1日1話・今日の話題のネタ

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『誇りに思う日本人たち』
『ビッグショッツ』
『黒い火』ほか

9月20日・アプトン・シンクレアの挑戦

2017-09-20 | 文学
9月20日は、音楽バンド「オフコース」の小田和正が生まれた日(1947年)だが、「アメリカのゾラ」こと作家アプトン・シンクレアの誕生日でもある。

アプトン・ビール・シンクレア・ジュニアは、1878年、米国メリーランド州のボルチモアで生まれた。父親はお酒のセールスマンで、アルコール中毒だった。
父親であるアプトン・シニアは、商売がうまく行かず、家は貧しかったが、母親の一族はみな富裕層の人たちで、ジュニアは母方の祖父の家に滞在したりして、お金持ちの暮らしと貧乏家庭の暮らしの両方を見ながら育った。
ジュニアが10歳のとき、一家はニューヨークへ引っ越した。
14歳になるすこし前に彼はニューヨーク私立大学に入学し、19歳の年に卒業した後、コロンビア大学でも学んだ。彼は大学で法律を専攻したが、作家志望で、学生時代から子ども向けの冒険物語やジョークの小咄を書いて生活費を稼いでいた。
アプトン・シンクレアは、しだいに社会主義思想に目覚めるようになり、26歳のとき、社会主義新聞の「理性の訴え」紙の依頼を受け、シカゴへ取材調査に行った。シンクレアは、食肉加工工場に潜入調査をし、小説『ジャングル』を書き上げ、出版されると、それはたちまち大ベストセラーとなった。小説に描かれた労働者たちの苛酷な境遇もさることながら、返品されてきたカビの生えたソーセージを再加工して国内市場へまた送りだすといった食品工場のずさんな衛生管理を描いた部分が問題となり、連邦調査官がシカゴに派遣され、食肉検査法案が成立した。
28歳のとき、シンクレアは『ジャングル』で得た資金を注ぎ込んで、ニュージャージー州のエングルウッドに土地を購入し、「ヘリコン・ホーム・コロニー」というコミュニティーを創設した。これは、シンクレアなりの理想とする共同生活を実現しようとしたもので、100戸の家を建て、そこで野菜や肉やミルクなどを自給しようという計画だった。ヘリコンは創設して住人と従業員合わせて70人が暮らすようになったが、創立の翌年、火災で焼け落ちてしまった。
シンクレアは、その後、映画化された『石油!』や、『世界の終わり』シリーズなどを書き、1968年11月、ニュージャージー州のバウンドブルックで没した。90歳だった。

「ヘリコン・ホーム・コロニー」というコミュニティー(共同生活体)を作ったからみで、シンクレアを知った。『ジャングル』はすこし読んだことがある。平易で、とても真摯な態度で書かれた作品だった。

世界の資本主義の総本山である合衆国では、社会主義は一般的にはとても嫌われる。
そんな社会のなかでも、やはりシンクレアのような人が出る。だからこそ、社会は改善されていくので、彼がいなかったら、経済効率を信奉する資本家の思惑通りに事態が進み、食中毒で死ぬ米国人はまだまだ増えつづけていたにちがいない。
コミュニティーは焼け落ち、政治家としても成功できなかったけれど、彼の人生は、いいトライ(挑戦)だった。シンクレアのことばにこういうものがある。
「全体主義とは、資本主義に殺人を足したものだ。(Fascism is capitalism plus murder.)」
(2017年9月20日)



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『コミュニティー 世界の共同生活体』(金原義明)
ドキュメント。ツイン・オークス、ガナス、ヨーガヴィル、ロス・オルコネスなど、世界各国にある共同生活体「コミュニティー」を実際に訪ねた経験をもとに、その仕組みと生活ぶりを具体的に紹介する海外コミュニティー探訪記。人と人が暮らすとは、どういうことか?


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9月19日・ツイッギーの不思議

2017-09-19 | ビジネス
9月19日は、トランペッターのニニ・ロッソが生まれた日(1926年)だが、ファッションモデル、ツイッギー(1949年)の誕生日でもある。「ミニスカートの女王」である。

