1日1話・今日の話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『誇りに思う日本人たち』
『ビッグショッツ』
『黒い火』ほか

3月31日・デカルトの出発

2014-03-31 | 思想
3月31日は、映画監督、大島渚が生まれた日(1932年)だが、哲学者、デカルトの誕生日でもある。「われ思う、ゆえにわれあり」と言った人である。
自分は高校のころ、デカルトの『方法序説』を買って読んだ。なるほど、と思った。短い本で、三度くらいは読み返していると思う。

ルネ・デカルトは1596年、フランスのラ・エーで生まれた。富裕な市民から成り上がった法官貴族の家系で、父親は高等法院の評定官だった。生まれたときからルネは病弱で、20歳のころまでずっと青い顔をし、空ぜきをしていた。彼が1歳のとき、母親が没し、彼は祖母と乳母によって育てられた。育ててくれた乳母を、デカルトは終生心にかけていた。
イエズス会の学校で教育を受けたデカルトは、そこで教わるスコラ哲学にあきたらず、18歳で大学に進み、そこで医学と法律学を修め、20歳で卒業した。そしてさらに「世界という大きな書物」を読もうと志して世の中に飛びだし、23歳のとき、ドイツの軍隊に入り、
三十年戦争に参加した。
軍隊の露営中に、デカルトは「驚嘆すべき学問の基礎を発見」する天啓を受け、諸学問の方法的統一を確信し、自分がそれを成し遂げる自信を得た。
軍隊を離れた彼は、パリ、ヴェネツィア、ローマなどヨーロッパを放浪した後、32歳のときにネーデルランド(オランダ)へ移住し、新しい形而上学の方法を考えるための静かな思索の生活に入った。
37歳のとき、宇宙の構造を物理学的に分析した書『世界論』を出版しようとしたが、ロー
マでガリレオ・ガリレイが宗教裁判で有罪判決を受けた報を聞き、出版をとりやめた。
40歳のとき『方法序説』を完成したが、40代の彼は、論敵から無神論者として糾弾され、大学での講義を禁じられるなど、さかんに学問的迫害を受けた。
53歳のとき、学術を尊重する王として名高いスウェーデンのクリスチーナ女王からの再三の招きに応じて、冬のスウェーデンに渡った。女王の家庭教師となったデカルトは、午前5時から講義をするうち、風邪をうつされ、肺炎を起こして、1650年2月、スウェーデンの地で客死した。53歳だった。没後『世界論』を含む遺稿が出版された。

デカルトは、なんでも疑ってやれという懐疑主義者ではなかった。ただ、真理を見つけ出すために、疑うというやり方「方法的懐疑」を使った。
彼は、感覚を疑い、数学の真理も疑い、夢と現実の区別も疑ってかかった。そうしてすべてについて疑いに疑った後、ただひとつこれだけは疑いの余地がないものにたどりついた。それは、こうして疑っている自分自身の意識だった。そこで彼はこう言った。
「われ思う、ゆえにわれあり(Cogito ergo sum・コギト・エルゴ・スム)」
この「われ」を揺るぎない出発点として、論理を組み立てていった。

デカルトは、一生を通じて孤独を愛した人で、パリでは自分の居どころを隠し、ネーデルランド時代は20年間で13回引っ越したという。デカルトの最期のことばはこうだった。
「私の魂よ、お前は長い間囚われの身にあった。お前がお前の監獄から放免されるときがきた。この身からの束縛を去る秋(とき)がきた。そして、歓びと勇気とをもって、この別離を耐え忍ぶときがきた。」(梶山健『臨終のことば』PHP文庫)
デカルト、いいなあ、と思う。
(2014年3月31日)




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『黒い火』(ぱぴろう)
47枚の絵画連作による物語。ある男が研究を重ね、ついに完成させた黒い火とは? 想像力豊かな詩情 の世界。

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3月30日・エリック・クラプトンのミューズ

2014-03-30 | 音楽
3月30日は、炎の画家、ゴッホが生まれた日(1853年)だが、ロック・ギタリストのエリック・クラプトンの誕生日でもある。
自分はクラプトンの「レイラ」、とくに後半のピアノの部分が大好きだが、サザンオールスターズの原由子さんは学生時代、桑田佳祐らメンバーの前でこの後半部分を弾いて見せて、それでバンドに加わることになったらしい。以前、テレビで原さんがそう語りながら「レイラ」弾くのを見て、自分もあんな風に弾きたいと思った。それで練習を重ね、ようやく弾けるようになった(テキトーだけれど)。

