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著書『誇りに思う日本人たち』
『ビッグショッツ』
『黒い火』ほか

12月10日・寺山修司の縁

2016-12-10 | 文学
12月10日は、詩人・伊藤静雄が生まれた日(1906年)だが、同じく詩人の寺山修司の誕生日でもある。

寺山修司は、1935年12月10日、青森で生まれた(翌1936年1月10日の説もあり)。
警察官だった父親の転勤のため、修司は青森県内を転々と引っ越ししながら育った。
高校を出て上京し、早稲田大学の国文学科に入学。大学在学中だった18歳のときに、第2回短歌研究50首詠を受賞。注目の若手歌人として華々しくデビューした。が、腎臓炎、ネフローゼで長期の入院生活を送ることになり、大学を退学した。
寺山は短歌創作のかたわら、ラジオドラマや舞台の脚本を書くようになり、31歳のときに、自分の劇団 「天井桟敷」を結成。寺山が脚本を書き「青森県のせむし男」「毛皮のマリー」などを上演し、唐十郎の「状況劇場」などとともにアングラ劇団ブームの中心的存在となった。評論『書を捨てよ、町へ出よう』で話題を集めた寺山は、35歳のころ、映画界に進出。「書を捨てよ、町へ出よう」「田園に死す」などを監督した。
マスコミの寵児としてもてはやされた寺山は、1983年5月、肝硬変のため入院した東京の病院で、腹膜炎、敗血症のため没した。47歳だった。

「マッチ擦(す)るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや」
歌集『空には本』にあるこの短歌は、おそらく寺山修司のいちばん有名な歌だろう。彼が22歳のころの作で、時代感覚とウィットがある。

寺山修司は亡くなるすこし前に、自分が通う大学の学園祭で講演と質疑応答をした。自分は下宿で寝ていた。夕方になって起きだして大学に行くと、もう寺山は帰った後だった。
寺山が没したとき、自分は米国にいて、帰国したときには彼はこの世にいなかった。
寺山が亡くなったのは、東京・阿佐ケ谷にある河北病院で、彼の死後、自分は河北病院のすぐ裏手に事務所を借りた。
同時代を近くで生きたが、ずっとすれちがいだった。

寺山はものごとや情報を思わせぶりに、自分に都合よく加工し、デフォルメするうさんくさいところがあって、たとえば家族の写真をわざと破ってから貼り合わせて公表したりした。短歌でも、たとえば寺山の歌に、
「向日葵(ひまわり)の下に饒舌(じょうぜつ)高きかな人を訪わずば自己なき男」
というのがあるけれど、これは「昭和の芭蕉」と言われた中村草田男の俳句、
「人を訪はずば自己なき男月見草」
の発想をいただいたものである。

いずれ、短歌、演劇をはじめとした多方面に新風を送った、きらびやかな芸術的才能をもった才人だった。
(2016年12月10日)



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