ツイッギーは、1949年、英国ロンドン郊外のニースデンで生まれた。本名は、レズリー・ホーンビー。父親は大工で、母親は印刷工場で働いていた。レズリーの上に年の離れた姉が二人いて、上の姉はレズリーと15歳、下の姉は7歳ちがいだった。
小さいころから母親に裁縫を習い、自分で服を作っていたというレズリーは、子どものころ「ツイッグ(小枝)」というあだ名で呼ばれていた。
高校に通っていた1966年、彼女は17歳になるすこし前に、雑誌「ウーマンズ・ミラー」のカバーモデルとなった。きわめて細く芸術的で、子どものように華奢(きゃしゃ)で、無性別的なその容姿は、当時の若者文化が花開いたおしゃれなスウィンギング・ロンドンのムードにぴったりと合い、また当時発表されたミニスカートのブームとも重なり、彼女はたちまち注目され、トップモデルとなり、時代の象徴的存在となった。
美容師をしていた恋人は彼女のマネージャーとなり、彼女に「ツイッギー」と名乗るよう説得し、「ツイッギー」の名は、その小枝のような細いスタイル、ボーイッシュに短くカットした髪、そして黒い長いまつげのイメージとともに、たちまち世界へ響き渡った。
1967年に来日し、日本中に「ミニスカートの女王」フィーバーを巻き起こした。日本女性のあこがれの的となった彼女のサイズは、身長165センチメートル、体重は41キログラムで、まだ18歳だった彼女の年収は1000万ドル(当時のレートで36億円)と言われた。
ツイッギー自身は、自分の外見についてこう言っていた。
「わたしは自分の見てくれを嫌っていた。だから、みんな、頭がおかしくなってしまったと思ったわ(I hated what I looked like, so I thought everyone had gone stark raving mad.)」
22歳のとき、映画「ボーイ・フレンド」に出演し、ゴールデングローブ賞主演女優賞を受賞。その後も、モデル、映画女優、歌手として活躍を続けて現在にいたっている。

ツイッギーはその昔、森永のチョコフレークというお菓子のテレビCMに出ていた。とてもやせっぽちの人たちだった。

1990年代になると、クラウディア・シファー、シンディ・クロフォード、ケイト・モスなど「スーパーモデル」がもてはやされる時代になったが、ツイッギーは彼女らの先駆で、「世界最初のスーパーモデル」と言われる。
でも、ツイッギーの存在感は、スーパーモデルの後輩たちとはだいぶちがう。1990年代のモデルたちは、みんな女性的でセクシーさがウリだけれど、ツイッギーはセクシーかセクシーでないかという次元の問題ではなく、人間離れした感じ、異星人的な印象をもっていて、それが彼女をして、ほかのモデルたちとはちがう、ある一時代の象徴たらしめている。あの異常な感じはすばらしい。デヴィッド・ボウイが歌った通り、まさに「ツイッグ・ザ・ワンダーキッド(不思議な少年、すばらしい子ども)」だった。
(2017年9月19日)



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『デヴィッド・ボウイの生涯』(金原義明)
緊急出版。デヴィッド・ボウイ総論。至上のロックスター、デヴィッド・ボウイの人生、音楽、詞、方法論など、その全貌を明らかにする人物評論。遺作に込められたボウイのラストメッセージとは何か?


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9月18日・グレタ・ガルボの夢

2017-09-18 | 映画
9月18日は、振り子の実験で地球の自転を証明した物理学者レオン・フーコー(1819年)が生まれた日だが、映画女優グレタ・ガルボの誕生日でもある。

グレタ・ガルボは、1905年、スウェーデンのストックホルムで生まれた。本名はグレタ・ロヴィーサ・グスタフソン。父親は日雇い労働者、母親は裁縫仕事の内職をしていた。グレタが15歳のとき、父親が没し、彼女は理髪店の見習いをへて、デパートの売り子になった。帽子のカタログ用のモデルを務めたところ好評で、デパートの宣伝映画に出るようになり、これが映画関係者の目にとまり、彼女はコメディ映画の端役を演じた。そして、王立演劇学院に通い、演技の勉強をはじめた。
彼女が18歳のとき、スウェーデンの映画監督、マウリッツ・スティルレルが新作に起用する俳優を求めて、彼女の演劇学院にやってきた。スティルレルは、なるたけ素人らしい、もっとも成績の悪い生徒を紹介してくれるよう、学院側に頼んだ。それで紹介されたのがグレタだった。彼女を見たスティルレルは、こう叫んだという。
「もう10キロばかりやせてくれなきゃ!」(山田宏一編『シネアルバム12グレタ・ガルボ マレーネ・ディートリッヒ』芳賀書店)
スティルレルは彼女に「グレタ・ガルボ」という芸名を与え、新作映画「イェスタ・ベルリング伝説」のヒロインに抜擢した。映画は欧州で大ヒットし、これを観た米国のMGM映画社から、スティルレル監督に、ぜひハリウッドへとの誘いの声がかかった。このとき、スティルレルは、MGM側にひとつ条件をつけた。「グレタ・ガルボといっしょなら」と。19歳のガルボは監督といっしょに船で大西洋を渡り、ハリウッド入りした。
ハリウッドでは、スティルレル監督は活躍できず、ひとりスウェーデンに帰っていった。
一方、ガルボのほうは、3年ほどかけて大改造がおこなわれた。もじゃもじゃのちぢれ髪に、まばらな眉、ひどい出っ歯の肥った娘は、髪を伸ばし、ヘアスタイルを決め、眉を細くくっきりと描き、歯を嬌声し、ダイエットし、メイキャップを施し、絶世の美女「神聖ガルボ帝国」へと変身させられた。そして「明眸罪あり」「肉体と悪魔」などに主演し、ハリウッドを代表するスターになった。
23歳のとき、映画の撮影中にガルボは、恩人スティルレル監督がスウェーデンで没したとの報せを聞き、顔色をなくし、ことばを失ったという。
トーキー時代には「アンナ・クリスティ」「マタ・ハリ」「グランド・ホテル」「クリスチナ女王」「アンナ・カレニナ」「椿姫」「ニノチカ」などに主演。
36歳で引退し、その後は公の場を一切避け、ニューヨークでひっそりと暮らし、伝説の存在となった。1990年4月、腎不全と肺炎により没した。84歳だった。