エリック・パトリック・クラプトンは、1945年、英国イングランドのリプリーで生まれた。母親は未婚の16歳で彼を産んだ。父親は25歳のカナダの軍人で、エリックが誕生する前にカナダへ帰ってしまっていた。ティーンエイジャーの母親は、息子を母親(エリックの祖母)に預け、べつのカナダ軍人と結婚してドイツへ行ってしまった。残されたエリックは、祖母と祖母の再婚相手である義理の祖父に育てられた。
13歳の誕生日にアコースティックギターを買ってもらったエリックは、それを15歳のころから猛烈に練習しだし、とくにブルース・ギターに熱中した。
クラプトンは16歳でアート・カレッジに入学。しかし、学業はそっちのけで、音楽に入れ込んだ。17歳であちこちの路上で演奏するようになり、「ルースターズ」というリズム・アンド・ブルースのバンドに入った。
18歳のとき「ヤードバーズ」というロック・バンドに加入。「フォー・ユア・ラブ」をヒットさせ、クラプトンはその卓越したギター演奏により「スロー・ハンド」「ギターの神様」と呼ばれるようになった。
20歳のとき、バンドのメンバーと意見が対立し、ヤードバーズを脱退。
その後「クリーム」「ブラインド・フェイス」などのバンドをへて、25歳のとき「デレク・アンド・ザ・ドミノス」を結成。「レイラ」「アイ・ショット・ザ・シェリフ」などの大ヒットを放った。クラプトンはザ・ビートルズのほか、さまざまなミュージシャンたちとセッションをし、ソロとしても多くのヒット・シングルやアルバムを発表している。

ビートルズの名曲「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」の印象的なリードギターを弾いているのは、エリック・クラプトンである。
当時、ビートルズのジョージ・ハリスンは、パティ・ボイドと結婚していて、パティといっしょだったころ、ジョージは「サムシング」「ヒア・カムズ・ザ・サン」などの名曲を書いた。クラブトンは、友人ジョージの妻パティに恋をし、その思いをこめて名曲「レイラ」を書いた。
パティは、ロン・ウッド(当時フェイセズ所属)との浮気が発覚し、ジョージと別居。その後、今度はリンゴ・スターの妻モーリンとジョージの不倫が発覚し、パティとジョージは離婚。34歳のとき、エリック・クラプトンは、独身となったパティと晴れて結婚した。しかし結婚後、クラプトンはあちこちで愛人や子どもを作り、結局、クラプトンが43歳のとき二人は離婚した。
すると、パティこそ「ミューズ(芸術の女神)」だったという気がする。

「ギターの神様」クラプトンの風貌はとても誠実そうで、ステージの演奏ぶりも真摯な感じだけれど、彼の生涯は痴情事件のオンパレードで、ロックンロールだなあと感心する。クラプトンが46歳のとき、彼がイタリア人モデルとのあいだにもうけた4歳の息子が、ニューヨーク・マンハッタンの53階の窓から転落死した。クラプトンは息子の死を悼み「ティアーズ・イン・ヘヴン」という曲を書いた。パティとの離婚の直接の引き金になったのは、この事故死した息子の誕生だった。
クラプトンのギター演奏は、何度聴いても艶があって、うっとりする。それは、父親の顔も知らずに生まれ育ったギターの「オイディプス王」の奏でる宿命の響きだから、といったら言い過ぎだろうか。
(2014年3月30日)


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『3月生まれについて』(ぱぴろう)
ゴッホ、アンドリュー・ジャクソン、ミケランジェロ、ラヴェル、スティーブ・マックイーン、ジョン・アーヴィング、横光利一、高村光太郎、芥川龍之介、黒澤明、周恩来など3月誕生の31人の人物論。人気ブログの元となった、より詳しく深いオリジナル原稿版。3月生まれの秘密に迫る。

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3月29日・ウォルマートのサム・ウォルトン

2014-03-29 | 個性と生き方
3月29日は「ノーマリゼーションの父」バンク-ミッケルセンが生まれた日(1919年)だが、米国の実業家、サム・ウォルトンの誕生日でもある。ウォルマートの創業者である。
自分がウォルマートを知ったのは、スーパーマーケットの西友がウォルマートの傘下に入ったときだった。

