1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

8月31日・マリア・モンテッソーリの方法

2019-08-31 | 歴史と人生
8月31日は、ダンボールの芸術家・日比野克彦が生まれた日(1958年)だが、独特の教育法だ名高い医師・教育者のマリア・モンテッソーリの誕生日でもある。

マリア・モンテッソーリは、1870年にイタリアのキアラヴァレで生まれた。父親は公営のたばこ工場に勤める役人だった。父親の転勤で、ローマに引っ越したマリアは、13歳で工科学校へ進み、はじめ技師になるつもりだったが、後に医学の道を志した。
20歳でローマ大学に入り、23歳のときに医学コースに進んだ。イタリア最初の女子医学生となった彼女は、さまざまな面で差別された。大学の行き帰りは付け添いが必要で、男子学生たちが着席した後でないと講義室に入れてもらえなかった。彼女の優秀さに嫉妬する男子学生のいやがらせも多かった。そうしたハンディを乗り越え、小児科や救急医療の現場で経験を積んだ彼女は、26歳で大学を卒業しイタリアで初の女性医学博士となった。卒業後はローマ精神科クリニックで、心身障害児のケア、研究にあたった。
彼女は、精神の発達が遅れ、感情に障害がある子どもも、訓練することで、ふつうの社会生活を送るようになると考え、彼らを訓練する特別な学校施設を整備する必要を訴えた。モンテッソーリは雑誌に論文を発表し、新聞の取材に答えた。彼女は有名になり、彼女の講演には多くの人が詰めかけた。彼女は、女性を劣ったものとしてみなす男性側の論理の愚かさを批判する講演をおこない、各地の女性解放運動を盛り上げた。

モンテッソーリは、障害児の施設で、字が覚えられなかった子どもたちに、木で作ったアルファベット文字のおもちゃを渡すところからはじめて、ついに読み書きができるところまでもっていた。子どもたちに、読み書きの国家試験を受けさせると、外の一般の児童より優秀な成績をおさめ、奇跡だと大評判になった。
モンテッソーリはつぎに、ローマのスラム街の貧困層の幼児を集めた「子どもの家」で教育の研究を重ね、「モンテッソーリ・メソッド」と呼ばれる教育理論を確立した。これは、子ども自身のなかにある「自分を発達、向上させようとする力」を開花させるべく、子どもの「1 自由にまかせる。」「2 取り組みに集中する。」「3 達成感を得る。」という手順によって、子どもたちの自己発達を促そうというもので、「子どもの家」の成果を受けて、イタリア各地に「子どもの家」ができた。
モンテッソーリ・メソッドは、世界各国で支持され普及していき、彼女は欧州のほか、米国、インドでも受け入れられた。
1952年5月、モンテッソーリは脳出血のため、ネーデルランドで没した。81歳だった。

精神科クリニック時代、マリア・モンテッソーリは、同僚の医師と恋に落ち、28歳の年に未婚のまま男の子を出産した。彼女は結婚よりも仕事を続けることを選び、二人は子どもを田舎の乳母に預け、たがいに誰とも結婚せずにいる約束を交わした。が、男性医師がべつの女性と結婚して裏切り、マリアは大学病院を去った。彼女は息子が十代になるころに引き取って、いっしょに暮らすようになった。息子は成長し、母親のパートナーとして、モンテッソーリ教育の普及に努めた。
女性に閉ざされていた医学の道を切り開き、画期的な方法論を教育分野に開いた。母子家庭のシングルマザーだったモンテッソーリは、自立した新しい女性の偉大な先駆者だった。
(2019年8月31日)


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『女性解放史人物事典 ──フェミニズムからヒューマニズムへ』(金原義明)
平易で楽しい「読むフェミニズム事典」。女性の選挙権の由来をさぐり、自由の未来を示す知的冒険。アン・ハッチンソン、メアリ・ウルストンクラフトからマドンナ、アンジェリーナ・ジョリーまで全五〇章。人物事項索引付き。フェミニズム研究の基礎図書。また女性史研究の可能性を見通す航海図。


