1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

10月31日・キーツの恋文

2022-10-31 | 文学
10月31日は、ハロウィン。この日は、画家のマリー・ローランサンが生まれた日(1883年)だが、夭逝した詩人ジョン・キーツの誕生日でもある。

ジョン・キーツは、1795年、英国イングランドのロンドンで生まれた。父親は宿屋つきの馬丁だった。ジョンは4人きょうだいのいちばん上の子で、ほかにも生後すぐに死んだきょうだいがいた。下の子たちが生まれると、ジョンは祖父の家に近いロンドン郊外の小さな学校へ入れられた。進歩的な教育方針の家族的な雰囲気の学校で、そこの教師はジョンにルネッサンスの文学を紹介し、彼の目を文学に向かせた。
ジョンが8歳のとき、父親が落馬し頭を打って死亡した。ジョンたちきょうだいは祖母の家に預けられた。そして14歳のとき、母親が結核で死亡した。孤児となった彼は、薬局兼外科医の家に奉公に出、そこの屋根裏部屋に寝起きして働いた。
ジョンたちの母親は亡くなる前、子どもの後見人を指定していて、ジョンは19歳のとき、母親と祖母から、きょうだいに均等分けされた後でもかなりの金額になるお金を相続できるはずだった。が、なぜか後見人も弁護士もそれを渡しも知らせもしなかった。結果、キーツたちきょうだいは生涯、つねにお金で苦労する羽目になった。
奉公を終えたキーツは病院の医学生となり、20歳のとき、外科助手として採用され、手術などに立ち会うようになった。周囲の人間も、キーツ本人も、彼は明らかに医師を目指していていたのだったが、キーツは一方で文学への思いも捨てきれず、詩を書いていた。
21歳の年に、彼は医学免許を手にし、薬剤師、内科医、外科医ができるようになった。医学のかたわら、詩人として活動をはじめた彼の詩は、間もなく雑誌に掲載された。彼は尊敬する詩人のリー・ハントと知り合いになり、22歳になる年にキーツは初の詩集『詩集』を出版した。評判はかんばしくなかったが、これをきっかけに彼は同時代の詩人、編集者、批評家と知り合い、さらに詩作に力を入れ出した。
4つ年下の弟が結核にかかり、キーツはその看病にあたったが、彼自身も頻繁に風邪をひき、健康が悪化しだしていた。それでも彼は旅をし、恋をし、詩を書いた。
キーツが23歳のとき、看病の甲斐むなしく弟は病死した。キーツ自身も結核を発症し、医者に転地療養を勧められた。彼は暖かいイタリアで療養しながら詩を書いたが、病状は快方に向かわず、キーツは1821年2月、ローマで没した。25歳だった。

キーツは、バイロン、シェリーに続くロマン派詩人の巨星である。
キーツの詩「ナイチンゲールに捧げる頌歌(Od to Nightingale)」を読んでから、ナイチンゲール(小夜鳴鳥)という鳥はどんな美しい声で鳴くのだろう、とずっと憧れていた。

22歳のころキーツは、18歳のファニー・ブローンという娘と知り合い、彼らは恋に落ちた。二人はいっしょにダンテの『神曲』を読んだという。キーツは彼女に着想を得て詩を書き、結婚の約束をし、こんな熱烈なラブレターを送った。
「愛はぼくをわがままにする。きみなしではぼくは生きられない。(中略)愛はぼくの信仰だ。ぼくはそのために死ねる。ぼくはきみのために死ねる。(My love has made me selfish. I cannot exist without you...Love is my religion - I could die for that - I could die for you.")」
(2022年10月31日)



●おすすめの電子書籍!

『世界大詩人物語』(原鏡介)
詩人たちの生と詩情。詩神に愛された人々、鋭い感性をもつ詩人たちの生き様とその詩情を読み解く詩の人物読本。ゲーテ、バイロン、ハイネ、ランボー、ヘッセ、白秋、朔太郎、賢治、民喜、中也、隆一ほか。彼らの個性、感受性は、われわれに何を示すか?


●電子書籍は明鏡舎。
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10月30日・ドストエフスキーの本格

2022-10-30 | 文学
10月30日は、フランス映画のクロード・ルルーシュ監督が生まれた日(1937年)だが、ロシアの文豪、ドストエフスキーの誕生日でもある。

フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーは、1821年10月30日(グレゴリオ暦だと日付が異なる)に、帝政ロシアのモスクワに生まれた。父親は病院に勤める医師で、フョードルは7人きょうだいの上から2番目、次男だった。
父親はかんしゃく持ちの厳格な男で、自分の子どもたちに直立不動の姿勢をとらせてラテン語を教え、聖書とロシア史の本を読ませた。フョードルは内向的で寡黙な子に育った。
13歳から3年間、私立学校の寄宿舎ですごした後、フョードルは16歳でサンクトペテルブルクの陸軍工科学校に入った。在学中だった18歳のとき、酒びたりになっていた父親が自分の農場で働く農奴に殺された。
父親の死によって、後見人から年金がもらえるようになったフョードルは学校を卒業し、陸軍に入った。彼は高い家賃を払って邸宅を借り、召使を雇って暮らした。気前のいいフョードルにつけこんで、使用人たち周囲の者は主人のツケで生活した。フョードルはどんどん借金をしてそれをまかなった。そしてとうとう借金で首がまわらなくなった彼は、借金を清算し、年金をもらう約束と引き換えに、自分の相続権を後見人に売り渡した。そうして、23歳のとき、陸軍をやめて小説執筆に専念しだした。
25歳の年に処女作『貧しき人々』を発表。デビュー作は好評をもって迎えられた。
ドストエフスキーはそのころ、ミハイル・ペトラシェフスキーという外務省の翻訳官が主宰するユートピア的社会主義の勉強会に参加していたが、この会員がいっせいに逮捕され、ペトラシェフスキーとドストエフスキーを含む21名に銃殺刑の判決が下った。28歳のドストエフスキーは仲間とともに刑場へ引っ張り出され、柱にくくられた。射撃主たちが銃をかまえた。そのとき、勅令書が読み上げられ、流刑に減刑されることが伝えられた。ドストエフスキーは柱から引き離され、シベリアへ送られた。
33歳の年に出獄した後、ドストエフスキーはさらに5年間、兵隊として服役しなくてはならなかった。そして、ようやく軍務から解放されたドストエフスキーは、40歳のとき、シベリア体験をもとに書いた『死の家の記録』を発表。以後、賭博に手を出しては借金を作り、返済と締め切りに追われながら小説を書きつづける生活を送った。実体験のこもった『賭博者』や、四大長編『罪と罰』『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』を書いた後、1881年1月、サンクトペテルブルクで没した。59歳だった。

ドストエフスキーは、世界文学の頂点の一つである。

小学校のとき『罪と罰』を読んだ。強烈な印象で、これこそ小説だと感じたが、その感想はいまでも変わっていない。
どういうことかというと『罪と罰』では、ラスコリーニコフ青年が金貸しの老婆を殺す。殺人にいたるまでのディテイルがすでにすばらしいけれど、殺してしまった後がこの小説の本番である。これから彼は人間として自分にどう向き合っていくのか、どう生きていくのか、ということが後半で、ここが伝統的な本格小説だというのである。
対照的な例を挙げるならば、たとえば典型的な推理小説は、事件が起こって、探偵が謎を解き、犯人が特定されて終わる。これは本格小説ではない。罪を犯した犯人がこれからどう自分と向き合い生きていくのか、これを書くのが伝統的な本格小説だろう。その意味で『罪と罰』は本格小説の教科書である。ドストエフスキー、強烈な魅力の作家である。
(2022年10月30日)



●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。ゲーテ、ユゴー、ドストエフスキー、ドイル、プルースト、ジョイス、カフカ、チャンドラー、ヘミングウェイなどなど。文学の本質、文学の可能性をさぐる。


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10月29日・堀江貴文の啓示

2022-10-29 | ビジネス
10月29日は、ハレー彗星の出現を予言した天文学者、エドモンド・ハレーが生まれた日(1656年)だが、ホリエモンこと、実業家の堀江貴文(ほりえたかふみ)の誕生日でもある。

堀江貴文は、1972年、福岡の八女で生まれた。父親は自動車販売会社に勤めるサラリーマンだった。小学生のころから、家にあった百科事典を通読していたという貴文は、学校では成績優秀ながら協調性のない生徒だった。
中学時代からコンピュータにさわりだした彼はプログラミングをするようになり、通っていた塾のシステムを手伝ったりしていた。
東京大学の文科三類に合格。文学部の宗教科に進んだが、在学中にアルバイトでコンピュータを扱ううち、インターネットに出会い、1996年、24歳になる年に、ホームページ制作を請け負う会社オン・ザ・エッヂを設立し、大学を中退した。
彼の会社は一流企業のサイト制作を請け負うようになり、彼が30歳のときに、経営破綻した旧ライブドア社から営業権を取得し、ライブドアとなった。
その後、彼は、プロ野球球団の大阪近鉄バファローズ買収や、ラジオ局のニッポン放送の株式買収によるフジテレビ支配などを試み、いずれも成功しなかったが、彼とライブドアの知名度は一気に上がった。
2005年、彼が33歳になる年におこなわれた衆議院選挙では、自民党の支援を受けた無所属候補として、自民党から追われた亀井静香の地盤である広島6区の選挙区で立候補。結果、亀井に敗れ落選した。
翌年、証券取引法違反容疑で家宅捜索を受け、逮捕された。容疑は、ライブドア社の決算を粉飾して、赤字を黒字に見せようとしたというもので、堀江は無罪を主張して法廷闘争に入ったが、彼が38歳のとき、懲役2年6か月の実刑判決が確定し、堀江は収監された。堀江は刑務所のなかからもネットや出版などで情報発信を続けた。
40歳で、刑期の4分の1を残して仮釈放。釈放後は、宇宙開発事業など事業家としての活動のほか、執筆や講演活動によって世の注目を集めつづけている。