サミュエル(サム)・ムーア・ウォルトンは、1918年、米国オクラホマ州のキングフィッシャーで生まれた。父親は農場をしていたが、収入がかんばしくないので、サムが5歳のころ、以前やっていた不動産ローンの仕事にもどった。
一家はオクラホマ州、フロリダ州と引っ越しを繰り返し、ミズーリ州コロンビアに落ち着き、サムは大恐慌期の少年時代をそこで過ごした。彼は牛の乳をしぼって売り歩き、新聞の運搬、雑誌講読を販売し、高校で「もっとも器用な少年」に選ばれた。
高校卒業後は、軍の予備役候補生としてミズーリ大学に入り経済学を修めた。さまざまな学生組織や学生クラブと関わり、クラスの「永久クラス長」に選ばれた。
22歳で大学を卒業すると、衣料デパート会社に就職したが、第二次世界大戦がはじまり、1年半勤務したところで退職し、軍務についた。軍隊では、オクラホマ州のタルサで弾薬製造プラント管理にあたり、このころ現地の牧場主の娘と結婚した。その後、彼は陸軍の情報隊へ移り、航空機の安全管理や戦争捕虜収容所の監督などをし、大尉まで昇進した。
1945年、終戦の年、26歳で退役したウォルトンは、軍隊時代までに貯めた5千ドルと、義父(妻の父親)から借りた2万ドルとを元手に、アーカンソー州ニューポートにあった雑貨屋を買い取り、自分の店をもって商売をはじめた。この雑貨屋は、小売業チェーンのフランチャイズ店で、ウォルトンはすぐに同じ街のべつの場所に小さな2号店をもった。
ウォルトンは、商品棚に幅広い分野の商品をそろえ、品切れがないようつねに在庫を準備した。彼の店の売り上げは3年で3倍になった。
彼は自分の店のチェーン展開化を望み、1962年、44歳のときにアーカンソー州のロジャーズにウォルマートの第1号店をオープン。以後、ある地域や路線に集中して出店していくドミナント方式により、ウォルマートを全米一のチェーン店に育てあげた。
サワム・ウォルトンは、事業のかたわら、奨学金制度の創設など慈善事業に尽力した後、1992年4月、骨髄腫のため、アーカンソー州のリトルロックで没した。74歳だった。
彼が亡くなったとき、彼の会社の社員は38万人いて、売り上げ学は約500億ドルだった。
米金融雑誌「フォーブス」が発表する世界の富豪番付で、ウォルトンは、1985年から1988年世界一の富豪にランクされていた。彼の没後もウォルマートは世界展開して成長を続け、2014年発表の富豪番付でもトップ20人のなかに、ウォルントンの子息やその配偶者が4人ランクインしている。

自分の家の近所の西友がウォルマート傘下に入ったころ、背広を着た外国人男性が、店の人に案内されて、西友の売り場を見てまわっていたのをよく覚えている。グローバル化。外資に買収されるというのはこういうことなんだなあ、と思った。その後、その西友の店は食料品売り場を24時間営業するようになった。当時自分はセゾンカードをもっていたが、いまはウォルマートカードに替わっている。

その昔、インドで会社をやっている日本人女性がしみじみ言ったことばが思いだされる。
「やっぱりプロダクション(生産)より、マーチャント(商人)のほうがお金になるのよね」
ウォルマートは一軒の雑貨屋からスタートした。商品を仕入れ、売る、という商売を積み上げて、ここまでになったのは素直にすごいと思う。
(2014年3月29日)


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『新入社員マナー常識』(金原義明)
メモ、電話、メールの書き方から、社内恋愛、退職の手順まで、新入社員の常識を、具体的な事例エピソードを交えて解説。

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3月28日・邱永漢の乱世渡り

2014-03-28 | 歴史と人生
3月28日は、作家、色川武大(いろかわたけひろ)、またの名を「雀聖」阿佐田哲也(あさだてつや)が生まれた日(1929年)だが、作家、邱永漢(きゅうえいかん)の誕生日でもある。
邱永漢は、小説家としてよりもむしろ「金儲けの神様」として有名かもしれない。でも、新田次郎といっしょに直木賞を受賞した流行作家で、自分は初期の台湾出身者の事情を題材にした小説など、おもしろく読んだ。台湾についていろいろ知られて勉強になった。

邱永漢は、1924年、台湾の台南で生まれた。本名は邱炳南(きゅうへいなん)。当時、台湾は、日清戦争で勝った日本が下関条約を結んで分捕り統治していたので、彼は日本国籍で生まれ、父親は台湾の実業家、母親は日本人だった。婚外子だった炳南は、同人誌に詩を寄せる頭脳優秀な文学青年だった。
19歳のとき、本土(日本)の東京大学へ入学。経済学を専攻した。
21歳の大学卒業が日本の敗戦の年で、彼はいったん東大大学院に進んだが、中退して日本の支配から解放された台湾へもどった。
台湾で彼は、砂糖の密輸や銀行員をした。当時の台湾は、中国本土からやってきた南京国民政府の役人によって支配され、政治や社会に腐敗と横暴が蔓延した。これに対し台湾市民の反対運動が起こると、政府側は銃による弾圧でもってそれに応え、1万人以上の市民が殺された二・二八事件が起きた。このころ、邱は国民投票の実施を訴える文章を書き、それが新聞に載った。24歳の邱は身の危険を感じ、英国統治下の香港へ逃げた。
香港ではことばも通じない難民同然で、最初苦労したが、物資の乏しかった日本へ物資を小包で送り売りさばく運輸業をはじめて成功し、27歳のときには大金持ちになっていた。
このころ、彼は台湾から逃げてきた友人の裁判を応援するための資料として日本語で処女小説『密入国者の手記』を書き、これが文芸誌に載った。ペンネームを邱永漢とした。
30歳のとき家族を連れて日本へ移住。
31歳のとき、友人の話にヒントを得た、百万ドルを横領する小説『香港』直木賞を受賞。同時受賞が新田次郎『強力伝』。同期の芥川賞作が石原慎太郎『太陽の季節』だった。
35歳のとき『金銭読本』を書き、株式投資術や利殖術など、お金儲けの指南書を書き、講演をして「金儲けの神様」と呼ばれるようになった。また、食通としても知られ、料理関係の著書も多い。
執筆、講演活動のほか、経営コンサルタント、不動産、クリーニング、ホテル業など、手広く事業を展開した後、2012年5月、心不全のため東京の入院先で没した。88歳だった。

