1日1話・今日の話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『誇りに思う日本人たち』
『ビッグショッツ』
『黒い火』ほか

4月30日・ド・ラ・サールが守護するもの

2014-04-30 | 歴史と人生
4月30日は、魔女たちの集まるヴァルプルギスの夜。この日は、天才数学者、ガウスが生まれた日(1777年)だが、学校教師の守護聖人、ド・ラ・サールの誕生日でもある。ラサール石井とか、ラ・サール高校とかいうときの「ラ・サール」の源である。自分はごく最近まで「ラ・サール」の名の由来をまったく知らなかった。

ジャン=バティスト・ド・ラ・サールは、1651年、フランス北東部の街ランスの裕福な家庭で生まれた。いちばん最初の子どもだった彼は、11歳で頭を丸め、15歳でランス大聖堂にの僧侶となった。
学業成績が優秀だったド・ラ・サールは、さらに高等教育を受けるべくカレッジに入学し、学位を取得した後、19歳でパリの神学校に入った。
しかし、20歳のころに、母親と父親があいついで亡くなり、4人の弟と2人の妹の面倒をみるため、神学校を退校して故郷へもどった。
故郷ランスでド・ラ・サールはしだいに、教育に熱を入れはじめた。当時は貧富の差がひどい時代で、貧しい一般庶民の子として生まれた者は将来になにも期待できなかった。ド・ラ・サールは、教育こそ未来を切り開くカギだと考え、同じような理想をもって苦闘している土地の教師たちを自宅に招いて食事をふるまった。食事をしながら、彼らにテーブルマナーを教え、やがて彼らを自宅に住まわせて、いっしょに暮らしながら彼らを指導するようになった。これは身内の猛反発をくらい、ド・ラ・サール一族内での訴訟沙汰になり、一家の当主はついに家を追いだされて、べつに家を借りて教師たちと同居しなくてはならなくなった。
彼の、いっしょに、団体を作り、すべての人に教育を、というやり方は、カトリック教会側の気に入らなかった。さらに当時は学問は僧侶によってラテン語で教えられるのが常識だったが、ド・ラ・サールのラ・サール会(キリスト教学校修士会)は土地土地のことばで授業をした。教会の圧力にもかかわらず、彼のやり方は広まり、34歳のときには、ランスに世界初の師範学校(教師のための学校)を創立した。
ド・ラ・サールは生涯、教会からの圧迫に苦しんだ後、1719年4月、ルーアンで没した。67歳だった。

ド・ラ・サールの志は世界各国の修道士に受け継がれて広まり、ローマ教皇もこれを認め、ド・ラ・サールは没した180年後に聖人に列せられ、230年後に教育者の守護聖人ということになった。
現在、ラ・サール会は全世界で千以上の学校を経営していて、日本にも、函館や鹿児島に学校があり、東大などへの高い進学率を誇る進学校として知られている。芸能タレントのラサール石井は鹿児島の私立ラ・サール高校を出ているところからこの芸名があり、また仙台には児童養護施設ラ・サール・ホームがある。

日本でも、昔は学問といえば、比叡山で漢文で教わるものだったけれど、ヨーロッパでも同様で、学問といえばラテン語だった。
それを一般庶民へと開いたのが、ダンテがイタリア語で書いた『神曲』であり、ルターが訳した『ドイツ語版新訳聖書』であり、ラ・サール会の学校、ということになるのだろう。ラ・サールというのは、学問を広く世の人々に開いた、そういう立派なことをした人だったのですね。勉強になりました。
(2014年4月30日)



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『オーロビンドとマザー』(金原義明)
インドの神秘思想家オーロビンド・ゴーシュと、「マザー」ことミラ・アルファサの思想と生涯を紹介。オーロビンドはヨガと思索を通じて、生の意味を追求した人物。その同志であるマザーは、南インドに世界都市のコミュニティー「オーロヴィル」を創設した女性である。われわれ人間の「生きる意味」とは? その答えがここに。

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4月29日・中原中也の響き

2014-04-29 | 文学
「昭和の日」の4月29日は、「A列車で行こう」のデューク・エリントンが生まれた日(1899年)だが、詩人の中原中也の誕生日でもある。
自分は中高生のころ、中原中也の詩をよく読んだ。その後、彼と同棲した長谷川泰子の回想や、中也から彼女を奪った小林秀雄の文章も読んだ。