若いころからガルボが大好きで、よく観た。あの大きく見開かれた目、恋をまっすぐみつめる眼がいい。「明眸皓歯」ということばをガルボの枕詞として知った。

現代の映画では、人生や恋愛を生々しく残酷に描くが、ガルボのころは恋愛至上主義と映画の法律で決まっていた。男も女も人を愛したら、相手のためにすべてを捧げ、すすんで犠牲となり命を捨てる。悪魔に魂さえ売る。ガルボはそういう美しい夢を映画が見せてくれた時代のヒロインだった。人が夢をみると書いて「儚い(はかない)」と読むけれど。
(2017年9月18日)



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『映画の英語名ゼリフ』(金原義明)
英語映画の名作から、元気になる名ゼリフ、癒される名文句の数々をピックアップして原語(英語)を解説。英語ワンポイン・レッスンを添えた新スタイルの映画紹介。「クリスチナ女王」「アナと雪の女王」「ハリー・ポッター」「バック・トゥ・ザ・フューチャー」「ブレードランナー」「燃えよドラゴン」「ローマの休日」「シェーン」「カサブランカ」「風と共に去りぬ」などなど歴代の名作が目白押し。これだけは聞き取りたいという輝く英語フレーズが満載。これであなたも映画英語の通人。


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9月17日・正岡子規の訓

2017-09-17 | 文学
9月17日は、プロゴルファーの石川遼(1991年)が生まれた日だが、歌人の正岡子規の誕生日でもある。

正岡子規は、慶応3年(1867年)9月17日に、現在の愛媛県松山市で生まれた。名は常規(つねのり)で、幼名は処之助(ところのすけ)といった。父親は松山藩の武士で、母親は藩の儒学者の娘、そのあいだに生まれた長男だった。
小学校に入る前から塾で漢文を素読していた子規は、13歳の年に愛媛中学に入学。ここで同級生になったのが後に海軍中将となる秋山真之で、彼と彼の兄で後に陸軍大将となる秋山好古、そして正岡子規の三人を軸に展開される司馬遼太郎の歴史小説が『坂の上の雲』である。
子規は16歳のとき中学を中退して上京。現在の東京大学に入った。哲学科で入った後、国文科に移り、このころから「子規」と号するようになった。大学で英文科の夏目漱石と知り合った後、中退した子規は、25歳のころに新聞「日本」の記者となった。
1894年、27歳になる年に日清戦争がはじまると、従軍記者として戦地へ向かった。戦争が終わり、日本へ帰ってくる船の上で喀血。以後、結核に苦しみ、療養のかたわら俳句雑誌「ホトトギス」を創刊し、『歌よみに与ふる書』を書き、俳句と短歌の革新に努めた。1902年9月、東京の根岸で没した。34歳の若さだった。辞世は、
「糸瓜(へちま)咲て痰のつまりし仏かな」

正岡子規が奈良で詠んだK音がきいた俳句、
「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」
は、子規の友人だった夏目漱石が、鎌倉で詠んだ句、
「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」
を下敷きにしたものである。漱石がこの句を子規に送り、子規はこれの推敲ヴァージョン、または本歌取りした返礼として詠んだ。そういうことを、学校を出てだいぶたった後に知った。二人の友情の結晶だとか、美談として語られるようだけれど、いまだったら、盗作だとか、パロディだとか騒がれるかもしれない。子規の句は「柿を食う」という動物的な感じがいいけれど、オリジナルである漱石の句の水彩画的な感じがとても好きである。また、漱石らしい。

正岡子規が「日本」の新聞社にいたころ、同郷の中学の後輩が上京してきて、就職の相談に子規のところへやってきたことがあった。後輩は、なるたけ給料のいい新聞社に入りたいと考えていたが、彼に向かって子規は故郷の方言でこう言った。
「人間は最も少ない報酬で最も多く働くほどエライ人ぞな。一の報酬で十の働きをする人は百の報酬で百の働きをする人よりエライのぞな。入の多寡は人の尊卑でない事くらゐ分つとろがな。人は友を擇ばんといかん。『日本』には正しくて学問の出来た人が多い。」(司馬遼太郎『この国のかたち 四』文春文庫)
この子規のことばは、胸の奥に血を吐きかけられたように痛切に響く。
(2017年9月17日)



