Mars&Jupiter

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裁判とハーバーフェルトトライベン、そして三善晃の「響紋」

2008-02-21 07:19:49 | 古典~現代音楽日本編
裁きというものは難しいものだ。
現代では裁判というものにより、
犯罪人が裁かれるのだが、
それが犯罪人にとって本当に裁いたことになるのか?
ハーバーフェルトトライベンの場合には、
地域の住民が制裁する対象を裁くという形式になっているが、
(とはいえ、ある意味では間接的であるのだが)
現代は被告人とは関係のない第三者が裁くことになっている。
それが本人にとってどれだけ精神的に裁かれている感覚を
持たせることになっているかどうかは難しい。
現代の裁判システムの限界ではあるが、
陪審員制度になってそれが解決するものともいえない。
中世から近代にかけて、裁判制度に関しても
大きな変化があったことは確かである。

さて、昨日は二俣川から鶴ヶ峰駅まで歩く。
昨日聴いたのは三善晃の作品で、
「オーケストラと童声合唱のための〈響紋〉」。
1984年に作曲されたこの作品は、
児童合唱団がかごめかごめの唄を歌い続け、
中間部から出てくる骨という言葉が、
とても印象的ではあるし、気になる。

三善自身の解説からうかがえるのは、
戦争の影と記憶と忘却である。
かごめかごめの唄は幻のようにも見え、
生きるものと死者とをつなぐもののように
見えたりもするので、効果的である。
人間は記憶する動物であるとともに
忘却する動物でもある。
「響紋」という作品にあるメッセージは、
見えたもの、見えなくなってしまうもの、
聞こえたもの、聞こえなくなってしまうもの、
知っているもの、忘れてしまったものの、
境界のようなものを感じさせる部分に
何かを感じてほしいということにあるかもしれない。
コメント
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