まだライブドア事件が発覚する以前、テレビ出演していたホリエモンは、
「いつでも頭はフル回転で考えてます。もう湯気が上がってますよ」
と発言していた。彼は好きでそうしているのだろうけれど、やはり実業家は大変である。

人によって、彼「ホリエモン」は、好き嫌いが真っ二つに分かれるだろう。
ホリエモンは、いかにもキャピタリスト(資本主義者)という感じがして、コミュニティー研究家にとっては、好き嫌い以前に縁がない人である。
ただ、彼の活躍は鮮やかだった。彼が身をもって示してくれたのは、お金をもっているとみんな注目して耳を貸してくれるという事実と、新たに台頭する新興勢力は旧保守勢力から徹底的にたたかれるという事実。現代日本を特徴づける二事実である。

保釈されて拘置所から出てきたとき、また、刑期を終えて刑務所から出てきたとき、堀江はすっきりとやせてスリムになっていて、惚れ惚れする二枚目青年だった。でも、娑婆に出てしばらくすると、また太ってホリエモンにもどってしまった。それがまた、あたかも、金満の象徴でもあった。
(2022年10月29日)



●おすすめの電子書籍!

『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、デュポン財閥のエルテール・デュポン、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。


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10月28日・嘉納治五郎の逆行

2022-10-28 | スポーツ
10月28日は、米マイクロソフト社の創業者、ビル・ゲイツが生まれた日(1955年)だが、柔道家の嘉納治五郎(かのうじごろう)の誕生日でもある。

嘉納治五郎は、万延元年10月28日(1860年)に、現在の兵庫の神戸で生まれた。父親は廻船業を広く営み、江戸幕府の廻船方御用達で、勝海舟の後援者だった。
年号が明治に変わった後、13歳のとき、明治政府に招聘された父といっしょに上京。東京大学に進み、学生時代から柔道を学びはじめた。
彼は大学卒業後、いよいよ柔道に熱を入れだし、自分が弟子入りした先の天神真楊流と、起倒流の二つの流派のよいところを取り入れ、それまでただ経験を積んでからだで覚える方式だった柔術を理論化し、新しい柔道の上達法を作り上げた。
22歳のとき、現在の台東区にある永昌寺の居間と書院を道場として借り、講道館を設立。囲碁や将棋から段位制を取り入れて弟子を集め、後進の育成に尽力した。
講道館を運営するかたわら、嘉納は学習院教頭、東京高等師範学校校長、第五高等中学校校長などを務め、現在の灘中、灘高の設立にも関わり、教育者としても活躍した。
中国人留学生の受け入れ施設として、彼は東京の牛込に弘文学院を解説し、後に作家となる魯迅はここで学んだ。
49歳で日本人初のIOC(国際オリンピック委員会)委員となり、76歳のとき、IOC総会で東京オリンピックの招致(1940年開催予定)に成功した。が、これは戦争のため返上され、嘉納たちの尽力は水泡に帰した。
1938年5月、エジプトのカイロで開かれたIOC総会からもどる帰国途中、氷川丸の船上で肺炎のため没した。77歳だった。

2000年、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が来日した際、嘉納治五郎を尊敬する大統領は多忙な日程のなか、ほかの用事を削って東京ドームの近くにある講道館を訪ねた。そして柔道着姿になり稽古をした。講道館側が柔道六段の名誉段位贈呈を提示すると、
「柔道家ですから、六段の帯がもつ重みをよく知っています。ロシアに帰って研鑽を積み、1日も早くこの帯が締められるよう励みたいと思います」
と大統領は丁重に辞退した。

嘉納治五郎が柔術を習いはじめた当時は、さむらいの時代が終わり、文明開化たけなわの時代だった。そんなハイカラな新時代に、いまさら武術を学ぼうというのは、まったく時代に逆行する方向性だったが、治五郎としては自分の体力が虚弱で、しばしば力の強いものにねじふせられるのを悔しく思っていて、なんとか非力な者でも力の強い者に勝てる方法を会得したいという願いからの行動だった。無論、家族は反対した。
この時代に逆行して大成したところが興味深い。逆行して一発当てようと狙ったのでなく、自分がやりたいとはじめた、その出発点が肝心である。

嘉納は言っている。
「人生には何よりも『なに、くそ』という精神が必要だ」(名言集.com: http://www.meigensyu.com/)
いかにも柔道家らしいことばだ。
(2022年10月28日)



●おすすめの電子書籍!

