じぶんの足でたつ、それが教養なんだ

「われこそは」と力まないで、じぶんの歩調でのんびりゆったり歩くのがちょうどいい。

出る杭は打たれる

2007-01-27 | 歴史(history)
「小砂丘などのいうことは他人の悪口ばかしで三文の値打もないと附属の一先生がいっている。しかしそれが何だろう。値打があるかないか、それはその先生などの頭で考へられる性質のものではなく、もっと高いものである。私は云うべきことをいい、聞くべきことをきいてゆく。世間がどう云ったってよいことだ」  「私を教育界の危険人物、不良児だとして罵る者も沢山ある。それが何です。つまり私がいることも一つの事実だし、そ . . . 本文を読む

地方性を云々する理由

2007-01-20 | 歴史(history)
 小砂丘忠義さんの俳句をいくつか。  大芭蕉悠然と風に誇り鳴る  破れ裂けし芭蕉葉にふり注ぐ雨  涸れ沼に崩折れし葉あり大芭蕉  巨葉鳴らし風呑まんずと大芭蕉  大芭蕉葉鳴りゆたかに風をのむ  小砂丘さんが妻からシャツを「買ってきて」と頼まれたのに一ヶ月も忘れていたら、妻は自分で買ってきた。それをみせびらかしながら、「これでやっとせいせいした、頼んだって買ってくれないんだから」といった。小砂丘 . . . 本文を読む

先づ綴方から

2007-01-13 | 歴史(history)
 「最初の学校が最も長く私を容れてくれて三年間。いわゆる新卒の猛烈さを以て一本調子に突進した。私は水泳用の褌(ふんどし)に名前を書いてあるというので、村の巡査が『褌に名前を書く男を初めてみた。あいつはほんとうに狂人だ』と、村の内外をふれ歩く。巡査さんのいうことにまちがいはないというので『夜もろくろく眠らんで、髪をのばして変な奴だと思ったが、かはいそうにほんとうの狂人になったのか』と近所の教員連まで . . . 本文を読む

一人の巨人がいた

2007-01-06 | 歴史(history)
 ここに一人の巨人を立たせます。小砂丘忠義(ささおか・ただよし)。  この人もまた、いまでは「忘れられた日本人」です。高知県の出身。生年は一八九七(明治三〇)年。後年、「生活綴方の父」と謳われた人物です。大正二年、高知師範学校に入学。この当時、宮本常一さんは六歳でした。  「一体私はうけてきた師範教育をありがたいとはそんなに思わぬ代わりに全然之を牢獄の強制作業だったとも思わぬ。ただ時がまだ、官僚気 . . . 本文を読む

忘れられた日本人(承前)

2006-12-30 | 歴史(history)
 『忘れられた日本人』が公刊されたのは1971(昭和46)年4月。それから十年後の81年1月30日に、宮本さんは亡くなられました。74歳でした。その宮本さんもまたいつしか「忘れられた日本人」となる。人間が歴史をつくるのではなく、悠久の時間が紡ぎだすものだからです。  どのようなねらいをもって『忘れられた日本人』は書きとめられたのでしょうか。「これらの文章ははじめ、伝承者としての老人の姿を描いてみた . . . 本文を読む

隣の家に倉がたつと腹がたつ(承前)

2006-12-23 | 歴史(history)
 生産単位としての家をつぐことは、共同体としての村の一員になることでもあった。小さな個々の生産体が集合して村落共同体は成立したのである。  村の中の耕地面積は一定している。それをある一人が買い集めたとすれば、その周囲には貧しいものが出て来るのが当然の姿であった。一人が富むことによって周囲もうるおうというようなことのないのが日本の村の姿であった。「隣の家に倉がたつと腹がたつ」とか「隣の家の没落は鴨の . . . 本文を読む

寄合(承前)

2006-12-16 | 歴史(history)
 私は、かつて村々をさかんにあるきまわっていたころ、村の集会によく出会ったことがある。戦前の集会には意見の対立による論争はほとんどなかった。集会の話しあいそのものが一つの物語であった。多くの古風をのこす対馬西岸のある村で、昭和二五年に見た村寄合は朝早くからはじまって夕方までつづいていた。…話と話が縄をなうようにないまぜられていって方向を見出すのである。…  それが戦後になると、ずっと変わって来た。 . . . 本文を読む

信仰の起源?

2006-12-09 | 歴史(history)
 宮本常一の故郷でのことです。  村にひとりの大工がいた。旅暮らしをしている間にひとりの女ができた。大工は女を置いたまま村に帰った。そこには女房がいたからである。女は大工を恨み狐を仕掛けたというのです。まもなく男は足を病んでしまった。大工はじぶんにとりついた狐を丘の畑の松の下にまつったが、ついに足が腐って死んでしまった。  その後、このほこらにはときどきお参りする人もあったが、だんだんと忘れられて . . . 本文を読む

星月夜

2006-11-11 | 歴史(history)
 65年前の「里の秋」  きれいな きれいな 椰子の島  しっかり 護って 下さいと  ああ 父さんの ご武運を  今夜も 一人で 祈ります  大きく 大きく なったなら  兵隊さんだよ うれしいな  ねえ 母さんよ 僕だって  必ず お国を 護ります  これは小学校教師であった斎藤信夫さんが作られた詩です。昭和16年のことでした。帝国はアメリカとの負け戦に突入、教室では少国民をあおりにあお . . . 本文を読む

学校はなにをするところか?

2005-07-18 | 歴史(history)
 明治五年に学校教育に関する法律(学制)が出されて以来、およそ百三十年が経過しました。その間にたくさんの戦争があり、また決定的な敗戦がありましたが、気がつけば学校の姿も形もまるで変わっていないようにおもわれるのはどうしてなんでしょうか。(昔の名前で出ています)スズメの学校かメダカの学校かはともかく、学校はいつも先生が教える人で生徒は教えられる人たちでしたし、試験は学校(勉強)の代名詞のようでもあっ . . . 本文を読む