邱永漢は、台湾から香港へ逃げてから、長らく台湾(中華民国)と敵対関係にあり、邱は著述のなかで台湾政府を批判し、台湾側でももどってきたら銃殺刑にするぞと構えていた。が、1971年に国際連合から台湾が追いだされ、大陸の中華人民共和国が国連に迎えられると、状況は一変した。台湾側から邱に接触し、両者は和解し、邱は48歳のとき、台湾へ帰国して台湾政府のアドバイザーとなった。このことについて、彼はこう書いている。
「あれから香港に六年、日本に十八年住んで、私はもう二度と故郷の土を踏むことがないかもしれないと思ったものであるが、人間の運命なんてわからないものである。」(『私の金儲け自伝』徳間書店)

自分は邱永漢の本を何冊か読んだ。つねに論理が明快で、ひじょうにわかりやすい。
経済観念が発達した、頭の切れる、足が地についた現代人だった。日本人や中国大陸からの漢民族の侵入によって彼の故郷は目茶苦茶にされたが、それを恨まず、前向きに協調を旨として生きた。乱世を悠々と生き抜いたその明るいバイタリティーがすごいと思う。
(2014年3月28日)



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『出版の日本語幻想』(金原義明)
編集者が書いた日本語の本。編集現場、日本語の特質を浮き彫りにする出版界遍歴物語。「一級編集者日本語検定」付録。

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3月27日・レントゲン的

2014-03-27 | 科学
3月27日は、ディスクジョッキー、小林克也が生まれた(1941年)だが、レントゲンの誕生日でもある。わたしたち現代人はみんな、彼の恩恵をこうむっていると思う。

ヴィルヘルム・コンラート・レントゲンは、1845年、ドイツのレンネップで生まれた。父親は織物を扱う商人で裕福な家庭だった。父親はドイツ人だったが、母親はネーデルランド(オランダ)人で、ヴィルヘルムが3歳のとき、一家はネーデルランドへ引っ越した。
ヴィルヘルムはユトレヒトの工業学校を出た後、スイスのチューリッヒ工科大学へ進学。24歳のとき、気体の熱的性質に関する研究で博士号を得た。
25歳のとき、ドイツのストラスブール大学の助手となり、30歳で教授となって、ドイツやフランスの各地の大学で教授職を歴任しながら物理学の研究を続け、マクスウェルの電磁理論の実験による証明や、レントゲン電流の発見など、数々の業績をあげた。
50歳のとき、レントゲンは真空放電管の実験をしていて、放電管が黒い紙でおおわれているにもかかわらず、下の机にあった蛍光紙に光の線が現れたのに気づいた。なにか目には見えない光が黒い紙を突き抜けて漏れているのだった。
彼は工夫を重ねて実験を積み重ね、その目に見えない光の性質を追いつめていった。
その光は、千ページの本を軽々と通過し、ガラスを突き抜け、蛍光物質を発光させ、熱を発生させない、鉛を通過できない性質の光だった。
レントゲンはこの光を、数学で未知の数を表す「X」から「X線」と名付け、妻の結婚指輪をはめた手のレントゲン写真を撮影し、それを付して論文を発表した。
手の骨が結婚指輪をはめているレントゲン写真は一目瞭然の大ニュースで、たちまち世界を駆けめぐり、医学に利用されだした。彼はこの功績により、56歳のとき、ノーベル物理学賞を受賞した。
レントゲンは、自分の発見に関して特許をとらず、もらったノーベル賞の賞金も気前よく大学に全額寄付した。そのため、第一次大戦でドイツが敗戦国となり、巻き起こったはげしいインフレーションのため、彼は破産してしまった。
レントゲンはヴァイルハイムで晩年をすごした後、腸のガンのため、1923年2月に没した。77歳だった。

