じぶんの足でたつ、それが教養なんだ

「われこそは」と力まないで、じぶんの歩調でのんびりゆったり歩くのがちょうどいい。

子ども好き

2006-04-29 | 教育(education)
 先生になりたいという理由の多くは「子どもが好きだから」というのだそうです。奇特なことではないですか。でも、生半可な「子ども好き」で教師になろうと考えない方がいいようです。教育の実際は「子ども好き」を超えたところでなりたっているとも思われるからです。そのことに関して、あるひとはつぎのように言いました。
 《子ども好きの人が教師になれば、日本の教育は大もとのところでよくなると思います。教育の現場としても、とりくみの方向がきまるのではないでしょうか。
 子ども好きの人は、教師であれ、一回かぎりのことばをさがし、しばしば、それをさぐりあてます。
 少しまえに新聞で読んだんですが、子どもが盗みをして困った親が、
「盗みなさい。そのことをあとでお母さんに言うのよ」
と言って、子どもに約束してもらったそうです。盗んだことを知らされると、母親は、それをそのたびごとに黙ってあとでかえしに行ったそうです。
 「盗みなさい」ということばは、人間社会全体に通用することばではありません。普通の道徳語ではありません。科学の法則(そういうものがあると仮定してですが)でもありません。/この親がこの子にむかって言ったここだけでのことばで、この一つの状況からはえでたことばです。このようにその状況にかなう一回かぎりのことばをさがしあてようとする姿勢が、子ども好きという教育の基礎でしょう》(鶴見俊輔「ことばを求めて」)
 その子との間にだけ通用する(かもしれない)「一回かぎりのことば」をさがしあてることができるひとが「子ども好き」なのだと鶴見さんは言うのです。いかなる場合にも、適切な一回かぎりのことばをさがしあてることはきわめてむずかしい。でも、それがどんなことばであれ、一回かぎりのことばなんだという感じがあれば、そのことによってお互いに親しい間柄が生まれるのじゃないか、ということでしょうか。
 いつだれに対しても通用する(と見なされている)ことばになれきってしまうと、おたがいの間には疎遠な関係(それは関係ですらない)しか作れないでしょう。教師と生徒の関係であれ、親と子の関係であれ、そのふたりの間にしか通用しないことば、しかも一回かぎりのことばをさがしもとめるにはどうしたらいいのか。
 宿題を忘れた子ども、規則を破った子ども、そのような子どもにはだれかれなしに乱暴な決まり文句(クリシェ)を投げつける教師はたくさんいる。子どもは教師のいうことを聞くもの、教師は子どもにいうことを聞かせるものだという思い上がった態度がそこに見えてきます。「子どもが好きだ」というのはどのようなことをいうのか。あらためて問われると返答に窮してしまう。子ども好きの人が教師になれば、「日本の教育は大もとでよくなると思います」といわれて、子ども好きの流儀なるものを考えさせられました。
 盗みをやめない子どもに「盗みなさい」というほかなかった母親の気持ちは何だったのか。やむにやまれず口走った、このことばが危機一髪の肺腑の言としてぼくの脳裏に刻まれました。「一人称で語る」といつでもいうのですが、一人称で語ること自体がすでに一回かぎりのことばをさがしあてることではないか。自分にしかいえないことば、目の前のあなたにしかいえないことば。それをお互いにほりだそうとすることはそれだけで、りっぱに教育の営みとなるんじゃないかな。自分のことばで書く、自分のことばで考える、自分のことばで話す、そんな場面を「最良の教室」において夢想しているのです。
 以上のことは、「ことばを大切に」という標語やモットーとは無関係の話です。(言霊)