じぶんの足でたつ、それが教養なんだ

「われこそは」と力まないで、じぶんの歩調でのんびりゆったり歩くのがちょうどいい。

身を立て名をあげ やよはげめよ

2006-06-03 | 教育(education)
 かつて私の教室から巣立ったある子どもが中学の授業について次のように語ったことがある。「いまの勉強は与えられたことをただするだけや。みんなも言われたことをしたら、それ以上考えようとしやへん」… /その原因の一つに子どもとともに学ぶ喜びを見いだせない教師の存在がある。学校には、教えるのは教師、学ぶのは子どもという図式が存在している。いかにも当然と言えるこの図式だが、はたして一方向的な行為だけで本当の学びは成立するのだろうか。… / 教師は、子どもに何かを教えるのだけれど、その奥で、教師こそがよき学び手になっていなければならない。それには教科書をそのまま教えるという意識を捨てて、教師自身の発見と願いのこもった教材をつくり、ともに探求しようという意識に転換すべきである。(石井順治:四日市市立県小学校校長)

 なにも校長先生だから、このようなことをいうのではないでしょう。だれでもこれくらいのことは口にするのです。しかし、だれもが学校の授業のつまらなさや、その改善策についていろいろなことをいうにもかかわらず、一向に学校教育が変わらないのはどうしてなのか。理由は簡単なんだといいたいのですが、さてどうしたものでしょうか。
 ひとそれぞれに教育再生論をもっていて当然だし、たった一つの方法しかないと見なす方がおかしい。まあ、わたしの再生論はとても乱暴な意見ですが、おそるおそる提案してみます。
 石井さんが指摘されている「いかにも当然と言えるこの図式」を破壊することじゃないですか。教師が教えるから生徒は「考えようとしやへん」のですよ。わたし自身もその傾向は否定できないのですが、教師という椅子にすわると「俺が教えてやるんだ」「私が教えなければ」という強迫観念に襲われるんでしょうね。だから、自分で確かめもしないことでも「教える」ことになる、教えるふりをするのではないかな。過教?教えすぎという病ですね。
 教師自身が自律していなければ(しようとしなければ)、子どもを自律しつつある(してほしい)存在と認めることはできない。教えなければ…、助けなければ…、監督しなければ…、保護しなければ…、殴らなければ…、子どもは自分では何もできないんだ、という子ども(人間)観があり、そのほとんどは教師自身の(子ども)経験に基づいているんじゃないかと、わたしは思ってるんです。
 自分も教えられたから、自分も教師に怒られたから、だからこの子供たちも…という具合に。教えや監視の万世一系というやつですね。
 なによりも、この「教えすぎ」の万世一系を断ち切ることですよ。  
1、あおげばとうとし わが師の恩    
   教えの庭にも はやいくとせ   
   おもえばいと疾(と)し このとし月 
  いまこそわかれめ いざさらば
 2、たがいにむつみし 日ごろの恩
   わかるる後にも やよ忘るな
   身を立て名をあげ やよはげめよ 
   いまこそわかれめ いざさらば 
          
 のどかなような、けなげなような。そして、堅苦しいような、ばかばかしいような、この雰囲気は、いまに始まったことではないのですね。はたしていまでもこれが歌われているのでしょうか。恥ずかしい気もします。作詞・作曲者は不詳。
 学校は大変な役目を負わされているんですね。(日ごろの恩か)