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『小説家という生き方(村上春樹から夏目漱石へ)』(金原義明)
人はいかにして小説家になるか、をさぐる画期的な作家論。村上龍、村上春樹らの現代作家から、団鬼六、三島由紀夫、川上宗薫、川端康成、江戸川乱歩ら昭和をへて、泉鏡花、夏目漱石、森鴎外などの文豪まで。平成から明治へと時間をさかのぼりながら、新しい角度から日本の大作家たちの生き様を検討していきます。あわせて、これを読まずに死んだらせっかく生まれてきた甲斐が半減するという珠玉の小説作品を厳選し、実体験に基づき愛をもって解説。既成の文学評価を根底からくつがえし、あなたの読書体験を次の次元へと誘う禁断の文芸評論。

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9月16日・緒方貞子の名

2017-09-16 | 歴史と人生
9月16日は、画家の竹久夢二が生れた日(1884年)だが、国連で活躍した国際政治学者、緒方貞子の誕生日でもある。

緒方貞子は、1927年、東京で生まれた。母方の曾祖父が犬養毅首相で、父親は香港総領事を務めた外交官という名門だった。「貞子」の名前は犬養毅がつけた。
貞子は米国へ留学した後、33歳の年に結婚。生まれた子どもを育てながら、大学の非常勤講師をしていた彼女が41歳になる年に、市川房枝が訪ねてきた。戦前から婦人参政権運動の先頭をきってきた女性政治家、市川は、緒方に国連の代表団に加わって米国ニューヨークへ行ってくれないかと頼みにきたのだった。
緒方は承諾し、ニューヨークへ渡り、41歳で国連にデビューした。
49歳のころからは、国連の日本政府代表部に勤務し、1990年、63歳のときに8代目の国連難民高等弁務官(UNHCR)に就任した。
イラクによるクエート侵攻があったころで、緒方が就任すると、すぐにイラク国内のクルド人難民の問題が起きた。これは、当時のイラク・フセイン政権によるクルド人への攻撃から逃れようとしたクルド人難民が、トルコ国境へ押し寄せ、発生した問題だった。国内のクルド人によるテロ問題を抱えていたトルコ政府は、国境を閉じ、クルド人難民を追い返した。クルド人の難民はイラク国内から出られず、トルコにも入れてもらえず、国境近くの寒い山岳地帯で、食糧もテントもないまま立ち往生し、赤ん坊や幼児がばたばたと死んでいた。そこに立ち上がり、救いの手を差し伸べた高等弁務官が緒方貞子だった。
当初、UNHCRの事務所内では、UNHCRは手を出すべきではないという意見がすくなくなかったという。UNHCRは難民を救うのが任務だけれど、難民の定義は「国外にいて、迫害され危険な状態にある人々」なので、イラク国内にとどまっているクルド人は難民にあたらず、これを救うと救済の限度がなくなるから、と。
緒方はみんなの意見をひと通り聞いた上で、クルド人難民の救済を決定した。
「大切なのは、ルールを守ることでなく、命を救うことだ」
テント、食糧、医薬品などが難民たちに供給され、国連軍も平和維持に動いた。
その後も緒方貞子は、1992年のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争や、1994年のルワンダの大虐殺に際しても、つねに難民の立場に立って、救済を決定した。
2000年、73歳のときに高等弁務官を退任した後も、緒方はアフガニスタン復興支援国際会議、国際協力機構(JICA)など、国際協力をうながす組織で活躍を続けている。

UNHCR時代の緒方は、どこの国も自国の利益にならないからと手を出したがらないために、放置されたままになった紛争地帯へ進んで乗り込んでいき、危機に瀕している人々の声をその耳で聞き、彼らが必要としている手だてを敢然と実行した。弱者を重視する現場主義者であり、ルールを軽視する目的第一主義者だった。
偉大な人物が日本にもいた。彼女の英断によって多くの命が救われたアフリカには、「サダコオガタ」と名づけられた女の子が、あちこちにいる。
(2017年9月16日)



●おすすめの電子書籍!

『女性解放史人物事典 ──フェミニズムからヒューマニズムへ』(金原義明)
平易で楽しい「読むフェミニズム事典」。女性の選挙権の由来をさぐり、自由の未来を示す知的冒険。アン・ハッチンソン、メアリ・ウルストンクラフトからマドンナ、アンジェリーナ・ジョリーまで全五〇章。人物事項索引付き。フェミニズム研究の基礎図書。また女性史研究の可能性を見通す航海図。

●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.com



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