中原中也は、1907年、山口の湯田温泉で生まれた。誕生時の名は柏村中也。中也は長男で、中也が7歳のときに下の弟が没した。父親は陸軍の軍医だった。中也が8歳のとき、父親が開業医の中原家と養子縁組をし、一家は中原姓となった。
小さいころから詩や短歌を書いていた中也は、学校を落第し、16歳の年に単身、京都へ引っ越して立命館中学に転入。下宿に新劇女優の長谷川泰子を連れ込み、同棲をはじめた。中原が18歳になる年に二人は上京。二人の住む部屋に、中原の友人で、東京大学仏文科の学生だった小林秀雄が出入りするようになり、彼らは三角関係におちいった。結局泰子は中原の部屋を出て、小林と同棲することになった。
さまざまな同人誌に関わり、詩を発表していた中原は、26歳のとき、翻訳『ランボオ詩集(学校時代の詩)』を発表。同じ年に遠縁にあたる女性と結婚。
翌年、27歳で長男が生まれ、詩集『山羊の歌』を上梓した。
29歳のとき、長男が死亡したショックで精神を病むようになった。千葉、鎌倉と転居した後、30歳のとき、故郷の山口へ引っ越すことにし、詩集『在りし日の歌』の原稿を小林秀雄に託した直後、結核性脳膜炎を発症し、1937年10月に没した。30歳だった。

小林秀雄は長谷川泰子にこう言ったという。
「あなたは中原とは思想が合い、ぼくとは気が合うのだ」(長谷川泰子『中原中也との愛』角川ソフィア文庫)
彼ら三人の恋愛事件は有名な話だけれど、怒鳴り合いとか乱闘とかいうものはなく、表面上は淡々としたものだった。
「私はこう言いました。
『私は小林さんとこへ行くわ』
もうそのときは、運送屋さんがリヤカーを持って表で待っていたんです。あのとき、中原は奥の六畳でなにか書きものをしておりました。そして、私のほうも向かないで、
『ふーん』といっただけなんです。」(同前)
中原は、彼女が置いたままにした荷物を後で届けてやり、こう書いた。
「私はほんとに馬鹿だつたのかもしれない」(同前)
「女が盗まれた時、突如として僕は『口惜しい男』に変つた」(小林秀雄「中原中也の思ひ出」『小林秀雄全集第二巻』新潮社)
中原中也が18歳、長谷川泰子が21歳、小林秀雄は23歳だった。

「秋の夜は、はるかの彼方(かなた)に、
小石ばかりの、河原があつて、
それに陽は、さらさらと
さらさらと射してゐるのでありました。」(「一つのメルヘン」『在りし日の歌』青空文庫)
中原中也は、一つひとつのことばの響きに、瑞々しい叙情姓がある独特の詩人だったと思う。もっと長生きして、年をとったときに書いた詩を読みたかったと惜しまれる。
(2014年4月29日)



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『ポエジー劇場 子犬のころ』(ぱぴろう)
絵画連作によるカラー絵本。かつて子犬だったころ、彼は、ひとりの女の子と知り合って……。愛と救済の物語。

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4月28日・オスカー・シンドラーの勇気

2014-04-28 | 歴史と人生
4月28日は、実業家、オスカー・シンドラーの誕生日でもある。第二次大戦中、ナチス・ドイツによるホロコーストから、ユダヤ人約1200人を救った人物である。
映画「シンドラーのリスト」のモデルで、自分はこの映画で彼のことを知った。

オスカー・シンドラーは、1908年、現在のチェコのスヴィタヴィで生まれた。当時はオーストリア・ハンガリー帝国の一部で、父親は農業機械の製造工場の経営者だった。もともとドイツ・オーストリアの家系で、カトリック教徒だったが、オスカーは小さいころから近所のユダヤ人の子らと遊ぶ、宗教的を偏見をもたない子どもだった。
ギムナジウム(中高一貫校)を卒業したシンドラーは、会社勤務やチェコスロバキア陸軍で兵役についた後、20代後半のころ、ドイツ民族主義的な政党に入り、ドイツ側のスパイとなって働くようになった。それが発覚してつかまり、死刑を宣告された。しかし、彼がいたズデーテン地方がドイツにより併合され、死刑執行は中止された。
釈放されたシンドラーは、ナチス党に入党。
31歳のときに、ドイツ軍がポーランドに侵攻すると、自分もポーランドへ渡り、古い容器工場を買い取って経営をはじめた。彼の工場はドイツ軍から厨房用品の受注を受けて、経営を拡大し、しだいに兵器の部品を作る軍需工場となった。シンドラーは、ただ同然で使えるユダヤ人労働者を多く雇い入れた。
当時、すでにナチス・ドイツによるユダヤ人迫害、拉致ははじまっていたが、シンドラーの軍需工場は特権を与えられていて、彼の工場で働く熟練工のユダヤ人には、ナチス親衛隊やゲシュタポも手出しできなかった。
はじめは経済効率のためだったが、シンドラーはしだいにユダヤ人労働者たちの生命も守ろうと考えるようになり、親衛隊側に必要不可欠だとして熟練工リストを提出し、賄賂を渡して雇用を守りつづけた。彼のリストには学生や子どもの名前も含まれていた。戦争末期、ソ連軍が侵攻し、工場のユダヤ人労働者たちがアウシュビッツの絶滅収容所へ移送された際には、みずから収容所へ乗り込んでいって、賄賂をばらまいて労働者を連れもどした。自分のもっていた全財産を投じてユダヤ人労働者を守ったシンドラーは、終戦近くに工場を離れたときには、1ペニヒももっていなかったという。
戦後、シンドラーは貿易商や工場経営の事業で失敗を続けた。生き延びたユダヤ人たちはそんな彼の救済に努めた。シンドラーはドイツとイスラエルを行ったり来たりして晩年をすごした後、1974年10月、ドイツのヒルデスハイムで没した。66歳だった。

