ねこ庭の独り言

ちいさな猫庭で、風にそよぐ雑草の繰り言

冬虫夏草

2016-05-17 17:33:46 | 徒然の記

 梨木香歩氏著『冬虫夏草』(平成25年刊 新潮社)、を読了。「凄く面白かった。」「自分で買って、持っておきたい気がする。」

 どうしてそんなに気に入ったのか、家内がむやみに褒めるので、私は読みかけている、神様の本を中断した。

 主人公は、パッとしない小説家である綿貫だ。植物学者らしい友人南川と、死んでいるのに時々姿を表す、同じく友人の高堂が脇役だ。他に河童の息子と両親、宿屋を営むイワナの夫婦、あるいは山里のあちこちで暮らす農夫や木こりの夫婦など、不思議な世界が語られる。

 話の筋はあるといえばあるし、無いといえば無い。しいて言えば、飼い犬を探す旅の話とも言える。綿貫の犬が突然いなくなり、日が経つにつれ、心配と不安に襲われ、矢も楯もたまらず探しに出かける。

 欲張りな小説家らしく、小説のネタも、ついでに探索しながら、草深い山間の村々を訪ねる。数日後、山奥の滝の裏の祠で、彼はやっと飼い犬に再会する。道の途中の岩も急流も、生い茂る草も、あらゆるものに目もくれず、飼い犬が、綿貫めがけて疾走してくる。

 来い。

 来い、ゴロー。

 家へ、帰るぞ。

 先日読んだ氏の著作、『村田エフェンディー滞土録』と同様に、最後は作者の詠嘆で飾られる。あの時はオームだったが、今回は犬だ。似たようなパターンで、小説を構想するのだなと思わされても、やっぱり胸がジンとなった。どうやら作者には、読者の心をつかむ、何かの才能が備わっているのかも知れない。

 真面目なのかふざけているのか、飄々とした文体は、井伏鱒二を彷彿とさせる。だが作品の世界は「高野聖」の泉鏡花に似ている。人も動物も、物の怪も草木も、渾然一体として語られ、おかしな話なのに、不自然さを感じず読まされてしまう。どうやら梨木氏の作風は、ここに特徴があるらしい。泉鏡花賞の方が、氏に相応しい気がするが、どうして児童文学賞なのだろう。

 この作品も、深く考えず読んでいると、現在の話と錯覚する。

 トルコに留学している村田が、友人の一人だと語られるので、明治44年の話だと分かる。『村田エフェンディー滞土録』と、つながりのある本なのだが、説明は何も無い。作者のいい加減さというのか、大らかさというのか、作品の中身も不可思議な世界だが、執筆姿勢も劣らず不可思議でないか。

 そうなると、主人公がバスにも乗らず、旅の行程を徒歩で通す訳も分かるし、替えのわらじを、背負った荷の中に入れているとか、旅館の上がり口で草鞋を脱ぎ、汚れた足を桶で洗うという動作にも、納得がいく。私は理解したが、本そのものが不思議な内容なので、大抵の読者は、時代が少々変でも、疑問を抱かず読むのではなかろうか。

 「そこをしばらくいくと、なんとも爽快な眺望が眼前に広がる。」「覚えず、おお、と声を上げる。」こういう書き方は、井伏鱒二を思わせる、惚けた味がする。

 「遠く浮かぶは伊吹山、手前に愛知川は帯のごとく悠々と流れ、」「そが端を発するは、見よ秀麗なる鈴鹿の山並み、」「峰に尾根、十重二十重と、互いに庇を押し合うようにして、控えている。」「転じて蒲生野は、ひろびろとのどかで、藁でも焼くのか、あちこちに煙が上がっている。」

 方向音痴の私には、こういう叙述が逆立ちしてもできない。立て看板の地図を読んでも、自分が立っている場所がわからず、どの山がどれか読み取れ無い。これだけでも、私が氏を尊敬する立派な理由になる。

 「だがイワナの宿で暮らすとなると、君の生活の仕方と折り合うのかね。」「夏と冬ではそれ、住む場所も生活の仕方も、違うというではないか。」

 主人公が河童の少年に尋ねると、河童が答える。

 「なに、それは生物一般に言えることではないでしようか。」「そのときどき、生きる形状が変わっていくのは、仕方がないこと。」「それは、こういう閉ざされた村里に住む人々でも、同じことです。」「人は与えられた条件の中で、自分の生を実現していくしかない。」

 「君は何か、宗教書か哲学書を読む習慣があるのかね。」主人公が驚いて質問する。

「いえ、独自に達した境地です。」河童の少年の答えを聞き、独白する主人公。

   「河童族とは、かくも諦観を持って、己の行き方を心得た種族なのか "   " 私はすっかり感じ入った。」 

  こういう具合に、主人公が、出会うものたちと処世訓じみた問答をするので、本には筋がなくても、支障がない。読者は、惚けた書きぶりの面白さと、含蓄のある問答に惹かされ、一気に読んでしまう。読後に残る楽しさには、生きることの喜びと、悲しみが混じっている。

 飼い猫を失った悲しみを、今も抱く私は、最後の所で犬と再会し、「来い。来い、ゴロー。」「家へ、帰るぞ。」という場面では、万感胸に迫る思いがした。

 愛犬との再会の喜びと、嬉しさと切なさに、熱いものさえこみ上げてきた。

 もしかすると、家内が氏の本を絶賛するのはこの部分だったのだろうか。その気持ちなら、私には分かる。

コメント (2)
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