ラジウムの発見で有名なキュリー夫人は、放射能から肉体を守ることに比較的無頓着で、彼女が書いた論文のなかには、放射能を発していて、読む際には防護服が必要なものもあるそうだが、その点、レントゲンは防護対策をしっかりとっていて、しかも、それほど長い期間、X線の研究にたずさわっていなかった。
それで、レントゲンの腸ガンは、実験の放射能が原因ではないだろうと推測されているらしい。

現代では、最先端科学が細分化され、論文や業績の真偽、評価がわかりにくい。レントゲンほどわかりやすい功績をあげた偉人はすくないと思う。誰もが一目瞭然で納得する圧倒的成果のことを「レントゲン的」と呼んだらいいと思うのだけれど、どうだろう。


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『オーロヴィル』(金原義明)
南インドの巨大コミュニティー「オーロヴィル」の全貌を紹介する探訪ドキュメント。オーロヴィルとは、いったいどんなところで、そこはどんな仕組みで動き、どんな人たちが、どんな様子で暮らしているのか? 現地滞在記。あるいはパスポート紛失記。南インドの太陽がまぶしい、死と再生の物語。

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3月26日・フランクルの知性

2014-03-26 | 科学
3月26日は、『飛ぶのが怖い』の作家、エリカ・ジョング(1942年)が生まれた日だが、精神分析医のヴィクトール・フランクルの誕生日でもある。
自分は若いころ、フランクルの著書『夜と霧』を買った。比較的薄い本で、文章も平易なのだけれど、なかなか開かなかった。数年後、やっと読んだ。以来、引っ越しで本を処分するたびに迷うけれど、この本を手離す気にはなれず、数十年たったいまももっている。

ヴィクトール・エミール・フランクルは、1905年、オーストリアのウィーンのユダヤ人家庭で生まれた。父親は公務員だった。
18歳でギムナジウム(高等学校)を卒業したヴィクトールは、ウィメーン大学へ進み、医学を専攻し、神経医学と精神医学の専門家になった。ジクムント・フロイトやアルフレッド・アドラーの教えを受けたフランクルは、32歳でウィーンの病院の研修期間を終えた。彼はその病院で、3万人以上の自殺衝動患者を診察した。
33歳のとき、ドイツとオーストリアが合併。ヒトラー率いるナチス・ドイツの政策により、フランクルはユダヤ人だったため、ドイツ人を診察することを禁止された。
フランクルは36歳で結婚。その翌年の37歳のとき、両親、妻とともに身柄を拘束され、チェコにあるテレジエンシュタット強制収容所へ送られた。両親と妻は収容所で相次いで死亡したが、ポーランドのアウシュビッツ絶滅収容所へ移送されたフランクルは奇跡的に生き延び、40歳で終戦を迎え、翌年、収容所体験をつづった『夜と霧』を発表した。
戦後は、ウィーンの病院に勤務し、ウィーン大学のほか米国のいくつかの大学で教鞭をとった後、1997年9月、ウィーンで没した92歳だった。
著書に『「生きる意味」を求めて』『意味への意思』『苦悩する人間』 などがある。

ナチス・ドイツの占領下においては、ナチスに反抗する疑いありと判断された政治犯容疑者は、家族ごと夜のうちにどこかへ連れ去られ、消えてしまうという「夜と霧(Nacht und Nabel)」指令が実施された。『夜と霧』の題名はここからきている。

アウシュビッツでは、食べ物は1日に1回、水のようなスープと、小さなパンひと切れというのが基本だった。囚人たちは苛酷な労働に駆りだされ、病気で死に、衰弱して死に、またガス室へ送られて続々と死んでいく。石炭酸の注射で殺され、殴り殺され、射殺され、また、脱走を試みた者は絞首刑にあった。むち打ちや拷問は日常茶飯事。

この本でいちばん驚いたのは、そんな地獄のなかでも、フランクルが冷静に人間を観察、分析していることだった。
「知識を取り去ったところに、残るのが知性」
とはよく言われるところだが、精神に異常をきたす者が多い収容所で、フランクルは、人間の精神を観察し、ほかの囚人たちを落ち着かせるべく医学的な話をし、失われた論文を新たに書き起こす準備をしていた。これは恐るべきことで、自分はフランクルこそ知性の人だと思う。『夜と霧』こそ、知性の書だと思う。

フランクルはこう書いている。
「これらすべてのことから、われわれはこの地上には二つの種族だけが存するのを学ぶのである。すなわち品位ある善意の人間とそうでない人間との「種族」である。そして二つの『種族』は一般的に拡がって、あらゆるグループの中に入り込み潜んでいるのである。」(霜山徳爾訳『夜と霧』みすず書房)
きっとそうだと思う。肌の色や血縁などとはちがう種族の区切りがあると思う。
(2014年3月26日)



