1日1話・今日の話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『誇りに思う日本人たち』
『ビッグショッツ』
『黒い火』ほか

9月30日・カポーティの挑戦

2016-09-30 | 文学
9月30日は、グラムロックの雄マーク・ボランが生まれた日(1947年)だが、『ティファニーで朝食を』の著者、トルーマン・カポーティの誕生日でもある。

トルーマン・ガルシア・カポーティは、1924年、米国ルイジアナ州のニューオリンズで生まれた。父親はセールスマンで、母親は17歳でトルーマンを産んだ。
トルーマンが4歳のとき、両親が離婚し、彼は母方の親戚の家を転々としながら育った。
子どものころ、この子は知能が低いのではないかとテストを受けに行かされたトルーマンば天才の折り紙をつけられて帰ってきた。
高校を中退し、18歳でニューヨークに出たカポーティは、雑誌「ニューヨーカー」の会計助手となった。が、すぐに引き算がまったくできないのがばれ、新聞の切り抜きをする部署へ転属になった。雑誌への企画や、演説の原稿を提供しながら、短編小説を書いた。
19歳のとき他社の雑誌に投稿した短編『ミリアム』でO・ヘンリー章を受賞。
2年ほどで会社を辞め、アラバマの親戚の家へ引きこもった。彼はそこで小説を書きだし、後にニューオリンズに部屋を借りて、さらに小説執筆を続けた。
そうして書き上げた長編小説『遠い声・遠い部屋』を23歳のときに発表。天才作家出現、と大評判になった。以後『夜の樹』『草の竪琴』『わが家は花ざかり』『クリスマスの思い出』『ティファニーで朝食を』を書き、42歳のときに、実際にあった殺人事件について綿密に取材調査した上で書き上げた『冷血』を発表すると、この作品は『風と共に去りぬ』以来と言われる大ベストセラーとなった。その後、長い沈黙をへて、社交界のゴシップに題材を得た『叶えられた祈り』を発表。一大センセーションとなり、ショックを受けた登場人物のモデルが自殺するなどの騒動を引き起こした後、1984年8月、カリフォルニア州ロサンゼルスの友人宅で、心臓発作により没した。59歳だった。

カポーティの『ティファニーで朝食を』は、拙著『名作英語の名文句』でもとり上げた。
若いころからのカポーティ・ファンで、小説や評論を含めて彼の文章は、翻訳本はすべて読んでいる。『ティファニー』と『叶えられた祈り』は英書でときどき読み返す。
きれのある、密度の濃い文章を書く文章の天才人だった。性格がすごく悪い人で、彼が来日したときは三島由紀夫がとても親切にしたのに、三島が渡米した際はカポーティはけんもほろろだったらしい。

若いころ、カポーティは不眠症で悩んだことがあった。どうしても眠れないカポーティは、いろいろ記録を調べた結果、人類史上いまだ不眠のせいで死んだ者はいないということを知った。「死因、不眠症」という例はない、と。
そいつはおもしろい。ならば、どこまで眠れないか起きていてやろうじゃないか。「人類初の不眠症で死んだ男」。いいじゃないか。そう考えて、ずっと起きていることにした。そうしたら、4日くらい起きていたら、どうしても眠くなって、寝てしまった。
そこで、眠れなくて困っている人に会うと、かならず、いっそ眠らないよう勧めることにしている。
「だって、あなたがこれから先、どんなたいしたことをしでかすかわからないけれど、案外そうたいしたこともしでかさないまま死んでしまうかもしれない。それを思えば『人類初の不眠症で死んだ人』になれたら、たいしたものじゃないですか」
(2016年9月30日)


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『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』(越智道雄選、金原義明著)
「ティファニーで朝食を」「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。

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9月29日・ネルソン提督の精神

2016-09-29 | 歴史と人生
9月29日は、『ドン・キホーテ』の作者セルバンテスが生まれた日(1547年)だが、大英帝国の英雄ネルソン提督の誕生日でもある。