スティーブン・スピルバーグ監督の「シンドラーのリスト」は、多くの映画関係者がハリウッド映画史のベスト・ワンに挙げる名作で、感動なしには観られない。映画のなかで描かれるユダヤ人虐待の凄惨さはすさまじいものだが、あれでもまだ水でうすめて味を薄くしてあって、実際のナチスの収容所所長はさらに残虐で、ユダヤ人をつかまえてきてくいにしばりつけ、生きたまま犬に食わせることもしたらしい。
映画の終わりのほううで、工場のユダヤ人労働者たちが、金歯をぬき、溶かし、金の指輪を作って、シンドラーに贈る感動的な場面があるが、あれは実際にあったことだそうだ。米国のハリウッド映画界は、もともとユダヤ系の人々が作った業界で、スピルバーグ監督もユダヤ系なので、ベスト・ワンに選ばれた側面もあるのかもしれないが、ベスト・ワンにふさわしい、観た夜の夢に出てきてうなされそうな、苦々しい傑作である。

シンドラーのユダヤ人救済は一歩まちがえば自分が処刑される、まさに命を賭けた賭けで、頭が下がる。周囲に流されやすい日本人の自分としては、そういう体制下、世情におちいったとき、彼のように勇気をもって人間性を発揮できるかどうか疑問である。
(2014年4月28日)



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『こちらごみ収集現場 いちころにころ?』(落合三郎述、金原義明記)
ドキュメント。ごみ収拾現場で働く男たちの壮絶おもしろ実話。

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4月27日・メアリ・ウルストンクラフトの先見性

2014-04-27 | 歴史と人生
4月27日は、『ローマ帝国衰亡史』を書いたエドワード・ギボンが生まれた日(1737年、ユリウス暦による)だが、英国のフェミニズム作家、メアリ・ウルストンクラフトの誕生日でもある。自分は本で彼女のことを知った。フェミニズム(女性解放論)のパイオニアのひとりである。

メアリ・ウルストンクラフトは、1759年、英国イングランドのロンドンで生まれた。資産家の家庭で、メアリは7人きょうだいの上から2番目だった。
父親は投機的な投資を重ねて、しだいに家の財産を失い、しまいにはメアリが成人した際に受け取るはずの信託財産にも手をつけた。父親は暴力的で、酒に酔っては母親を殴るため、メアリは子どものころ、母親を守るために、親の寝室のドアの前で寝ていたという。
18歳のころ、女性王族の世話をする仕事を得て独立。家を出て暮らすようになり、21歳のときに母親が亡くなった後は、きょうだいや父親の面倒もみた。
28歳のとき、メアリは『少女の教育についての論考』を書き、出版されると好評を得た。以後、彼女は執筆を職業として評論、翻訳などに力を入れた。
ウルストンクラフトが30歳のとき、フランス革命が勃発。
33歳のとき、時代を二百年ほど先取りした代表作『女性の権利の擁護』を発表した。
34歳のとき、フランス革命の状況を見学しに訪ねたフランスのパリで、米国人実業家と恋に落ち、同棲。一女をもうけた。異国の地で子育てをしながら、革命の進行について記録して出版した。しかし、しだいに家庭的になっていくウルストンクラフトに疲れ、米国人の恋人はやがて離れていき、英国ロンドンで新しい女性を見つけた。ウルストンクラフトはロンドンへ追っていき、よりを戻そうとしたが、拒絶され、彼女は36歳のとき、テムズ川に身を投げた。
川から救助され、一命をとりとめたウルストンクラフトは、その後、38歳のとき、アナキストの思想家と恋に落ち、子どもをもうけた。
彼女は娘を産んだが、その際の産褥熱のため、出産から11日後の1797年9月に没した。38歳だった。このとき誕生した娘が、後に詩人シェリーと結婚し、みずからも女流作家として怪奇小説『フランケンシュタイン』を書いたメアリ・シェリーである。

ウルストンクラフトが生まれたのは18世紀の旧体制の時代だった。
まだ王権が君臨していて、ほかの人間の存在は、王のしもべにすぎなかった。
人間の自由と平等を訴え、フランス革命の理論的支柱となったルソーでさえ、主著『エミール』のなかで、男の子には教育が必要で、女の子には従順になるような教育が必要であると、明白に男女差別していた。そんな時代に、ウルストンクラフトは、男の言いなりでなく、対等に意見を言う女性の権利を昂然と訴えていた。
なるほど、フランス革命は「自分たちにもパンを」と、台頭してきた市民たちが叫んだ、自分らの生きる権利を訴えた市民革命だったが、こうしてみると、厳密には「男たちの権利のための革命」だったとわかる。
ウルストンクラフトは、現代から考えると、大変な苦労をして若死にした人だけれど、フェミニズムの源流であり、現代に生きる全女性の恩人とも言える。その思想の先見性にはまったく脱帽する。
(2014年4月27日)



