となり、33歳のころ、教授になった。
彼が47歳の年にナチスが政権をとり、ユダヤ人への迫害が強まった。新しく成立した法律によって、市民は自分がアーリア人である(ユダヤ人でない)ことを証明する必要に迫られた。フリッシュは、自分の両親と、4人の祖父母のうちの3人まで証明できたが、残りのひとりの証明ができなかった。このため、彼は8分の1のユダヤ人と分類された。これを理由に、彼を追いだそうとする動きが起こり、彼は大学から追放された。追われた後も、彼は研究を続けた。
第二次世界大戦が終わった翌年、60歳の年に彼はグラーツ大学の教授となり、その後、ミュンヘン大学へもどり、72歳の年に退官した。退官後も研究を続けた彼は、87歳のときにノーベル生理学・医学賞を受賞。1982年6月、ミュンヘンで没した。95歳だった。

カール・フォン・フリッシュは、ニコ・ティンバーゲン、コンラート・ローレンツといっしょにノーベル生理学・医学賞を受賞した。ティンバーゲンは、最初のノーベル経済学賞を受賞したヤン・ティンバーゲンの弟である。
フリッシュは、ミツバチの嗅覚、味覚、視覚、位置の把握方法などを研究し、明らかにした。彼らは、自分の位置やからだの向きを、まず太陽の光によって知り、つぎに空の様子から、そして地球の磁気からも知ることができるという。
ミツバチが仲間にミツや花粉のありかを伝えるのに、巣の上をの字を描いて動きまわって見せるとき、太陽に対する角度が方向をあらわし、お尻を揺する時間が距離をあらわす。エサの場所が比較的近いときは、丸く円を描いて踊り、距離が遠くなると、8の字を描くのだそうだ。

学生のとき、同じ下宿にいた理学部生物学科の先輩の部屋へ行くと、飼っている虫の巣箱や標本箱で部屋中がいっぱいで、楽しかった。その暮らしぶりを見て、
「生物学をやる人というのは、研究対象といっしょに暮らすようになり、いわば人生そのものが虫や動物たちと一体化してしまうのだなあ」
と感心したけれど、おそらくフリッシュの部屋もハチだらけだったのだろう。いっしょに生活する家族は、ハチ嫌いだとやっていられない。
生物相手の研究暮らしは、虫や動物に気をつかう大変な生活だけれど、人に気をつかいながら生きるのとはちがって、そういうのも悪くない。
(2017年11月20日)



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『おひつじ座生まれの本』~『うお座生まれの本』(天野たかし)
おひつじ座からうお座まで、誕生星座ごとに占う星占いの本。「星占い」シリーズ全12巻。人生テーマ、ミッション、恋愛運、仕事運、金運、対人運、幸運のヒントなどを網羅。最新の開運占星術。


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11月15日・ウィリアム・ハーシェルの烈

2017-11-15 | 科学
11月15日は、七五三。この吉日は、幕末の風雲児、坂本龍馬が生まれた日(天保6年11月15日)だが、天文学者ウィリアム・ハーシェルの誕生日でもある。天王星の発見者である。