ホレーショ・ネルソンは、1758年、英国イングランド東部のノーフォークのバーナム・ソープ村で生まれた。父親は村の教区牧師だった。
父親が病気で家計が傾いたこともあり、ホレーショは12歳のとき、海軍の艦長をしていた親戚のつてで海軍に入った。
昇格試験を通過して、20歳ではじめて自分の船を指揮する艦長となった。
フランス革命が起きた際には、艦長として地中海の戦線に参加し、フランス軍の艦艇と戦闘。36歳のときに参加したコルシカ島北部の攻略戦で右目を失明した。
39歳のとき、アフリカ大陸北西部、モロッコ沖の大西洋にあるカナリア諸島で、スペイン軍と戦闘をまじえ、右腕を負傷し切断。これで片目、片腕となった。
ナポレオン率いるフランス軍がエジプト遠征をおこなった折には、艦隊を率いて地中海を進み、アレクサンドリアの沖でナイルの海戦を戦い、フランス艦隊を撃破。これによって周囲を囲まれ、絶体絶命のピンチにおちいったナポレオンは、味方を見捨て、少数の軍勢だけを連れてフランスへ逃げ延び(敵前逃亡し)パリでクーデターを起こし、権力を掌握することになる。ナポレオンを追いつめ、彼に大ばくちを打たせた男、それがネルソンである。
その後、ネルソンは47歳のとき、スペインとアフリカ大陸モロッコにはさまれたジブラルタル海峡の西方の大西洋で英国艦隊を率い、フランス・スペインの連合艦隊に挑んだ。これがトラファルガー海戦で、彼は味方艦隊に手旗信号でこうエールを送った。
「英国はそれぞれすべての者がその義務を尽くすことを期待する。(England expects that every man will do his duty.)」
ネルソンは接近戦を挑み、フランス艦隊27隻を撃退する歴史的勝利をあげたが、みずからも敵の射撃を浴びて戦死した。 1805年10月。47歳だった。
彼の遺体はラム酒漬けにして本国まで運ばれ、国葬が営まれた。
ロンドンのトラファルガー広場の中央に、ネルソンの記念碑が建てられ、現在もネルソン提督像は記念碑のてっぺんからロンドンを見渡している。

アメリカ独立戦争時のアメリカ側大陸海軍を指揮したジョン・ポール・ジョーンズ司令官、日露戦争の日本海海戦で日本帝国海軍を指揮した東郷平八郎司令官と並び、ネルソンは世界三代提督のひとりとされる。

ネルソン提督は、第二次世界大戦前まで世界一の強国だった大英帝国の象徴だった。
しかし、ネルソン提督のような軍人の感覚は、現代の日本人一般人の感覚では理解しがたいものがある。ネルソン提督は、最後の一隻まで沈めるか、沈められるかのせん滅戦の主唱者だった。陸のナポレオン、海のネルソン。この時代から、戦争はせん滅戦となった。そういう戦争史のターニングポイントに位置する軍人である。
(2016年9月29日)



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9月28日・ブリジット・バルドーの愛

2016-09-28 | 映画
9月28日は、イタリアの映画俳優マルチェロ・マストロヤンニの誕生日(1924年)だが、フランスの映画女優ブリジット・バルドーの誕生日でもある。

ブリジット・バルドーは1934年、フランス・パリで生まれた。父親ルイ・バルドーは酸素、アセチレン・ボンベ製造工場の経営者で、木彫りのブーブー人形のコレクターだった。
ブリジットが小さいころ、父ルイが手相をみてもらった。みた女占い師は断言した。
「あなたの名前は世界的に有名になる」
父親ルイは自分の会社が世界的大企業になると勘違いし、大いに喜んだ。
裕福ながら、あれはしてはいけない、これはしてはいけないと束縛の多い家庭に育ったブリジットは、幼時からバレエを習い、美人の妹に強いコンプレックスを抱いて育った。
勉強嫌いの彼女は、将来バレリーナになることを夢見ていたが、やがて雑誌モデルに転身し、そのころ出会った映画脚本家ロジェ・ヴァディムと出会い、勧められて映画女優の道に入った。
そして、ヴァディムと熱烈な恋に落ち、18歳で結婚した。
22歳のとき、ヴァディムの初監督作品「素直な悪女」に主演。試写をみた主演男優クルト・ユルゲンスは、自分でなく、バルドーの名をトップにもってくるよう要請した。ブリジット・バルドーが男を惑わせる小悪魔を演じたこの作品は彼女を一躍、世界のセックス・シンボルに押し上げた(ヴァディムとは23歳で離婚した)。
以後、「可愛い悪魔」「何がなんでも首ったけ」「セシルの歓び」「ラムの大通り」などに主演、BBは世界の男性に崇拝される女神のイニシャルとなった。
映画女優のかたわら歌手としても活躍したが、39歳の年を最後に、芸能界から引退。以後は動物愛護運動の活動家になり、食用動物の苦痛を与えない屠殺、毛皮反対、犬やアザラシ、象などの保護を訴え、その知名度を利用して母国フランスほか各国の首脳に直接はたらきかけ、世界各国の動物保護政策を大きく前進させた。

バルドーのウエストは、最初の夫ヴァディムが両手で作った輪におさまるほど細かった。
セックス・シンボル「BB」の人気は絶大で、英国ビートルズのポール・マッカートニーやジョン・レノンも若いころ、ガールフレンドにバルドーのような髪型、髪色にさせていた。男性たちに憧れられる半面、女性たちからは目の敵にされ、彼女は見舞いに寄った病院のエレベーターでたまたま乗り合わせた看護婦に「あんたみたいな商売女なんかに」と顔を引っかかれたこともあった。
出番前の短時間にセリフを完璧に覚え、スクリ-ン上で圧倒的な存在感を発揮する美神は、名声や富にまったく興味を示さない、愛を信仰する純粋無垢な精神の持ち主だった。