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8月30日・井上陽水の復活

2019-08-30 | 音楽
8月30日は、映画女優キャメロン・ディアスが生まれた日(1972年)だが、シンガーソングライターの井上陽水の誕生日でもある。

井上陽水は、1948年、福岡で生まれた。本名は、井上陽水と書いて「いのうえあきみ」と読む。姉と妹にはさまれた3人きょうだいのまん中だった。父親は元軍医で、歯科医だったため、陽水は歯科医になることを期待された。
中学生ごろからビートルズを熱中して聴いていた彼は、九州の歯科大学の受験を3年続けて失敗し、歯科医になる道を断念して、一転して歌手を目指すことにし、上京した。
21歳のとき、ラジオ番組に自作のテープが放送されたのをきっかけに、アンドレ・カンドレという芸名でレコード・デビュー。しかし、曲はヒットせず、3枚のシングルを出してアンドレ・カンドレは終わった。
24歳のとき、芸名を井上陽水(ようすい)とし、シングル「人生が二度あれば」で再デビュー。つぎの曲「傘がない」で注目され、3枚目の「夢の中へ」がヒット。さらに「心もよう」「闇夜の国から」などをリリースし、アルバム「氷の世界」が大ヒット。吉田拓郎と並ぶフォークソングの旗手となった。
玉置浩二のバンド「安全地帯」は、陽水のバックバンドをしていた後にデビューを果たしたもので、彼らの「ワインレッドの心」「恋の予感」は陽水の作詞による。陽水はそのほか、中森明菜の「飾りじゃないのよ涙は」の作詞作曲、PUFFYのデビュー曲「アジアの純真」の作詞なども手がけた。

はじめて聴いた井上陽水の曲は「夢の中へ」だった。「さがしものはなんですか? 見つからないですか?」と問いかけておいて、さがすのをやめたら見つかるということもありますから、ひとまずさがしものはやめて、踊りましょう、ぼくといっしょに「夢の中へ」行きましょう、という軽薄な内容で、ラジオでよく流れていた。
こういうものすごくいい加減な軽さを突き詰めた曲が、パフィーに提供した「アジアの純真」で、この詞は、ナンセンスに音の調子でことばをつなぎ合わせた、シュールレアリスム詞の傑作である。

そうかと思えば、切実で真摯な詞も書いて、たとえば「傘がない」の詞は、衝撃的だった。「都会では自殺する若者が増えている」と新聞にあるけれど、そんなことより問題は、いま、きみに会いに行くために必要な傘がないことだ、外は冷たい雨が、と続く。

思いきりいいかげんで不埒な遊び心と、真摯で深刻な精神性が矛盾しながら同居、それが井上陽水のユニークさである。もともと人間とは、そういうものだろう。それにしても、大学受験を二浪してあきらめ、音楽で大成した運命の綾は興味深い。
(2019年8月30日)



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『デヴィッド・ボウイの思想』(金原義明)
デヴィッド・ボウイについての音楽評論。至上のロックッスター、ボウイの数多ある名曲のなかからとくに注目すべき曲をとりあげ、そこからボウイの方法論、創作の秘密、彼の思想に迫る。また、ボウイがわたしたちに贈った遺言、ラストメッセージを明らかにする。ボウイを真剣に理解したい方のために。


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8月29日・マイケル・ジャクソンの歌唱

2019-08-29 | 音楽
8月29日は、韓国の俳優ペ・ヨンジュンが生まれた日(1972年)だが、米国の歌手、マイケル・ジャクソンの誕生日でもある。

マイケル・ジョセフ・ジャクソンは、1958年、米国インディアナ州のゲーリーで生まれた。父親は製鉄所の従業員だった。貧しい家庭のきょうだいたちは、男だけの兄弟で音楽グループを組み、父親からベルトで打たれながらレッスンを受け、クラブに出演し、コンテストに出るようになった。マイケルも5歳のころからグループに参加した。
マイケルが8歳のとき、彼らは「ジャクソンファイブ」を結成。モータウン・レコードと契約し、11歳のときに「帰ってほしいの」でデビュー。マイケルがリードボーカルをとったこの曲は、いきなり全米チャートのナンバーワンに輝いた。
マイケルは、13歳のときにソロとなり、映画の主題歌「ベンのテーマ」をヒットさせた。以後、プロデューサーのクインシー・ジョーンズと組んで「オフ・ザ・ウォール」「スリラー」「バッド」など、大ヒットアルバムを連発し、その人間離れした華麗なダンスで、世界をあっと言わせた。
33歳のときに発表したアルバム「デンジャラス」からは、クインシー・ジョーンズと離れ、マイケルはメッセージ性の強い楽曲で独自色を打ちだした。そうして以後、人種差別反対、世界平和、児童保護、人種を超えた友愛などのメッセージを、音楽を通じて世界に向けて発信しつづけた。
音楽活動のほか、慈善事業、チャリティー活動も意欲的で、世界でもっとも多くの慈善団体をサポートしたポップスターだった。
2009年6月、英国でのコンサートの準備中に、米国ロサンゼルスで没した。50歳だった。死因は、麻酔薬であるプロポフォールの急性中毒で、謀殺説もささやかれている。