『アスリートたちの生きざま』(原鏡介)
さまざまなジャンルのスポーツ選手たちの達成、生き様を検証する人物評伝。嘉納治五郎、ネイスミス、チルデン、ボビー・ジョーンズ、ルー・テーズ、アベベ、長嶋茂雄、モハメド・アリ、山下泰裕、マッケンロー、本田圭佑などなど、アスリートたちの生から人生の陰影をかみしめる「行動する人生論」。


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10月27日・アイザック・シンガーの精力

2022-10-27 | ビジネス
10月27日は、ポーップアートのロイ・リキテンスタインが生まれた日(1923年)だが、ミシンを改良したアイザック・シンガーの誕生日でもある。

アイザック・メリット・シンガーは、1811年、米国ニューヨーク州のピッツタウンで生まれた。父親はドイツ系ユダヤ人だった。
19歳で最初の結婚をしたアイザックは、ニューヨーク州内の機械工場で働くなどした後、28歳のとき、岩盤掘削機械を発明し、この権利を2000ドルで売った。この利益で彼は、俳優一座を立ち上げ、米国各地を旅興行をしてまわった。
5年ほどの役者時代の後、シンガーはオハイオ州の印刷工場に勤めた後、35歳のとき、ペンシルベニア州のピッツバーグに引っ越し、木工所をはじめた。看板や木型を製作する工場だったが、ここで彼は「木や金属を彫刻する機械」を発明した。39歳のとき、マサチューセッツ州ボストンに行き、現地の工場で自分が発明した機械を組み立てていると、彼はそこでミシンの機械を組み立てている現場に出会った。彼はそのミシンをもっと使いやすく改良する方法を思いつき、曲がった針を使っていたのをまっすぐなものに変えるなど改良点を特許申請して、40歳のときに認められた。ミシンはそれ以前にもあったが、シンガーが作ったのが、はじめての実用に耐え得るミシンだった。彼はただちに新会社、I・ M・シンガー・アンド・コーポレーションを設立し、ミシンの製造をはじめた。
はじめ、仕立屋が使う機械だったミシンは、やがて家庭でも使われるようになり、世界的に普及していった。
大富豪となったシンガーは、フランスのパリ、英国のロンドンなどに住み、1875年7月、心臓病と気管の炎症のため、英国イングランドのペイトンで没した。63歳だった。

画期的発明であるミシンは、当初、シンガーの会社を含む5つの会社が発明の権利を主張していた。5社のあいだで法廷闘争が続いた後、シンガーが45歳のときに、5社の代表が一堂に会して話し合い、その席で、法廷で権利闘争をするよりも、特許をこの席にいるみんなが使えるようにしようという取り決めがおこなわれた。各社はミシンの大量生産に乗りだした。これが、パテントプールというやり方の世界最初の例で、さまざまな特許が集まって構成されているパチンコ台、コンピュータなど現代の精密機器の多くがこの方式で生産されている。

シンガーは19歳で結婚したのを皮切りに、生涯を通じて5人の女性に24人の子どもを産ませている。同じ成功した発明家でも、同じ富豪になった発明家でも、ダイナマイトを発明したノーベルと比べると、みごとなまでに対照的な恋愛遍歴で驚かされる。俳優一座を立ち上げた経歴からしても、おそらく、シンガーは楽天的な精力家で、後ろを振り返らない、前向きな性格だったろう。

シンガーは言っている。
「人生は神が書いた小説である。彼にもっと書かせようではないか。(Life is God's novel. Let him write it.」(Search Quotes: https://www.searchquotes.com/)
(2022年10月27日)



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『ビッグショッツ』(ぱぴろう)
伝記読み物。ビジネス界の大物たち「ビッグショッツ」の人生から、生き方や成功のヒントを学ぶ。フェイスブックのマーク・ザッカーバーグ、ソフトバンクの孫正義から、デュポン財閥のエルテール・デュポン、ファッション・ブランドのココ・シャネル、金融のJ・P・モルガンまで、古今東西のビッグショッツ30人を収録。大物たちのドラマティックな生きざまが躍動する。