ブリジット・バルドーは初めてサッカーの試合を見たときこう言った。
「ボールをもっとたくさんあげればいいのに。そうすれば喧嘩しないわ」(ロジェ・ヴァディム著、吉田暁子訳『我が妻バルドー、ドヌーヴ、J・フォンダ』中央公論社)

ほかにもバルドーは味わい深い名言を吐いている。
「男の人が何人も愛人を持てば人はドン・ファンと言うでしょう? 女が愛人をたくさん持つとふしだらだと言われるんだわ」(同前)

「夜、眠っている相手を見て、幸せで涙がこみ上げてくれば、それは本当に愛しているしるしだわ」(同前)
(2016年9月28日)


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『女性解放史人物事典 ──フェミニズムからヒューマニズムへ』(金原義明)
平易で楽しい「読むフェミニズム事典」。女性の選挙権の由来をさぐり、自由の未来を示す知的冒険。アン・ハッチンソン、メアリ・ウルストンクラフトからマドンナ、アンジェリーナ・ジョリーまで全五〇章。人物事項索引付き。フェミニズム研究の基礎図書。また女性史研究の可能性を見通す航海図。



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9月27日・ブハーリンの自己批判

2016-09-27 | 歴史と人生
9月27日は、米国の心理学者アルバート・エリスが生まれた日(1913年)だが、ロシアの革命家ブハーリンの誕生日でもある。

ニコライ・イヴァノヴィチ・ブハーリンは、1888年9月27日(グレゴリオ暦10月9日)に、帝政時代のロシアのモスクワで生まれた。両親は教員で、父親は数学者だった。
知的な環境で育ったニコライは、蝶や鳥の観察が好きな子どもだった。
17歳でロシア社会民主労働党に入党。レーニンが率いるボリシェビキ(多数派)に加わった。19歳でブハーリンはモスクワ大学に入り、法学を専攻したが、学生時代は政治活動に力を入れ、逮捕、投獄された後、23歳のころ大学を放校処分となった。
流刑罪を受けたが、脱走してドイツやへ亡命。オーストリア、スイスなどを転々としながら新聞投書や論文を発表して理論家として名を高め、トロツキーなどと親交を深めた。
29歳になる1917年に、ロシアで帝政を倒す二月革命(ロシア革命)が起きると、ロシアへ帰国し、革命指導者として加わった。同年の、共和制をひっくり返し、ボリシェビキ独裁へと移行する十月革命をへて、ブハーリンは党機関紙『プラウダ』の編集長となった。
彼が36歳のとき、レーニンが没した。たちまち党内に権力闘争が起き、ブハーリンは反スターリン側にまわったが、スタリーンに敗れ、役職をことごとく剥奪された。
スターリンが権力を掌握すると、ブハリーンは自分がまちがっていたと自己批判し、スターリン支持を表明して、46歳のころ、党の機関誌編集長となった。
48歳のころ、スターリンによる大粛清がはじまると、ブハリーンは日独伊のファシストの手先だと批判され、党を除名処分となり、逮捕された。ブハーリンは有罪を認め、1938年3月に銃殺刑となった。49歳だった。

高校時代の授業中、化学の教師の話がときどき、ソ連の大粛清の時代に及ぶことがあった。ロシア革命のリーダーだった人たちが、つぎつぎと裁判の被告になり、
「自分がまちがっておりました」
と自己批判した上で処刑されていったという話で、その代表格がブハリーンだった。納得して死刑になるとは、すごい人がいたものだと驚いたが、事実はすこしちがうと後に知れた。
これは、スターリンが、自分の敵となる可能性のありそうな者を片っ端から処刑しようとしたからのことで、ブハーリンが反革命的だったという証拠はスターリン側がねつ造したものだった。ブハーリンは不本意ながら、有罪を認めれば自分も家族も助けてくれるという裏取り引きをのんで有罪を認めた。でも、スターリンはもともと彼を有罪にし失脚させるのが目的でなく、殺すためにやっているのだから、約束など守られるはずがなく、目論見通りブハーリンは処刑された。これが実情だったようだ。
ブハーリンの公式な名誉回復がなされたのは、1980年代後半のペレストロイカ以降のことで、死後40年たってからのことになる。

スターリンの大粛清は大規模で、ブハーリンが処刑された1938年にはロシアで32万人以上が、前年の1937年には35万人以上が処刑されているというから壮絶である。ほとんどが政治犯で、もちろん殺されずとも有罪・刑を受けた者も同じくらいの数いる。