マイケルは生前、子どもたちを自宅の遊園地に招いていっしょに遊んだり、子どもたちといっしょにステージに立ったりした。そうやって、世界の未来をになう子どもたちを大切にとアピールし、世界の友愛を説いた。マイケル本人は幼いころからステージに立って働かされたため、小学校もまともに行っていない。ふつうの少年時代というものを過ごしたことがない。だから、よけいに子どもたちに、子どもらしい時代を過ごさせたいという思いがあったのだろう。

マイケルというと、まず、そのダンス・パフォーマンスの魅力に目がいくのはもちろんだけれど、彼のもうひとつの魅力は、その切々とした歌唱にある。
1990年代だと思うけれど、マイケルが東欧をコンサート・ツアーでまわった際の映像を見ていて気づいた。コンサート会場は、まるで1960年代のビートルズのコンサート風景のようで、詰めかけた東欧のファンたちは、ステージでマイケルが失恋の歌などを泣きそうな感じで情感たっぷりに歌い上げると、叫び、もらい泣きし、興奮して倒れ、失神して運びだされる者までいた。マイケルの、あの一所懸命、心をこめて歌っている姿勢が人の心をつかむのである。マイケルの歌は、心にひびく。いい歌手だった。
(2019年8月29日)


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『ロック人物論』(金原義明)
ロックスターたちの人生と音楽性に迫る人物評論集。エルヴィス・プレスリー、ボブ・ディラン、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ジミー・ペイジ、デヴィッド・ボウイ、スティング、マドンナ、マイケル・ジャクソン、ビョークなど31人を取り上げ、分析。意外な事実、裏話、秘話、そしてロック・ミュージックの本質がいま解き明かされる。


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8月28日・ゲーテの前進

2019-08-28 | 文学
8月28日は、ロシアの文豪レフ・トルストイが生まれた日(1828年8月28日、ユリウス暦による)だが、ドイツの文豪ゲーテ(1749年)の誕生日でもある。

ヨハン・ヴォルフガング・ゲーテは、1749年、ドイツのフランクフルトで生まれた。
ゲーテは7歳のときに天然痘にかかり、顔が変わった。彼の叔母は、
「まあ、いやだ! この子はなんと不器量になったんでしょうね!」
と叫んだ。(菊盛英夫訳「詩と真実」『ゲーテ全集第九巻』人文書院)
ゲーテは16歳のとき、ライプツィヒ大学に入り法律を学んだ。22歳でフランクフルトへ帰郷し、弁護士をしながら、戯曲『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』を書いた。
22歳のとき、ゲーテは失恋を体験し、これをもとに書簡体小説『若きヴェルテルの悩み』を書き上げ、25歳のときに出版。失恋した主人公ヴェルテルが自殺するこの小説は、たちまち若者のあいだに大反響を呼び、全ヨーロッパに自殺を流行させた。これがゲーテの疾風怒濤時代で、彼は一躍有名作家になった。
26歳のとき、ヴァイマル公国の公爵から招かれ、ゲーテはその地へ越した。ゲーテは年下の公爵といっしょに、野に山に酒に女にと遊びまわていたが、33歳のとき、貴族に列せられ、公国の宰相となった。これで貴族の称号「フォン」が付き、彼は「ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ」となった。
47歳のとき、教養小説『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』を完成。その後、自叙伝『詩と真実』、科学論文『色彩論』、詩集『西東詩集』などを書いた。
1832年3月、世界文学の至宝『ファウスト』を書き上げた翌日、没した。82歳だった。

『君よ知るや南の国』は、ゲーテの長篇小説『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』のなかのミニヨンの挿話を独立させたものである。サーカス団でムチ打たれる少女ミニヨンに同情し、ヴィルヘルムはお金を出し彼女を引き取る。ミニヨンは歌う。
「君よ知るや 南の国
 木々は実り 花は咲ける
 風はのどけく 鳥はうたい
 時をわかず 胡蝶舞い舞う」(堀内敬三訳)
わたしを南の国イタリアへ連れていってよと歌いかける。小学校のころに読んだこの詩を読むと、いまでも悲しみがこみあげてくる。

ゲーテは、人生上のどんな嵐や災難にもめげず、つねに前に踏みだしていく、不屈の精神の人だった。ゲーテは言っている。
「財産を失ったのは──いくらか失ったことだ!
 すぐ気をとりなおして、新しいものを手に入れよ。
 名誉を失ったのは──多くを失ったことだ!
 名声を獲得せよ。
 そうすれば、人々は考え直すだろう。
 勇気を失ったのは──すべてを失ったことだ!
 そのくらいなら、生まれなかった方がいいだろう。」(高橋健二訳「温順なクセーニエン」第八集)
(2019年8月28日)