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『ツイン・オークス・コミュニティー建設記』(キャスリーン・キンケイド著、金原義明訳)
米国ヴァージニア州にあるコミュニティー「ツイン・オークス」の創成期を、創立者自身が語る苦闘と希望のドキュメント。彼女のたくましい生きざまが伝わってくる好著。原題は『ウォールデン2の実験』。B・F・スキナーの小説『ウォールデン2』に刺激を受けた著者は、仲間を集め、小説中のコミュニティーをを現実に作って見せたのである。

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4月26日・ドラクロワが挑んだもの

2014-04-26 | 美術
4月26日は、哲学者、ウィトゲンシュタインが生まれた日(1889年)だが、ロマン派の画家、ドラクロワの誕生日でもある。作品としては「民衆を導く自由の女神」がいちばん有名かもしれない。自分が大好きな画家のひとりである。

フェルディナン・ヴィクトール・ウジェーヌ・ドラクロワは、1798年、仏国の現在のサン=モーリスで生まれた。父親は外交官、母親はルイ王朝御用達の家具屋の娘だった。
文学好きだったドラクロワは、画家の叔父に才能を見出され、17歳のときに学校を退学、当時有名だった新古典主義画家ゲランに弟子入りさせられた。「メデューズ号の筏(いかだ)」を描いたテオドール・ジェリコーはそこの兄弟子だった。
ドラクロワは、24歳のとき「地獄のダンテとヴェルギリウス」を発表。これはダンテの『神曲』の「地獄編」に題材をとった作品で、ダンテが案内役の詩人ヴェルギリウスと並んで小舟に乗っていると、湖に沈んでいた亡者たちが寄ってきて、舟にあがろうとしてくるという壮絶な場面を、荒々しいタッチで描いた力作だった。
26歳のときには「キオス島の虐殺」を発表。この作品は、当時、トルコの支配下にあったギリシャのキオス島で、独立運動に立ち上がった島民を、トルコ軍が大虐殺した事件を描いたものだった。この作品が発表された同じ年、英国の詩人バイロンはギリシャ独立戦争に身を投じ、その戦地で没している。
当時は様式美を重んじる新古典主義の時代であり、ドラクロワの画風はいずれも酷評された。しかし、ドラクロワはドラマティックな激情に満ちた作風を貫き「サルダナパールの死」「民衆を導く自由の女神」を発表。34歳のとき、政府の外交使節のお付きの画家としてモロッコへ旅し、現地でエキゾティックな香り高いデッサンをたくさん描いて帰ってきて「アルジェの女たち」を発表した。
その後、ドラクロワは宮殿、役所の庁舎などの大建築の装飾を数多く手がけた後、1863年8月、パリで没した。65歳だった。

ドラクロワのなかで、自分がいちばん慄然としたのは「サルダナパールの死」だった。広い寝室のいたるところで王の部下たちが半裸の美女たちをとらえ、剣で刺し殺している。ベッドに寝そべった王が、その殺戮風景を冷やかにながめている、という構図である。これは、バイロン作の戯曲「サルダナパール」を題材にしたもので、アッシリアの王サルダナパールが、反乱軍が迫り自分の死が近づいたのを察して、部下に自分の愛妾たちを殺すよう命令した、その場面である。この作品も、発表当時はひどく酷評されたらしい。ただ、詩人のボードレールは賞賛した。

当時、主流だった新古典主義の代表画家は「アルプスを越えるナポレオン」「皇帝ナポレオン1世と皇后ジョゼフィーヌの戴冠式」を描いたジャック=ルイ・ダヴィッドや、「グランド・オダリスク(横たわるオダリスク)」を描いたドミニク・アングルである。自分はダヴィッドやアングルの整然とした作品もいいと思うけれど、ドラクロワのはげしいタッチに打たれる。もともと新古典主義の師匠のもとで修行をしていたドラクロワが、なぜ写真のように美しく描ける技術を捨て、あえて荒々しい筆づかいで描いたかがわかる気がする。彼の絵を見ていると、既成の芸術観に挑み、乗り越えようとしたドラクロワの気持ちが迫ってくる。

華麗な色使いで知られる画家、ドラクロワはこう言ったそうだ。
「あらゆる絵の敵は、灰色である」
(2014年4月26日)