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10月26日・トロツキーの生命力

2022-10-26 | 歴史と人生
10月26日は、作家、織田作之助が生まれた日(1913年)だが、ロシアの革命家、レフ・トロツキーの誕生日でもある。

レフ・トロツキーは、1879年10月26日(グレゴリオ暦だと日付が異なる)に、帝政ロシア統治下にあった、現在のウクライナのヘルソンに近いヤノフカ村で生まれた。本名は、レフ・ダヴィードヴィチ・ブロンシュテイン。両親ともユダヤ系で、広い農地をもつ富農だった。レフは8人きょうだいの1人で、上に姉や兄がいた。
レフは9歳のとき、黒海に面した港湾都市オデッサのドイツ人学校に入った。
読書家だったレフは、17歳ごろから政治活動に目覚め、共産主義運動に加わった。革命をあおる小冊子を作って配り、19歳のときに逮捕され、シベリア送りとなった。
23歳になる年に流刑先のシベリアから脱走し、英国ロンドンに渡って、機関紙発行にたずさわり、ロシアの帝政を倒す革命運動を海外からあおった。このころから彼が名乗るようになった姓「トロツキー」は、彼がロシアの拘留施設のなかで会った看守の名だという。
トロツキーは26歳のときロシアに帰国し、ゼネストに参加したが、逮捕され、またもやシベリア流刑を宣告された。が、移送中に脱走し、オーストリア、スイス、フランスへと渡り、ふたたび外国の亡命先から言論活動によって革命を叫びつづけた。
1914年、トロツキーが35歳の年に第一次世界大戦が勃発。
1917年、トロツキーが38歳の年に、ロシア革命。彼はロシアへ帰国し革命を指導した。
ロシア革命とはおおまかにいって、ロシア皇帝による帝政が倒される二月革命と、それによってできた臨時政府が倒されボリシェビキ(多数派)による支配が確立する十月革命の二つだが、トロツキーはとくに十月革命のときに指導力を発揮し、赤軍を創設し、ロシア革命の指導者であるレーニンにつぐナンバー2の地位にのぼりつめた。
トロツキーが45歳の年にレーニンが没すると、たちまち権力争いが起こった。レーニンは後継者をトロツキーと指名していたが、スターリンはその情報をにぎりつぶし、権力闘争に勝利した。スターリンはトロツキーの全役職を解任し、ソビエト連邦から国外追放した。
50歳のトロツキーはトルコ、フランス、ノルウェー、メキシコと亡命先を転々としながら、スターリン批判の発言を続け、著述活動を続けた。そうして、1940年8月、メキシコの隠れ家で、スターリンの放った暗殺者によって、登山用のピッケルを頭に打ち込まれ暗殺された。60歳だった。

映画「暗殺者のメロディ」は、メキシコに亡命中のトロツキーの晩年を描いたもので、トロツキーをリチャード・バートンが演じ、彼を手伝う女性秘書がロミー・シュナイダー、その恋人役がアラン・ドロンという豪華なキャストだった。このドロンが暗殺者になるわけで、ドロンの陰のあるムードがマッチした、印象深い映画だった。トロツキーの暗殺者はメキシコで20年の刑期を務めあげた後、ソ連へ行き勲章をもらったそうだ。

トロツキーは精力家で、革命運動や言論活動で忙しいなか、いつも女性と関係をもっていた。シベリア抑留中に女性と結婚し子どもをもうけ、メキシコでは女性画家のフリーダ・カーロとも関係をもっている。カーロと別れ、べつの女性に乗り換えた後に暗殺された。トロツキーは頭も切れたろうけれど、その強い生命力には脱帽する。
(2022年10月26日)



●おすすめの電子書籍!

『大人のための世界偉人物語2』(金原義明)
人生の深淵に迫る伝記集 第2弾。ニュートン、ゲーテ、モーツァルト、フロイト、マッカートニー、ビル・ゲイツ……などなど、古今東西30人の生きざまを紹介。偉人たちの意外な素顔、実像を描き、人生の真実を解き明かす。人生を一緒に歩む友として座右の書としたい一冊。