日本ではいま、右傾化、国民の無思考化、バッシングの集中、全体主義化が進んでいる。ブハーリンが没した「静かな生活の時代(沈黙の時代)」に近づいている。
(2016年9月27日)


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『つらいときに開くひきだしの本』(天野たかし)
苦しいとき、行き詰まったときに読む「心の救急箱」。どうしていいかわからなくなったとき、誰かの助けがほしいとき、きっとこの本があなたの「ほんとうの友」となって相談に乗ってくれます。いつもひきだしのなかに置いておきたいマインド・ディクショナリー。


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9月26日・ガーシュウィンの演奏

2016-09-26 | 音楽
9月26日は、哲学者マルティン・ハイデガーが生まれた日(1889年)だが、米国の作曲家、ジョージ・ガーシュウィンの誕生日でもある。

ジョージ・ガーシュウィンは、1898年、米国ニューヨーク市のブルックリンで生まれた。ユダヤ系ロシアの移民の息子だった。13歳のころ、ピアノと和声を習ったジョージは、16歳のとき、商業高校を中退して、音楽出版社に就職した。
18歳のとき、最初の歌曲「彼女が欲しいときは……」を出版。
19歳で出版社を辞め、ショーのピアノ伴奏の仕事をする演奏家、作曲家として活動をはじめた。ガーシュウィンは作詞家と組んで、流行歌の作曲をするようになり、21歳のとき、作曲した「スワニー」が大ヒット。22歳で「誰かが誰かを愛してる」「私は楽園への階段を建てる」がヒット。彼の作った流行歌の楽譜は飛ぶように売れた。
ポピュラー音楽を作る一方で、ガーシュウィンはクラシック音楽の作曲もし、26歳のとき、「ラプソディ・イン・ブルー」を発表した。ジャズとクラシックを融合させたこのアメリカらしいムーディーなクラシック作品は、新鮮な響きをもって世界に鳴り響いた。
その後、ガーシュウィンは管弦楽曲「パリのアメリカ人」、フォーク・オペラ「ポーギーとベス」などを書いた後、1937年7月、脳腫瘍摘出の手術を受け、意識がもどらぬまま没した。38歳だった。

ガーシュウィンは30歳のとき、「ボレロ」の作曲者モーリス・ラヴェルが米国にやってきたとき、ラヴェルに会った。そのとき彼はラヴェルに、フランスの作曲法を教えてほしいと頼んだ。しかし、53歳のラヴェルはこう言って、やんわりとその申し出をことわった。
「なぜあなたは二流のラヴェルになんかなりたがるのですか? あなたはすでに一流のガーシュウィンだというのに(Why do you want to become a second-rate Ravel when you are already a first-rate Gershwin?)」

20年以上前「題名のない音楽会」というテレビ番組の公開収録を見に行ったことがある。司会は作曲家の黛敏郎で、その回はたまたまガーシュウィンをとり上げていた。
冒頭、オーケストラの演奏がはじまり、ある小節まできたとき、ステージ中央に置かれた、ソニーの盛田昭夫の家から借りてきたという自動ピアノに黛が歩み寄って、端のキーにポンッと触れた。すると、自動ピアノが始動し、オーケストラといっしょになって演奏をはじめた。それは「ラプソディ・イン・ブルー」という曲だった。
曲の演奏が終わると、司会の黛が出てきてこう言った。
「いまピアノを演奏したのは、作曲者のジョージ・ガーシュウィン本人であります」
ガーシュウィンが生きていた時代には、録音装置はなかったが、ピアノ演奏をパンチカードにして記録する手段はすでに考案されていて、ガーシュウィンがこの曲を弾いたのを記録したロールカードが残っているのだった。
だから、自分はコンサートホールで、ジョージ・ガーシュウィンが自分の作品をピアノで演奏するのを聴いたことがある、数すくない日本人のひとりということになる。これは、ステイタスである。
「ラプソディ・イン・ブルー」は何回聴いたか知れない。
(2016年9月26日)


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9月25日・グレン・グールドの傲慢

2016-09-25 | 音楽
9月25日は、ノーベル賞作家、ウィリアム・フォークナーが生まれた日(1897年)だが、天才ピアニスト、グレン・グールドの誕生日でもある。