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『世界文学の高峰たち』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。ゲーテ、ユゴー、ドストエフスキー、ドイル、プルースト、ジョイス、カフカ、チャンドラー、ヘミングウェイなどなど。文学の本質、文学の可能性をさぐる。


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8月27日・宮沢賢治の巨

2019-08-27 | 文学
8月27日は、岩波書店の創業者・岩波茂雄が生まれた日(1881年)だが、詩人・宮沢賢治の誕生日でもある。

宮沢賢治は、日清戦争が終わった翌年の1896年、岩手県の花巻で生まれた。父親は質屋、古着屋の経営者で、賢治は5人きょうだいのいちばん上だった。
15歳のころから短歌を作りだした賢治は、18歳のとき、漢和対照の法華経を読み、深い感動を覚えた。盛岡高等農林学校に進んだ彼は、農業を学びながら、「歎異抄」の集中講話を聴きにいくなど、仏教への傾倒を強めた。
22歳の年、農林学校を卒業。卒業論文は「腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値」で、卒業後は同校の研究生となった。同年、肋膜炎でひと月ほど静養したが、これが彼に生涯つきまとう結核のはじまりだった。このとき彼は友人に、
「自分のいのちもあと十五年あるまい」
と予言したという。(『新潮日本文学アルバム12宮沢賢治』新潮社)
24歳の年、研究生を終了。助教授へ推薦してくれる話があったが、これを断って、法華宗の在家団体である国柱会に入会。
25歳になる年の1月23日の夕方、宮沢賢治はひとりで火鉢にあたり、考えごとをしていた。すると、棚の上から日蓮の本が2冊落ちてきて、彼の背中を打った。瞬間、
「さあもう今だ。今夜だ」
日蓮聖人に背中を押されたと感じた彼は、そのまま家を出、汽車に乗って上京した。東京の国柱会の本部で布教活動をしながら、友人の勧めにしたがい、童話を書いた。
同年、妹が病気との報をけて帰郷。花巻の農学校教師となり、数学や英語、農学、土木学などを教えた。教師稼業のかたわら、詩や童話を書き、28歳の年に『春と修羅』を自費出版。このころ『注文の多い料理店』『銀河鉄道の夜』などを書いた。
30歳になる年に『オツベルと象』を雑誌へ発表し、高校を退職。
以後、肺炎で寝込んだりしながら、農家のための肥料設計や稲作指導をし、詩や童話を書きつづけた後、1933年9月、肺結核により、花巻の実家で没した。37歳だった。

「心象のはひいろはがねから
 あけびのつるはくもにからまり
 のばらのやぶや腐植の湿地
 いちめんのいちめんの諂曲(てんごく)模様
(正午の管楽よりもしげく
 琥珀のかけらがそそぐとき)
 いかりのにがさまた青さ
 四月の気層のひかりの底を
 唾つばきし はぎしりゆききする
 おれはひとりの修羅なのだ」(「春と修羅(mental sketch modified)」)

宮沢賢治は、安定した助教授の職を断り、病床にあった亡くなる前日にも訪ねてきた農家の人のために無理をして起き、肥料の相談に乗った。その夜、容態が急変して死んだ。
ひとつ方向を決め、極めようとする禁欲的、求道的な姿勢。そして、大地と宇宙がつながり、現世と冥界がつながった魔的な広がり。これが宮沢賢治の魅力である。宮沢賢治は、藤原定家、松尾芭蕉、北原白秋と並ぶ、日本最高の詩人のひとりである。
(2019年8月27日)



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『しあわせの近道』(天野たかし)
しあわせにたどりつく方法を明かす癒し系マインド・エッセイ。「しあわせ」へのガイドブック。しあわせに早くたどりつくために、ページをめくりながら、しあわせについていっしょに考えましょう。読むだけで癒されるしあわせへの近道、ここにあります。