ハーシェルは1738年、ドイツのハノーファー(英語読みでハノーバー)で生まれた。ハーシェルは英語名で、生まれたときの本名は、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヘルシェルといった。父親は音楽家で、ハノーファー親衛隊の軍楽隊のオーボエ奏者だった。
18歳のとき、ヴィルヘルムは父親といっしょに英国へ旅立った。
英国へ渡ったヴィルヘルムは、英語名、フレデリック・ウィリアム・ハーシェルとなった。ハーシェルは、地方の軍楽隊に入ったり、演奏会を開いたり、音楽の家庭教師をしたりし、経済的に困難な時期を乗り越え、28歳のとき、イングランド西部にある音楽の街、バースの教会のオルガン奏者に就任した。
バースを本拠地に、ハーシェルは精力的に動きまわって演奏会を開き、家庭教師をし、公式行事で演奏し、とハードワークを重ねて大成功をおさめた。彼の成功に刺激されて、モーツァルトやハイドンもバースへやってくるようになった。
ハーシェルは22歳のころから作曲をはじめ、44歳までに24の交響曲のほか、数多くの曲を書いた。そして、やがて音楽のかたわら、天文学に打ち込みだした。
演奏会のないオフシーズンを利用して、自分で天体望遠鏡を試作しだし、しだいに音楽よりも望遠鏡作りと天体観測のほうに力を入れるようになっていった。
ハーシェルが78歳までに作った望遠鏡の数は二千を超すという。2・1メートル、3メートル、6メートルの長さの望遠鏡を数百本作り、最長のものは長さ12メートルあった。
作った望遠鏡で37歳のころから観測をはじめ、42歳だった1781年3月13日、未知の暗い星を発見した。これが太陽系の七番目の惑星だった。それまで二千年以上ものあいだ、太陽をまわる惑星は六つだった。そこへもたらされた「天王星」の大発見だった。
ハーシェルは、43歳のとき、完全に音楽をやめて、天体観測と望遠鏡製作に没頭するようになった。彼は自分が製作した望遠鏡を、グリニッジ天文台へ運び込み、自分の望遠鏡がグリニッジのものよりはるかに性能がいいことを示した。それが縁で国王に招かれ、王室付天文学者となった。
「王家の人びととの交際は、いつも楽しいとは限りません。私には鏡を磨いているほうが性に合っています。……グリニジの器械で見えない二重星が、私の七フィートでらくに見えたときほど、うれしかったことはありません。」(斉田博『近代天文学の夜明け ウィリアム・ハーシェル』誠文堂新光社)
彼は観測を続け、多くの論文を書き、ロンドン天文学会の会長を務めた後、1822年8月に没した。83歳だった。

ハーシェルは、中世的な思考から抜け出ていた近代人で、宇宙は人間のために創られたものではないと考えていた。で、ここがおもしろいのだけれど、ならばすべての星に生命体がいるはずだと、太陽や月にもきっと生き物が住んでいると推論していた。
凡人の思考ではない。音楽と天文学と望遠鏡製作と、何人分もの偉業をなし遂げた猛烈型の天才ハーシェルであれば、そう考えても不思議はない。そう、きっと、太陽や月にも生き物がいるのだ。そう信じて突き進みたい。
(2017年11月15日)



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11月9日・野口英世の欠落

2017-11-09 | 科学
11月9日は、ゴロ合わせで消防庁「119番の日」。この日は、サッカーのデル・ピエロが生まれた日(1974年)だが、細菌学者、野口英世の誕生日でもある。

野口英世は、1876年、福島県の、現在の猪苗代町で生まれた。生まれたときの本名は、清作。彼の家は貧しい農家で、清作には姉と弟がいた。生後半年足らずのときに、清作は囲炉裏に落ちて、左手を大火傷し、指が手にくっついてしまった。
清作が14歳のころ、周囲の募金活動により手術費用が工面され、外科手術を受け、左手の指が使えるようになった。このときの感激が、彼をして医学の道を志さしめた。
20歳の年。上京するにあたり、家の柱に彼はこう彫りつけたという。
「志を得ざれば再び此の地を踏まず」
左手の手術をしてくれた医師のつてで、東京に住む歯科医を頼り、学資を捻出してもらい、21歳のときに医師の免許を取得した。そして、22歳になる年に、北里柴三郎が所長を務めていた伝染病研究所に就職した。このころ、本名を「清作」から「英世」に改名。ここに野口英世が誕生した。
24歳のとき、渡米。ペンシルベニア大学の医学部で助手となった。そして27歳のとき、ロックフェラー医学研究所に移籍した。
野口英世は、ずらりと並んだおびただしい数の試験管に同分量の試験薬を短時間で注入するなど、膨大な分量の実験を正確に、疲れを知らず続けるハードワークで業績をあげ、34歳のとき、梅毒スピロヘータの純粋培養に成功したと発表し、世界をあっと言わせた。彼はそのころから何度もノーベル賞候補になった。
彼はロックフェラー財団の研究チームの一員として、中南米やアフリカへおもむき、当時流行していた黄熱病の研究に励んだ。そうして野口自身も黄熱病にかかり、1928年5月、芸在のガーナのアクラで没した。51歳だった。
伝染病で死亡した患者の遺体は、現地で火葬される決まりだったが、ロックフェラーの鶴の一声でルールは変えられ、野口の遺体は金属製の密閉された特注の柩に収められ、米国へ運ばれてニューヨークの墓地に丁重に葬られた。