グレン・ハーバート・グールドは、1932年、カナダのトロントで生まれた。父親は毛皮商で、母親は声楽の教師でピアノを弾いた。母親は「ペール・ギュント」を書いた作曲家グリーグの遠縁にあたり、グレンを妊娠中、いつもピアノを弾き、生まれてくる赤ちゃんがピアニストになることを願っていた。生まれたグレンは幼いときから手が敏感で、群れるのを嫌い孤立を好んだ。彼は左利きだった。
5歳になったとき、グレンは母親に向かってこう宣言した。
「ぼく、コンサート・ピアニストになるんだ」(オットー・フリードリック著、宮澤淳一訳『グレン・グールドの生涯』青土社)
7歳でトロント王立音楽院に合格したグレンは、12歳のとき、トロントでのピアノ演奏コンテストで優勝。13歳でトロント交響楽団と共演しピアニストとしてデビュー。14歳で王立音楽院を最年少、最優秀の成績で卒業。
15歳の年に初リサイタルをおこない、以後、コンサート活動を精力的に続けた。
24歳のとき、バッハの「ゴルトベルク変奏曲」でレコードデビューし、ヒットチャートの1位を獲得。グレン・グールドの新しい解釈によるバッハは、世界に衝撃を与えた。
個性的、独断的な解釈による演奏と、アイドル的にルックスによって、グールドの人気は沸騰した。彼は、冷戦時代の東西を股にかけて世界中で演奏会を開いたが、1964年3月、31歳のときのシカゴでの演奏を最後にコンサート活動から引退し、それ以後はレコード録音と、ラジオ、テレビのための演奏のみをおこなった。
1982年10月、脳卒中のため入院していたトロントの病院で没した。50歳だった。

バッハのピアノ作品は、以前は禁欲的で重厚な解釈で演奏されていた。それをグールドはデビュー盤「ゴルトベルク変奏曲」で従来とはがらりとちがう、軽快で躍動感あふれるバッハを弾いて見せ、世界をあっと言わせた。

グールドのピアノ演奏の10枚組CDセットを、一時期ずっと聴いていた。バッハの「ゴルトベルク」のほか、ベートーヴェンやシェーンベルクも入っている。カラヤンやバーンスタインといっしょに演奏したのもある。
演奏はどれもよく、もちろん「ゴルトベルク」もよいのだけれど、悲しいかな、ほかのピアニストの「ゴルトベルク」を聴いたことがないので、グールドのどこが斬新なのかわからず、いいなあ、で聴き流してしまうのだった。ブタに真珠、かもしれない。

グールドは、作曲者の指示したテンポを変えて弾き、楽譜の記号をしばしば無視、または変更して弾いたそうだ。オーケストラといっしょに演奏する際、演奏前にわざわざ指揮者のバーンスタインがマイクを握って、
「わたしはこのテンポは正しくないと思うけれど、今日はピアニストの主張するテンポでやります」
とわざわざ観客にことわってから演奏をはじめたこともあった。同じピアニストのホロヴィッツにすこし分けてあげたいような、みごとな強気である。
(2016年9月25日)


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『大人のための世界偉人物語』(金原義明)
世界の偉人たちの人生を描く伝記読み物。エジソン、野口英世、ヘレン・ケラー、キュリー夫人、リンカーン、オードリー・ヘップバーン、ジョン・レノンなど30人の生きざまを紹介。意外な真実、役立つ知恵が満載。人生に迷ったときの道しるべとして、人生の友人として。


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9月24日・フィッツジェラルドの宿命

2016-09-24 | 文学
9月24日は、イタリアの天才、ジェロラモ・カルダーノが生まれた日(1501年)だが、米国作家スコット・フィッツジェラルドの誕生日でもある。

フランシス・スコット・キー・フィッツジェラルドは1896年、米国ミネソタ州のセントポールで生まれた。父親はWASPの血を引く籐製の家具工場の経営者だった。一方、スコットの母方の祖父は少年時代にアイルランドから渡ってきたアイルランド移民で、祖父は雑貨屋の見習いから身を起こし、商店を開業し、卸売業となって成功、一代にして富豪となった人物だった。その娘がスコットの母親である。
スコットが1歳のとき、父親の事業が破綻した。父親は会社勤めのセールスマンとなり、一家は米国東部でたびたび転居を繰り返した。
プリンストン大学に入学したスコットは、詩を書く学生だったが、在学中に第一次世界大戦がはじまると、大学を中退して陸軍に入った。軍隊に勤務中も小説を書いていたスコットは、22歳のとき、ゼルダ・セイヤーと出会った。上流WASP出身の彼女は美しい奔放な娘だった。彼らは恋に落ち、婚約した。そして、いったんゼルダ側から婚約を破棄した後に、ふたたび婚約し直し、結婚した。スコットが24歳、ゼルダは20歳だった。
結婚の前月に出版されたフィッツジェラルドの『楽園のこちら側』がベストセラーとなり、彼は一躍流行作家となった。
29歳になる年に『華麗なるギャツビー』、翌年には短編集『すべての悲しき若者たち』を出版して、ジャズ・エイジ、フラッパーという当時の風俗をとらえた米国の代表的作家となった。そして、フィッツジェラルドは、彼よりすこし遅れてデビューしたアーネスト・ヘミングウェイらとともに「失われた世代」と呼ばれるようになった。
フィッツジェラルドの文名は高まったが、彼の作品はそれほど売れず、国外旅行や豪奢な生活を好む妻ゼルダとの生活を支えるため、フィッツジェラルドは新聞や雑誌に短編小説を売り、映画のシナリオ書きをし、出版社に前借りをした。
1929年のウォール街での株価大暴落に端を発した世界恐慌のなか、パリ滞在中に妻ゼルダが精神病を発症した。当時ゼルダは、バレエのレッスンと飲酒に熱中してかろうじて精神状態を保っていたが、極度の不安状態におちいり、妄想を口走るようになった。彼女は何度か自殺未遂を起こし、パリ郊外の病院に入院したが、医師にさからって退院した。
その後、ゼルダの精神状態は1、2年ほどの小康状態をおいて繰り返し悪化した。妻にふりまわされる暮らしのなかで、フィッツジェラルドはアルコールびたりになりながら長編『ラスト・タイクーン』を執筆を続け、心臓発作を起こして倒れた。そして1940年12月、心臓麻痺により44歳で没した。
その8年後の1948年、ゼルダは入所していたノースカロライナ州アッシュヴィルの療養施設の火災事故に巻き込まれ、没した。47歳だった。