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『4月生まれについて』(ぱぴろう)
ウィトゲンシュタイン、ヤン・ティンバーゲン、ミラン・クンデラ、ダ・ヴィンチ、ブッダ、カント、ランボルギーニ、吉田拓郎、忌野清志郎など4月誕生の30人の人物論。短縮版のブログの元となった、より長く、味わい深いオリジナル原稿版。4月生まれの存在意義に迫る。

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4月25日・クロムウェルの意識

2014-04-25 | 歴史と人生
4月25日は、清教徒革命の立役者、クロムウェルの誕生日でもある。
オリバー・クロムウェルは、1599年、英国イングランドのハンティンドンシャーで生まれた。清教徒(ピューリタン)の 下級地主の家がらだった。
ケンブリッジ大学を出たオリバーは、29歳で庶民院議員となり、治安判事、牧場経営者などをへて、41歳のとき、ふたたび議員になった。
当時の英国王、チャールズ一世は「王の権利は神様がくださったもので、人間がこれを犯すべからず」という王権神授説を振りかざし、お金に困ると勝手に新税を作って税金を集め、反発する者は投獄し耳をそいだ。
当時の英国はすでに、国王のツケは国民にまわせばそれで済むという時世ではなくなっていた。ツケをまわされた国民の半分は崖っぷちの生活だった。社会構造が変化し、絶対王政が世に合わなくなっていた。クロムウェルたちピューリタンで占められた議会派は、チャールズ一世に立憲君主となってくれることを臨んだが、王様の頭はそれを受け入れなかった。王は自分にたてつく議会をすぐに解散し、ピューリタンを迫害した。
国王側と議会側との内戦がはじまり、そのなかで頭角をあらわしたのがクロムウェルだった。クロムウェルは、国王側の職業軍人の軍隊に対抗するため、私財を投じて「鉄騎隊」を作った。そして劣勢だった戦況を挽回して、ついに国王側を追いつめ、勝利した。
チャールズ一世は処刑された。その翌年、クロムウェルが50歳のとき、イングランド共和国が成立し、清教徒革命は成った。
しかし共和制は長く続かなかった。権力を掌握したクロムウェルは議会の反対派を弾圧して、54歳のときに議会を解散させ、終身護国卿となり、軍事独裁政治をはじめた。
国外的には、フランス、スウェーデン、デンマーク、ポルトガルと結び、スペインと敵対した。ジャマイカを占領し、英仏連合軍でスペインに勝利した。
1658年9月、クロムウェルはマラリアのため没した。59歳だった。

クロムウェルの死後、彼の息子が跡を継いで護国卿に就任したが、すぐに退位。英国は外国へ亡命していたチャールズ二世(一世の息子)を王に迎え、王政にもどった。
王の座についた二世は、清教徒革命の報復をはじめた。父親の処刑命令にサインした議員たちを処刑し、すでに亡くなっていたクロムウェルの墓を掘り起こし、クロムウェルの遺体をあらためて国王殺しの罪で絞首刑に処し、その首をさらした。

クロムウェルが生まれたのは、日本の豊臣秀吉が没した翌年である。だから、案外、秀吉の生まれ変わりなのかもしれない。秀吉は一夜城とか水攻めとか智略で知られる軍事の才人で、一方英国のクロムウェルも戦争上手でのし上がった男だった。

クロムウェルの評価は「偉大な指導者」と「軍事力の独裁者」とに真っ二つに分かれる。ただし、その評価はイングランド内でのもので、よそでは異なる。とくに侵略され大勢が虐殺されたアイルランドでは、クロムウェルは悪魔のように忌み嫌われる存在だろう。

ルソーなどが出て、人間は一人ひとり価値があるのだという人権思想が芽をふくのはつぎの世紀のことで、クロムウェルの時代にはそんな考えはなかった。チャールズ一世や二世は自分以外の人間にこれっぽっちでも価値があるなどと考えたことはなかったろう。
自分はときどき、クロムウェルの時代の人間の意識というのは、どういうものだったろうかと想像してみる。政治家や高級官僚の失言を耳にすると、当時の支配階級の意識は、案外、現代日本のエリートたちのそれとあまり変わらないのかもしれない。
(2014年4月25日)


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『オーロヴィル』(金原義明)
南インドの巨大コミュニティー「オーロヴィル」の全貌を紹介する探訪ドキュメント。オーロヴィルとは、いったいどんなところで、そこはどんな仕組みで動き、どんな人たちが、どんな様子で暮らしているのか? 現地滞在記。あるいはパスポート紛失記。南インドの太陽がまぶしい、死と再生の物語。

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4月24日・ルー・テーズのことば

2014-04-24 | スポーツ
4月24日は、植物学者、牧野富太郎が生まれた日(文久2年・1862年)だが、プロレスの神様「鉄人」ルー・テーズの誕生日でもある。
自分は小学校低学年のころからプロレス好きで、「ジャイアント台風」「プロレス大百科」などの本を買いあさり勉強していた。数多くいるプロレス・チャンピオンのなかでも、最強の正統派ストロング・スタイルの王者がルー・テーズだった。