野口英世は細菌学の学者であり、手作業で実験データを積み重ねた時代の研究者だった。彼の没後、細菌よりもっと微小なウイルスの研究が進み、野口が発表した学説のかなりの部分が、ひっくり返されている。とはいえ、そんなことは科学、医学の世界では日常茶飯事であって、新事実の発見も、前人の研究成果があった上での成果なのだから、野口英世の偉大さを現代の科学の物差しで測ってはいけないと思う。

野口英世の出世物語の興味深いのは、周囲に無心して集めた学資を、遊興で散財し、また援助に頼り、そのお金をまた遊びにつかい、また無心して、を繰り返しているところである。上京する際、小学校時代の教頭が用立ててくれた、当時の一般の月給取りの年収の1年分にあたる金額の学資を、上京後ほんの1、2カ月でつかいきってしまったというから、その派手な遊び方もさることながら、その神経の太さにかえって感心する。そういう大胆に欠落した部分がないと、大事業というものは成らないのかもしれない。
(2017年11月9日)


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『大人のための世界偉人物語』(金原義明)
世界の偉人たちの人生を描く伝記読み物。エジソン、野口英世、ヘレン・ケラー、キュリー夫人、リンカーン、オードリー・ヘップバーン、ジョン・レノンなど30人の生きざまを紹介。意外な真実、役立つ知恵が満載。人生に迷ったときの道しるべとして、人生の友人として。


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11月7日・キュリー夫人の美貌

2017-11-07 | 科学
11月7日は、『ソロモンの指輪』を書いたコンラート・ローレンツが生まれた日(1903年)だが、ラジウム、放射能の研究で名高いキュリー夫人の誕生日でもある。

キュリー夫人は、1867年、現在のポーランドのワルシャワで生まれた。本名は、マリア・サロメ・スクウォドフスカ。両親ともに教師だった。
15歳でギムナジウムを卒業した彼女は、経済的な問題から進学できず、家庭教師などをしてお金を貯めた後、23歳のときに仏国パリに出た。
ソルボンヌ大学で、化学と物理学を学びはじめた彼女は、名を「マリア」から「マリー」に改めた。27歳の彼女が出会ったのが、8歳年上のピエール・キュリーだった。
ピエールは大学の教師で、すでに電気や磁気の研究で成果を挙げていた優秀な科学者だった。二人は結婚した。彼女は、マリー・キュリーとなった。
当時、フランスには、放射能の単位に名を残すアンリ・ベクレルという物理学者がいて、ウランが、X線に似た透過力をもつ光線を発することを突き止めていた。キュリー夫妻はこれを研究テーマに据え、粗末、劣悪な実験環境のなかで、大量の鉱石を大鍋で煮て、沈殿させ、ろ過させといった作業を延々と繰り返して精製していく忍耐強い実験を繰り返し、放射能を発する放射性元素を追究していった。そして、彼女が31歳の年、ポロニウム、ラジウムの新元素を発見した。彼女の実験室で濃縮、精製されたラジウムが青い光を放つ光景は、キュリー夫人の伝記のなかでも印象深い名場面である。
彼女が36歳の年、キュリー夫妻は、ベクレルとともに放射性元素に関する研究によりノーベル物理学賞を受賞した。はじめて女性にノーベル賞が授与された歴史的瞬間だった。
38歳のとき、夫のキュリーを交通事故でなくし、未亡人となった彼女は、ソルボンヌ大学の初の女性教授に就任した。
そして44歳のとき、ラジウムとポロニウムの発見とそのほかの研究により、彼女はノーベル化学賞を受賞した。これは、同じ人物が二度ノーベル賞を受賞した初の快挙だった。
マリー・キュリーは、彼女の業績に嫉妬する科学者による中傷や、マスメディアに悩まされ、うつ病と腎臓病に苦しみながらも、科学の研究環境の整備に努め、第一次世界大戦のときには、医療用のレントゲン設備やレントゲンを搭載した車両の配備に尽力した。
1934年7月、療養のため訪れていたパッシーで没した。66歳だった。