『華麗なるギャツビー』は、読んでいて胸にこみあげ、かつ、読後にいつまでも切なさが残る名作である。

フィッツジェラルドは、ゼルダに振りまわされ、おちついて長編作品に取り組めなかったとも言われるが、ゼルダの精神がおかしくなったのは、夫のせいだった部分もあろう。1日8時間集中して書いたフィッツジェラルドは文学のことになると急に夢中になり、激しやすく、嫉妬深くなった。いずれにせよ、彼らほど宿命の相手という感じのするカップルはなかなかいない。
(2016年9月24日)



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「華麗なるギャツビー」「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。

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9月23日・レイ・チャールズの旅興行

2016-09-23 | 音楽
9月23日は、白人のシンガーソングライター、ブルース・スプリングスティーンが生まれた日(1949年)だが、黒人シンガーソグライター、レイ・チャールズの誕生日でもある。

レイ・チャールズ・ロビンソンは、1930年、米国ジョージア州のオールバニで生まれた。「みんなをただ見上げるだけ、私たちの下には地面しかなかった」(レイ・チャールズ、デイヴィッド・リッツ著、吉岡正晴訳『わが心のジョージア レイ・チャールズ物語』戒光祥出版)という最下層の貧困家庭で、小さいころは外を歩くにも裸足だった。父親は鉄道工事夫で、べつに妻がいた。レイの母親とは不倫関係だった。不倫してレイと弟の2人の子をもうけながら、父親は妻と離婚し、レイの母親とはべつの女性と結婚した。
レイは3歳のころから、近所のカフェのピアニストに可愛がられ、ピアノを弾かせてもらっていた。彼が5歳のとき、4歳の弟が目の前で溺れ死に、それからしばらくしてレイの目からどろどろとしたヤニが出はじめた。医者は失明すると宣告した。それから2年間かけて、緑内障により彼の目は徐々に見えなくなっていった。
7歳のとき、無料で入れる全寮制の州立の盲学校に入学。学校でピアノを弾き、外のクラブでもピアノを弾いていたレイは、13歳のころに店の女性客と初体験をし、14歳のころには、借りたモーターバイクで街を走りまわっていた。当時すでに彼は全盲だったが、バイクの運転には絶対の自信をもっていた。
15歳になる年に母親が亡くなると、レイは学校を辞め、フロリダ州のジャクソンヴィルへ引っ越し自立することを決心した。つてを頼ってジャクソンヴィルの家に泊めてもらい、ナイトクラブのピアノのまわりをうろついては、仕事をさがし、しだいに演奏させてもらえるようになった。ジャクソンヴィル、オーランドー、タンパと、ふらりと新しい街に移っては、街のクラブでピアノを弾き、レイは自分の技術を磨いた。バンド仲間に見栄えが悪いと言われ、タンパで黒いサングラスを買い、それが彼のトレードマークとなった。
その後も西海岸のシアトル、ロサンジゼルスをへて、バンドのメンバーとして、全米各地の町々をめぐる演奏旅行に出た。ずっと旅興行に明け暮れる人生を送った。そうして21歳のときには、自家用車をもち運転手を雇っていた。レコードを出すようになり、彼は尊敬する歌手たちのまねでない、自分のオリジナルな歌い方を模索しだした。
25歳のとき、「アイヴ・ガット・ア・ウーマン(I've Got A Woman)」がヒット。このころ、伸びのある独特のボーカルスタイルを確立し、自分のバンドを率いるようになった。人種差別に苦しみながら演奏ツアーを続ける彼のリズム&ブルースは「ハレルヤ・アイ・ラヴ・ハー・ソー (Hallelujah, I Love Her So)」のヒット以降、白人層にも広まり、「旅立てジャック(Hit The Road Jack)」に代表される、女性コーラスと彼の男性ボーカルの掛け合いのスタイルを打ちだすと、バンドは引っ張りだこになった。
「ホワッド・アイ・セイ(What'd I Say)」
「わが心のジョージア(Georgia On My Mind)」
「愛さずにはいられない(I Can't Stop Loving You)」
など数々の名曲を歌った彼は、2004年6月、肝臓がんのため、カリフォルニア州ビヴァリーヒルズで没した。73歳だった。