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8月26日・アポリネールの感性

2019-08-26 | 文学
8月26日は、質量保存の法則の化学者ラヴォアジエが生まれた日(1743年)だが、詩人アポリネールの誕生日でもある。

ギヨーム・アポリネールは、1880年、イタリアのローマで、ポーランド貴族の娘が産んだ私生児として誕生した。モナコやカンヌ、ニースの学校に通ったアポリネールは、19歳のとき、ベルギーに滞在して詩や短編小説を書いていたが、宿代が払えなくなって、母親のいる仏国パリへ夜逃げした。
パリでは、家庭教師をし、春本の原稿を書きながら、ジャリ、マチス、ピカソ、ジャコブ、アンリ・ルソーなどの芸術家たちと交友を深め、雑誌に詩を発表した。
27年のとき、ピカソの紹介でマリ・ローランサンと出会い、恋に落ちた。句読点をすべて排除した詩集『アルコール』や、文字を図形状に配置した詩集『カリグラム』など、前衛的な詩を発表し話題を集めた。『アルコール』に収録された、ローランサンとの別れをうたった「ミラボー橋」はシャンソンにもなった。
1914年、第一次世界大戦が勃発すると、34歳のアポリネールは志願入隊し、砲兵隊に配属された。失恋の痛手から志願したとも言われる。
35歳のとき、戦場で頭部を負傷。開頭手術を受けた。
まだ戦時下だった1918年、詩集や戯曲を出版し、結婚したが、大流行したスペイン風邪(インフルエンザ)にかかり、同年11月に没した。38歳だった。

ジャン・コクトーは言っている。
「アポリネールとピカソの名前は引き離すことができない。誰もピカソ以上には描かなかったし、アポリネール以上には書かなかった。」(窪田般彌訳「アポリネール」『ジャン・コクトー全集第四巻』東京創元社)

詩「ミラボー橋」はこうはじまる。
「ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
    われ等の恋が流れる
   わたしは思ひ出す
 悩みのあとには楽しみが来ると

    日も暮れよ 鐘も鳴れ
    月日は流れ わたしは残る」(堀口大学訳『月下の一群』新潮文庫)

詩「僕がかなたで戦死したなら」はこんな感じではじまる。
「僕が前線のかなたで戦死したなら
 いつの日かお前も泣いてくれるだろうか おおルウよ愛する女よ
 そして僕の思い出も消えてなくなろう
 前線で炸裂する砲弾が消え果てていくように
 花咲くミモザにも似たあの美しい砲弾が」(窪田般彌訳『アポリネール詩集』小澤書店)

折々の心情を、伸びやかに、瑞々しくうたうアポリネールの感性が、いい。こんな世の中では、たまにはアポリネールを読まないと、正気でいられない。
(2019年8月26日)


●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち 第二巻』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。サド、ハイネ、ボードレール、ヴェルヌ、ワイルド、ランボー、コクトー、トールキン、ヴォネガット、スティーヴン・キングなどなど三一人の文豪たちの魅力的な生きざまを振り返りつつ、文学の本質、創作の秘密をさぐる。読書家、作家志望者待望の書。


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8月25日・バーンスタインの勘

2019-08-25 | 音楽
8月25日は、映画俳優ショーン・コネリーが生まれた日(1930年)だが、作曲家・指揮者のレナード・バーンスタインの誕生日でもある。

レナード・バーンスタインは、1918年、米国マサチューセッツ州のローレンスで生まれた。生まれたときの本名は、ルイス・バーンスタインだったが、家族やまわりの人が「レナード」と呼び、本人も気に入って、16歳のときに「レナード・バーンスタイン」に改名した。両親はウクライナからやってきたユダヤ人の移民夫婦で、父親は化粧品店をやっていた。
小さいころのレナードは、なにもやる気のない、ろくに笑ったこともない子どもだった。10歳のとき、彼は自宅の屋根裏部屋で、古いピアノを見つけた。彼の両親はピアノを弾かず、親戚の叔母が置いていったものだった。レナード少年は、ちっと触ってみて、たちまち演奏の喜びに打たれたという。
「その瞬間から、音楽は永遠に私のものになり、翌日には、私はもう別人のようでした。」(レナード・バーンスタイン、エンリーコ・カスティリオーネ共著、西元晃監訳、笠羽映子訳『バーンスタイン 音楽を生きる』青土社)
ピアノをはじめたバーンスタインは急に成績優秀な、スポーツもやる積極的な少年に生まれ変わった。しばらくは自分で和音を作りピアノを弾いていたが、やがて、近所にピアノ教師を見つけてレッスンに通いだし、やがて彼が逆に教師にショパンを教えるほどになった。そのピアノ教師の勧めによって、彼はもっと高いレッスン料をとる教師のところへ通いだし、そのお金を捻出するために、ジャズ・バンドでピアノを弾きだした。
17歳でハーヴァード大学の音楽学部に入り、20歳のとき、自作曲を曲目リストに入れたピアノ・リサイタルを開催。21歳で大学を卒業した後は、フィラデルフィの音楽院で指揮、ピアノ、オーケストレーションを学び、23歳で卒業。
第二次世界大戦中の1943年、25歳の年に、バーンスタインはニューヨーク・フィルハーモニック管弦楽団の副指揮者となった。同年の11月、ブルーノ・ワルターの代役を務め、大成功。以後、米国やイスラエルの音楽監督をへて、39歳のとき、ニューヨーク・フィルの音楽監督に就任。指揮の身ぶりが派手すぎると非難を浴びたりしつつも、カラヤン、ショルティらとともに、世界のクラシック界のスターとして君臨した。指揮のほか、バーンスタインは、ピアノ曲、交響曲、ミュージカルなどの作曲も手がけ、ヒット曲「トゥナイト」を含む映画「ウェスト・サイド物語」の音楽も彼の作品である。
1990年8月、弟分の小澤征爾が音楽監督を務めるボストン交響楽団を指揮した後、同年10月、肺気腫により没した。72歳だった。