マリー・キュリーが書いた論文のいくつかは、放射線汚染のため、防護服を着てでないと読めないという。

マリー・キュリーが生きた時代のフランスは、女性差別がはげしく、彼女はことあるごとに女性蔑視、嫉妬と闘わなくてはならなかった。
現存する顔写真を見ると、彼女はいわゆる器量良しで、とくに若いころはきれいな顔だちの美人である。しかし、研究一辺倒で、化粧っけのない、地味な女性だった。
もしも現代のフランスにキュリー夫人が生きていたら、粋なファッションに身を包み、つねに華やかな雰囲気を周囲に振りまきながら、男たちが目をむくような偉大な業績をつぎつぎと打ち立てて、婉然と笑っているのではないか。
(2017年11月7日)



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『女性解放史人物事典 ──フェミニズムからヒューマニズムへ』(金原義明)
平易で楽しい「読むフェミニズム事典」。女性の選挙権の由来をさぐり、自由の未来を示す知的冒険。アン・ハッチンソン、メアリ・ウルストンクラフトからマドンナ、アンジェリーナ・ジョリーまで全五〇章。人物事項索引付き。フェミニズム研究の基礎図書。また女性史研究の可能性を見通す航海図。


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11月1日・ヴェーゲナーの疾走

2017-11-01 | 科学
11月1日は、マンガ家の西原理恵子が生れた日(1964年)だが、「大陸移動説」を提唱したヴェーゲナー(英語読みでは、ウェゲナー)の誕生日でもある。

アルフレート・ロータル・ヴェーゲナーは、1880年、独国(当時のプロイセン)のベルリンで生まれた。父親は牧師で、5人きょうだいの末っ子だった。
アルフレートは、気象学の道に進み、気球を使った高層の気象観測技術を開発した。気球に乗ってコンテストに出て、最長滞空記録を作ったこともあった。空に浮かんでいた時間は、52・5時間だった。
ヴェーゲナーは、30歳のころ、世界地図をながめていて、各大陸の海岸線の形が似ていることに気づいた。
彼は32歳の年に、世界の大陸はもともとひとつだったのを、割れて移動し、いまのような分かれた大陸が分立する状態になったという大陸移動説を、フランクフルトでの地質学の学会で発表した。
そして35歳のときには、論文『大陸と海洋の起源』のなかでも、大陸移動説を主張した。
しかし、気象学畑からのこの議論は、地質学の学者からは相手にされなかった。大陸移動という発想はあっても、大陸を動かすメカニズムについての説明は説得力がなかった。大陸は沈むことはあっても、移動することはない、という考えが当時は圧倒的だったらしい。
ヴェーゲナーは、自説の根拠を探すために、グリーンランドへ何度も調査に出かけた。そうして、1930年の遠征中に、摂氏零下60度にもなる現地で、ヴェーゲナーは消息を絶った。
翌1931年5月に、ヴェーゲナーの遺体が発見された。過労により心臓麻痺を起こしたものと推定されている。