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『ポエジー劇場 救世主』(ぱぴろう)
大人向け絵本。環境破壊により人類は自滅寸前。そこへ宇宙から救世主が派遣され……。生命の原理に迫る絵画連作。

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3月25日・清水善造のロビング

2014-03-25 | スポーツ
3月25日は、雑誌「Ms.」を創刊したグロリア・スタイネムさんが生まれた日(1934年)だが、テニスプレイヤーの清水善造の誕生日でもある。
自分は中学で軟式、高校で硬式テニスをやっていた。それで日本のテニス黄金時代を担った伝説のテニスプレイヤー、清水善造の名は当時から知っていた。

清水善造は、1891年、群馬の箕郷(みさと、現在の高崎)で生まれた。家は小さな田畑を耕作する農家で、善造は7人きょうだいの長男だった。
貧しかった清水家では、善造の進学を望まなかったが、乳牛を飼い、しぼった牛の乳を売って学資にあてることにし、かつ、その乳牛の世話を善造がするのなら中学校へ行ってよいと父親が条件を出し、その条件を呑んで彼は往復20キロある中学校までの道をわらじばきで通った。雨の日も風の日も休まず、善造は中学校から帰ると、草刈りをして牛に草を与えた。その草刈り鎌の扱いが、彼のラケットさばきの元になったと言われる。善造は中学で軟式テニスをはじめた。
英語の辞書を一冊丸ごと暗記していた彼は東京高等商業学校(高商)への進学を望んだが、父親は反対し、家に学資のあてもなかった。そこで善造は元村長の金持ちを訪ねて、受験し合格したあかつきには学資を出してほしい旨を掛け合いにいった。元村長は、村から高商合格者が出たら村の誉れだとその申し出を快諾した。当時の高商は、早稲田、慶応など足元にも及ばない難関だった。17歳の善造はみごと合格し、高商の軟式テニス部に入った。
21歳で高商を卒業した清水は、三井物産に入社。インドのカルカッタ勤務となり、現地で硬式テニスをはじめ、すぐにベンガル選手権に出て優勝した。
それからは、三井の出張所がある英国、南米など世界各地へ転勤しては、そこのテニス大会に出て勝ちつづけ、どの地の社交界でも「シミー」と呼ばれ、もてはやされた。
デビスカップをはじめとするさまざまな大会で活躍。29歳のとき、ウィンブルドン(全英)でベスト4、31歳のとき全米でベスト8、世界ランキングは30歳のとき第4位という成績を残した。ちなみに後の松岡修造の最高位が46位、錦織圭が11位(2013年現在)である。
36歳で選手生活を引退。終戦直後の54歳のとき、三井生命の取締役に就任。しかし、公職追放で翌年すぐに退任して、べつに貿易会社を興した。63歳でデビスカップ日本代表監督としてメキシコ遠征を率い、73歳のとき脳内出血で倒れ、右半身付随になった後、1977年4月、大阪で没した。86歳だった。

清水善造といえば、当時世界最強だった米国のビル・チルデンと名勝負を繰り広げたことで有名で、なかでも、29歳のときのウィンブルドン大会での清水のロビングはスポーツ美談として昔は教科書にも載っていた。
両者が試合でラリーを打ち合うなか、長身のチルデンがコートの芝に足をすべらせて転んだところ、背の低い清水はエースを決めず、わざと高い山なりのロビングを上げた。チルデンは起き上がり、打ち返して、それがエースとなった、という話である。上村淳一郎『やわらかなボール』(文藝春秋)によると、この話は脚色された誇張で、嘘らしい。足をすべらせたチルデンが、起きてどちらへ動くか見定めかねた清水が、チルデンのいる場所へ返球した。もともと清水は特殊な握り方で、特殊な打ち方をする、強打できない選手だったので、鋭くない球が返った、というのがほんとうのところらしい。

自分は『やわらかなボール』を最近読んで、40年近く抱えていた蒙を啓かれた思いがした。同書に書かれたチルデンの生涯も感慨深かった。美談は捏造だったとしても、清水善造の驚異的な活躍は真実である。彼は酒もたばこもやらず、つねに節制し、淡々と鍛練にはげむ実直な人間だった。チルデンとの友情を終生大事にしたえらい人だった。
(2014年3月25日)



●おすすめの電子書籍!