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10月25日・ガロアの流儀

2022-10-25 | 科学
10月25日は、画家パブロ・ピカソが生まれた日(1881年)だが、天才数学者エヴァリスト・ガロアの誕生日でもある。

エヴァリスト・ガロアは、1811年、フランスのパリ郊外の町ブール=ラ=レーヌで生まれた。父親は寄宿学校の校長だった。エヴァリストは3人きょうだいのまん中で、上に姉、下に弟がいた。
学校では成績優秀ながら反抗的で、やがて数学に熱中しだし、ほかの教科をかえりみなくり、中学生のときには難解な数学書を小説でも読むようにすらすらと読んでいた。
17歳で最初の論文「循環連分数に関する一定理の証明」を書き、数学の学者に託したが、それは黙殺され紛失してしまった。また同時期に父親が、教会から誹謗中傷を受けてノイローゼにおちいった末、自殺した。
そんなときに、理工科学校の入学試験を受けたエヴァリストは、口頭試問の試験官に腹を立て、試験官の頭にチョークを投げつけて退出してしまった。
ガロアは師範学校に進み、奨学金を受けてそこに通いだした。
勉学のかたわら、ガロアは数学の論文をフランス学士院に提出したが、それが担当者が亡くなる不運にみまわれ、また紛失してしまった。
ガロアは荒れ、不満を現行の政治体制にぶつけるべく、急進的な共和派の政治結社に加わり、政治活動に力を入れだした。
学校の体制にも批判的だったガロアは、19歳のときに放校処分となった。彼は書店で週に一度、代数学の講義を開きながら、さらに政治活動に身を入れた。
ガロアは解散させられた国民軍の制服を着て歩いたために逮捕され、禁固刑を受けた。刑務所内でも数学の論文を書いていたガロアは、20歳のとき仮釈放された。
出所したガロアは、若い女に恋をした。彼は言い寄ったが、女に拒絶され、女の情夫と、女の従兄との二人から決闘を申し込まれた。
死を予感したガロアは、決闘を前に徹夜し、数学論文を推敲し、数学のさまざまなアイディアをノートに書き綴った。その最後の余白にこう記して決闘場所へ向かった。
「もう時間がない」(L・インフェルト著、市井三郎訳『ガロアの生涯』日本評論社)
早朝の決闘で腹部を撃たれたガロアは、その場に放置され、数時間後に通りかかった農婦によって病院へ担ぎ込まれた。病院へ駆けつけた弟にガロアはこう言った。
「泣くな。ぼくも、ずいぶん、勇気が要る。二十歳で、死ぬんだ、からな。」(同前)
ガロアは決闘の翌日の1832年5月31日に没した。弱冠20歳だった。

数学の芸術的作品とされるガロアの群論は、あまりに時代に先駆けていたために当時の数学者たちには理解できず、ガロアの論文が評価されはじめたのは、彼の死後ようやく半世紀がたってからのことだった。

当時はフランス産業革命の時代であり、王政と市民がぶつかり、仏国内は騒然としていた。ガロアが熱烈な共和主義者だったこと、彼がたてつづけに2件の決闘を予定していたこと、負傷して放置されたことなどから、謀殺説も存在する。
はげしい生きざまだった。秀才ならいざ知らず、天才は生きるのがむずかしい。
(2022年10月25日)



●おすすめの電子書籍!

『科学者たちの生涯 第一巻』(原鏡介)
人類の歴史を変えた大科学者たちの生涯、達成をみる人物評伝。ダ・ヴィンチ、コペルニクスから、ガロア、マックスウェル、オットーまで。知的探求と感動の人間ドラマ。


●電子書籍は明鏡舎。
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10月24日・松前重義の背骨

2022-10-24 | 歴史と人生
10月24日は、イタリアの芸術家、ブルーノ・ムナーリが生まれた日(1907年)だが、日本の政治家、松前重義の誕生日でもある。

松前重義(まつまえしげよし)は、1901年10月24日、熊本の嘉島で生まれた。細川家につかえた武士の子孫で、父親は村長、母親は医者の娘だった。
中学時代から柔道に熱中した重義は、医者になろうと考えたが、母親に医者になるのを反対され、東北帝国大学の工学部電気工学科に進み、逓信省に入省した。
逓信省の役人時代、松前はプロテスタントの内村鑑三の知己を得て、正しいと信じる道を突き進み、教育によって豊かで平和な国を作ろうという志を立てた。
逓信省の松前は、当時雑音の多かった装荷ケーブル方式の電話線を、みずから改良した無装荷ケーブルに変え、長距離電話も明瞭な音声でやりとりできるようにした。
日米開戦の直前、40歳で逓信省工務局長に就任。戦時下で、後の東海大学となる航空科学専門学校、電波科学専門学校を作った。
若いころ、米国フォード社のベルトコンベア式の工場を視察し、その生産性の高さを知っていた松前は、戦時下の日本工業の生産能力を調査し、政府が発表する数字とは雲泥の差の惨憺たる数字を得た。こんな日本には米国を敵として戦争をする能力がないと結論。米国の工業生産統計の数字を天文学的なでまかせだと言い張る東条英機首相と対立した。東条は、米国の工場でも、日本や中国と同じく管理の観念がなく工員たちが意味なく右往左往しているはずだと信じていたらしい。
松前は、日増しにデマゴーグを強めてくる東条内閣を早く倒し、戦争を終わらせなくてはと、官僚や政治家、軍人などに説いてまわった。賛同した倒閣派はみな弾圧を受けた。
松前にも尾行がつき、食事にチフス菌が盛られ、暗殺者が仕向けられたが、彼はなんとか生きぬいた。そこへ召集令状が届いた。松前は42歳の高等官。本来召集されないはずの立場で、彼はあらゆる手を尽くして召集解除の運動をしたが、東条首相の圧力に役人も軍人も逆らえず、松前は出征をまぬかれなかった。
松前は最下級の二等兵として配属され、わざわざ弾薬を積んだ船に乗せられ、玉砕必至の激戦地行きを命じられたが、機転と人徳によって彼は奇跡的に生きて帰国した。43歳のとき、敗戦の2カ月前にようやく召集解除となった。
戦後、松前は、公職追放、追放解除をへて、51歳の年に社会党から衆議院議員に当選し、政治家となった。生涯学習を奨励し、民間ラジオ放送局の立ち上げや、スポーツを通じた国際交流に尽力、ソ連のモスクワに野球スタジアム、オーストリアのウィーンに日本武道館を建設した。ロサンゼルス五輪で金メダルをとった柔道の山下泰裕は松前の愛弟子で、山下が高校生のとき彼を見出し、山下の祖父と相談の上、東海大学の相模高校に転校させたのだった。松前は1991年8月に没した。89歳だった。