ルー・テーズは、1916年、米国ミシガン州のバナットで生まれた。父親はハンガリーからやってきた靴修理職人の移民で、セントルイスで靴修理をしていたところ、バナットの田舎へ引っ越して、農場をはじめた。そこの山小屋で生まれたのがルーだった。ルーは4人きょうだいの3番目で、彼のほかはみんな女のきょうだいだった。農地開墾はうまくいかず、ルーが2歳のころ、一家はセントルイスへもどり、父親も靴修理にもどった。
小さいころ、ルーは吃音に悩まされていた。さらに彼は生まれつき左利きで、当時左利きは無理やり右利きに矯正されたため、苦しい少年時代をすごした。
8歳のころから、父親はルーにレスリングを教えだした。数百回の腕立て伏せ、スクワット、ブリッジからはじまるきびしいレッスンだったが、ルーはそれを楽しんだ。彼のおこづかいはすべてプロレスラーの公開練習見学に注ぎ込まれた。
14歳のときに学校をやめ、靴の修理工となり、仕事を5時に終えると、午後9時までレスリングのトレーニングをした。近くの高校のレスリング部といっしょに練習するようになり、テーズはいよいよ熱中した。
15歳からコーチにつき、19歳からプロレス巡業に参加した。当時は大恐慌が尾を引く不況期だったが、生活を節約して転戦し、タイトルマッチへの権利を得、彼は21歳の若さでNWA世界王者となった。通常のチャンピオンより10年若い王者の誕生だった。
第二次大戦中は徴兵され、兵士たちに格闘技を教える教官を務めた。
戦後、軍務から解放されたテーズは、世界王者に返り咲いた。相手を背後から抱え上げ、からだを添えてのけぞりながら、目にも止まらぬ速さで相手の後頭部を後方のマットへ打ちつけるバックドロップで連戦連勝を重ね、30代の全盛期には約8年間にわたって936連勝という大記録を打ち立てた。
テーズは、力道山、ジャイアント馬場、アントニオ猪木といった日本のプロレスラーとも試合をし、何度も来日した。74歳のとき、47歳年下の蝶野正洋と戦った試合を最後に現役を引退し、2002年4月、心臓発作のため、フロリダ州オーランドの病院で没した。86歳だった。

「打倒、ルー・テーズ。わたしを強くしてくれたのは、この悲願、この執念だ」
それが力道山の口ぐせだったという。

自分はルー・テーズの自伝を読んだことがある。鍛え抜かれたからだと、強い戦う意志をもった人で、自分と同じ人間とは思えなかった。
自伝のなかで、テーズが信条にしていることばが書かれていて、それはこうだった。
「オーセンティック(authentic、正真正銘の、本物の、確実な)」
戦後はテレビ時代となり、派手なガウンをまとい、派手なアクションをするプロレスラーが人気を浴びるようになった。プロのレスラーとして生きていくには、この時代の流れに順応していかなくてはならないが、大事なのは「オーセンティック・レスリング」を忘れずに精進することだと、亡くなった先輩レスラーが彼に言い残した。以来、テーズは「オーセンティック」という形容詞を肝に銘じて忘れないという。
自分もときどき「そう、オーセンティック、オーセンティック」と思う。
(2014年4月24日)


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『ツイン・オークス・コミュニティー建設記』(キャスリーン・キンケイド著、金原義明訳)
米国ヴァージニア州にあるコミュニティー「ツイン・オークス」の創成期を、創立者自身が語る苦闘と希望のドキュメント。彼女のたくましい生きざまが伝わってくる好著。

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4月23日・川上宗薫の誠実

2014-04-23 | 個性と生き方
4月23日は「サン・ジョルディ」の日。スペインのカタロニア地方では、女性は男性に本を、男性は女性に赤いバラを贈る日だが、この日は日本画家、上村松園が生まれた日(1875年)であり、作家の川上宗薫(かわかみそうくん)の誕生日でもある。官能小説の大家である。
自分が若いころ、川上宗薫はすでにものすごい売れっ子で、週刊誌や夕刊紙でその小説をよく見かけた。後輩の官能小説作家たちとちがい、川上宗薫の文章は、人間として生きてきた実感に裏打ちされた或るまじめさがあったように思う。