バーンスタインは天才肌の人で、カラヤンが論理力と意志力で音楽を構成するところ、バーンスタインは勘でそれをおこなって、流麗、華麗な演奏を作り上げた。

バーンスタインは、肺気腫の診断を何度も下されていたが、それでもたばこをやめられなかった。彼の吸うたばこの煙で、先に奥さんが亡くなった。やもめになった彼はしばらくのあいだ、落ち込み、絶望し、死んだも同然だったらしい。それでも、
「けれども、もし私が今、突然、煙草を吸ったりお酒を飲んだりするのを止めたら、私は明日には死んでしまうでしょう。」(同前『バーンスタイン 音楽を生きる』)
天才バーンスタインは、人間くさい人だった。
(2019年8月25日)



●おすすめの電子書籍!

『大音楽家たちの生涯』(原鏡介)
古今東西の大音楽家たちの生涯、作品を検証する人物評伝。彼らがどんな生を送り、いかにして作品を創造したかに迫る。バッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ショパンから、シェーンベルク、カラヤン、ジョン・ケージ、小澤征爾、中村紘子まで。音に関する美的感覚を広げる「息づかいの聴こえるクラシック音楽史」。


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8月24日・ブローデルの海

2019-08-24 | 歴史と人生
8月24日は、イタリアのヴェスビアス火山が噴火し、ポンペイの町が火山灰に埋もれて消滅した「ポンペイ最後の日」(西暦79年)だが、歴史学者ブローデルの誕生日でもある。

フェルナン・ブローデルは、1902年、仏国の北東部、独国との国境に近いロレーヌ地方のリュメヴァル=アン・オルノワという村で生まれた。父親は小学校教師だった。子どものころからラテン語とギリシア語を勉強していたフェルナンは、歴史と詩を書くのが好きだった。彼は医者になりたかったが、父親は息子の意見に反対で、結局フェルナンは大学で歴史学を学んだ。
21歳から30歳のころまで、彼は北アフリカのアルジェリアの中学などで教師をし、そのときに地中海に魅了された。
帰国後はパリで教師をしていた彼は、第二次世界大戦がはじまると、兵役につき、38歳になるすこし前にドイツ軍の捕虜となった。捕虜収容所で、後に『地中海』として発表される歴史学論文を書き、1945年、終戦の年、43歳になるすこし前に解放された。
戦後は教師、社会学の研究所の研究員、市民大学の教授などをした。
47歳のとき、大著『地中海』刊行。その後も大幅に手を入れ、改訂を続けた。
54歳のとき、学術雑誌「アナール(「会報」の意)」の編集長となり、アナール学派と呼ばれる歴史学者の中心となり、多くの後進を育てた。
77歳のとき、『物質文明・経済・資本主義』刊行。
死ぬ間際まで旺盛な執筆活動を続けたブローデルは、大作『フランスの歴史』の執筆途中の1985年11月、没した。83歳だった。

ブローデルによれば、資本主義の本質は昔からなんら変わっていず、ただ、地中海のヴェネチアを、アムステルダムがまねし、それをロンドンがまねし、それをまたニューヨークがまねして、世界経済の重心が移動しただけなのだという。そうかもしれない。

ブローデルの『地中海』は、16世紀後半の地中海を、いくつもの時間の層の重なりと見て、ていねいにその層をいく重にも描きだしたものである。
地理的な時間……自然、環境、構造などの長期的な時間の流れ
社会的な時間……人口動態、国家、社会史などの中期的な時間の流れ
個人の時間……個人的な体験や、刻々と変化する情報などの短期的な時間の流れ
ブローデルは、歴史にはこうした多様な時間の流れが重層的に積み重なっていて、たがいに影響しあいながら、また矛盾しあいながら、厚みをもって存在している、それを『地中海』によって表現したかったようだ。彼は、エリック・ウェーバー、トインビー、シュペングラーについて言及した上で、こう書いている。
「私は、他でもない、この種の命題がはらんでいる、あまりに単純な物の見方と大げさな説明に、闘いを挑んできたのだ。」(浜名優美訳『地中海V』藤原書店)
だから、『地中海』で著者が言いたかったことをひと言でまとめるなら、
「歴史はひと言に要約できない。ただし、全体としての大きな時間の流れはある」
ということになるのかもしれない。
それにしても、この大作の草稿を、資料のない捕虜収容所で、記憶を頼りに書いたというのはすごい。
(2019年8月24日)



●おすすめの電子書籍!