海軍の試算によると、松前のように、東条英機個人の私怨を晴らすために無理な召集を受け、合法的な処刑を仕組まれた者は72名に及ぶという。

いま、日本に松前重義の生きた全体主義の時代が再現されつつある。デマゴーグと弾圧、そして合法的な処刑の時代である。集団狂気の時代である。それでも松前や彼の協力者たちのように正気を保ち、長いものに巻かれずに生きる、ブレない背骨をもちたい。
(2022年10月24日)



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『誇りに思う日本人たち』(ぱぴろう)
同胞として誇るべき日本人三〇人をとり上げ、その劇的な生きざまを紹介する人物伝集。松前重義、緒方貞子、平塚らいてう、是川銀蔵、住井すゑ、升田幸三、水木しげる、北原怜子、田原総一朗、小澤征爾、鎌田慧、島岡強などなど、戦前から現代までに活躍した、あるいは活躍中の日本人の人生、パーソナリティを見つめ、日本人の美点に迫る。日本人ってすごい。


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10月23日・ジャニー喜多川の握手

2022-10-23 | ビジネス
10月23日は、「サッカーの王様」ペレが生まれた日(1940年)だが、事業家のジャニー喜多川の誕生日でもある。

ジャニー喜多川は、本名をジョン・ヒロム・キタガワといい、1931年に、米国カリフォルニア州ロサンゼルスで生まれた。父親は高野山の僧侶だった。
太平洋戦争中は、彼の一家は日系人の強制収容所に入れられていたこともあった。
戦後、ロサンゼルスの高校に入り、高校卒業後は、ロサンゼルス市立カレッジに進んだ。
19歳のとき、歌手の美空ひばりが米ロサンゼルス公演をおこなった際、ジョンは公演を手伝い、美空ひばりとその関係者の知遇を得た。
ジョンは21歳のとき、来日し、米国大使館員となり、通訳助手や朝鮮戦争の戦災孤児の対応などに従事した。日本の上智大学に入った喜多川は、24歳のころ、音楽のバンド活動をはじめ、31歳の年に芸能プロダクションを興した。
喜多川の愛称である「ジャニー」から、会社の名前をジャニーズ事務所とし、彼は若い少年をスカウトし、歌やダンスの練習をさせ、アイドル歌手として売り出すビジネスをはじめた。ジャニーズ事務所からは、フォーリーブス、郷ひろみ、田原俊彦、近藤雅彦、シブがき隊、少年隊、光GENJI、SMAP、嵐、などの大スターたちが輩出し、喜多川は芸能界、放送業界に隠然たる力をもつジャニーズ王国を築き上げた。
日本芸能誌史に残る大プロデューサー、ジャニー喜多川は、2019年7月、東京都内の病院でクモ膜下出血により没した。87歳だった。

ジャニー喜多川は、なかなか魅力的な人だったらしい。
たとえば、田原俊彦がまだデビュー前の高校生だったころ、週末になると甲府から電車で上京してレッスンに通ってくる田原の交通費はすべて喜多川がもち、さらに、田原が帰る際には新宿駅までかならず自分で見送りにいったという。
あるいは、SMAPの中居正広がリズム感が悪いので、喜多川みずからがカスタネットをたたいて、マンツーマンでレッスンした。

ジャニーズ事務所のアイドルグループ、KAT-TUNの亀梨和也が、テレビの歌番組で明かした逸話も興味深かった。
「オレが悪かったんですけど」
と前置きし、亀梨は以下の内容を語った。
あるとき、KAT-TUNがステージを務めている最中に、亀梨が歌か踊りを忘れてしまった。ステージを降りた後で、亀梨はKAT-TUNの同僚に食ってかかった。
「ああいうときは、うまくフォローしてくれよ」
すると同僚は、こう答えた。
「おれは自分のことでいっぱいいっぱいなんだよ」
「なんだよ、それは」
とつかみあいになりかかった。そこへ、わきで見ていたジャニー喜多川が手を差しだした。亀梨に握手を求めて、こう言った。
「仕事でけんか? かっこいいね」
身内による暴露話だから、多少の脚色はあるだろうけれど、なかなか味わい深い話である。
(2022年10月23日)