はじめて「大陸移動説」を知ったとき、世界地図をながめて、なるほどなあ、と感心した。たしかに、南北アメリカ大陸は、大西洋のほう押してやると、ヨーロッパとアフリカにぴったり重なる形をしている。一目瞭然、そうにちがいない、と思ったが、この説が発表されたときは、そうすんなりとは受け入れられなかったらしい。

1950年代以降、岩石に残された過去の地磁気の痕跡から、これを合理的に説明するため、大陸移動説がふたたび取り上げられるようになり、プレートテクトニクス理論が提唱され、現代ではヴェーゲナーの大陸移動は再評価されているという。
気象学でもたいした業績のあったが、確信した説を証明するために彼は命をかけ、グリーンランドに散った。安楽な学者生活を送る道もあったろうに、夢のために、あえて危険に向かって突っ走った。勇気ある偉大な人生だった。
(2017年11月1日)


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10月29日・エドモンド・ハレーの予言

2017-10-29 | 科学
10月29日は、実業家「ホリエモン」こと堀江貴文が生まれた日(1972年)だが、ハレー彗星の出現を予言した天文学者、エドモンド・ハレーの誕生日でもある。

エドモンド・ハレーは、1656年、英国イングランドのロンドンで生まれた。父親は石けんを製造していて、裕福な家庭だった。
エドモンドは、セント・ポール・スクールをへて、17歳の年にオックスフォード大学に入学した。大学在学中に彼は、太陽系惑星と黒点に関する論文を書いた。
19歳のころ、グリニッジ天文台の天文学者の助手になった。
20歳になる年から、後にナポレオンの流刑地として有名になる南大西洋のセントヘレナ島に滞在して天体観測をおこない、帰国後にその南半球で観測した三百以上の恒星のある天球図を発表した。この功績により、ハレーは王立学会のフェローに選ばれた。
ハレーは天文学だけでなく、物理学、気象学、数学、統計学など、幅広い分野でめざましい足跡を残した。死亡統計から割り出した終身年金の論文を書き、大西洋を航海、観測して地磁気の海図を作り、海底調査用の潜水器具を発明した。
49歳のころ、彼は彗星の周期に関する論文を発表した。これは過去の観測記録を綿密に検討した結果、ハレーが26歳だった1682年に天空に現れたほうき星は、1456年、1531年、1607年に現れたほうき星と同じもので、周期が約76年であるため、つぎは1758年に現れるであろう、と予言したものだった。
64歳の年に、ハレーグリニッジ天文台長となった。そうして生涯にわたって天文観測を続けた後、1742年1月に没した。85歳だった。
そして、彼が没した16年後、ハレーの予言した通り、空に彗星が現れた。

ハレー彗星の話は、小学校の低学年のころからいろいろ聞いていた。ずっと昔、ハレー彗星が近づいてきたとき、一時的に地球の空気が吸い取られ、またもどるといううわさが広まり、その空気がない時間帯をやりすごすため、タイヤのチューブが売れた(チューブ内の空気を吸って生き延びるという魂胆らしい)とか。

1986年にハレー彗星が接近したとき、それを見るためにオーストラリアへ行くことを真剣に検討した。で、結局、妥協して八丈島まで行き、泊まった旅館のご主人の双眼鏡を借りて、夜明け前の水平線ぎりぎりに見えるほうき星を見ることができた。つぎにハレー彗星がやってくるのは、2061年の夏で、それを見ることは、おそらくかなわないだろう。

死後に起こることを、確信をもって言い当てて死ねる、というのは、すごいことだ。神さまみたいである。
『ハックルベリイ・フィンの冒険』を書いたマーク・トウェインは、ハレー彗星が現れたときに生まれた自分はハレー彗星が現れたときに死ぬだろうと予言して、その通りになった。
(2017年10月29日)



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