川上宗薫は、1924年、愛媛の宇和(現在の西予市)で生まれた。父親はキリスト教のメソジスト派の牧師だった。本名は、漢字表記はペンネームと同じで「むねしげ」。
子どものころから引っ越しを繰り返し、長崎の中学、福岡の高校に通った。17歳のとき日米開戦を迎え、20歳のとき、長崎の陸軍連隊に入隊した。入隊後は肋膜炎を患い、入院したが、その入院中に、長崎への原爆投下によって、母親と二人の妹を失った。
敗戦後、22歳のとき九州大学に入学。はじめ哲学科、後に英文科へ移った。学生結婚をし、大学に通いながら高校で英語の授業を教え、文芸部で小説、俳句を書いた。
大学を卒業後、高校教師となり、千葉へ引っ越して、高校で英語を教えながら、小説を書いた。30歳から36歳にかけて『その掟』『初心』『或る眼醒め』『シルエット』『憂鬱な獣』で5度、芥川賞候補になった。が、受賞は逃しつづけた。その期間の受賞者には吉行淳之介、遠藤周作、石原慎太郎、開高健、大江健三郎、北杜夫がいる。
35歳のころ、友人だった水上勉の小説を、知り合いの編集者に推薦すると、すぐに本になり、水上勉は急に売れっ子になった。川上は追い越された嫉妬を茶化した小説を発表し、水上も恩人の川上を揶揄した小説を書いて応酬し、両者の仲は険悪になった。ケンカの影響で川上は文芸誌に原稿を受けとってもらえなくなり、すでに教師をやめ、執筆業に専念していた川上は窮した。彼は官能小説の分野に本格的に進出した。過去の体験の上に、さらに体験取材を重ねて、実体験に基づく官能小説を書きつづけて、その分野の大家となった。
1985年10月、リンパ腺がんのため、東京の自宅で没した。61歳だった。

牧師だった川上宗薫の父親は、原爆によって妻子を失ったため、キリスト教への信仰を捨てたそうだ。牧師の子だった川上と、寺の小僧だった水上勉が友人同士で、二人ともひじょうに女好きで、性欲が旺盛だったのは、とても興味深い。
一方は何度も候補にあがりながらついに芥川賞をとれず、一方は直木賞をとった。受賞の有無が大きくその後の方向性を分け、一方はやわらかい小説を、一方はかたいものを書くようになった。ただ、どちらも流行作家で、プライベートでモテモテで女性関係が忙しかったのは共通していた。

川上宗薫と水上勉。自分は両作家とも好きで、自伝的な川上の『わが好色一代』や水上の『フライパンの唄』なども読んだ。水上が川上を皮肉って書いた『好色』も読んだ。そのほか、吉行淳之介や小林秀雄がらみの逸話もすこし知っていて、二人の人生経緯をながめると、感慨深いものがある。
どちらも小説家だからうそつきにはちがいないが、自分の読者としての印象からすると、どちらかというと川上宗薫のほうが誠実で、より信頼できる感じがする。仲たがいしていた二人は後、川上が45歳のころには仲直りしたそうだ。ちょっとジョン・レノンとポール・マッカートニーに似ている。
(2014年4月23日)



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4月22日・三宅一生のとんがり

2014-04-22 | ビジネス
4月22日は、地球環境について考えようという「アースデイ」。この日はまた、哲学者、イマヌエル・カントが生まれた日(1724年)だが、ファッションデザイナー、三宅一生(みやけいっせい)の誕生日でもある。
三宅一生は、もっとも日本の特色を強く打ち出し、かつ世界の最先端を走っている日本人ファッションデザイナーだと思う。

三宅一生は、1938年に広島で生まれた。7歳のとき、原子爆弾により被爆。同時に被爆した母親は、3年後に放射能障害により亡くなった。
小さいころから絵画が好きだった彼は、広島の平和橋を見て「あ、これがデザインなんだ」と感じ、自分はデザインに進もうと考えだしたという。その橋は、彫刻家イサム・ノグチのデザインで、後に一生はノグチと親交を結んでいる。
進路を決めぬまま、とにかく総合的なデザインの勉強をと東京の多摩美術大学の図案科に入学した一生は、独学で衣服を勉強し、コンテストに応募するようになった。
大学を卒業し、27歳のとき、何をするというあてもないまま渡仏。パリの街を歩いていて、ショーウィンドウに映る自分の姿を見て「青白くて黄色くて貧相で……。そうしたら自分なんですよね。それを観たときに、『自分は何なんだ』と思ったのです」(聞き手・重延浩『三宅一 未来のデザインを語る』岩波書店)
彼はパリの専門学校へ入ってカッティングの勉強をし、28歳でギ・ラロッシュの下で働くようになった。ある日、街でファッションモデルとお茶を飲んでいるとき、たまたまそこをユーベル・ド・ジバンシィーが通りかかり、彼女の紹介でジバンシィーのもとで働くことに。ジバンシィーのデザインをスケッチし、自分のデザインをジバンシィーに見せた。彼はジバンシィーから、ぎりぎりまでシンプルにすることを学んだという。
32歳で帰国し、東京に三宅デザイン事務所を設立。以後、人間と衣服の関係を考え抜き、「一枚の布」の発想をファッションに生かした「オリガミ・プリーツ」「プリーツ・プリーズ」「A-POC」「123 5.」などを発表。四国のしじら織り、東北の刺し子など日本各地に伝わる技術を取り入れ、着る当人が生地にはさみを入れて、好きなデザインの衣服を切りだす「ジャスト・ビフォー」など、つねに新しい技術開発、素材開発に挑み、新しい衣服の形を追求しつづけていまにいたっている。