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『世界大詩人物語』(原鏡介)
詩人たちの生と詩情。詩神に愛された人々、鋭い感性をもつ詩人たちの生き様とその詩情を読み解く詩の人物読本。ゲーテ、バイロン、ハイネ、ランボー、ヘッセ、白秋、朔太郎、賢治、民喜、中也、隆一ほか。彼らの個性、感受性は、われわれに何を示すか?


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10月22日・キャパのセンス

2022-10-22 | ビジネス
10月22日は、大女優、サラ・ベルナールが生まれた日(1844年)だが、写真家ロバート・キャパの誕生日でもある。

ロバート・キャパは、1913年、ハンガリーのブダペストで生まれた。本名はフリードマン・エルネー・エンドレ。ハンガリーでは、日本と同様、姓名の順に書くので、彼のファーストネームはエンドレである。ユダヤ系の家系で、母親は婦人服の仕立屋を経営していて、父親はそこの裁縫師だった。エンドレは男ばかりの三人兄弟のまん中だった。
エンドレは早くから政治やジャーナリズムに目覚め、ギムナジウム(中高一貫校)の生徒だった17歳の年に、ゼネストのデモに加わって逮捕された。卒業後は、ドイツ・ベルリンへ行き、写真通信社に暗室係の助手として勤務しだした。19歳のとき、ロシアの革命家トロツキーがデンマークのコペンハーゲンにやってきたとき、エンドレは社命を受け、小型カメラをポケットに隠し持って駆けつけ、演説中のトロツキーを撮影した。この写真は、トロツキー本人が生存中に発表されたトロツキーの唯一の肖像写真となった。
エンドレが20歳になる1933年にナチス党のヒトラーが首相になると、はげしくなったユダヤ人迫害から逃れ、エンドレはフランス・パリへ脱出した。
パリで彼は2歳年上の女性ゲルダ・ポホリレスと出会い、恋に落ちた。ゲルダはドイツ生まれのユダヤ系の金髪美女で、二人は同棲し、エンドレが写真をとり、ゲルダがキャプションをつけて通信社に売り込む、あるいはゲルダも写真を撮るなど、チームを組んで仕事をするようになった。写真をもっと高く売るため、彼らは「ロバート・キャパ」という架空の人物を作り上げ、その有名な米国人カメラマンが撮った写真だとして売り込みはじめた。こうしてロバート・キャパが誕生した。
スペインで内戦がはじまると、キャパとゲルダは戦場へ乗りこんだ。このとき撮った戦場の死を象徴する写真「崩れ落ちる兵士」が雑誌に掲載され、23歳のキャパの名前は一躍世界に鳴り響いた。翌年、ゲルダはスペイン戦線で味方軍の戦車にひかれて死んだ。
ひとりになったキャパは、その後も戦場カメラマンとして、第二次世界大戦の連合軍に同行しノルマンディー上陸作戦の写真を撮り、パリ解放を撮り、戦後は写真家集団「マグナム」を結成し、第一次中東戦争を撮った。1954年5月、第一次インドシナ戦争に取材に行き、ベトナムの戦場で地雷を踏み爆死した。40歳だった。

キャパはピントがブレた、臨場感のある戦争写真だけでなく、画家のピカソや、女優のイングリッド・バーグマンなど、交友のあった著名人の肖像も撮っていて、そういうピントの合った写真も味わいが深い。

キャパが書いた『ちょっとピンぼけ(Slightly out of Focus)』を若いころに読んだ。
「もはや、朝になっても、起上がる必要はまったくなかった。(中略)私には時間など問題ではなかった。有り金といえば五セントのニッケル貨一枚きり──電話のベルでも鳴って、誰かが昼飯に呼んでくれるか、仕事の口でもくれるか、すくなくとも金でも貸してくれそうな話でもないかぎり、ベッドを離れるつもりは毛頭なかった。」(ロバート・キャパ著、川添浩史、井上清一郎訳『ちょっとピンぼけ』文春文庫)
ユーモアのセンス。二枚目だったキャパは、バーグマンほか数々の美女たちとつぎつぎと恋をし、いつもモテモテだった。魅力的な男というのはいるものだ。
(2022年10月22日)



●おすすめの電子書籍!

『映画女優という生き方』(原鏡介)
世界の映画女優たちの生き様と作品をめぐる映画評論。モンローほかスター女優たちの演技と生の真実を明らかにする。


●電子書籍は明鏡舎。
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