「ウィ・アー・ザ・ワールド(We Are the World)」録音時のレイ・チャールズの存在感は圧巻だった。また、映画「夜の大捜査線」のエンディング、急行列車が走り去る場面に流れる「夜の熱気のなかで(In The Heat of The Night)」は歴史的な名曲である。聴き手が年を重ねるごとに聴きごたえが深まる、味わい深い歌声である。
(2016年9月23日)


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『ロック人物論』(金原義明)
ロックスターたちの人生と音楽性に迫る人物評論集。エルヴィス、ディラン、レノン、マッカートニー、ペイジ、ボウイ、スティング、マドンナ、ビョークなど31人を取り上げ、分析。意外な事実、裏話、秘話、そしてロック・ミュージックの本質がいま解き明かされる。


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9月22日・マイケル・ファラデーのローソク

2016-09-22 | 科学
9月22日は、映画女優アンナ・カリーナが生まれた日(1940年)だが、科学者マイケル・ファラデーの誕生日でもある。半ペニー硬貨を使ったボルタ電池を作った人である。

マイケル・ファラデーは、1791年、英国イングランド、ロンドンに近いニューイントン・バッツで生まれた。父親は鍛冶屋で、マイケルは4人きょうだいの3番目の子だった。
父親がからだが弱く、貧しかったため、マイケルは同様、早くから働きに出た。
13歳のとき、近所の文具屋の小僧になったマイケルは、1年勤めた14歳で同じ文具店がやっていた製本所の徒弟になった。そこで7年間の年季奉公をするあいだに、彼はいろいろな本を読み、化学者の講義を聴きに行くなど、化学への関心を深めていった。
21歳で年季が明けたマイケルは、晴れて職人として雇われることになったが、就職先の親方が怒りっぽいのに閉口し、彼はべつの道を模索しだした。そのとき、以前講義を聴いた王立協会のサー・ハンフリー・デビーに、講義を聴いてとった分厚いノートを同封して就職の希望を書いた手紙を出したのが縁で、彼は王立研究所の助手となった。
ファラデーはサー・デビーの助手助手として新発見をつぎつぎと成し遂げた。
32歳のとき、塩素の液化に成功。34歳でベンゼンを発見。40歳のとき、電磁誘導を発見。
そのほか、、ファラデーの電気分解の法則の確立、電気分解の法則の発見、物質が磁場に対して反発する反磁性の発見、電磁場によって光の偏光面が回転するファラデー効果の発見などなど、さまざまな分野で目覚ましい業績をあげた。
41歳のとき、オックスフォード大学の名誉博士号となり、スウェーデン王立科学アカデミーの外国人会員や、フランス科学アカデミー外国人会員にも選ばれたファラデーは、67歳のとき、実験の現場から引退し、王室のはからいで用意されたロンドン郊外にある宮殿で余生を送った後、1867年8月、同宮殿内の自宅で椅子にもたれて没した。75歳だった。

身分差別のはげしい英国のことで、ファラデーは科学者として認められても、貴族階級に差別を受け続けた。師匠の妻、デビー夫人はファラデーを同じ食事のテーブルにつかせず、移動する際も彼を馬車の馭者台にすわらせた。
ファラデーが30歳のころから、実験の功績をめぐって彼と師サー・デビーは仲たがいし、以後、師は弟子に嫉妬するようになった。ファラデーが王立協会会員に推薦されると、師匠は猛反対した。しかし、結局ファラデーは協会のフェローに選ばれ、34歳のとき、サー・デビーの後任として英国王立実験所長の職に就いた。サー・デビーはファラデーが38歳のとき、亡くなっている。

高校のとき、物理学の先生からファラデーについて教わった。コイルのそばで磁石を動かすとそのコイルに電圧が生じるという電磁誘導を発見したファラデーは数学的教養がほとんどなかったが、そのおかげで自由な発想ができ、実験によって新しい科学的偉業をつぎつぎと打ち立てた。ニュートン力学にしばられた数学のできる学者たちは最初彼を笑ったが、すぐに笑えなくなった。ファラデーによって、人類はニュートン力学の外へはじめて一歩を踏みだしたのである、と先生はおっしゃった。
それで岩波文庫のファラデー著『ロウソクの科学』を読んだ。ロウソクの芯の先だけが燃えて、なぜ芯が燃え進まないのか、といったところから話がはじまり、実験と考察が積み重ねられ、終わりのほうに日本製のロウソクをとても褒めて書いてあった。