三宅一生は、1945年のヒロシマ、1968年のパリ五月革命、1989年の北京の天安門事件、2001年ニューヨークの911同時多発テロ。すべての事件で、彼はその街に居合わせている現代史の生き証人である。

自分は、三宅一生のネクタイを一本だけもっていて、とても気に入っている。いかにもイッセイ・ミヤケらしい着物の色のネクタイで、これは父親の形見である。こういう色使いでネクタイを作る人は世界で三宅ひとりだけだと思う。
38歳のころ、三宅はテレビCMのなかにでこう言っていた。
「まだまだ丸くはなりたくないですよ」
以来、ずっととんがりっぱなしで突っ走ってきた。三宅一生は言う。
「ぼくは不器用なんです。流行を追うことはできない。パリという中心地に向けて発進していこうとするときには、そこから出てくる情報を受け取ってつくるのでは、もう遅いのです。ですから、最初から、そういった流行をおう方法は、自分たちにはありえなかった。」(同前)
いいとんがり具合だなあ、と思う。
(2014年4月22日)



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4月21日・マックス・ウェーバー

2014-04-21 | 個性と生き方
4月21日・マックス・ウェーバー

4月21日は、『ジェーン・エア』を書いたシャーロット・ブロンテが生まれた日(1816年)だが、社会学者、マックス・ウェーバーの誕生日でもある。
学生のころからマックス・ウェーバーの名前だけは知っていた。友だちにウェーバーを読んでいる者もいたが、自分はずっと読まず嫌いできてしまった。近年になってようやくウェーバーの本を買って、すこしずつ読むようになった。

マックス・ウェーバーこと、カール・エミール・マクスィミリアン・ヴェーバー は、1864年、プロイセン王国のエルフルト(現在のドイツ中央部にある)で生まれた。父親は政治家で、母親は哲学者で婦人運動家でもあった。マックスは長男だった。
12歳のころからマキャベリ、スピノザ、カントを読み、15歳のころには民族史の論文を書いていたマックスは、18歳でハイデルベルク大学に入学し、法律学を修めた。
19歳で軍務についた後、ベルリン大学、ゲッティンゲン大学で学んだ。
28歳のとき、ベルリン大学の講師となり、法律学の講義を担当した。
31歳でフライブルク大学の教授に就任。33歳でハイデルベルク大学の教授に就任したが、39歳のとき、神経症のため退職、名誉教授となった。以後しばらく教職を離れ、学術雑誌を編集し、論文を書いた。
41歳のとき、代表作『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を発表。同年に第一次ロシア革命が起きると、ウェーバーはただちにロシア語を勉強し『ロシアにおける市民的民主主義の状態』を書いた。
50歳のとき、第一次世界大戦が勃発。ウェーバーは野戦病院で働いた。敗戦の色が濃くなった53歳のとき、ミュンヘンの学生に向かって、学問への甘い幻想を叩き斬る講演をぶち、これが本にまとめられ『職業としての学問』となった。
第一次大戦後は、ウィーン大学、ミュンヘン大学などの教壇に立ったが、1920年6月、ミュンヘンで、当時世界的に流行したインフルエンザ(スペインかぜ)のため、肺炎を起こし、没した。56歳だった。

彼の大著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、もともと禁欲主義で清貧をモットーとするプロテスタント(清教徒)が、なぜヨーロッパやアメリカで成功して大金持ちになれるのかという、自分の長年の疑問に真正面から取り組んだ労作で、とても興味深い作品だった。これを読んで、カーネギーやロックフェラー、ビル・ゲイツら成功者がなぜ慈善事業に走るのかがあらためて腑に落ちたし、また、ウェーバーの言う「天職義務」の語にも強く感じた。日本人について、あらためて考えさせられた。しかし、資本主義はさらに進み、倫理は過去のものとなり、高度産業社会に突入した。
「ピュウリタンは天職職人たらんと欲した──われわれは天職人たらざるをえない。というのは、禁欲は修道士の小部屋から職業生活のただ中に移されて、世俗内的道徳を支配しはじめるとともに、こんどは、非有機的・機械的生産の技術的・経済的条件に結びつけられた近代的経済秩序の、あの強力な秩序界を作り上げるのに手を貸すことになったからだ。(中略)今日では、禁欲の精神は──最終的にか否か、誰が知ろう──この鉄の檻から抜け出してしまった。ともかく勝利をとげた資本主義は、機械の基礎の上に立って以来、この支柱をもう必要としない。」(大塚久雄訳『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』岩波文庫)

マックス・ウェーバーは、自分にとって、もっと若いときに読んでいれば、と悔やまれる数すくない作家のひとりである。こんなことはあり得ないけれど、ウェーバーは現代日本人のために書いた、という気がしてならない。
(2014年4月21日)



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