『コミュニティー 世界の共同生活体』(金原義明)
ドキュメント。ツイン・オークス、ガナス、ヨーガヴィル、ロス・オルコネスなど、世界各国にある共同生活体「コミュニティー」を実際に訪ねた経験をもとに、その仕組みと生活ぶりを具体的に紹介する海外コミュニティー探訪記。人と人が暮らすとは、どういうことか?


●電子書籍は明鏡舎。
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8月23日・キース・ムーンの波紋

2019-08-23 | 音楽
8月23日は、詩人、三好達治が生まれた日(1900年)だが、ロックバンド「ザ・フー(The Who)」のドラマー、キース・ムーン(1946年)の誕生日でもある。

キース・ジョン・ムーンは、1946年、ロンドンのミドルセックスで生まれた。小さいころのキースはいつも動きまわって落ち着きがなく、とりとめなく空想にふける子どもだった。キースは12歳のとき、地元のバンドに加入し、最初ラッパを、やがてドラムを叩くようになり、学校帰りにドラムのレッスンに通った。当時の彼は他人にいたずらをすることと、家庭用の科学実験セットで実験するのが大好きで、とくに爆発に異常な関心をもっていた。
15歳のころ、テクニカルカレッジに入り、通信技術を学んだ。
ムーンは、ドラミングを教わった師匠たちが大きな音をたてて叩くタイプのドラマーだったこともあって、大きな音で、早く叩くのを好んだ。
昼間は会社の営業部で働きながら、夜はセミプロ・バンドのドラマーとして演奏する生活を送っていたムーンは、18歳のとき「ザ・フー」のメンバーとなった。
ムーンの加入によって、フーは活力にあふれたロックバンドとなり、天才ギタリスト、ピート・タウンゼントとともに破壊的なステージを繰り広げ、スターダムにのしあがった。タウンゼントが腕を振りまわしてギターを弾き、最後にはエレキギターをステージに叩きつけて壊し、ムーンはドラムセット蹴り倒し、スピーカーを押し倒した。ムーンがドラムに爆薬をしかけてコンサート中に爆発させ、メンバーともども大けがをしたこともあった。
フーは「マイ・ジェネレーション」「ピンボールの魔術師」「ババ・オライリー」「バーゲン」「無法の世界(Won't Get Fooled Again)」「フー・アー・ユー」などの名曲を発表。ショットガンのようにかき鳴らされるピート・タウンゼントのギターと、はげしく炸裂するキース・ムーンのドラム・ビートによって大成功した。
32歳の当時、ムーンは英国ロンドンに住んでいたが、アルコールとドラッグのために、長くドラムスティックをにぎっていられないほど、からだがボロボロの状態だった。依存症から立ち直るため、アルコールを絶っていたムーンは、医師から禁断症状をわやらげる薬を処方された。この鎮静剤は、アルコールといっしょに服用すると生命に危険だった。
1978年9月、ムーンは恋人といさかいを起こし、怒鳴った。
「いやなら出ていけ、くそったれ。(If you don't like it, you can fuck off!)」
彼女が出ていくと、彼は鎮静剤を32錠、口に放りこんだ。翌日の午後、恋人が様子を見にいくと、ムーンはすでに死んでいた。享年32歳だった。

亡くなる前年の1977年、31歳のキース・ムーンは米国カリフォルニア州、ロサンゼルスの西方、マリブに近いトランカスビーチに住んでいた。金持ちの大きな家が数軒あるだけの見晴らしのいい土地で、ムーンの家のとなりはたまたま映画俳優のスティーヴ・マックイーンの屋敷だった。マックイーンは隣家の乱痴気騒ぎ絵に怒ってムーンの家にショットガンをぶっ放したり、酔って海岸で溺れかけていたムーンを助けたこともあったらしい。