ファラデーはナイトの勲章授与の話をことわったそうだ。いまは亡きデヴィッド・ボウイも勲章授与の打診があったが、ことわっている。
(2016年9月22日)


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『女性解放史人物事典 ──フェミニズムからヒューマニズムへ』(金原義明)
平易で楽しい「読むフェミニズム事典」。女性の選挙権の由来をさぐり、自由の未来を示す知的冒険。アン・ハッチンソン、メアリ・ウルストンクラフトからマドンナ、アンジェリーナ・ジョリーまで全五〇章。人物事項索引付き。フェミニズム研究の基礎図書。また女性史研究の可能性を見通す航海図。


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9月21日・スティーヴン・キングの発想法

2016-09-21 | 文学
9月21日は、英国のSF作家、H・G・ウェルズが生まれた日(1866年)だが、モダンホラーの作家スティーヴン・キングの誕生日でもある。

スティーヴン・エドウィン・キングは、1947年、米国メイン州のポートランドで生まれた。スコットランドとアイルランド系で、父親は商船の船乗りだった。スティーヴンには、養子である兄がひとりいた。
スティーヴンが2歳のとき、父親はたばこを買いに行くと出たきりもどらず、行方不明になった。母親に女手ひとつで育てられたスティーヴンは、小さいころから麻疹、咽頭炎、扁桃腺炎などにかかり、病気がちで寝ていることの多い少年時代を送った。
11歳のときに母親からブレゼントされたタイプライターで文章を打ってはSF雑誌に投稿をはじめ、高校時代には、観てきた映画を小説化して小冊子にし、輪転機で刷り、学校で同級生たちに売った。メイン大学を卒業後、教師の職を求めたが、得られず、クリーニング屋で働いた。働きながら、男性雑誌にホラーやSFや犯罪小説の投稿を続け、その原稿料と給料とで、学生結婚した妻タビサ・スプルース(タビー)と2人の子どもを養った。
24歳のとき、ようやく高校の英語教師の職を得たが、学校の雑務に追われて忙しく、給料は安く、時間がなくなった。作家としても鳴かず飛ばず。借家住まいからトレーラーハウスに移り、妻のタビーはダンキン・ドーナッツ店でアルバイトをする苦しい生活が続いたが、それでも彼の小説執筆を、タビーは無駄呼ばわりせず、執筆を励ましつづけた。
26歳のとき、トレーラーハウスの洗濯室で書いたモダンホラー小説『キャリー』を出版社に送ると、これが出版され、ベストセラーとなった。この作品のペーパーバック版の権利は6万ドルで売れ、そのうち半分の3万ドルがキングに入ってきた。その額は、彼の高校教師の年棒の4年ぶんに相当した。同作品は映画化もされてヒット。晴れてベストセラー作家となった彼は『シャイニング』を書き上げ、その後『ザ・スタンド』『デッド・ゾーン』『スタンド・バイ・ミー』『グリーンマイル』『アトランティスのこころ』『ドリームキャッチャー』などを発表。飛ぶように売れる本が求められるショッピングモール街の書店に欠かせないベストセラー作家となった。40歳のころには薬物依存症になり、52歳では散歩中にクルマにはねられ重傷を負ったが、いずれの危機も克服し執筆を再開した。

現代屈指の巨匠スティーヴン・キングは拙著『名作英語の名文句2』でもとり上げた。冒頭から読者をはらはらさせながらその興味を吊り上げて引っ張っていくサスペンスの力と、読者の予想をいい意味で裏切る豊かなストーリー展開、そして作品全体の底に人間性や人間存在に迫る問題意識が横たわっている、その重さがいい。

キングは、作品のアイディアを得るよい方法などない、として、こう述べている。
「...good story ideas seem to come quite literally from nowhere, sailing at you right out of the empty sky: two previously unrelated ideas come together and make something new under the sun. Your job isn't to find those ideas but recognize them when they show up. (よいストーリーのアイディアは文字通りどこにもない場所からやってくる。何もない空からあなたを目指してやってくる。2つのもともと関係のないアイディアがいっしょになり、太陽の下でべつの何か新しいものになったりもする。なすべきは、そうしたアイディアを見つけることでなく、それが姿を現したら気づくことである)」(Stephen King, On Writing, Pocket Books)
(2016年9月21日)


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『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句2』(金原義明)
「グリーン・マイル」「ガリヴァ旅行記」から「ダ・ヴィンチ・コード」まで、英語の名著の名フレーズを原文(英語)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。好評シリーズ!



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