『わたしにそれを言わせないで(一)女子高生の社長秘書』(香川なほこ)
孤児となった女子高生・赤池美奈は、放課後は社長秘書のバイトをすることに。ある夜、社長に意外な事実を告げられた彼女の心は、二人の男のあいだではげしく揺れはじめる。青春官能小説。

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3月24日・スティーブ・バルマーの愛社精神

2014-03-24 | ビジネス
3月24日は、唯一無二の映画スター、スティーブ・マックイーンが生まれた日(1930年)だが、マイクロソフト社のCEOだったスティーブ・バルマーの誕生日でもある。

スティーブン・アンソニー・バルマーは、1956年、米国ミシガン州の自動車の街デトロイトで生まれた。父親はスイスからの移民で、フォード自動車の管理職だった。スティーブの両親はともにユダヤ系で、裕福な家庭だった。
米国では、大学進学を希望する高校生は、SAT(大学進学適性試験)を受けるが、スティーブはこの数学の試験で800満点をとった秀才だった。
大学はハーヴァードに進み、応用数学と経済学を学んだ。また、フットボールチームのマネージャーを務め、学生新聞の編集にたずさわった。学生当時、彼はハーヴァードの学生寮で暮らしたが、寮の同じ部屋で暮らしていたのが、後にハーヴァードを中退してマイクロソフト社を興すビル・ゲイツだった。
バルマーは、21歳でハーヴァードを卒業すると、家庭用品メーカーのプロクター・アンド・ギャンブルに勤務。そこで同じ部屋で仕事をしていた同僚が、後にゼネラル・エレクトリック社のCEO(最高経営責任者)になったジェフリー・イメルトだった。
バルマーはスタンフォード大学のビジネススクールに入ったが、24歳のとき、元ルームメイトのビル・ゲイツに口説かれて、初期のマイクロソフト社に入社。プログラマー出身のゲイツに対して、経営に強いバルマーは、マイクロソフトをビジネス面からサポートし、ウィンドウズを擁するマイクロソフト社を世界企業に育て上げた。
42歳で同社社長となり、2000年1月、43歳のとき、ビル・ゲイツの後を受け、CEOに就任。以後、2014年2月、57歳で退任するまでCEOの職にあった。

ウィンドウズのマイクロソフト社は、ビル・ゲイツが高校時代の友人、ポール・アレンと興した会社だが、彼ら二人の創業者のソフト面の功績もさることながら、マイクロソフト社を大きく成長させる上で、バルマーの経営戦略面での寄与も大きかったと思う。

「水爆を落としてでもアンドロイドをつぶしてやる」と叫んだアップルのスティーブ・ジョブズもそうだったけれど、バルマーの唯我独尊的な愛社精神と、排他的なライバル敵視は強烈で、彼はいくつも名言を吐いている。

「わたしの子どもたちは、多くの面で、ほかの子どもたちのようにおろかな行いをするが、すくなくともこの一面に関しては、わたしは子どもたちにちゃんと言い聞かせてある。グーグルを使うな、アイポッドを使うな、と。(My children - in many dimensions they're as poorly behaved as many other children, but at least on this dimension I've got my kids brainwashed: You don't use Google, and you don't use an iPod.)」(同前)

「グーグルはまともな会社ではない。あれはトランプのカードで建てた家だ。(Google's not a real company. It's a house of cards.)」(同前)

やはり、企業の中枢を担う幹部には、こういう強い意志がないと、あれだけの世界企業にまでのし上がれないのだろうなあ、と、ビジネス競争のはげしさを感じる。自分にはなかなかまねできそうもないけれど。
(2014年3月24日)


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3月23日・エーリヒ・フロムへの共感

2014-03-23 | 思想
3月23日は、映画監督、黒澤明が生まれた日の(1910年)だが、心理学者のエーリヒ・フロムの誕生日でもある。
自分は中学生のころから心理学好きで、フロムの名前は当時から知っていた。

エーリヒ・ゼーリヒマン・フロムは、1900年、ドイツのフランクフルトで生まれた。両親はユダヤ人で、エーリッヒは一人っ子だった。
18歳でフランクフルト大学に入学したエーリッヒは、はじめ法律学を学んでいたが、やがて社会学に転じ、20歳のころから精神分析学のトレーニングを受けはじめた。
31歳のとき、フランクフルト大学で精神分析学の講師になったが、33歳の年にはナチス党を率いるヒトラーが首相をへて独裁者となり、ユダヤ人迫害がはげしくなった。
フロムはスイスへ避難し、34歳のとき、米国へ移り、ニューヨークのコロンビア大学や、バーモント州のベニントンなどの大学で教えた。
49歳のころからメキシコの大学や研究所で心理学を教え、57歳で米国へもどった。
74歳のころ、スイスに引っ越し、1980年3月、スイスのムラルトで没した。79歳だった。
著書に『自由からの逃走』『正気の社会』『愛するということ』などがある。

フロムは、新フロイト派と呼ばれる心理学者の一人で、フロイト心理学を発展的に批判した人である。フロムの人間観の核心は、おおよそこんな感じだと思う。
「人間は自由をほしがるくせに、いざ実際に自由を手に入れると、急に孤独を感じだし、不安になる。それで、せっかく手にした自由を投げ捨てて、なにか拝みすがるものを求め、他者との一体感のある世界へ逃避しようとする」