ムーンは、ロック・ミュージシャンでなかったら、ただの奇行好きの犯罪者だったかもしれない。彼のように才能があって、かつ常軌を逸した人物といっしょにいたまわりの人は、さぞや大変だったろうけれど、彼といっしょに人生の時を過ごせたのは幸福である。
(2019年8月23日)



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『ロック人物論』(金原義明)
ロックスターたちの人生と音楽性に迫る人物評論集。キース・ムーン、エルヴィス・プレスリー、ボブ・ディラン、ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ミック・ジャガー、キース・リチャーズ、ジミー・ペイジ、デヴィッド・ボウイ、スティング、マドンナ、マイケル・ジャクソン、ビョークなど31人を取り上げ、分析。意外な事実、裏話、秘話、そしてロック・ミュージックの本質がいま解き明かされる。


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8月22日・北原怜子の決断

2019-08-22 | 歴史と人生
8月22日は、「亜麻色の髪の乙女」「海」の作曲家クロード・ドビュッシーが生まれた日(1862年)だが、社会奉仕家、北原怜子(きたはらさとこ)の誕生日でもある。

人呼んで「アリの町のマリア」北原怜子は、1929年、大恐慌がはじまる寸前に、東京杉並区の馬橋で生まれた。父親は大学の農学の教授で、怜子はその三女だった。
戦時中は学徒動員により飛行機工場で働いていた怜子は、20歳の年に、薬学の専門学校を卒業。21歳のとき、杉並区の高円寺にある光塩女子学院に併設されたメルセス修道院で洗礼を受け、カトリック信者となった。霊名はエリザベス、堅信名はマリアだった。
21歳のときに彼女は台東区の浅草へ引っ越した。そうして、隅田川にかかる言問橋(ことといばし)のほとりにあった、焼け跡から運ばれてきた土の捨て場にある「アリの町」を知った。アリの町は、バタ屋(廃品回収業)をする貧しい浮浪者の寄り集まった集落で、その職業から周囲からしばしば差別を受けていた。北原怜子はアリの町を訪ね、子どもたちと交流するようになった。しかし、通って手伝っているうちは、しょせん安全な場所にいて見下している傲慢な施しにすぎないと思いいたり、23歳のとき、アリの町に引っ越し、そこの住人となって、土地の人々といっしょに暮らし、いっしょにごみを集めはじめた。ピアノを弾き、音楽会に足を運び、スペイン語を習っていたお嬢さまが、高校教師の口を断って、ゴミ屋になった。「教授令嬢があき缶拾い」と新聞に取り上げられ、「アリの町のマリア」として有名になった。彼女はアリの町の子どもたちを箱根旅行へ連れだし、運動会を開催し、共同募金や戦犯死刑囚助命の運動を展開し、24歳になる年に、著書『蟻(あり)の街の子供たち』を出版した。
1958年1月、過労に腎臓病が重なり、アリの町で没した。28歳だった。

北原怜子がキリスト教に心ひかれるようになったのは、焼け野原となった東京で、戦争中は日本人たちからずいぶん迫害を受けていた外国人修道女のシスターたちが、戦前と変わらないやさしい態度でもって、日本人に接しているのを見て、打たれたのだった。世の中はすべてが変わったが、変わらぬものもある、と。
それで怜子は、妹が学校へ進むにあたり、光塩女子学院を強く推した。それが縁で、彼女は光塩女子学院を運営しているメルセス会に入信するようになった。

メルセス修道院はもともと、十字軍の時代のヨーロッパで、イスラム教徒が捕虜にしたキリスト教徒たちを奴隷としてアフリカへ連れ去るのを、解放する基金を集めようとはじめられた団体だった。そして、人質解放用の資金が足りないため、後には、修道士たちがみずから犠牲となり、一人の修道士がひとりの捕虜の身代わりとなって奴隷となり、そうやって捕虜の解放をはじめた。
「その名ごりで、今日でもなお、メルセス会の修道女になるには、清貧、貞操、従順のほかに、『必要があれば、教外者のために生命を捨てる』ことを誓うことになっています。」(松井桃樓『アリの町のマリア 北原怜子』春秋社)
北原が洗礼を受けたのは、この話に感銘を受けたためだった。
(2019年8月22日)



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『誇りに思う日本人たち』(ぱぴろう)
誇るべき日本人三〇人をとり上げ、その劇的な生きざまを紹介する人物伝集。松前重義、緒方貞子、平塚らいてう、是川銀蔵、住井すゑ、升田幸三、水木しげる、北原怜子、田原総一朗、小澤征爾、鎌田慧、島岡強などなど、戦前から現代までに活躍した、あるいは活躍中の日本人の人生、パーソナリティを見つめ、日本人の美点に迫る。すごい日本人たちがいた。


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