『自由からの逃走』で、フロムはファシズムのできあがるメカニズムを分析した。
社会が流動化して、人々が個人個人に分断され、孤独になり、不安を感じだすと、人々はすすんで自由をなげうち、強力な指導者を求め、強い国家に服従したがるようになる、と。これなど、ヒトラーの台頭した時代分析というだけでなく、とても現代性があると思う。

フロムは、現代では愛は困難であり、愛の実現のためには、それなりの技術がいるとして『愛するということ』を書いた。そのなかで、彼はこう言っている。
「現代人は自分自身からも、仲間からも、自然からも疎外されている。現代人は商品と化し、自分の生命力をまるで投資のように感じている。投資である以上、現在の市場条件のもとで得られる最大限の利益をもたらさなければならないということになる。人間関係は、本質的に、疎外されたロボットどうしの関係になっており、個々人は集団に密着していることによって身の安全を確保しようとし、考えも感情も行動も周囲とちがわないようにしようと努める。」(鈴木晶訳『愛するということ』紀伊國屋書店)
自分の専門はアメリカ1960年代コミュニティー史で、当時の対抗文化(カウンター・カルチャー)の思想に親しいのだけれど、フロムの考え方は、対抗文化とかなり重なる。自分など、とても共感する。
(2014年3月23日)


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3月22日・マルセル・マルソーの示すもの

2014-03-22 | 芸術
3月22日は、政治学者、丸山眞男が生まれた日(1914年)だが、パントマイムのマルセル・マルソーの誕生日でもある。
自分は、マルセル・マルソーの名前は子どものころから、なぜか知っていた。ことばの壁など関係なく、世界共通、一目瞭然の魅力で、マルソーはすでに世界的に知られる人だった。

マルセル・マルソーは、1923年、仏国ストラスブールで生まれた。本名は、マルセル・マンジェル。両親はユダヤ人で、肉屋をしていた。
5歳のとき、マルセルは母親に連れられて、チャーリー・チャップリンの映画を観にいき、映画を観て感激し、マイムの世界へ進みたいと思うようになった。
第二次世界大戦がはじまると、マルセルが16歳のとき、一家はフランス中西部の街リモージュへ逃れた。戦中、マルセルはユダヤ人であることを隠すため、マルセルという苗字を名乗り、弟とともにレジスタンス運動に従事した。
彼が21歳のとき、父親がドイツのゲシュタポに捕らえられ、アウシュビッツ強制収容所に送られ、殺害された。
戦後、マルセルは23歳のとき、サラ・ベルナール劇場の演劇学校に入学。同校の同級生に、ジャン=ルイ・バローがいて、その後、マルセルが舞台劇へ進んだのに対し、バローは映画へ進み、映画『天井桟敷の人々』に主人公バチスト役で出演し、初期のムーンウォークを披露した。
マルセルは肉体の動きだけで表現する無言劇をはじめ、24歳のときには、彼のトレードマークとなる「ビップ」というキャラクターを創造。くたびれたシルクハットに、白く塗った顔、胸に横縞の入ったシャツに白いズボンといういでたちでパントマイムを演じ、パントマイム専門の劇団を立ち上げ、公演を開始した。
32歳のころからは世界各国を公演してまわるようになり、日本にも来日した。
44歳のとき、ジェーン・フォンダ主演の映画「バーバレラ」に出演するなど、映画出演をし、絵本を出版した後、 2007年9月、心臓発作のため、フランス中南部の街カオールで没した。84歳だった。
マイムの可能性を広げ、マイムを世界に広めたパントマイムの第一人者だった。

自分は、マルセル・マルソーの公演は観たことはないが、彼の弟子である英国のパントマイマー、リンゼイ・ケンプの来日公演を観たことがある。たしか、シェイクスピアの「春の夜の夢」のパントマイム版で、とてもよかった。
そのリンゼイ・ケンプにマイムを教わったのがデヴィッド・ボウイで、ボウイは1970年代前半のグラム・ロック時代の初期には、マーク・ボランの前座として、パントマイムを演じていた。だから、ボウイは、マルセル・マルソーの孫弟子にあたると思う。

人間は、しゃべることもできるし、歌うこともできる。ドラムを叩いたり、笛を吹いたりもできる。でも、あえて音を出すことを排除して、からだの動きだけで表現することで、表れてくるものがある。マルソーが追求した無言劇、パントマイムの道はその行き方だった。
いろいろできることをあえて禁じ、やることを限定することで、かえって表現が豊かになる。マルソーの行った道は、とても大事なことを教えてくれているという気がする。(2014年3月22日)



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